TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
一息大きなため息をついて、ベッドへ仰向けに倒れ込む。薄っぺらいマットに倒れ込んだせいで多少の痛みは感じたが、疲れでその程度は気にならなかった。むしろ今の生活、いや、これからの生活に希望を見つけられなかった。
元々俺は特別な才能も無ければ、劇的な不幸を背負っていたわけでもない。地方から出て来て、そこそこの大学を出て、そこそこの会社に入り、そこそこで潰れた。いや、会社が潰れたわけじゃない。潰れたのは俺の方だ。
毎朝同じ時間に起き、満員電車に押し込まれ、上司の顔色をうかがい、取引先に頭を下げ、帰って来たらコンビニ飯を胃に流し込む。そんな生活を十年近く続けた結果、ある日ふと、会社へ向かう足が動かなくなった。
それからは在宅の細々とした仕事で食いつなぎながら、空いた時間を動画サイトに溶かす日々だった。ゲーム実況、解説動画、切り抜き、料理、動物、そしてVtuber。画面の向こうで、現実には存在しない姿をした彼女たちが、当たり前のように人と話し、笑い、時にはニュースにまで取り上げられていた。
今となっては彼女たちの活躍を見るのが生きがいになってしまった、意義を見出せない仕事を、ただ慣性で処理し、生活に困らない程度の稼ぎを得る、その合間に動画で彼女たちの活躍を見る。
今日も例に漏れずに、横になりながらタブレットで動画を見る。お気に入りのライバーの痛快なリアクションを見ては、思わず口元が緩む。自分の部屋には笑い声ひとつ返ってこないのに、イヤホンの向こう側だけはやけに賑やかだった。
画面の中の彼女は、今日も楽しそうに騒いでいた。ゲーム内で無様に負けて、悔しがって、コメント欄に煽られて、それでも最後には腹を抱えて笑っている。その姿を見るたびに、俺は不思議な安心感を覚える。
しばらく眺めているうちに、まぶたが少しずつ重くなっていった。ああ、このまま寝落ちするな、とぼんやり思う。意識が途切れる寸前、明日の起床アラームを設定したかどうかが急に不安になったが、確かめようと手を伸ばす気力もなく、そのまま眠りに落ちていった。
意識がぼんやりと戻ってくると、最初に感じたのは心地よさだった。動画を聞きながら寝落ちしたせいだろうか、好きなライバーと向かい合って話している夢を見ていた。できればこのまま、もう少し夢の続きを見ていたい。そう思っているのに、意識はゆっくりと覚醒していく。もったいないな、とぼんやり考えながら、俺は重いまぶたを開いた。
「…………なんだ、まだ夢の中か……」
そう呟きまた眼を閉じる。寝ぼけてぼんやりとした視界見えたのは、豪華な天幕だった。
天幕付きのベッドって、どれだけ豪華なベッドで寝ている夢を見ているのか、心なしかマットも随分と柔らかく、そしてシーツの肌触りもいい、ほんと、こんな夢ならもっと見て…………
「ってぇ、今何時⁉」
慌てて半身を起こした瞬間、さらり、と何か柔らかいものが肩から滑り落ちた。掛け布団――いや、布団と呼ぶにはやけに薄く、絹みたいに滑らかなそれが、膝の上で淡く光を弾いている。
部屋は薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む朝日らしき光が、知らない天井と、見たこともない装飾だらけの壁をぼんやり照らしている。スマホのアラーム音は聞こえない。いつもの冷蔵庫の唸りも、隣室から漏れてくる生活音もない。
「……ここ、何処だよ」
自分の口からこぼれた声に、ぞくりとした。
高く、細い。寝起きでかすれているにしても、明らかに俺の声ではない。反射的に喉へ手を当てようとして、そこでようやく気づいた。
視界に入った手が、ひどく小さい。
白く、細い指。爪の先まできれいに整っている。どう見ても三十代半ばの男の手ではない。理解を拒む頭をよそに、俺は震える手で顔に触れた。柔らかな頬と小さな輪郭を確かめるほど、混乱は深まっていく。
とにかく状況を確かめようと、布団をはねのけてベッドの縁に腰を下ろす。シーツの下から現れた足も、手と同じように小さく白い。だが、今はそれに驚いている場合ではない。俺は意を決してベッドから飛び降りた。
真っ先に感じたのは、視線の異様な低さだった。手足の大きさから覚悟はしていたものの、まるで巨人の家に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
理解が追いつかないまま、一歩、二歩と足を進める。慣れない身体はバランスが取りづらく、ふらつきながらもどうにか踏みとどまった。手がかりを探して視線を巡らせ、左を向いた瞬間――あまりにも理解を超えた光景に、思考が止まった。
そこには、今まで見たこともないほど美しい――いや、可愛らしい幼女が立っていた。
大きな瞳に、透き通るような肌。人間離れした整った顔立ち。そして銀色の髪の間から、細く尖った耳がぴょこんと覗いている。
……エルフ。なぜか、その言葉が真っ先に頭に浮かんだ。
「いやいやいやいや、落ち着け俺。これは夢だ。夢に決まってる。だって目の前にエルフの美幼女がいるんだぞ。あ、これ鏡ですね」
いや、鏡ですねじゃない! 尚更おかしいだろ! なんで俺がエルフの美幼女になっているんだ⁉
改めて鏡をまじまじと見つめる。鏡の中の幼女も、同じようにこちらを見つめ返していた。
小さな手足に、ちんまりとした体つき。子供の年齢には詳しくないが、どう見ても小学生にも満たない。確かめるように自分の頬をつまんで引っ張ると、鏡の中の幼女もまったく同じ動きをした。
幼い身体ではたいして力を込められず、痛いというほどではない。それでも、指先に伝わる頬の柔らかな感触は妙に生々しく、これは夢ではないのだと否応なく思い知らされた。
「まじか…まじかぁ……」
あまりのショックに、思考を放棄しそうになる。
けれど、いつまでも床にへたり込んでいるわけにもいかない。ここがどこなのか、なぜこんな姿になっているのか。考えるべきことは山ほどある。
「……よし。まずは情報収集だ」
口に出してみると、鈴を転がしたような可愛らしい声が返ってくる。どうにも調子が狂うが、今は気にしないことにした。鏡から目をそらし、改めて部屋を見回す。
天蓋付きのベッド、細かな彫刻の施された家具、壁を飾る見覚えのない風景画。どれも映画の小道具とは思えないほど精巧で、使い込まれた跡まである。少なくとも、誰かが一晩で用意した悪ふざけではなさそうだ。
ベッド脇の小机には、水差しと銀の杯、それから一冊の分厚い本が置かれていた。表紙には蔦のような模様が刻まれ、中央には見知らぬ文字が並んでいる。
読めない――そう思ったのは一瞬だった。
「『帝国暦の始まりと繁栄』……?」
意味が、頭の中へすんなりと入ってくる。形も読み方も知らないはずの文字なのに、まるで昔から使っていたかのように理解できた。
背筋に冷たいものが走る。変わったのは姿だけではない。俺の中には、この世界で生きてきた誰かの知識まで残っている。
なら、この身体の持ち主は誰だ?
知識が残っているのなら、それを身につけた誰かの記憶も、どこかに眠っているはずだ。
手がかりを求め、俺は目を閉じて意識を自分の内側へ沈めた。
自分の記憶を探すというのも妙な話だ。本来なら、過去は思い出そうとするまでもなく自分の中にある。だが今の俺の頭には、鍵のかかった引き出しが幾つも並んでいるような感覚があった。
そのうちの一つへ、恐る恐る意識を触れさせる。
次の瞬間、見知らぬ景色と感情が濁流のように押し寄せてきた。
「うぇっぐ……」
同時に、激しい吐き気がこみ上げた。流れ込んできた記憶は、俺の価値観では受け止めきれないものばかりだった。頭が理解を拒み、胃の中のものを吐き出しながら、その場に崩れ落ちる。
「姫様! 姫様! どうかなさいましたか!」
扉の向こうから、慌てた女性の声が響く。続いて、激しく扉を叩く音がした。
姫様――その呼びかけを聞いた途端、記憶の奥から一つの名前が浮かび上がる。そうだ。俺の……いや、私の名前は――
「姫様、失礼いたします!」
扉が勢いよく開く音を聞きながら、俺の意識は急速に遠のいていった。
視界が闇に閉ざされる直前、こちらへ駆け寄ってくるメイドの姿だけが、ぼんやりと見えた。
どれほど意識を失っていたのだろう。目を覚ますと、ぼやけた視界に先ほどと同じ豪華な天蓋が映った。けれど今度は、それを見た瞬間に「私の部屋だ」とすんなり理解できた。
この身体に残る記憶と、俺自身の意識が少しずつ馴染み始めているらしい。不思議と、そのこと自体に恐怖はなかった。それよりも、さきほど垣間見た記憶の内容のほうが問題だった。
「お気づきになりましたか、姫様」
優しく呼びかけられ、声のしたほうへ顔を向ける。そこには、意識を失う直前に見たメイドが、気遣わしげにこちらを見つめていた。
どうやら、目を覚ますまでずっと付き添ってくれていたようだ。彼女は水の入ったグラスを差し出すと、私の上体をそっと支え、少しずつ飲ませてくれた。
冷たい水が、からからに渇いた喉を潤していく。わざわざ新しく用意してくれたのかと思ったが、ベッド脇の水差しには簡単な保存魔法が施されており、中の水を常に清潔で冷たい状態に保てることを思い出した。
そう、この世界には魔法がある。エルフが存在する時点で今さら驚くことでもないが、それだけなら私にとってはむしろ歓迎すべき話だった。
「姫様のご体調を考え、本日の授業はお休みになると、教育係のヴァレリウス・クローヴェン卿へお伝えしてあります」
授業。その言葉を聞いた途端、胃を絞られるような不快感がこみ上げた。
記憶が正しければ、この身体はまだ三歳だ。それにもかかわらず物覚えがよく、すでに簡単な読み書きと日常会話を身につけている。
だが、授業で教え込まれるのはそれだけではない。帝王学の名を借りた、徹底した選民教育でもあった。
帝国がいかに広大で優れているか。そして、その頂点に立つ皇族や上級貴族が、他の者たちとはいかに異なる存在であるか。帝国の末姫である私に、ヴァレリウスはそれを繰り返し聞かせていた。
小机に置かれた『帝国暦の始まりと繁栄』も、そのための教材の一つだった。
そして当然のように、“他の者”と見なされた人々がどのように扱われるのかも教え込まれていた。身分の低い者は、皇族や貴族に従って当然。その理不尽さに疑問を抱くことさえ、許されない。
改めて私を心配そうに見つめるメイドの顔を見ると、頬が赤く腫れていた。ヴァレリウスに何か意見し、その報復を受けたのだろう。今の帝国の倫理観では、それでも軽い処分で済んだ部類なのかもしれない。貴族の機嫌を損ねただけで、命さえ奪われかねないのだから。
彼女がその程度で済んだ理由には、私が唯一心を許している相手だという事情もあるのだろう。だが、それだけではない。私自身、帝国にとって決して大切な皇女ではなかった。
帝国が版図を広げる過程で併呑したエルフの小国。その女王と皇帝の間に生まれた私は、エルフの血が皇族にもたらす影響を確かめるための存在――言ってしまえば、興味本位の実験台にすぎない。
長寿と魔法の才を皇族へ取り込み、それが帝国の繁栄につながればよい――連中はその程度にしか考えていないのだろう。自分の出自を理解するほど、胸の奥から吐き気にも似た嫌悪感がこみ上げてきた。
この身体の持ち主も、物心がつく頃からそんな歪んだ教育を受けてきた。だが、幼いながら聡明だった彼女は、教えられる価値観に違和感を覚え、次第に強い嫌悪を抱くようになっていた。そんな彼女にとって、いつも優しい言葉をかけてくれる専属メイドのリゼットだけが、心を許せる唯一の存在だった。
「大丈夫ですか姫様」
「うん、ありがとう、リゼット」
気遣うような声に、私は小さくうなずいた。礼を口にすると、リゼットはほっとしたように表情を緩める。それでも腫れた頬を見れば、彼女が私に心配をかけまいとしていることは明らかだった。
その心遣いに胸を温められながら、私は枕へ頭を戻し、静かに目を閉じた。眠るためではない。流れ込んできた記憶と、目の前の状況を一つずつ整理するためだ。
まずは、この国と私の置かれた立場から考えよう。
この国では、皇帝とその意向に従う上級貴族へ権力が集中している。彼らにとって都合の悪い意見や報告は、皇帝の耳へ届く前に握り潰されている可能性が高い。
しかも、これまで教え込まれた思想が帝国全体に浸透しているのなら、民や皇帝の意向にそぐわない貴族たちが、まともな扱いを受けているとは考えにくい。抑圧が続けば人々の意欲は失われ、やがて国を支える生産力そのものが衰えていく。
俺のいた世界にも、強権的な体制が行き詰まり、国家そのものが崩壊した歴史はある。頭に浮かんだのは、ソ連の末路だった。
この帝国も、幾つもの国を併呑して版図を広げてきた。滅ぼされた国の王族や重臣の多くは処刑されたのだろうが、すべての指導者や、その思想まで消し去れたとは思えない。
帝国が国力を失えば、彼らやその後継者が各地で決起する可能性は十分にある。ソ連は指導者の辞任を経て解体へ向かったが、この帝国で同じように穏便な結末を迎えられる保証はない。むしろ、各地の反乱と後継争いが重なり、内戦の末に崩壊する未来のほうが想像しやすかった。
そうなれば、皇族が真っ先に責任を問われる。当然その中には私が含まれ、処刑される可能性さえある。
だからといって、今の私に帝国を変える力があるわけでもない。末姫として皇族に名を連ねてはいるものの、政治的な後ろ盾も、自由に動かせる権力も持っていない。
母は帝国に滅ぼされたエルフの小国の女王で、父はその国を併呑した皇帝だ。そんな出自の私を快く思わない者が、宮廷にどれほどいるのかは想像もつかない。
次に、この身体に起きていることだ。鏡に映った姿は三歳のハーフエルフで、頭の中には本来の持ち主の知識と感情が残っている。一方で、会社員として生きた俺の記憶も消えてはいない。どちらかを夢だったと片づけるには、二つの人生はあまりにも鮮明だった。
なぜ俺の意識がこの身体にあるのか。それとも、二人分の記憶が混ざり合ったのか。呼び方は何でもいい。問題は、この世界の常識を完全には知らないまま、私が皇女として振る舞わなければならないことだ。
もし記憶の欠落があり、それを悟られれば、病気として隔離されるだけでは済まないかもしれない。まして、別人の記憶があるなどと口にすれば、呪いや悪霊の仕業と決めつけられ、神殿へ送られる可能性すらある。
ならば当面は、以前の私を演じながら情報を集めるしかない。幸い、身体に残る記憶は断片的とはいえ、言葉や礼儀作法には自然に反応してくれる。
最後に、頼れる味方について考える。
目を開けると、リゼットはまだベッドのそばにいた。私が眠ったと思ったのか、腫れた頬を隠すように顔を伏せている。その姿を見ていると、この身体の記憶に残る信頼が、俺自身の感情と静かに重なっていった。
現時点で、記憶の中から確かな味方だと言い切れるのは、リゼットただ一人だった。そしてリゼットは、何の力もない私に宛がわれる程度のメイドでしかない。そのため、早急に味方を増やす必要がある。
同時に必要なのは、偏りのない正確な情報を集めることだ。教育係のヴァレリウスが教えるのは、帝国に都合よく歪められた思想ばかり。もっと客観的な知識に触れなければならない。幸い、この国で使われている基本的な文字は読める。図書館へ行くことができれば、帝国の歴史や周辺諸国についても、有用な手がかりを得られるかもしれない。
そして何より必要なのは、覚悟だった。かつての俺の記憶を抱えたまま、この世界では私として――ヴァルディア帝国の末姫、ルミナ・エルシア・ヴァルディアとして生きていく覚悟だ。