TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
モールの正面玄関を出たときには、空はすっかり茜色に染まっていた。
入るときには「結界」だったエアカーテンを、リゼットは今度こそ堂々とくぐり抜ける。もっとも、自動ドアの前では律儀に一度立ち止まり、扉が開くのを確かめてから歩き出した。どうやら、まだ完全には信用していないらしい。
私はスマートフォンの配車アプリを開き、行き先にアパートの住所を入力した。表示された到着予定は十分後。料金の目安は、見なかったことにする。
『ルミィ様、また、あのタクシーという馬車に乗るのですか?』
『ええ。歩いて帰ったら、着く頃には夜中になっちゃうもの』
リゼットはこくりとうなずき、それから大事そうに抱えていた紙袋を抱え直した。中には、彼女自身のワンピースとカーディガンが入っている。お店では何度も遠慮していたのに、袋だけは誰にも持たせようとしない。
一方のエサソンは、両手に大きな紙袋を三つ提げていた。中身の大半は私の服だ。長身のエルフが涼しい顔で買い物袋を提げている姿は、どこからどう見ても、休日に娘の服を買い込んだ若い父親だった。……本人には、絶対に言わないでおこう。
そして私は、新しい空色のワンピースの裾を揺らしながら、小さな袋を一つだけ握りしめていた。中身は、さっきまで穿いていたドロワーズだ。
「姫様、その袋は私がお持ちしましょうか」
「いい。これは私が持つ」
即答すると、エサソンはそれ以上何も言わなかった。眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ和らいだように見えたのは、きっと夕日のせいだ。
私がこうも意固地になる理由は二つある。一つは単純に、中身が私の下着だということだ。いくら教育係とはいえ、男性に自分の下着の入った袋を持たせるのは、元男の感覚からしても、さすがに抵抗があった。
そしてもう一つ――このドロワーズは、リゼットが縫ってくれたものだった。宮殿で用意される下着は、仕立て屋が作った硬い布のものばかりで、幼い私の肌にはどうにも合わなかった。それを見かねたリゼットが、仕事の合間に柔らかな木綿を手に入れ、夜ごと少しずつ縫い上げてくれたのだ。裾のレースまで、一針ずつ。
お店の人がその縫い目をまじまじと見つめていたとき、恥ずかしさと同じくらい、少しだけ誇らしかった。だから、買ったばかりの服と一緒に紙袋の底へ押し込む気には、どうしてもなれなかった。……もちろん、そんなことは本人の前では絶対に言わないけれど。
やがて、ロータリーに一台のタクシーが滑り込んできた。今度は銀色の車体で、運転席から降りてきたのは、白髪まじりの小柄なおじいさんだった。さすがに三度目の偶然はなかったらしい。ほっとしたような、少しだけ寂しいような、妙な気分になる。
おじいさんは私たちを見ると、目を細めて「おや、たくさん買ったねえ」と笑い、手際よくトランクを開けてくれた。エサソンが紙袋を積み込む間に、リゼットはまたしても宮殿式の深い礼をする。おじいさんは一瞬きょとんとしたあと、「ご丁寧にどうも」と帽子を取って頭を下げ返した。
……この国のタクシー運転手は、なぜかみんな礼儀正しい。
私が先に後部座席へよじ登り、リゼット、エサソンの順に乗り込む。エサソンは今回も身をかがめ、頭をぶつけずに座席へ収まった。三度目ともなれば、さすがに慣れたものだ。得意げな顔は、もう見なかったことにするのも面倒になってきた。
ドアがひとりでに閉まり、車は静かに走り出す。窓の外で、巨大な観覧車がゆっくりと夕日を横切っていった。
『ルミィ様。あの兵器……いえ、観覧車というのは、結局、何のために回っているのですか?』
『乗って、上から景色を眺めるためよ。それだけ』
『それだけ、ですか?』
『それだけ』
リゼットは信じられないという顔で、遠ざかる観覧車を振り返った。あれほど巨大なものを、ただ景色を眺めるためだけに作る。帝国の常識からすれば、正気の沙汰ではないのだろう。
実を言えば、私も男だった頃から同じことを少しだけ思っていた。乗ったことは一度もない。一緒に乗る相手がいなかったからだ。……この話は、ここまでにしておこう。
市街地を抜けると、窓の外には行きと同じ田んぼが広がっていた。刈り取りを終えた田んぼは夕日を受けて金色に光り、遠くの山並みは紫色に沈みかけている。
行きの車内で、リゼットはこの景色を見て、奉公に出された村の子供たちの話をしていた。今は何も言わず、ただ窓に額を寄せて、流れていく田んぼを見つめている。
『姫様』
反対側から、エサソンが低い声でヴァルディア語を使った。運転席のおじいさんに聞かせる話ではない、という合図だ。
『本日の支出を、ざっと試算いたしました。衣服だけで、帝国大金貨にしておよそ二枚と少し。宮廷の仕立て屋へ同じだけ注文すれば、その倍は取られるでしょう』
『……買い物の途中から、ずっと計算していたの?』
『財務官の性分です。それより気になるのは、あの店ではなく、建物全体のほうです』
エサソンは眼鏡の位置を直し、窓の外へ視線を向けた。
『あれほどの品が並ぶ店に、庶民が当たり前のように出入りしていた。幼い子を連れた母親も、杖をついた老人も、誰一人として身なりに困っている様子はなかった。帝国であの光景を作ろうとすれば、何十年かかるか見当もつきません』
『だから言ったでしょう。この国から見たら、帝国は発展途上国以下だって』
『ええ。数字ではなく、この目で確かめると……堪えますね』
珍しく、嫌味の一つもない声だった。私はそれ以上何も言わず、膝の上の小さな袋を握り直した。
今日一日で、私たちは帝国の民が一生かかっても手にできない額を使った。それも、たった三人分の服のために。後ろめたさがないと言えば嘘になる。けれど、この服を着て日本を歩き、この国の人たちに怪しまれずに動けるようになることが、遠回りでも帝国の田畑につながるはずだ。そう思わなければ、今日の会計の数字を思い出すたび、胃がきゅっと縮みそうだった。
ふと、肩に軽い重みがかかった。
見上げると、リゼットが窓から額を離し、こくり、こくりと船を漕いでいる。慣れない世界で、慣れない服を着て、一日中驚き続けたのだ。疲れていないはずがない。
やがて彼女の頭は、ゆっくりと傾いていき――私の頭の上に、ぽすんと着地した。
……重い。
いや、リゼットの頭が重いのではない。三歳児並みの私の首が、大人の頭を支えるようにできていないのだ。私は身じろぎもできず、ぷるぷると震える首で必死に耐えた。起こすのは忍びない。忍びないが、このままでは私の首が先に限界を迎える。
『姫様。首が、生まれたての子鹿のようになっておりますが』
『わ、分かってるなら、何とかして……』
エサソンは小さくため息をつくと、身を乗り出してリゼットの肩にそっと手を添え、その頭を反対側へ預け直した。リゼットは「ん……」と小さく声を漏らしたものの、目を覚ますことなく、すうすうと寝息を立て続けている。
解放された首をさすっていると、バックミラー越しにおじいさんと目が合った。おじいさんは何も言わず、ただ目尻のしわを深くして、ラジオの音量をそっと下げてくれた。
車内に、エンジンの低い音と、リゼットの寝息だけが残る。
夕日はいつの間にか山の向こうへ沈み、窓の外の田んぼは群青色に溶けていった。規則正しい振動が、ゆりかごのように身体を揺らす。まずい、と思ったときには、もう遅かった。この身体は、疲労と夕暮れと揺れの三つがそろうと、驚くほどあっけなく電池が切れる。
まぶたが、重い。
隣でエサソンが何か言った気がしたが、それが日本語だったのかヴァルディア語だったのかさえ、もう分からなかった。
「――ルミ。着きましたよ」
肩を軽く揺すられて目を開けると、窓の外はすっかり夜になっていた。見慣れたアパートの外廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬いている。
どうやら私は、一時間の道のりをまるごと眠って過ごしたらしい。しかも、気づけばエサソンの腕にもたれかかっていた。口元を慌てて拭う。……よかった、よだれは出ていない。たぶん。
隣では、リゼットも目をこすりながら身体を起こしていた。自分が眠ってしまったことに気づくと、さっと青ざめ、私とエサソンの顔を交互に見て、声にならない謝罪を繰り返す。
『い、いえ、主人の前で眠りこけるなど……申し訳ございません、ルミィ様』
『いいの。私も寝てたから、おあいこよ』
そう言うと、リゼットは困ったように眉を下げ、それから小さく笑った。
支払いはアプリで済ませていたので、メーターを見て胃を縮める必要はなかった。……画面に表示された金額を見て、結局縮んだけれど。
おじいさんはトランクから紙袋を下ろすと、それを一つずつエサソンへ手渡し、最後に私の目線までかがみ込んだ。
「よく寝てたねえ、お嬢ちゃん。新しいお洋服、よく似合ってるよ」
「……ありがとう、ございます」
空色のワンピースの裾をつまんでお礼を言うと、おじいさんは満足そうにうなずき、「お父さんとお母さんの言うこと、よく聞くんだよ」と言い残して車に戻っていった。
……お父さんと、お母さん。
テールランプが角を曲がって消えるまで、私は振り返ることができなかった。背後で、言葉の分からないリゼットが「今の方は、何とおっしゃったのですか?」と無邪気に尋ね、日本語の分かるエサソンが、珍しく咳払いで返事を濁している。
「ルミィ様?」
「……なんでもない。早く帰りましょう」
訳してあげる気には、到底なれなかった。
外廊下の階段を上り、鍵を開けて部屋に入る。蛍光灯をつけると、パイプベッドと座卓と、男だった頃の生活の名残が白い光の中に浮かび上がった。ほんの半日前に出発したばかりなのに、ずいぶん長い旅から帰ってきたような気がする。
エサソンが紙袋を床に下ろし、リゼットは自分の紙袋を抱えたまま、部屋の真ん中で所在なげに立っていた。私は握りしめていた小さな袋を胸に抱え直し、奥の扉を見上げる。
あの扉の向こうには、帝国が待っている。
今日買った服も、今日見た景色も、向こうへ持ち帰れば、ただの思い出では済まない。私たちが日本で動くための道具になり、帝国を立て直すための足掛かりになる。……そうでなければ困る。百五十万円なのだから。
「さて」
私は小さく息を吸い、扉に向かって手を伸ばした。
……と、格好よく決めたところで、ふと気づく。
この紙袋の山を、まさか全部宮殿へ持ち込むつもりだったのか、私は。
「エサソン、リゼット。ちょっと待って」
扉の前で振り返ると、紙袋を持ち上げかけていたエサソンが、怪訝そうに眉を寄せた。
「いかがなさいました、姫様」
「今日買った服は、次に着る分だけ持って帰って、残りはこっちに置いていきましょう。全部向こうへ持ち込んだら、隠す場所がないもの」
本当なら、全部こちらに置いておきたいところだ。けれど、このアパートには三人が着替えられるような場所がない。狭いワンルームで、エサソンと私とリゼットが入れ替わりに着替えるなど、想像しただけで気が遠くなる。結局、日本へ出かけるときは、宮殿の寝室で着替えてから扉をくぐるしかないのだ。
とはいえ、宮殿のクローゼットは今では日本とつなぐための通り道になっていて、私のドレスでさえハンガーラックへ追い出されている。そこへ見慣れない布地の服が何着も並んでいたら、掃除に来た侍女が腰を抜かすだろう。持ち込めるのは、次に着る一揃いずつが限度だ。それくらいなら、服が届いたときの段ボール箱にまとめて、ベッドの下へ押し込んでおけば何とかなる。
エサソンはすぐに納得したようにうなずいた。もっとも、彼のスーツはまだお直しの最中で、今着ているトレーナーとチノパンのほかに選ぶ服などない。選り分けるまでもなかった。問題は、残りの二人のほうだった。
「……ルミィ様のお召し物も、一揃いだけ、なのですか」
自分の紙袋を大事そうに胸へ抱えたまま、リゼットはパイプベッドに広げられた私の服の山を見つめていた。どれも、お店で彼女が「とても素敵です」と身振りで繰り返していた品ばかりだ。どうやら、自分の服より、私の服を置いていくほうが惜しいらしい。
「なくなるわけじゃないわ。次にこっちへ来るときまで、お留守番してもらうだけ」
「お留守番……。では、次にお召しになる一揃いは、私に選ばせていただけますか?」
「……どうぞ」
許可を出した瞬間、リゼットの目つきが変わった。ワンピースを一着ずつ私の身体に当てては首を傾げ、カーディガンとの組み合わせを何通りも試し、最後には腕を組んで考え込む。まるで舞踏会の衣装でも選ぶような真剣さだった。……次に行くのは、たぶん近所のスーパーなのだけれど。
散々悩んだ末に選ばれたのは、お店で私が一番最初に試着させられた一着だった。どうやら一周回って振り出しへ戻ったらしい。リゼットはそれを丁寧に畳んで自分の紙袋へ重ね、残りの服はしわにならないよう、パイプベッドの上へきれいに並べ直す。最後に、置いていく服の山を一度だけ、名残惜しそうに撫でていた。
……可愛いな、うちの侍女。
こうして、宮殿へ持ち帰る荷物は紙袋二つにまで減った。それと、私の手の中の小さな袋。エサソンの視線がそこへ向いたが、今度は何も言わなかった。
改めて、扉の前に立つ。こちら側のドアノブは宮殿の扉よりずっと低く、背伸びをしなくても手が届く。ノブを握り、宮殿の寝室を思い浮かべながら手前へ引くと、扉は軽い音を立てて開いた。
安っぽいフローリングの先に、磨かれた石床と厚い絨毯。蛍光灯の白い光の向こうでは、燭台の魔石が青白い灯りを揺らしている。窓の外はすっかり夜だった。日本と同じく、こちらも日が暮れたらしい。
エサソン、リゼット、私の順に扉をくぐり、最後にリゼットが扉を閉じる。ぱたん、という音とともに、蛍光灯の光が消えた。
「……戻ってまいりましたね」
リゼットが、ほっとしたように息をついた。宮殿の空気を吸った途端、彼女の背筋がすっと伸びる。日本での一日、ずっと目を丸くしていた女性と同一人物とは思えないほど、いつもの頼れる侍女の顔だった。
その切り替えの早さに感心していると、リゼットの視線が、私の手元の袋に留まった。
「ルミィ様。その袋は……」
「あっ、これは、その」
しまった。お店ではエサソンとの日本語のやり取りでごまかせたし、アパートではリゼットも服選びに夢中だった。けれど、もう逃げ場はない。
慌てて背中へ隠そうとしたが、三歳児並みの腕では袋を隠しきれるはずもなかった。袋の口から、白いレースの裾がちらりと覗く。リゼットは一瞬目を丸くし、それから、すべてを察したように口元をほころばせた。
「お店で穿き替えられたのに、わざわざお持ち帰りになったのですね」
「……だって、リゼットが縫ってくれたものだし」
観念して白状すると、声が自分でも驚くほど小さくなった。顔が熱い。元三十過ぎの男が、侍女の手縫いの下着を後生大事に抱えて帰ってきたのだ。冷静に考えると、どの角度から見ても言い訳が利かない。
けれどリゼットは、からかうことも、頬をつまむこともしなかった。膝を折って私と目線を合わせると、袋ごと私の手をそっと包み込む。
「ありがとうございます、ルミィ様。……では、こちらは私がきれいに洗って、またお出ししますね」
「うん。お願い」
袋を渡すと、リゼットは宝物でも預かるように、両手でそれを胸に抱いた。どうやら、大事にしていたのは私だけではなかったらしい。
背後でエサソンが小さく咳払いをした。振り返ると、彼はわざとらしく窓の外へ目を向けている。……見ていなかったことにしてくれるらしい。今日は、この男にずいぶん借りを作ってしまった気がする。
気恥ずかしさをごまかそうと、私はベッドの縁へよじ登った。その瞬間だった。
くぅ、と。
静かな寝室に、間の抜けた音が響き渡る。
……そういえば、モールでは試着と会計に追われて、ろくに何も食べていなかった。帰りのタクシーでは、空腹を感じる前に眠ってしまった。小さな身体は、こういうところだけは驚くほど正直だ。
「まあ。すぐにお食事をお持ちいたしますね」
リゼットがくすりと笑い、袋を抱えたまま扉へ向かう。その背中を見送りながら、私はふと、二年前のあの日を思い出していた。カップ麺を平らげた直後に宮廷料理を出され、三時間かけて皿を空にした、あの地獄の昼食を。
今日は違う。お腹はぺこぺこで、胃には何も入っていない。どれだけ料理が並んでも、受けて立てる。
「リゼット」
「はい、ルミィ様」
「今日は、多めでお願い」
リゼットは一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに「かしこまりました」と微笑んで部屋を出ていった。ナイフとフォークの特訓が始まって以来、私が自分から食事をねだったのは初めてかもしれない。
扉が閉まると、寝室には私とエサソンだけが残った。
エサソンは窓辺から離れると、机の上の燭台に手をかざし、魔石の灯りを少しだけ強めた。それから、懐から小さな手帳を取り出す。日本の文房具店で私が買い与えた、ありふれたメモ帳だ。最初は紙の白さに感動して、使うのをもったいながっていたくせに、今ではすっかり彼の必需品になっている。
「姫様。お休みになる前に、一つだけよろしいですか」
「……今日の支出の話なら、明日にしてほしいんだけど」
「いえ、それは明日改めて、詳細な帳簿にしてお渡しいたします」
するんだ、帳簿。
「本日、早瀬殿という店員と話して、確信したことがあります」
「確信?」
「あの方は、姫様を一度もただの子供として扱いませんでした。言葉を選び、意見を尋ね、最後には『また来てね』と。……姫様の正体など、何一つ知らないにもかかわらず」
エサソンは手帳の頁をめくり、そこに書きつけた何かを指でなぞった。
「姫様は以前、こちらの世界の国は帝国を発展途上国以下にしか扱わないと仰いました。ですが、国はともかく、こちらの民は違うのかもしれません。正体が分からなくとも、礼を尽くし、心を向ける相手には、心を返してくる。……姫様の仰る、ぶいちゅうばあとやらが成り立つのも、そういう民がいるからなのでしょう」
思わず、目を瞬いた。
発音は相変わらずたどたどしい。けれど、初めてアパートの部屋へ来た日に「何を言っているんだこいつ」という目で私を見ていた男が、自分の目で日本を見て、自分の頭で同じ結論へたどり着こうとしている。
「……エサソン。それ、たぶん今日一番の収穫よ」
「百五十万円の買い物よりも、ですか」
「比べないで。せっかくいい話だったのに」
エサソンは珍しく、ふっと小さく笑った。眼鏡の奥の皮肉げな目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「では、明日からは本題に戻りましょう。服はそろいました。次は、姫様が画面の向こうで、何者として名乗りを上げるかです」
何者として。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。帝国の末姫ルミナとしてではない。元三十過ぎのオジサンとしてでもない。日本の誰も知らない、けれど確かにどこかに存在する、何者か。
考えなければならないことは山ほどある。名前、姿、声、話し方。そして、どこまでを本当のこととして語り、どこからを隠すのか。
けれど、今日はもう頭が回らない。扉の向こうから、温かいスープの匂いが近づいてくるのが分かったからだ。
「……その話は、ごはんのあとで」
エサソンが、やれやれと肩をすくめる。扉が開き、湯気の立つ料理を載せたワゴンとともに、リゼットの笑顔が戻ってきた。
その夜の夕食は、二年前の昼食とはまるで別物だった。
空っぽの胃に、温かいスープが染みわたる。焼きたてのパンをちぎり、香草を添えた鶏肉を口へ運ぶ。もちろん、ナイフとフォークの特訓は今夜も続いていた。肉は豆粒ほどの大きさに切らなければならないし、口へ運ぶたびに「お顔は正面に」と声が飛んでくる。それでも、お腹が空いているというだけで、試練はただの食事に変わった。
気づけば、皿はきれいに空になっていた。三時間かけて完食したあの日とは違い、今度は自分の意思で。
「……ルミィ様が、お皿をすべて空になさるなんて」
「……ルミィ様が、ご自分からおかわりを」
空の皿を下げながら、リゼットが感極まったように目元を押さえる。大げさだと思ったが、口には出さなかった。思い返せば、ここ数日の私は、食事の席で豆粒の肉を見つめて遠い目をしてばかりいたのだ。心配をかけていたのかもしれない。
食器が片づけられ、代わりに温かい紅茶が三つ並ぶ。リゼットは自分の分まで用意するのをためらっていたが、「作戦会議には全員必要なの」と言って座らせた。
私は机の引き出しからノートPCを取り出し、膝の上で開いた。クローゼットの隙間から通したコードのおかげで、宮殿の寝室でもネットにつながる。画面に表示されたのは、先日投稿した、あの動画だ。窓辺の光の中、紅茶を手にした白と若草色のドレスの私が、カメラへ向かって静かに微笑んでいる。
再生回数の桁は、相変わらず見るたびに胃に悪い。
「では、姫様。先ほどの続きを」
エサソンが手帳を開き、ペン先を構えた。
「何者として名乗りを上げるか、でしたね。もっとも、名でしたら、すでに名乗っておられたかと存じますが」
「ええ。ルミナ・エルシア・エルフィネ。名前はそれで決まりよ」
動画の冒頭で、私ははっきりそう名乗った。帝国のヴァルディアではなく、母の国の名を姓として。今さら変えるつもりはない。
「でも、ぶいちゅうばあには、名前だけじゃなくて『設定』っていうものが必要なの」
「設定、ですか」
「そう。たとえば、魔界から来た悪魔だとか、永遠の十七歳だとか、宇宙から来たお姫様だとか。どこから来た、どんな存在なのか。みんな、そういう物語を背負って画面に立っているの」
「……魔界から、ですか」
「もちろん、本当に魔界から来ているわけじゃないわ。見ている人もそれは分かっていて、分かったうえで、その物語ごと楽しんでくれるのよ」
エサソンの眉間に、深いしわが刻まれた。ペン先が手帳の上で止まったまま、動かない。
「つまり、こちらの民は、偽りと承知のうえで偽りを楽しむ、と」
「偽りっていうより、お約束ね。お芝居を見るのと同じよ。舞台の上の王様が本物の王様じゃないからって、怒る人はいないでしょう?」
エサソンはしばらく考え込んでいたが、やがて小さくうなずいた。どうやら、ひとまず飲み込んではくれたらしい。
隣では、リゼットが紅茶のカップを両手で包んだまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。話の半分も分かっていない顔だ。けれど、口を挟まずに、真剣に聞こうとしてくれている。
「それで、姫様の設定とやらは、どうなさるおつもりです?」
「そこが今回の一番いいところなのよ」
私はノートPCの画面を二人のほうへ向け、動画の下に並んだコメントを指さした。
「この人たちは、私のことを、誰かが作った精巧な絵だと思ってる。つまり、私が何を言っても、それは『設定』として受け取られるの」
「……と、申されますと」
「だから、本当のことを言うのよ。異世界の小さなエルフの国、エルフィネの姫。それが私の設定。全部本当で、何一つ嘘はない。でも、誰も本気にはしない」
エサソンのペンが、ぴたりと止まった。
眼鏡の奥の目が、ゆっくりと見開かれていく。財務の帳簿で、ありえない数字の辻褄が合った瞬間のような顔だった。
「嘘をつかずに、誰にも信じてもらえない……と」
「そう。で、いつか本当に信じてもらう必要が出てきたとき、私たちは最初から一度も嘘をついていなかった、って言えるの。後から『実は本物でした』って言い出すより、ずっと信用してもらえるでしょう?」
エサソンはしばらく黙り込み、それから深々と息を吐いた。
「……帝国の外交史上、最も誠実で、最も不誠実な策ですね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
とはいえ、何でも話していいわけではない。本当のことを話すのと、全部を話すのは別の話だ。
私は指を折りながら、口にしてはいけないことを数え上げた。
一つ目は、帝国のこと。ヴァルディアの名も、父のことも、宮廷の内情も。配信で口にした内容が、いつか巡り巡って誰かの耳に入らないとも限らない。
二つ目は、扉のこと。どこから来て、どこで暮らしているのか。アパートの場所なんて、特定されたら一巻の終わりだ。
三つ目は、金のこと。帝国大金貨を換金していると知られれば、別の意味で人が集まってくる。
そして四つ目は――私が男だった頃のこと。これは、指を折るまでもなく、墓まで持っていく。
「ええ。フォトリアル系の3Dモデル、ですって」
「承知いたしました。帝国、扉、金。その三つは禁句といたしましょう」
エサソンが手帳に書きつける。四つ目については、声に出していないので数に入っていない。それでいい。
「では、次は姿ですね。姫様の場合、こちらの民は……そのお姿を、作り物だと思っているのでしたね」
「ええ。ふぉとりある系の3Dもでる、ですって」
コメント欄の言葉を真似ると、エサソンは露骨に「何ですかそれは」という顔をした。私も正直、説明できる自信はない。要するに、本物そっくりに作られた人形を、絵の中で動かしているようなものだ。
「この誤解は、解かないでおくわ。否定もしないし、肯定もしない。技術のことを聞かれたら、『企業秘密です』って言えばいいの」
「企業秘密、ですか。姫様は企業ではございませんが」
「お約束なの!」
エサソンが「お約束」と手帳に書き込むのを横目に、私は動画をもう一度再生した。窓辺に座る私の後ろには、白髪に眼鏡の長身のエルフと、侍女服の女性がしっかりと映り込んでいる。
「それと、二人のことも決めておかないとね」
「……私ども、ですか」
「そうよ。ほら、ここ。『後ろの白髪の眼鏡の人も耳が長い』って。見ている人たちは、二人のことも、私と同じ作り物だと思ってるの」
画面を覗き込んだエサソンの顔から、すっと表情が消えた。
「私は、あくまで姫様の補佐として控えるだけのつもりでおりましたが」
「もう遅いわ。最初の動画に映った時点で、エサソンは立派な登場人物よ」
エサソンは天井を仰ぎ、長い長いため息をついた。五百年近く生きてきたエルフが、異世界の動画一本で逃げ場を失った瞬間だった。
「エサソンは、そのまま教育係でいいわ。名前も本名で構わない。どうせ日本には、エサソン・ローレグを知っている人なんていないもの」
「……配信とやらに出るかどうかは、別の話としていただけますか」
「考えておくわ」
考えておく、というのは、元会社員の語彙では「やる」という意味だ。エサソンもそれを察したのか、眼鏡の位置を直す指に、わずかに力がこもっていた。
「リゼットは、私の侍女。それもそのまま」
「わ、私も、なのですか?」
「ええ。それに、リゼットは日本語が話せないでしょう? それがかえっていいの。見ている人には、作り込まれた架空の言葉に聞こえるはずだから」
エサソンが、信じられないものを見るような目で私を見た。
「この世界の民は、言葉ひとつまで作り物と思うのですか」
「思うわ。架空の言葉をまるごと一つ作っちゃう人までいるもの。それが文化なのよ」
リゼットはまだ半信半疑の顔をしていたが、私が「リゼットはいつもどおりでいいの」と言うと、少しだけ肩の力を抜いた。いつもどおりでいい。それが一番難しいことを、彼女はまだ知らない。
「それから、衣装ね」
最初の動画で着ていたのは、白と若草色のエルフィネ様式のドレスだ。あれが、いわば私の「正装」になる。
今日買った服は、あくまで日本を出歩くための普段着だ。どれもお店の人が考え抜いた意匠で、それを勝手に画面へ映せば、人の作品を無断で借りるのと変わらない。元の世界の常識で考えても、意匠権に触れかねない話だ。使うのなら、きちんと許しをもらってから。それまでは、画面の中の私はエルフィネのドレスで通す。
けれど、ぶいちゅうばあには、もう一つ大事なお約束がある。
「新衣装のお披露目、っていうのがあるの。普段とは違う服を着た姿を見せると、それだけで大きな話題になるのよ」
そこまで口にして、はたと気づいた。
衣装を新しくするなら、仕立てればいいのだ。エルフィネ様式のドレスを。母の国の装いなら、誰かの権利を気にする必要もない。それどころか、見ている人たちには、異世界の姫という設定をいっそう裏付ける「作り込まれた衣装」に映るはずだ。
「……エサソン」
「何でしょう」
「エルフィネのドレスを、新しく仕立てられないかしら。季節ごとに一着ずつ。それを新衣装としてお披露目するの」
その言葉に、真っ先に反応したのはリゼットだった。紅茶のカップを置き、ぱっと顔を輝かせる。
「まあ……! それでしたら、エルフィネの刺繍に通じた者に心当たりがございます。蔦や若葉の意匠でしたら、きっと喜んで縫ってくれるはずです」
「本当?」
「はい。ルミィ様がエルフィネの装いをお召しになると聞けば、むしろ放っておいてはくれないかと」
リゼットの目が、すでに次のドレスの意匠を思い描いているように輝いている。どうやら、服選びに夢中になる彼女の熱は、まだ冷めていないらしい。
エサソンは無言でペンを走らせた。手帳を覗き込むと、そこには几帳面な字で『衣装代、帝国側にて計上。日本円の支出なし』と書かれていた。どうやら今日の百五十万円が、相当こたえているらしい。
「最後に、呼び名ね。ルミナ・エルシア・エルフィネは長すぎて、見ている人が呼びにくいから」
「呼び名でしたら、ルミィ様とお呼びすれば――」
言いかけて、リゼットははっと口を押さえた。それから、少しだけ困ったように眉を下げる。
「……いえ。その呼び方は、できれば私だけのものにしておきたい、です」
消え入りそうな声だった。頬がほんのりと赤い。
……今日二度目だが、言わせてほしい。可愛いな、うちの侍女。
「もちろんよ。ルミィは、リゼットだけの呼び方」
そう答えると、リゼットはほっとしたように微笑んだ。結局、見ている人たちには「ルミナ姫」と呼んでもらうことにした。どうせ彼らは好き勝手に呼ぶだろうけれど、最初の一つくらいは、こちらで決めておいてもいいだろう。
エサソンが手帳の頁を一枚破り、私の前へ差し出した。今夜決めたことが、箇条書きで整然と並んでいる。
名前、ルミナ・エルシア・エルフィネ。呼び名、ルミナ姫。
設定、異世界の小国エルフィネの姫。――ただし、事実。
姿、本人。――作り物と思われているが、否定も肯定もしない。
衣装、エルフィネ様式のドレス。――新調は季節ごと。日本の服は使わない。
禁句、帝国、扉、金。
同行者、教育係エサソン・ローレグ、侍女リゼット。――エサソンの出演は、要相談。
最後の一行だけ、筆圧がやけに強い。
私は紙を受け取り、灯りにかざした。たった数行。けれど、ここに書かれているのは、日本の誰も知らない一人の少女が、画面の向こうに生まれるための設計図だ。
その少女は、嘘を一つもつかない。それでも誰にも信じてもらえない。いつか、信じてもらえる日が来るまでは。
紅茶の最後のひと口を飲み干したところで、ふわ、と小さな欠伸がこぼれた。満腹と、長い一日の疲れが、今になってまとめて押し寄せてくる。
「本日はここまでにいたしましょう。姫様のまぶたが、すでに半分閉じておられます」
「まだ……平気……たぶん」
二年前と同じ言い訳をしたそばから、またしても欠伸が出た。リゼットがくすりと笑い、ノートPCを私の膝からそっと取り上げる。
ベッドへ運ばれながら、私は破られた手帳の一頁を、まだ握りしめていた。
早朝の天城エナジー先端エネルギー研究室には、まだ人の気配がまばらだった。整然と並ぶデスクの向こうでは計測機器の待機ランプが青く点滅し、空調の低い唸りだけが室内を満たしている。
そこへ、一人の女性が入ってきた。中背で、細身。黒髪を低い位置で一つに結び、切れ長の目に細いフレームの眼鏡をかけている。
桐生理沙。三十と言う若さで、この研究室の室長を務める人物だ。
「おはようございます、室長。こんな朝早くから現場にいらっしゃるなんて、どうしたんですか?」
実験台の前でデータを整理していた若い研究員が、手を止めて顔を上げた。室長という肩書のとおり、普段の理沙がこの時間に向き合っているのは、実験装置ではなく書類の山だ。
「ああ、いや。ネットで面白いものを見つけてね。少し調べてみようと思ったんだ」
そう言って、理沙は白衣のポケットから小さな透明ケースを取り出した。中には金色のコインが一枚収められ、蛍光灯の光を受けて柔らかく輝いている。
「何ですか、それ。一オンスコインですか?」
「いや、一オンスにしては少し小さい。重さは三十グラムほどだ。刻まれた意匠にも見覚えがなくてね。骨董品としての値は付かず、純粋な地金として売られていたのさ。二十四金だぞ」
理沙はケースを目の高さに掲げ、角度を変えながら表面を眺めた。縁には細かな模様が巡り、中央には見慣れない紋章が刻まれている。
「二十四金って……今の相場だと、六十万円はしますよね? それ、ポケットマネーで買ったんですか?」
「当たり前だろう。個人的な興味なんだから」
悪びれる様子もなく言い切る室長に、研究員は思わずこめかみを押さえた。
「……あの、室長。うち、エネルギー研究室ですよね? 古物商でも、鉱物研究室でもないんですけど」
「固いことを言うな。私の研究室で、私が何を調べようと問題はないだろう」
理沙は涼しい顔でそう返すと、ケースを手にしたまま奥の分析室へ足を向けた。研究員は小さくため息をつき、それでも好奇心には勝てなかったのか、自分の作業を放り出してあとに続いた。
分析室は、研究室の中でもひときわ静かだった。壁際には蛍光X線分析装置や電子顕微鏡が並び、本来はバッテリー材料や触媒の組成を調べるための機器ばかりだ。少なくとも、私物の金貨を載せるために導入されたものではない。
理沙はケースからコインを取り出すと、まず顕微鏡の試料台へ置き、モニターに拡大像を映し出した。研究員が思わず身を乗り出す。
表面には、一振りの剣が刻まれていた。刀身に茨が幾重にも絡みつき、その棘の一本一本までが鋭く立ち上がっている。周囲を縁取るように、見慣れない文字列が一周していた。
「この文字、何語ですか? アルファベットでもキリル文字でもないし……」
「私も調べた。古代文字の資料まで当たったが、一致するものはなかった。ただ、同じ形の文字が規則的に繰り返されている。でたらめな飾り模様じゃない。何らかの言語として書かれているのは確かだ」
理沙がつまみを回すと、像が反転し、裏面が映し出された。
そこにあったのは、地図だった。山脈を示す細かな稜線、蛇行する河川、いくつもの区画に分けられた領土。まるで一つの国土を、金の上に丸ごと写し取ったかのような精密さだ。
「地図、ですよね。でも、こんな形の大陸、ありましたっけ」
「ない。少なくとも地球上にはな。海岸線を世界中の地形データと照合してみたが、似た形すら出てこなかった」
理沙は画面の一点を指でなぞった。地図の内側、四方を細かな紋様の区画に囲まれた場所に、ぽっかりと穴が空いたような一角がある。境界線だけがくっきりと引かれ、その内側には何一つ刻まれていない。
「ここだ。周りの区画には全部、山脈も川も紋様もびっしり刻まれているのに、この一角だけが空白になっている。打ち損じなら境界線ごと潰れるはずだが、線は最後まできれいに残っている。しかも、こんな真ん中だ。端の欠けなら地図の範囲外で説明がつくが、四方を囲まれた内側では、それも通らない。最初から、わざと空けてあるんだ」
「わざと……ですか?」
「ああ。周りはすべて自分たちの領土として刻んでおきながら、その真ん中の一つだけを、あえて空白のまま残した。征服しきれなかった土地か、刻むことを禁じられた土地か。いずれにせよ、地図を作った側にとって、ここは自分たちのものではないんだろう」
研究員は黙り込んだ。地図の真ん中に空いた空白を見つめる目に、ようやく理沙と同じ種類の光が宿り始めている。
理沙はコインを試料台の上でそっと横に倒し、縁へ焦点を合わせた。
金貨の側面には、表と同じ見慣れない文字が、ぐるりと小さく刻まれていた。ただし、表の文字列とは並び方が違う。同じ形の記号が少しずつ入れ替わりながら、短い列を作っている。
「これ、さっきの文字とは違うんですか?」
「文字というより、数字だろうな。使われている記号の種類が少なく、組み合わせだけが変わっている。位取りのある数の書き方と考えれば、一番しっくりくる」
「縁に数字……って、まさか」
「そう、製造番号だ。一枚ずつ番号を打って、何枚作り、どこへ出したかを管理している。趣味で作った記念品なら、こんな手間はかけない。これは実際に使われるための通貨で、それを作った側には、通貨を管理するだけの仕組みがある」
「で、最後がこれだ」
理沙はコインを顕微鏡から取り出し、蛍光X線分析装置の試料室へ収めた。蓋を閉じ、測定を開始する。低い駆動音が響き、数十秒後、モニターにスペクトルが描き出された。
画面のほとんどを占めているのは、金を示す鋭いピークの群れだった。
「金の純度、九十九・九九……ほぼ純金ですね。店の言っていた二十四金に偽りなしです」
「ああ。そこまでは私も驚かなかった。問題は、残りの〇・〇一パーセントのほうだ」
理沙は縦軸を対数表示に切り替え、スペクトルの裾野を拡大した。金のピークの陰に隠れるように、ごく小さな山がいくつか顔を出す。銀、銅――精錬でも取り切れない、ありふれた不純物の反応だ。研究員はそれらに順に目を走らせ、一つのピークのところで視線を止めた。
「……室長、これ、何の元素ですか?」
「それを君に聞きたかったんだ」
研究員は慌ててデータベースを呼び出し、ピークのエネルギー値を照合にかけた。だが、候補として挙がる元素はどれも、ほかに出るはずのピークが見当たらない。装置の誤差、試料台の汚れ、宇宙線のノイズ。思いつく限りの可能性を口にしてみるが、理沙は首を横に振るばかりだった。
「私も同じことを考えた。だから試料台を替えて、場所を変えて、三回測り直した。三回とも、まったく同じ位置に出た」
「つまり、この金貨には……」
「既知のどの元素の特性X線とも一致しない何かが、ほんのわずかに含まれている。周期表に載っていない金属が、だ」
分析室に沈黙が落ちた。装置の冷却ファンの音だけが、やけに大きく聞こえる。
見知らぬ文字、地球にない大陸の地図、その内側に意図して空けられた空白、管理された製造番号。そして、この世界に存在しないはずの金属。ばらばらだった違和感が、一つの方向を指し始めていた。
「……とりあえず、この金貨を売った店に問い合わせてみよう。仕入れ経路が分かれば、何か見えてくるかもしれない」
「室長……それ、完全にエネルギー研究の範囲を超えてますよね」
「何を言う。未知の金属だぞ。どんな性質を持っているかも分からない。立派なエネルギー研究の端緒だ」
さっきまでなら言い訳にしか聞こえなかった理屈が、今はまるで冗談に聞こえなかった。理沙は真顔のまま金貨をケースへ戻し、分析室を出ていった。残された研究員は、まだ電源の入ったモニターを、しばらく呆然と見つめていた。
画面には、金の巨大なピークの足元で、名前を持たない小さな山が一つ、静かにそびえていた。
「ほう、面白いことをしているじゃないか」
画面を見つめたまま呆然としていた研究員は、不意に背後からかけられた声に肩を跳ねさせた。振り返ると、いつの間にか分析室の入口に、長身の男が立っていた。
少し丸まった背に、白髪交じりの癖毛。薄い縁の眼鏡の奥では、眠たげな目が面白そうに細められている。顎には剃り残したような短い髭が散らばり、羽織った白衣も皺だらけで、身なりに頓着しない性格が一目で分かった。
「さ、三条さん……!」
研究員は弾かれたように背筋を伸ばし、直立不動のまま固まった。無理もない。男の名は三条透。五十八歳にして、この研究所の技術顧問を務める人物だった。研究所の誰もが一目置く存在であり、若手にとっては雲の上の人でもある。
三条はそんな反応を気にも留めず、ポケットに両手を突っ込んだまま、のんびりと分析室へ入ってきた。冷却ファンの低い唸りに、古びたサンダルの足音が重なる。
「そう固くならなくていい。それより、さっき理沙ちゃんが随分と楽しそうな顔で出ていったが、もしかしてこれと関係があるのかな?」
三条の視線が、研究員の肩越しにモニターへ向けられる。金の巨大なピークと、その足元に立つ名もない小さな山。眼鏡の奥の目が、ほんのわずかに鋭さを帯びた。
ごまかせる相手ではない。研究員は観念したように息をつき、理沙が金貨を持ち込んでから今に至るまでの経緯を、順を追って話し始めた。