TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します   作:F.F

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017_国家再建のための買い出しで、私は試着の着せ替え人形になりました

 翌朝の魔法の授業は、カーテンを閉めきった薄暗い部屋で始まった。

 昨日の反省を踏まえ、私は最初から椅子を使わずに立ったまま、顔を洗うための水差しも手の届く位置に置いておいた。準備万端の私を見て、エサソンが眼鏡の奥で何とも言えない顔をしたのは、見なかったことにする。

 練習台は、今日もリゼットだ。呼吸を合わせ、瞬きの間隔を数え、意識の波が沈んだ瞬間に魔力の糸を滑り込ませる。一回目は焦りすぎて糸が届かず、二回目はリゼットがくすぐったそうに笑い出して失敗した。三回目でようやく右手が上がり、四回目には、その手を瞬き六回分まで宙に留めておくことができた。

 目標の十回には届かなかったものの、エサソンの評価は「昨日より減点が二つ少ない」だった。褒められているのかどうか、いまひとつ判断に困る。

 ちなみに、今日は一度も寝落ちしなかった。そこを誇ると、「術者として当然の前提です」と一蹴された。

 

 問題は、その後の昼食だった。

 宣言どおり、リゼットの作法特訓は本日の夕食どころか、昨夜の夕食から始まっていた。そして今日の昼食で、早くも二度目の試練を迎えることになる。

 

「ルミィ様。ナイフはもう少し寝かせて。そう、お肉を押さえるのではなく、添えるように」

「こ、こう?」

「はい、お上手です。ただ、お口へ運ぶ量が多すぎます。今の半分でお願いいたします」

 

 半分。今でさえ小さく切っているつもりなのに、これ以上小さくしたら、もはや食事ではなく試食だ。

 それでもリゼットの笑顔には逆らえず、私は豆粒ほどに切り分けた肉を、そっと口へ運ぶ。噛む間もなく消えていく肉片を見送りながら、私は昨日カップ麺をすすった自分を、少しだけ遠い存在のように思い出していた。

 

「姫様。その調子では、撮影の日までに三十人分の食事を平らげる必要がありますね」

 

 壁際で控えていたエサソンが、涼しい顔でとんでもない計算を口にした。睨みつけてやりたかったが、目線を上げた瞬間に「お顔は正面に」とリゼットの声が飛んでくる。私は視線をお皿に縫いつけたまま、黙々と豆粒サイズの肉を口へ運び続けた。

 

 どうにか昼食という名の試練を乗り越え、食器が下げられたところで、いよいよ今日の本題だ。

 私とリゼットは、先日届いたワンピースに着替えた。私は小花柄のワンピースの上からパーカーを羽織り、フードで耳をすっぽり覆う。認識阻害を覚えるまでは、これが私の生命線だ。リゼットは紺のワンピースに生成りのカーディガン。昨日はあれほど恥ずかしがっていたのに、今日は裾を引き下ろす回数が少しだけ減っていた。

 問題は、残る一人だった。

 

「……姫様。念のため伺いますが、こちらの世界の男性は、皆このような寸法の服を着ているのですか?」

 

 衝立の陰から現れたエサソンを見て、私は思わず口元を押さえた。

 男だった頃の私が着ていた、グレーのトレーナーにチノパン。私の記憶の中では普通の服だったはずなのに、長身のエルフが着ると、袖は手首の上で止まり、裾からは足首がしっかり覗いている。逆に胴回りは拳が二つ入りそうなほど余っていて、ベルトで無理やり締め上げた腰には、妙なしわが寄っていた。

 

「ち、違うわよ。前の私がちょっと、その……横に大きかっただけで」

「なるほど。姫様の以前のお姿が、おおよそ想像できました」

「想像しなくていいから!」

 

 リゼットが顔をそむけて肩を震わせている。今日ばかりは、その笑いを咎める気にもなれなかった。三十過ぎの不摂生なオジサンの服を、二十代半ばに見える美形のエルフが着せられている。その原因を作ったのが自分だと思うと、笑えばいいのか謝ればいいのか分からない。

 

「ご安心ください。外では認識阻害を使いますので、多少寸法が合っていなくとも、周囲には相応の姿に見えるはずです」

「それ、最初から認識阻害で服ごと誤魔化せばよかったんじゃ……」

「魔法が解けた瞬間、帝国の長衣姿の男が街中に現れてもよろしいのですか?」

「……ごめんなさい。その服で正解です」

 

 支度が整ったところで、私は寝室の扉の前に立った。

 見上げれば、相変わらず大きく重たい扉だ。これまで向こうへつながったのは、私が自分の手でこの扉を開けたときだけ。リゼットやエサソンが開けても、廊下が広がるだけだった。つまり、どれだけ重かろうと、ドアノブを握るのは私でなければならない。

 私は目いっぱい背伸びをしてドアノブを握り、アパートの部屋を思い浮かべた。けれど、前回のように全身を傾けても、扉はほんのわずかしか動かない。

 

「姫様、お手伝いいたしましょうか」

「……お願い。私がノブを握ってるから、上のほうを押して」

 

 エサソンが私の頭越しに扉へ手を添え、ぐっと力を込める。重い扉は、あっけないほど滑らかに開いていった。

 その先に広がっていたのは、安っぽいフローリングと、蛍光灯の白い光。間違いなく、私のアパートの部屋だ。

 つながったことに安堵すると同時に、胸の奥で小さな敗北感がうずく。帝国転覆を企む皇女が、自室の扉一枚、自力で開けられない。この扉との戦いは、まだしばらく続きそうだった。

 

「はい、ストップ。ここから先は靴を脱いで」

 

 敷居をまたごうとしたリゼットを、私は慌てて引き留めた。前回、帝国の靴で部屋中を踏み荒らし、三十分かけて床を拭いた記憶はまだ新しい。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。

 三人そろって靴を脱ぎ、それぞれ手に持ってフローリングへ上がる。皇女と侍女と元財務官が、靴を抱えて玄関まで一列に歩く姿は、我ながらなかなかに間が抜けていた。

 

「では、タクシーを呼ぶわね」

 

 私は机の上のスマートフォンを手に取り、配車アプリを開いた。乗車地はアパートの前、行き先は駅向こうのショッピングモール。子供服から婦人服、紳士服まで一通りそろっていて、採寸もしてもらえる店が入っているはずだ。

 配車を依頼すると、ほどなくして近くの車両が見つかった。到着まで五分。画面に表示された車両情報を何気なく眺めて、私は小さく首を傾げた。この車両番号、どこかで見たような――。

 

「ルミィ様、その小さな板に、馬車の居場所が映っているのですか?」

「そうよ。それと、これは馬車じゃなくてタクシーっていうの」

「た、たくしい……」

 

 リゼットは慣れない響きを何度も口の中で転がしながら、画面の上を動く小さな車の印を食い入るように見つめている。前回、エサソンには外で私を「ルミ」と呼ぶよう念を押した。けれど、リゼットにその必要はない。彼女が話せるのはヴァルディア語だけだ。たとえ「ルミィ様」と呼んだところで、周りの人の耳には、意味の分からない異国の響きにしか聞こえないだろう。

 もっとも、それは裏を返せば、別の問題でもあった。リゼットは日本語をまったく話せないのだ。今こうして交わしている会話も、すべてヴァルディア語である。外で彼女が口を開けば、それだけで人目を引いてしまう。

 

「外では、できるだけ話さないでいてね。どうしても必要なときは、私に小声で。それと、誰かに話しかけられたら、笑って会釈しておけば大丈夫だから」

「か、かしこまりました。笑って、会釈……」

 

 リゼットは真剣な顔で何度も繰り返し、鏡に向かって会釈の練習まで始めた。宮殿で鍛えられたその礼は、どう見ても日本の会釈より三十度ほど深かった。

 

 到着の通知が鳴り、私たちは玄関で靴を履いて外廊下へ出た。秋の風が、フードの縁を小さく揺らす。アパートの前には、黒いタクシーが一台、ハザードランプを点滅させて停まっていた。

 人通りがないのを確かめてから階段を下りると、運転席のドアが開き、五十代ほどの男性運転手が降りてくる。人の好さそうな顔に、営業用の笑みを浮かべ――私たちを見た瞬間、その笑みがぴたりと止まった。

 私の笑顔も、同時に止まった。

 見覚えのある顔だ。先日、駅前の買取店まで乗せてくれた、あの運転手だった。車両番号に見覚えがあったのは、気のせいではなかったらしい。

 

「あれ、お嬢ちゃん……この前の?」

「こ、こんにちは。その節はお世話になりました」

 

 とっさに頭を下げると、運転手の視線が、私のパーカーと、その背後に立つ二人とを順に往復した。前回はドレス姿の幼女と、フードを目深に被った男。今回はパーカー姿の幼女と、紺のワンピースの女性と、トレーナー姿の男。顔ぶれも服装も微妙に変わっているのだから、困惑するのも無理はない。

 

「今日は、お連れさんが一人多いんですね」

「ええ、と……その、家族で買い物に行くんです」

 

 口から出まかせを言いながら、そっと背後をうかがう。リゼットは言葉が分からないまま、言いつけどおりにこにこと微笑んでいた。家族、という言葉が通じなくて助かった。もし意味が伝わっていたら、きっと感激のあまり、この場で泣き出していただろう。

 運転手は、そんなリゼットへ人の好さそうな笑みを向けた。

 

「どうも、こんにちは」

 

 リゼットの笑顔が、ぴしりと固まった。助けを求めるようにこちらへ視線を送ってくる。私が小さくうなずいてみせると、彼女ははっとしたように背筋を伸ばし、スカートの裾をつまんで、深々と頭を下げた。練習の成果――というより、完全に宮殿の礼だ。会釈どころか、王侯貴族への拝謁である。

 

「ご、ごめんなさい。この人、まだ日本語が分からなくて」

「ああ、外国の方でしたか。いやいや、ご丁寧にどうも」

 

 運転手は慌てたように帽子のつばへ手をやり、つられて頭を下げた。アパートの前で、侍女とタクシー運転手が深々とお辞儀を交わし合う。何とも奇妙な光景だった。

 顔を上げた運転手は、アパートを見上げ、私たちを見下ろし、それから何かに納得したように小さくうなずいた。おそらく彼の中では、前回の『外国のお嬢様と付き人』の物語に、新たな登場人物が加わったのだろう。どんな筋書きになったのかは、聞かないほうが身のためだ。

 

「そうですか。この前は宝石を売りに行かれて、今日はお買い物。いやあ、よかった、よかった」

 

 何がよかったのかは分からない。けれど、その目尻に浮かんだ皺は、営業用の笑みよりずっと柔らかかった。どうやら私たちは、彼の中で『苦しい時期を乗り越えた家族』ということになったらしい。

 ……うん。まあ、本当のことを知られるよりはいい。前にも同じことを思った気がするけれど。

 

「それじゃ、どうぞ。お嬢ちゃん、今日は思いきり楽しんできてくださいね」

 

 運転手が後部座席のドアを開けてくれる。私が先によじ登って奥へ詰め、次にリゼットが恐る恐る乗り込んだ。最後にエサソンが、前回の教訓を活かして深く身をかがめ、頭をぶつけることなく座席へ収まる。ほんのわずかに得意げな顔をしていたのは、見なかったことにしておこう。

 全員が座ったのを確かめて、ドアがひとりでに閉まった。

 

『ひっ……ル、ルミィ様。今、扉が勝手に』

『静かに。あとで説明するから』

 

 前回、エサソンに言ったのとまったく同じ台詞を、今度はヴァルディア語で口にして、私は小さく笑った。運転席から、聞き慣れない言葉に耳を澄ませるような気配がしたが、それ以上は何も聞いてこない。隣のエサソンも、眼鏡の奥でわずかに口元を緩めている。二度目ともなれば、驚く側から見守る側へ回れるらしい。

 シートベルトを締めると、運転席から「では、出発しますね」と穏やかな声がかかった。バックミラー越しの視線は、前回の困惑ではなく、どこか孫を見守るような温かさを帯びている。

 膝の上で両手を握りしめるリゼットと、涼しい顔で窓の外を眺めるエサソン。その間に挟まれながら、私は静かに走り出すタクシーの振動に身を預けた。

 

「それで、行き先は駅向こうのショッピングモールでよろしいですか?」

「あ、はい。それでお願いします」

 

 答えた直後、隣から身を乗り出す気配がした。嫌な予感に横を向くと、エサソンが眼鏡の位置を直しながら、運転席へ顔を寄せている。

 

「少々よろしいですか。その、しょっぴんぐもーるとやらに、ヴェルヌイユという店はございますか?」

 

 ……今、何と言った? 聞き間違いであってほしいという願いもむなしく、運転手は「ああ」と心得たようにうなずいた。

 

「ヴェルヌイユですか。あのくらいの高級ブランドだと、もう少し大きなモールじゃないと入っていないと思いますよ、あとは都心の直営店ですね。ここから一番近いのだと、一時間ほど走った先のモールですね」

「なるほど。では、そちらへお願いいたします」

 

 私が口を挟む間もなく、行き先はあっさり書き換えられた。運転手が「かしこまりました」と答え、ナビを操作し始める。私は慌ててエサソンの袖を引いた。

 

『ちょ、ちょっとエサソン、どういうこと? というか、いつの間にブランドの名前なんて調べたの?』

『午前中、姫様がリゼット殿に術をかけておられる合間に。姫様がお召しになるのであれば、それ相応の格式ある服でなければなりませんので』

 

 涼しい顔で言い切られ、私は言葉に詰まった。あの授業の最中に、こっそりタブレットで高級ブランドを調べていたのか。この男、教師としての仕事中に、財務官としての下調べまで済ませていたらしい。

 

『で、でも、ブランド服なんて高すぎて着られないわよ。せいぜい量販店で十分なのに』

『普段お召しになっているドレスが、どれほど高価なものか、お教えいたしましょうか?』

 

 眼鏡の奥の目が、すっと細くなった。財務官が数字を語りたがっているときの顔だ。私はとっさに首を横に振る。聞いたが最後、明日から袖を通すたびに、ドレスの値段が頭をよぎるに決まっていた。

 

『ご安心ください。帝国大金貨を持ってまいりましたので、万一のことがあっても資金は潤沢です』

 

 そう言って、エサソンは懐を軽く叩いてみせた。トレーナーの胸元から、ずっしりとした布袋の膨らみが覗いている。まさか、あれを丸ごと持ってきたのだろうか。

 

『帝国大金貨で、そのまま服が買えるわけないでしょ!』

 

 思わず声が大きくなり、慌てて口を押さえる。バックミラー越しに運転手と目が合い、私は愛想笑いでごまかした。エサソンは涼しい顔のまま、少しも悪びれていない。言い出したら聞かない男だ。ここで押し問答を続けても、無駄に疲れるだけだろう。……ええい、こうなったら最後まで付き合ってやろうじゃないの。

 

「運転手さん、すみません。ショッピングモールの前に、先日の買取店へ寄ってもらえますか? 手持ちの金を換金したいので」

「は、はい。かしこまりました」

 

 運転手の声が、わずかに裏返っていた。先日は宝石を売りに行き、今日は買い物の前に金の換金。彼の頭の中で、私たちの『苦しい時期を乗り越えた家族』の物語が、また一段と複雑になっていくのが手に取るように分かる。私はシートに深く沈み込み、そっと窓の外へ視線を逃がした。

 

 買取店での換金は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。

 エサソンは認識阻害の魔法で身分証の写真の人物になりすまし、帝国大金貨を五枚カウンターへ並べた。応対したのは前回と同じ若い男性店員で、「またですか」と言いたげな顔をしていたものの、純度の検査結果を見た途端に目の色を変えた。やがて差し出された封筒は、見るからに分厚い。前回よりも多くの金貨を換金したことは、その厚みだけで十分に窺えた。それを懐へ収めるエサソンの手つきがどことなく満足げだったのは、見なかったことにしておく。

 リゼットはといえば、その間ずっと店の隅で、私の言いつけどおり微笑みを貼りつけたまま立ち尽くしていた。ガラスケースに並ぶ指輪や時計に目を奪われながらも、決して手を伸ばそうとはしない。宮殿で鍛えられた侍女の自制心は、異世界でも健在らしい。

 

 タクシーへ戻り、再びモールへ向けて走り出す。運転手によれば、ここから一時間ほどかかるという。

 駅前の賑わいを抜けると、車は大通りへ出た。何車線もある道路を、色とりどりの車が同じ速さで流れていく。その光景を前に、隣のリゼットが私の袖をそっと引いた。

 

『ルミィ様。この鉄の馬車は、いったいどれほどの数があるのですか?』

『数えきれないくらいよ。この国には、人の数と同じくらいあるんじゃないかしら』

『人の数と、同じ……』

 

 リゼットは窓に額を寄せたまま、ぽかんと口を開けた。帝国で馬車を持てるのは、貴族か裕福な商人くらいのものだ。それが、通りを埋め尽くすほど走っている。驚くなというほうが無理だろう。

 前回のエサソンもこんな顔をしていたなと思い出し、横目で見やる。当の本人は涼しい顔で窓の外を眺めていたが、眼鏡の奥の目は信号機の色が変わるたびに、律儀にそちらへ向いていた。どうやら、まだ慣れきってはいないらしい。

 

 しばらく走ると、運転席のほうから女性の声が響いた。

 

「三百メートル先、右方向です」

 

 途端に、リゼットの肩がびくりと跳ねた。慌てて車内を見回し、運転手と私とエサソンの顔を順に確かめる。どこを探しても、声の主らしき女性はいない。

 

『ル、ルミィ様。今、どなたかが……ご婦人の声が』

『あれはナビっていう道案内の道具よ。運転手さんの前にある板が、道を教えてくれているの』

『板が、話すのですか?』

『ええ。人が話した声を、あの中にしまってあるのよ』

 

 説明しながら、我ながら雑だと思う。けれど、カーナビの仕組みを五歳児の語彙で正確に伝えるのは、帝国の財政を立て直すより難しい気がした。

 リゼットは恐る恐るナビの画面を覗き込み、その中で小さな矢印が地図の上を進んでいくのを見つけると、目を丸くした。そして、ナビが次の案内を告げた瞬間、反射的に小さく頭を下げる。

 

『……リゼット、それは会釈しなくていいのよ』

『で、ですが、ご婦人の声でしたので、つい……』

 

 笑いをこらえきれず、私は口元を押さえた。バックミラー越しに運転手の目元が緩んでいるのが見える。言葉は分からなくても、何が起きたかはおおよそ伝わったらしい。

 

 やがて市街地を抜けると、窓の外の景色はがらりと変わった。刈り取りを終えた田んぼが、どこまでも平らに広がっている。その真ん中を、まっすぐな道路が一本、地平線へ向かって伸びていた。

 リゼットは身を乗り出し、食い入るように田んぼを見つめた。

 

『ルミィ様、あの畑……すべて同じ形に区切られておりますね。水路まで、きっちりとまっすぐに』

『田んぼっていうの。この国の人たちが主に食べている、お米っていう穀物を育てる畑よ』

『これほど広い畑を、いったい何人の農夫で耕すのですか?』

『たぶん、一つの家族で、あそこからあそこまでくらいかしら』

 

 私が指さした範囲を目で追い、リゼットは言葉を失った。帝国なら、村一つが総出で耕すほどの広さだ。

 

『それほどの畑を、たった一つの家で……。では、この国の農夫たちは、皆が貴族のように裕福なのですか?』

『裕福とまではいかないけれど、少なくとも飢えることはほとんどないわね。機械――人の代わりに働く鉄の道具があるから、少ない人数でも広い畑を耕せるの』

 

 ちょうどそのとき、田んぼの脇の農道を、一台のトラクターがのんびりと進んでいくのが見えた。リゼットはそれを目で追いながら、しばらく黙り込んでいた。

 

『……宮殿の厨房で手伝いをした際に、冬になると、村から出てきた子供たちを何人も見ました。口減らしのために、奉公へ出されたのだと聞きました』

 

 ぽつりとこぼれた言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。リゼット自身も、もしかするとそういう子供の一人だったのかもしれない。聞き返すことはできず、私は黙って彼女の手に自分の手を重ねた。

 

『いつか、帝国の畑もこうしたいの。子供が奉公に出されなくても、冬を越せるように』

『……はい。ルミィ様なら、きっと』

 

 リゼットの指が、私の手をそっと握り返す。隣のエサソンは何も言わなかったが、窓の外の田んぼへ向ける眼差しは、先ほどまでよりずっと真剣だった。帝国の財務を知る彼には、この光景の意味が誰よりも重く映っているのだろう。

 

 しんみりした空気は、しかし長くは続かなかった。

 田んぼの向こうに、巨大な建物が姿を現したのだ。地平線を遮るほど横に長い箱のような建物に、色とりどりの看板が並んでいる。その脇には、ゆっくりと回る大きな輪――観覧車までそびえていた。

 

『ル、ルミィ様! あれは城ですか⁉ それとも砦ですか⁉ あの大きな輪は、いったい何の兵器なのです⁉』

『兵器じゃないわよ。あれが今日の目的地、ショッピングモール。いろんなお店が一つの建物に集まった、市場みたいなものね。あの輪は観覧車っていって、乗って景色を楽しむための乗り物よ』

『景色を楽しむためだけに、あれほど大きなものを……』

 

 リゼットは呆然と観覧車を見上げ、それから隣のエサソンへ助けを求めるように視線を送った。エサソンは眼鏡の位置を直し、静かに一言だけ答える。

 

『慣れることです、リゼット殿。私もまだ慣れておりませんが』

 

 それは慰めなのか、ただの事実なのか。どちらにせよ、正直すぎる答えに私は思わず吹き出した。

 やがてタクシーはモールの広大な駐車場へ滑り込み、入口の前で静かに止まった。メーターの数字を見て、今度は私が言葉を失う番だった。一時間走ればこうなることは分かっていたのに、それでも胃のあたりがきゅっと縮む。エサソンの懐の封筒が、さっそく役に立ちそうだ。

 支払いを済ませると、運転手が振り返り、人の好さそうな笑みを浮かべた。

 

「今日は楽しんできてくださいね。帰りもよかったら、また呼んでください」

「はい、ありがとうございました」

 

 頭を下げる私の横で、リゼットがまたしても宮殿式の深い礼をした。運転手もつられて帽子のつばに手をやり、深々と頭を下げる。ドアがひとりでに開き、私たちは秋の風が吹く駐車場へ降り立った。

 目の前には、見上げるほど大きなガラス張りの入口。行き交う人々の笑い声と、どこからか流れてくる軽やかな音楽。リゼットは私の手をぎゅっと握りしめ、エサソンは眼鏡の奥でわずかに目を細めた。

 さあ、ここからが本番だ。目指すは、メゾン・ヴェルヌイユ。私は小さく息を吸い込み、二人の手を引いて自動ドアへと歩き出した。

 

 私たちが近づくと、ガラスの扉が音もなく左右へ滑り開いた。

 その瞬間、握っていたリゼットの手がぴたりと止まる。振り返れば、彼女は扉の前で石像のように固まっていた。

 

『ル、ルミィ様……扉が、また勝手に……』

『タクシーと同じよ。人が近づくと開く仕組みなの』

『で、ですが、ここには御者も、扉番もおりません』

『そういうものなの。ほら、閉まる前に入りましょう』

 

 手を引いても、リゼットの足は一歩も前へ出ない。そうこうしているうちに、扉はゆっくりと閉じ始めた。それを見たリゼットが小さく悲鳴を上げ、私を守るように抱き寄せる。

 扉は私たちの手前で止まり、何事もなかったかのように、ふたたび左右へ開いた。

 

『……ルミィ様。この扉は、私たちを試しているのでしょうか』

『試してないわよ。こっちがいつまでも立っているから、待ってくれているだけ』

 

 扉に気を遣われる侍女というのも、なかなか珍しい光景だ。見かねたエサソンが先に一歩踏み出し、扉の内側から無言でこちらを促す。その姿を見て、リゼットはようやく意を決したらしい。私の手を握りしめたまま、息を止めるようにして敷居をまたいだ。

 

 中へ入った途端、頭上からふわりと温かな風が吹きつけた。リゼットの肩がびくりと跳ねる。

 

『い、今の風は……結界でございますか?』

『外の寒さを入れないための風よ。魔法じゃないわ』

 

 説明しながら、私は少しだけ感心していた。言われてみれば、入口で吹きつける見えない風は、確かに結界と呼んでも差し支えない。魔法のある世界で二年を過ごした身としては、科学で同じことをしている日本のほうが、よほど不思議な国に思えてくる。

 

 風を抜けた先で、リゼットは今度こそ完全に言葉を失った。

 目の前には、三階分を貫く巨大な吹き抜けが広がっていた。天井はガラス張りで、秋の柔らかな陽射しが真っ白な床へ降り注いでいる。左右にはずらりと店が並び、色とりどりの服や靴、鞄、玩具が、ガラス越しに光を浴びて輝いていた。

 

『ルミィ様……ここは、どなたの宮殿なのですか?』

『宮殿じゃないわ。さっき言った市場よ』

『市場……? これが、ですか?』

 

 リゼットの知る市場といえば、帝都の広場に天幕を張り、売り子が声を張り上げて野菜や干し肉を売る場所だろう。床は石畳か踏み固めた土で、雨が降れば泥にまみれる。それに比べれば、塵一つない床に光が降り注ぐこの場所は、確かに宮殿にしか見えないのかもしれない。

 

『では、ここを歩いておられる方々は、皆さま貴族なのですか? あのように上等な服を、どなたも当たり前のように……』

 

 リゼットの視線の先には、ベビーカーを押す若い夫婦や、制服姿の学生たち、買い物袋を提げた年配の女性がいた。どこにでもいる、ごく普通の休日の光景だ。

 

『皆、普通の人たちよ。帝国でいえば、平民ね』

『平民が……これほど清潔な服を着て、子供に玩具まで持たせて……』

 

 リゼットは、風船を手に父親と歩く小さな女の子をじっと見つめていた。その横顔に浮かんでいるのは、驚きだけではない。帝国の平民の子供たちが、どんな冬を越しているのか。彼女はそれを、私よりずっとよく知っている。

 車の中で聞いた話を思い出し、胸の奥が小さく痛んだ。私はリゼットの手を、そっと握り直す。

 

 しんみりしかけた空気を破ったのは、またしてもリゼットの悲鳴だった。

 

『ル、ルミィ様! 階段が、階段が動いております!』

 

 指さす先にあったのは、吹き抜けの脇を上へ伸びるエスカレーターだった。人々は当然のように乗り込み、何もせずに上の階へと運ばれていく。

 

『エスカレーターっていうの。乗っていれば、勝手に上まで連れていってくれるのよ』

『階段が、人を運ぶ……。この国では、足を使って上ることすら許されないのですか?』

『許されないわけじゃないわよ。楽をしたい人のためのもの』

 

 すると、館内案内図を眺めていたエサソンが戻ってきて、眼鏡の位置を直した。

 

『姫様。メゾン・ヴェルヌイユは、二階の奥にあるようです』

『じゃあ、あれで上がるしかないわね』

 

 私の言葉に、リゼットの顔から血の気が引いた。エスカレーターと私の顔を交互に見比べ、それから助けを求めるようにエサソンを見る。エサソンはしばらく無言で動く段差を観察していたが、やがて小さく咳払いをした。

 

『……リゼット殿。乗る瞬間に段の継ぎ目を踏まなければ、問題はないようです』

『エサソン殿も、乗られたことがおありなのですか?』

『いいえ。今、見て覚えました』

 

 頼もしいのか頼りないのか分からない答えに、リゼットの肩がさらに落ちる。私は二人の間に立ち、両手でそれぞれの手を取った。

 

『大丈夫。三人で一緒に乗れば怖くないわ。せーので行くわよ』

 

 リゼットは唇を噛みしめ、エサソンは眼鏡の奥で動く段差を睨みつける。帝国の未来を担うはずの三人が、たかがエスカレーター一つに全神経を注いでいる。その光景がおかしくて、私は笑いをこらえながら、小さく息を吸い込んだ。

 

『せーのっ』

 

 掛け声と同時に、私とリゼットは並んで一段目へ足を乗せた。エサソンは一段後ろだ。三人並んで乗れるほど、エスカレーターの幅は広くなかった。

 足元がふわりと持ち上がる。その瞬間、リゼットの手が私の手を握り潰さんばかりに強張った。

 

『ひっ……う、動いて……ルミィ様、床が、床が上へ……』

『大丈夫、そのまま立っているだけでいいの。手すりにつかまって』

 

 言われるまま手すりをつかんだリゼットは、しかし次の瞬間、さらに青ざめた。

 

『ル、ルミィ様……手すりまで、動いております……』

 

 手すりは段と同じ速さで進んでいるはずなのだが、緊張で固まったリゼットには、少しずつ置いていかれるように感じるらしい。彼女の腕が、手すりに引っ張られるように前へ伸びていく。

 慌てて後ろを振り返ると、エサソンも同じように手すりを握ったまま、腕だけがじりじりと前へ伸びていた。表情は涼しいままなのに、肘の角度だけがどんどん開いていく。

 

『……エサソン、腕』

『承知しております。これは、そういう仕様なのでしょう』

 

 何がどう承知なのか。私は笑いをこらえ、肩を震わせながら前へ向き直った。

 

 ゆっくりと上っていくにつれ、吹き抜けの景色が足元へ広がっていく。一階の広場では、噴水の周りで子供たちが走り回り、その向こうには色とりどりの看板が続いていた。

 ガラスの天井から降る光が、ちょうど私たちの目の高さで揺れている。リゼットもようやく少し落ち着いたのか、恐る恐る眼下を覗き込み、小さく息を呑んだ。

 

『……まるで、宮殿の大回廊を上から眺めているようです』

『怖くなくなった?』

『い、いえ、怖いです。ですが……少しだけ、きれいだと思いました』

 

 正直な答えに、思わず頬が緩む。怖いけれど、きれい。きっと私が初めてこの国のことを知ったときも、どこかでそう感じていたのだろう。

 

 だが、感慨に浸っていられたのはそこまでだった。終点が近づき、段が平らに吸い込まれていくのを見た途端、リゼットの肩がまた跳ね上がる。

 

『ル、ルミィ様! 段が、床に食べられております!』

『食べられてないわよ! いい? 最後は普通に一歩、前へ出るだけ。せーの、で降りるわよ』

『は、はい!』

 

『せーのっ』

 

 私が軽く一歩を踏み出したのと同時に、リゼットは両足をそろえ、まるで川を飛び越えるように大きく跳んだ。着地の勢いでつんのめりそうになったところを、私が手を引いてどうにか支える。

 背後では、エサソンが寸分の狂いもない足取りで、すっと床へ降り立った。まるで何年も前から乗り慣れているかのような顔だ。さっきまで腕を引っ張られていた人とは思えない。

 

『……見て覚えた、と申し上げたはずです』

 

 視線に気づいたのか、エサソンは眼鏡の位置を直しながら、聞かれてもいないのに言い訳した。

 ふと見ると、私たちのすぐ後ろから、リゼットの腰ほどの背丈しかない男の子が、ゲーム機を見ながら片手間にエスカレーターを降りていった。リゼットはその背中を見送り、真っ赤になって顔を覆う。

 

『……ルミィ様。この国では、あのような幼子までもが……』

『慣れよ、慣れ。帰りは下りだから、また練習できるわね』

『下り……』

 

 リゼットの顔から、再び血の気が引いていった。どうやら帰りのことは、考えないようにしていたらしい。

 

 エサソンの案内に従い、二階の通路を奥へと進む。

 しばらく歩くと、周囲の雰囲気が少しずつ変わっていった。雑貨屋や靴屋の賑やかな呼び込みが遠ざかり、床は白いタイルから、足音を吸い込む落ち着いた色の石材へ変わる。照明もいくらか柔らかくなり、通りを歩く人の数も目に見えて減っていた。

 並ぶ店の構えも違う。大きな看板はなく、扉の脇に小さく店名が刻まれているだけだ。ガラス越しに見える店内には、商品がほんの数点、まるで美術品のように間隔を空けて飾られている。

 

『……空気が、変わりましたね』

 

 リゼットが声を潜めた。先ほどまでの怯えとは違う、宮殿の奥へ足を踏み入れたときのような緊張が、その横顔に浮かんでいる。宮仕えの長い彼女には、場の格というものが肌で分かるのだろう。

 

『ええ。ここから先は、この国でも特に値の張るお店が集まっている場所なの』

『では、ここを歩く方々は、今度こそ貴族の……』

『違うわ。お金を持っている平民よ』

 

 リゼットは何か言いたげに口を開き、結局そのまま閉じた。平民が貴族のような店で買い物をする。その光景を、どう受け止めればいいのか分からないらしい。

 

『姫様。あちらです』

 

 エサソンが足を止め、通路の突き当たりを示した。

 

 そこにあったのは、深い紺色の外壁に、細い金の縁取りを施しただけの店構えだった。扉の上には、控えめな筆記体で『Maison Verneuil』のロゴ。周囲の店と比べても飾り気は少ないのに、なぜか目を逸らせない、不思議な品のよさがあった。

 正面のショーウィンドウには、二体のトルソーが並んでいる。片方は落ち着いた生成りのワンピース。もう片方は、仕立てのよい濃紺の上着だ。どちらにも値札は見当たらない。値札がない、という時点で、私の胃のあたりがきゅっと縮んだ。

 

 リゼットは吸い寄せられるようにショーウィンドウへ近づき、ガラスに触れないぎりぎりの距離で、ワンピースの裾をじっと見つめた。

 

『ルミィ様……この縫い目、どこにも歪みがございません。生地の柄も、縫い合わせの境目でぴたりと揃っております。宮廷の仕立て職人でも、ここまで丁寧な仕事ができる者は、そう多くはないかと』

 

 ドレスの手入れを日々こなしてきたリゼットの目は確かだ。その彼女が、ため息まじりにそう言うのだから、相当なものなのだろう。

 隣に立つエサソンも、上着の肩の線を検分するように眺め、小さくうなずいた。

 

『なるほど。高価なのは名前だけではないようですね。これなら、帝国の宮廷に持ち込んでも見劣りはしないでしょう』

 

 二人の評価を聞きながら、私はふと、ショーウィンドウの脇に目を留めた。

 店の一角が、別の小さな入口になっている。淡い空色の壁に、白い文字で『Petit Céleste』。その奥には、子供用の小さなワンピースやコートが、宝物のように並べられていた。

 

 プティ・セレスト。

 その名前を目にした瞬間、足が止まった。セレスト――セレスティア。まだ一度も会ったことのない、お母さまの名前が、勝手に頭の中で重なる。

 ただの偶然だ。分かっている。それでも、空色の壁の前に立つと、胸の奥がかすかにざわついた。この身体に残るルミナの想いなのか、それとも私自身の感傷なのかは、やはり分からない。

 

『ルミィ様?』

 

 リゼットの声に、私は我に返った。いつの間にか、彼女の手を握る指に力がこもっていたらしい。

 

『……ううん、何でもないわ。かわいいお店だなって思っただけ』

 

 そう答えて、私は小さく首を振った。今日ここへ来たのは、感傷に浸るためではない。リゼットの服を整え、次の動画の準備を進めるためだ。

 

 ちょうどそのとき、店の扉が静かに開いた。黒いスーツをまとった女性店員が姿を見せ、私たち三人へ穏やかな笑みを向ける。

 

「いらっしゃいませ。メゾン・ヴェルヌイユへようこそ」

 

 柔らかな声とともに、店内から上品な香りがふわりと流れ出してきた。リゼットの背筋がぴんと伸び、エサソンが一歩前へ出る。

 私はフードの位置をそっと直し、小さく息を吸い込んだ。ここから先は、ショッピングモールの自動ドアやエスカレーターよりも、ずっと手強い戦場になりそうだった。

 

「すみません。私たち三人の服を見繕っていただきたいのです。できれば採寸から始めて、靴まで含めた一式をそろえてください」

「かしこまりました。どのようなお召し物をご希望でしょうか」

「そうですね……ルミ、この子を主役に。私と彼女は、ルミを引き立てる装いでお願いしたい」

 

 主役、と言われて背筋がむずがゆくなる。帝国では末姫として隅に置かれてばかりだったせいか、こういう扱いにはどうにも慣れない。

 そんな私をよそに、エサソンは懐から分厚い封筒を取り出し、そのまま店員へ差し出した。……って、ちょっと待って。それ、さっき換金したお金だよね? まさか、丸ごと渡すつもり?

 

「あの、こちらは?」

「予算です。足りなければ仰ってください」

 

 店員は戸惑いながら封筒の中身を確かめ、一瞬、言葉を失った。その表情だけで、中身がどれほどの額なのか察しがつく。私の胃が、きゅっと縮み上がった。

 

「あ、あの……三人分にしては、少々多いように思いますが」

「私と彼女は一式ずつで結構です。残りはすべて、ルミに使ってください」

『ちょっと待って、なにさらっと言ってるの! っていうか、いくら渡したのよ⁉』

 

 思わず叫んだ、その瞬間だった。何の気配も感じさせないまま、両方の頬をむにっとつままれる。

 

『ルミィ様。言葉遣いが乱れておりますよ』

『ごめんなひゃい、ごめんなひゃい』

 

 日本に来てまで、この刑からは逃れられないらしい。それより待って、今むにむにするのはやめて。フードが脱げちゃうから。

 そんな私たちのやり取りを見て、店員はくすくすと笑いながら近づいてきた。そして、私と目線を合わせるように、その場へしゃがみ込む。

 

「こんにちは。ルミちゃん、っていうのね。ちょっとお姉さんに、お顔を見せてくれる?」

「え?」

 

 止める間もなく、店員の手がフードを外した。外気が耳に触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。見られた――。全身から血の気が引いていくのが分かった。

 けれど店員は、尖った耳に驚く様子もなく、ただ優しく私の髪を撫でた。

 

「きれいな髪ね。この髪に似合うように、コーディネートしましょうね」

「え? あれ?」

 

 何が起きたのか分からず、私は口を半開きにしたまま固まった。耳のことには一言も触れられない。見えていないはずがないのに。

 呆けている私の隣へ、エサソンがすっと歩み寄り、小声でささやいた。

 

『私の認識阻害の範囲を、姫様にまで広げました。私の近くにいる限り、姫様の耳は普通の人の耳として認識されます』

『え、そんなことできたの? なんで先に言わないのよ?』

『聞かれませんでしたから』

 

 安堵で抜けかけた膝に、別の力がこもった。

 ……殴っていいかな、このエルフ。

 

 メゾン・ヴェルヌイユに勤めて七年になる早瀬真琴にとっても、その三人連れは初めて見る種類の客だった。

 まず、封筒が分厚すぎた。帯封のついた札束が三つと、端数の万札が数十枚。ざっと三百万円を超えている。それを、眼鏡の青年は財布から小銭でも出すような手つきで差し出したのだ。

 富裕層の客なら、これまで何度も接客してきた。だが、彼らは大抵カードで支払う。現金を、それも封筒ごと「予算です」と渡されたのは、早瀬の記憶にある限り初めてだった。

 

 そして、三人の関係がよく分からない。

 青年は流暢な日本語を話すが、どこか古風で、言葉選びが妙に硬い。連れの若い女性は一言も喋らず、目が合うたびに、宮廷劇でしか見ないような深い礼を返してくる。そして主役だという小さな女の子は、その二人と早瀬には聞き取れない言葉で話しながら、早瀬に対しては、三歳ほどにしか見えない見た目からは想像できないほど、整った日本語で受け答えをした。

 家族にしては、誰も似ていない。けれど、二人の大人が女の子へ向ける眼差しは、親や兄姉のそれよりも、ずっと恭しかった。

 

(どこかの国のお嬢様と、そのお付きの人……かしら)

 

 詮索は接客の禁忌だ。早瀬は内心の疑問を笑顔の奥へしまい込み、メジャーを手に取った。

 

「では、ルミちゃんから測らせてね。こちらのお部屋にどうぞ」

 

 案内したのは、奥の個室のフィッティングルームだった。柔らかな照明と、大きな三面鏡。ルミは鏡の前で一瞬だけ足を止め、映った自分の姿を、どこか他人事のように眺めていた。

 首回り、肩幅、腕の長さ。メジャーを当てるたびに、ルミは小さな身体をぴんと固くする。くすぐったがる子供は多いが、この子の緊張はそれとは違う。まるで、測られること自体に慣れていないようだった。

 

「すごいね、ルミちゃん。じっとしていられて偉いわ」

「……どうも」

 

 三歳ほどの子供の返事とは思えないほど、大人びていて、そっけない。けれど耳まで赤くなっているのを見て、早瀬は思わず頬を緩めた。照れ屋なのだろう。

 

 採寸を終えると、早瀬は系列のキッズライン、プティ・セレストから何着かを選んで持ってきた。淡い空色のワンピース、生成りのブラウスに紺のジャンパースカート、ケープ付きの小さなコート。そのいずれにも、ルミの銀色がかった髪がよく映えるはずだ。

 

「じゃあ、まずはこのワンピースから着てみましょうか。お着替え、お手伝いするわね」

「い、いえ! 自分で、できます」

 

 ルミは慌てて首を振り、早瀬からワンピースを受け取った。ところが、今着ている小花柄のワンピースは背中にファスナーがある。小さな手を何度後ろへ回しても、留め具まで届かない。

 見かねて「ちょっとだけね」とファスナーを下ろしてやると、ルミは観念したように小さく息を吐いた。

 

 そして早瀬は、思わず手を止めた。

 

 ワンピースの下から覗いたのは、膝丈ほどもある、白い木綿のドロワーズだった。裾には細やかなレースが幾重にも縫い付けられ、腰紐で結ぶ昔ながらの作りになっている。

 生地も縫製も、驚くほど上等だった。ただ、どう見ても現代の子供服ではない。早瀬が知る限り、こんなものは西洋の古い時代を描いた映画の衣装か、博物館に展示されたアンティークでしか見たことがなかった。

 

(……え、ドロワーズ? どうして?)

 

 ファッションに興味のある親が、あえてクラシカルなものを選んだのだろうか。だが、上に着ている量販店らしい小花柄のワンピースとは、あまりにちぐはぐだ。それに、この縫い目。機械ではなく、明らかに手縫いだった。

 まるで、どこか別の時代から、この子だけがひょっこり紛れ込んできたような――。

 

「あの……何か、変ですか?」

 

 ルミが不安そうに見上げてくる。早瀬ははっとして、慌てて笑顔を取り繕った。

 

「ううん、ごめんね。とっても素敵な肌着だったから、つい見とれちゃった。ただ、新しいお洋服に合わせるなら、インナーも替えたほうがきれいに見えるかもしれないわ。プティ・セレストには、肌着もそろっているのよ」

 

 そう言って早瀬が持ってきたのは、子供用のインナーのセットだった。柔らかなコットンのキャミソールと、小さなリボンのついたショーツ。どちらも淡い空色で、胸元と裾に控えめな刺繍が入っている。

 

 ところが、それを見た途端、ルミの顔が目に見えて引きつった。

 

「こ、これを……私が、ですか?」

「ええ。サイズもぴったりだと思うわ」

「いや、その、えっと……私は、今のままで、だいじょうぶ、です……」

 

 声がどんどん小さくなっていく。視線は空色のリボンと早瀬の顔の間を忙しなく行き来し、最後には両手で顔を覆ってしまった。耳どころか、首筋まで真っ赤だ。

 恥ずかしがっている、というより、どう扱っていいのか分からない物を前にして途方に暮れている顔だった。まだ三つかそこらの女の子が、自分の肌着を前にここまで動揺するのを、早瀬は初めて見た。

 

 ちょうどそのとき、カーテンの外から控えめな声がした。お付きの女性だ。何を言ったのかは分からなかったが、ルミが顔を覆ったまま、早口の異国の言葉で何事か言い返す。

 しばらくやり取りが続いたあと、カーテンの隙間から女性の顔が覗いた。早瀬の手にあるインナーを見るなり、彼女はぱっと目を輝かせ、ルミへ向かって何かを諭すように話しかける。にこやかなのに、有無を言わせない口調だった。

 ルミは指の隙間から女性を見上げ、それから深いため息をついて、とうとう小さくうなずいた。

 

「……それも、ください」

 

 消え入りそうな声だった。早瀬はこらえきれずに笑みをこぼし、「かしこまりました」と丁寧に頭を下げた。どうやら、この家で一番強いのはお付きの女性らしい。

 

 着替えを終えたルミがカーテンの外へ出ると、待っていた二人の反応は対照的だった。

 空色のワンピースに身を包んだルミを見た瞬間、お付きの女性は両手で口元を覆い、目を潤ませた。何度も何度も小さくうなずき、早瀬に向かって、またあの深い礼をする。言葉は通じなくても、喜んでいることだけは痛いほど伝わってきた。

 一方の青年は、眼鏡の奥で目を細め、ただ一言だけ口にした。

 

「よくお似合いです」

 

 素っ気ない言い方だったが、ルミはなぜか不満げに頬を膨らませ、異国の言葉で何か言い返していた。早瀬にはその内容が分からない。それでも、照れ隠しなのだろうということだけは見当がついた。

 

 ルミの服は、結局、普段着と外出着を合わせて五着そろえることになった。ワンピースに合わせた靴は、ストラップのついた紺のエナメル。三面鏡の前でつま先を揃えたルミは、自分の足元をしばらく不思議そうに見下ろしていた。

 

 続いて、大人二人の番だった。

 青年には、濃紺のスーツを。採寸してみると、手足が長く、既製のサイズではどこかしら丈が足りない。今着ているトレーナーとチノパンがやけに寸足らずに見えたのは、気のせいではなかったらしい。セミオーダーで袖と裾を直すと伝えると、青年は「構いません」と即答した。

 鏡の前に立った青年の姿に、早瀬は思わず息を呑んだ。白い髪と縁なしの眼鏡が、濃紺の生地に驚くほど映える。どこかの国の外交官だと言われても、誰も疑わないだろう。本人は肩の線を確かめながら、「動きやすさは問題ありませんね」と、衣服ではなく鎧でも試すような感想を述べていた。

 

 お付きの女性には、ルミを引き立てるという注文どおり、落ち着いたグレージュのワンピースに、生成りのカーディガンを合わせた。

 試着室から出てきた彼女は、自分の姿を鏡で確かめるなり、膝丈の裾を必死に引っ張り下ろそうとした。どうやら、これでも丈が短く感じるらしい。早瀬が身振りで「とても素敵ですよ」と伝えると、彼女は真っ赤になってうつむき、それからまた、深々と頭を下げた。

 その仕草ひとつ取っても、所作に無駄がない。きっと、とても厳しい家に仕えているのだろう。

 

 すべての品がそろったところで、早瀬はレジで金額を確かめ、封筒を両手で青年へ差し出した。

 

「お会計は、こちらの金額になります。お預かりしたご予算から差し引いて、残りをお返しいたしますね」

 

 会計は百五十万円を少し超えたが、封筒にはまだ半分以上の札束が残っている。青年は怪訝そうに眉を寄せた。

 

「残りもすべて、ルミに使っていただいて構わないと申し上げたはずですが」

「ありがとうございます。ですが、お子さまはすぐに大きくなりますから。今のサイズで一度にたくさんそろえるより、成長に合わせて、またお越しいただけたほうが、きっとお嬢さまにも似合うものをご用意できます」

 

 それは接客の決まり文句というより、早瀬の本心だった。青年はしばらく考え込み、やがて小さくうなずいて封筒を受け取った。

 その横で、ルミが心底ほっとしたように胸をなで下ろしたのを、早瀬は見逃さなかった。ようやく三歳になったかという幼子が、大人の買い物の額に安堵している。その姿が、どうにもおかしかった。

 

 袖と裾のお直しは一週間ほどかかると伝え、それ以外の品は、着てきた服と一緒に大きな紙袋へ詰めた。ルミは新しい空色のワンピースのまま帰るらしい。もちろん、その下には、さっき散々迷った空色のインナーも身につけている。

 ふと見ると、ルミの手には、さっきまで着ていたドロワーズの入った小さな袋が、大事そうに握られていた。

 

(やっぱり、大切なものだったのね)

 

 どこの誰が、どんな想いで縫ったものなのかは分からない。けれど、あの丁寧な手縫いの縫い目を思い出すと、早瀬はなんとなく、それ以上考えるのをやめた。

 

「本日は、ありがとうございました」

 

 店の外まで見送りに出ると、三人はそろって振り返った。青年は胸に手を当てて軽く会釈し、お付きの女性は相変わらず深い礼をする。そしてルミは、少し迷うような素振りを見せてから、小さな手をひらひらと振った。

 

「……また、来ます」

 

 ぎこちない声だった。けれど、その頬にはほんのりと赤みが差している。早瀬は膝を折って目線を合わせ、とびきりの笑顔で手を振り返した。

 

「ええ。またね、ルミちゃん」

 

 三人の背中が通路の角を曲がって見えなくなるまで、早瀬はその場に立っていた。

 古風な日本語を話す青年。言葉の通じない、宮廷のような礼をする女性。そして、手縫いのドロワーズを大切に抱えた、銀色の髪の小さな女の子。

 不思議な三人だった。それでも、また来てくれたら嬉しい。早瀬はそう思いながら、プティ・セレストの空色の看板を、そっと見上げた。

 

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