TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
『申し訳ございませんが、お客様の個人情報にあたりますので、お答えいたしかねます』
受話器の向こうから返ってきた丁寧な断りに、桐生理沙は内心で舌打ちをした。
昼休みを過ぎた研究室には、キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけが響いている。窓際の自席で受話器を握る理沙の前には、ケースに収められた例の金貨が一枚、蛍光灯の光を鈍く跳ね返していた。
金貨の出所を探ろうと、販売店へ直接電話をかけてみたところ、金貨は店が自ら仕入れたものではなく、一般の客から買い取った品だという。ならば誰から買い取ったのかと尋ねて、返ってきたのが先ほどの答えだった。
「なら、同じ金貨はほかにもあるのか? あるなら、何枚だ」
『お客様からお買い取りした金貨は、全部で八枚になります。現在、店頭にあるのは七枚ですね』
全部で八枚。そのうち七枚が店頭にあり、残る一枚は、今まさに理沙の目の前にある。ならば、その七枚を押さえてしまえば、ほかへ流れる可能性はかなり低くなる。もっとも、売り主がほかの店にも持ち込んでいなければ、という前提つきではあるが。
全部買う――その言葉が喉元までせり上がった。だが、理沙はとっさにそれを飲み込む。いくら一般の会社員より給料が高いとはいえ、純金三十グラムの金貨を七枚、一括で買えるほどの余裕はなかった。
「その金貨、全部取り置いてもらえないか。何回かに分けて、必ず全部買い取る」
『申し訳ございません。近いうちに一括でということでしたら対応できますが、分けてのご購入ですと、すべてお引き取りいただくまでに期間が空いてしまいますよね? 当店としましても、そこまで長くお取り置きするのは難しく……』
苦し紛れの提案も、やんわりと断られた。無理もない。店としては、できるだけ早く売上にしたいはずだ。長く取り置けば、それだけ販売の機会を逃し、最悪の場合はキャンセルされる恐れもある。理沙もそれが分かっているからこそ、これ以上は強く言えず、悔しげに奥歯を噛みしめた。
このままでは、ほかの研究機関がこの金貨を手に入れ、発見そのものを横取りされるかもしれない。焦りに指先が受話器を強く握りしめたとき、ふと、背後に人の立つ気配がした。
「金は研究所の経費から出す。全部買いなさい」
不意にかけられた声に、理沙は思わず振り返った。いつの間にか、技術顧問の三条透が、ポケットに両手を突っ込んだまま背後に立っている。眼鏡の奥の眠たげな目が、机の上の金貨へ向けられていた。
どういうことかと問い返しかけ、けれど言葉の意味を理解した瞬間、理沙はすぐに受話器へ向き直った。
「その七枚、全部まとめて買う。引き取りは……」
「今からだ。店まで行くぞ」
「今からそちらへ受け取りに行く。桐生理沙の名前で押さえておいてくれ」
それだけ告げ、店員の了承の返事を聞き届けてから電話を切る。受話器を置く音が、静かな研究室にやけに大きく響いた。何事かと顔を上げた何人かの研究員が、三条の姿に気づいて慌ててモニターへ視線を戻す。
「よし、行くぞ。ついてきなさい」
「……待ってくれ、三条さん。経費で落とすと言っても、技術顧問にそんな権限はないだろう」
「啓介君は必ず説得してみせる。君が先に買った一枚も、経費として計上しておきたまえ」
「待て、そうなるとこの金貨は研究所の預かりになるじゃないか」
「当然だ。こんな面白そうなものを、ここから外へ出すつもりはない」
三条は白衣を椅子の背から引っつかむと、皺だらけのそれを羽織りながら、さっさと出口へ歩き出した。理沙は慌てて金貨のケースを鞄へ押し込み、その背中を追う。
「はぁ……。それで、三条さんはあれが何だと見ている?」
「いや、分からん。だが、古巣の国立研究所にいた頃より、ずっと楽しくなりそうだ」
振り返りもせずにそう言った三条の横顔は、新しい玩具を見つけた子供のように緩んでいた。
◇ ◇ ◇
昼下がりの帝都。宮殿の自室で、私は緊張に乾いた喉を、ごくりと鳴らした。
ノートPCの画面と向き合い、わずかに震える指先をマウスに添える。あとはクリック一つで、この一週間の努力が世に出る。
画面に開いているのはSNSの投稿画面。動画公開の第二弾は、もう目の前だった。
この一週間、リゼットの厳しいマナー講座にひたすら耐えてきた。ほかの成果といえば、お直しの済んだエサソンのスーツを受け取ってきたことと、認識阻害の魔法をどうにか使いこなせるようになったことくらいだ。
大きく息を吐き、覚悟を決めて投稿ボタンへカーソルを合わせる。……けれど、クリックする直前で指が止まった。念のため、最後にもう一度だけ確認しておこう。私は編集を終えたばかりの動画を再生した。
画面には、窓辺を背景にしてテーブルにつく私が映っていた。服は前回と同じ、エルフィネのドレスだ。
「ごきげんよう。異世界の姫、ルミナ・エルシア・エルフィネです」
横から差し込む陽の光を受けながら、画面の中の私が柔らかく微笑んで話し始める。一生懸命に考えた、Vtuberとしてのお決まりの挨拶だ。
本当はここで、皇女らしくカーテシーを披露したかった。けれど今回は顔をよく見てもらいたくて、画角をバストアップに絞っている。私の背丈では、床に立った途端に画面から消えてしまう。泣く泣くカーテシーは諦め、座ったまま軽く頭を下げるだけにした。
……改めて見ると、笑顔が少し硬い。自分の顔を画面越しに眺めるのは、何度やっても慣れそうになかった。
「さて、本日は皆様に私のことをもっと身近に感じていただけるよう、昼食のひとときをお届けしたいと思います。これを機に、皆様と仲良くなれたら嬉しいです」
画面の中で、リゼットが昼食を一皿ずつテーブルへ並べていく。顔は映していないが、白い手袋の指先までぴんと伸びているのが分かる。撮影の間じゅう、私以上に緊張していたのは、たぶん彼女のほうだ。
「美味しそうなお料理が並びました。どうですか? これが私の普段の食事です。まだ五歳の私はあまりたくさん食べられないので、皆様には少なく感じられるかもしれません」
カメラへ向かって、画面の中の私が嬉しそうに微笑む。五歳と口にした瞬間、見た目とのずれにコメント欄がざわつく光景が頭に浮かび、思わず苦笑が漏れた。……まあ、それも話題になるなら悪くない。
「では、いただきます」
料理がすべて並んだのを確かめると、画面の中の私はまずパンへ手を伸ばした。本来なら一口大にちぎるところを、わざと少し大きめにちぎり、その半分ほどを口に入れて噛む。
この演出を最初に話したとき、リゼットにはしっかり叱られた。それでも狙いがあると説明して、今回だけは大目に見てもらったのだ。狙いは、噛みついたときにパンが潰れる様子と、歯の形に合わせて噛み切られる断面を見せることにある。
3Dに疎い私でも、物と物が触れ合う表現が難しいことくらいは知っている。その難しいはずの場面を、あえて正面から見せてやるのだ。
画面の中で、パンがふにゃりと潰れ、歯形を残してちぎれていく。考察班がこれを何十回とコマ送りする姿を想像すると、少しだけ意地の悪い楽しさが込み上げてきた。
一口飲み込んだ私は、心から美味しそうに頬を緩めた。
実は、これこそが今回いちばん見せたかったものだ。技術の話ばかりが独り歩きしている今だからこそ、私という人柄も見てもらい、私自身に興味を持ってもらいたい。だから一口ごとに少し大げさなくらい反応し、子供らしくも丁寧な感想を添えていく。
画面越しに見ると、我ながらあざといくらいの笑顔だった。顔が熱くなる。けれど、これはリゼットが毎食欠かさず叩き込んでくれたナイフとフォークの成果でもある。豆粒ほどの大きさに切った肉を口に運ぶ所作だけは、胸を張って見せられる出来だった。
やがて食事を終えると、画面の中の私はナプキンで口元を軽く拭い、カメラへ視線を戻した。
「ごちそうさまでした。いかがでしたか? これが私の日常のひとコマです。次の動画では、また別の日常をお見せしたいと思いますので、楽しみにしていてくださいね」
ここで、子供らしい満面の笑みを浮かべる。何度も撮り直してようやく自然に見えるようになった笑顔だが、こうして見ると、思いのほか悪くない。
「それでは皆様、よき一日を。またこの窓辺で、お会いしましょう」
締めくくりにする予定の挨拶とともに、画面の中の私が小さくお辞儀をして、動画は終わった。
暗くなった画面に、本物の私の顔がうっすらと映り込む。手のひらには、いつの間にかじっとりと汗がにじんでいた。
問題は、どこにも見当たらなかった。
私は小さく息を吸い、今度こそ投稿ボタンをクリックした。画面が切り替わり、「投稿しました」という短い表示が浮かんで消える。たったそれだけのことなのに、背中から一気に力が抜けていった。
◇ ◇ ◇
――ピコン
“パンをちぎって食べる所、噛んだ跡がちゃんとパンに残ってる。3Dで歯形まで再現するの、物体同士の接触判定としては最難関の部類なんだけど”
“第一弾の耳に続いて、今度は「食べる」を正面から見せてきたな。わざと苦手分野を突いてきてる感じがする”
“ルミナ姫、食べるたびに幸せそうな顔するの反則でしょ。見てるこっちまでお腹すいてくる”
“ナイフとフォークの所作が五歳とは思えないくらい綺麗。肉を小さく切ってから口に運ぶの、本物のテーブルマナーだよね”
“どうせ金持ちの子供に高い機材持たせてるだけでしょ。親の道楽に付き合わされてる子が可哀想”
“↑「子供」って言ってる時点で、自分で3Dじゃないって認めてて草”
“五歳って言ってたけど、見た目は三歳くらいにしか見えない。設定上の年齢と体格をわざとずらしてるのか?”
“エルフは成長が遅いって設定なんでしょ。そういう細かいところまで作り込んでるの好き”
“パンを噛んだ瞬間に頬がふくらむ動き、ブレンドシェイプで作るとしたら相当細かく分けてないと無理。咀嚼に合わせて喉まで動いてるの見えた?”
“喉の動きはさすがに見間違いじゃない? と思って0.25倍速で見たら本当に動いてた。何なのこれ”
“メイドさんの手袋、料理の皿を置くときに布が指の関節に沿って寄ってる。手のモデルとクロスの干渉をリアルタイムで処理してるならおかしい”
“メイドさんの顔が一切映らないの、むしろ演出として上手い。手だけで丁寧さが伝わってくる”
“窓からの逆光でルミナ姫の髪が透けてるの、サブサーフェススキャタリングまで入れてるってこと? 前回より明らかに光の扱いが上手くなってる”
“逆光で顔が暗くならないのも不思議。レフ板を当ててるような柔らかい明るさで、CGのライティングっぽくない”
“あざとい。笑顔も感想も全部計算ずくでしょ。こういうのが一番信用できない”
“計算でやってるなら、それはそれでプロの仕事じゃん。Vtuberに素を求めてどうするの”
“子供にこんな手間のかかる撮影させて、児童労働じゃないの? 保護者は何考えてるんだか”
“↑だから中の人が何歳かも分からないって。設定にマジレスして叩くの、さすがに無理がある”
“アンチの人、技術班の考察に一個も反論できてないの面白い。叩くなら何で作ったか説明してからにして”
“ルミナ姫の「皆様と仲良くなれたら嬉しいです」で落ちた。友達になりたいので次も見ます”
“挨拶の「ごきげんよう」と締めの「またこの窓辺で」が定番になりそう。毎回同じ窓辺で撮るなら、季節の変化も見られるのかな”
“前回の考察班だけど、今回はAI生成説がほぼ消えた。パンを噛んで飲み込むまで、一度も顔や手の形が崩れてない”
“それなのにタグは相変わらず「#新人Vtuber」だけ。企業の名前も機材の情報も一切出さないの、逆に怖い”
“技術がどうとか正直どうでもいい。ルミナ姫が美味しそうにご飯食べてるのを見るだけで癒やされる。それで十分”
“結論:前回は「耳が動いた理由」が謎だったけど、今回は「パンが本物にしか見えない理由」が増えた。謎が減るどころか倍になってる”
◇ ◇ ◇
……はっや。え、何これ?
スマホの画面を流れていくコメントの速さに、私は思わず固まった。指で押さえていなければ、どこまでも上へ流れていってしまいそうな勢いだ。
ぎこちなく首ごと振り向き、部屋の時計へ視線を向ける。地球の時計とは違い、この世界の文字盤には針が一本しかない。その針が指す位置を確かめると、投稿してからまだ一刻も経っていなかった。
「えぇ~……」
気の抜けた声が漏れた瞬間、背後から柔らかな、けれど逆らいがたい声が飛んできた。
「ルミィ様。そのようなお声を出されるなら、頬をおつまみいたしますよ」
「お願い、やめて」
とっさに両手で頬をかばう。リゼットは小さくため息をつき、私の手元のスマホを覗き込んだ。
「それで、いかがなさったのですか?」
「あ、ううん。さっきの動画の反応があまりにも早くて、言葉を失っていたの」
「まあ、もう結果が出たのですか? いかがでしたか?」
期待と不安が半々に混ざった目で、リゼットが尋ねてくる。手袋をして料理を並べたのは彼女だ。自分の手が映った動画の評判は、やはり気になるのだろう。私は画面をもう一度見下ろし、こみ上げる笑みを抑えきれなかった。
「予想どおり……いいえ、予想以上の反応よ。それに狙いどおり、私のキャラクターに対する反応がたくさん来ているわ。リゼットの手袋も、手だけで丁寧さが伝わるって褒められていたわよ」
「まあ……それは、ようございました」
リゼットは照れくさそうに手元へ視線を落とした。その様子を見て、胸の奥がくすぐったくなる。
「ええ。それに、一番欲しかった反応も来ていたの」
「一番欲しかった反応、でございますか?」
「そう。アンチコメントよ」
「あんち、こめんと……?」
聞き慣れない言葉を、リゼットはたどたどしく繰り返した。そのまま可愛らしく首を傾げる姿に、私はつい得意げな気分になる。
「アンチコメントっていうのは、要するに、私に対する否定的な意見のことよ」
「否定的な意見⁉ そのようなものの、どこがよろしいのですか⁉」
リゼットの声がわずかに尖る。自分のことのように憤ってくれるのが嬉しくて、私は小さく笑った。
「ふふ。アンチコメントってね、基本的には注目を集めているものにしかつかないのよ。誰も気にしないものに、わざわざ文句を言いに来る人なんていないもの」
それでも、リゼットはまだ納得できない顔をしていた。眉を寄せたまま、画面の向こうの見知らぬ誰かをにらんでいるようにも見える。
「だからね、裏を返せば、アンチコメントは宣伝にもなるの。私を否定する人が、別の場所でも同じように悪口を書く。それを見た人が、実際はどんなものなのかって気になって、動画を見に来てくれるのよ」
私は指を一本立て、さらに続けた。
「それに、アンチは私の粗を探そうとする人たちでもあるわ。つまり、こちらの弱点を勝手に教えてくれるの。そこを直すか、反論できる材料を用意しておけば、もっと完成度が上がる。まあ、悪意のあるデバッガーといったところね」
説明すればするほど、リゼットの表情は曇っていく。頭の上に疑問符がいくつも浮かんで見えて、私は思わず吹き出しそうになった。どうやら、得意になって喋りすぎたらしい。
「ええと……とにかく、ルミィ様の狙いどおりということですね?」
どうやら、考えるのをやめたらしい。
「ええ、そうね」
うなずきながら、私はもう一度スマホへ視線を戻した。
もっとも、アンチコメントは扱いを間違えれば、一発で炎上騒ぎになる。下手に噛みつけば、火に油を注ぐだけだ。基本的には相手にせず、的を射た指摘があれば、こっそり直しておくのがいいだろう。
流れ続けるコメントの中に、私を疑う言葉も、褒める言葉も、同じ速さで混ざっている。そのどれもが、確かに「ルミナ姫」を見てくれた証だった。そう思うと、指先がほんの少しだけ熱くなった。
◇ ◇ ◇
夕暮れの光がブラインドの隙間から細く差し込み、整然と並ぶパソコンデスクの上に淡い縞模様を落としていた。定時を過ぎたフロアには空席が目立ち、キーボードを叩く音もまばらになっている。
その一角で、一人の女性がパソコンの画面を真剣に見つめていた。久遠灯。天城エンタテインメントが運営するVライバー事務所「AMAGI LIVE」で、事業部長を務める人物だ。
彼女が見ているのは、応募者の一覧だった。名前、年齢、性別、自己PRのコメントにPR動画。百件を超えるデータに目を通すのは、これでもう四周目になる。それでも灯は、見落としがないか一件ずつ確かめ直していた。
机の端に置かれたマグカップのコーヒーは、とうに湯気を失っていた。マウスをクリックする乾いた音だけが、静まりかけたフロアに小さく響く。
「はぁ……だめね、決まらないわ」
漏れたため息は、空調の低い唸りにすぐかき消された。画面を見続けて疲れたのか、灯は目頭を押さえ、椅子の背にもたれて天井を仰ぐ。蛍光灯の白い光が、閉じたまぶたの裏にじんわりと滲んだ。
そのとき、すぐそばでコトリと小さな音がした。目を開けると、机の端に湯気の立つマグカップが置かれている。四期生の準備を担当するマネージャー、柚木悠真が、少し下がった目尻にいつもの気の抜けた笑みを浮かべていた。耳にかかる柔らかな黒髪に、薄手のジャケット。緩んだシャツの襟元とは対照的に、抱えた資料の付箋は端まできちんとそろっている。
「部長、まだ四期生の書類見てるんですか? そろそろ応募者の自己PR、本人より詳しくなってません?」
「四周目。百件も超えてるのに、条件に合う子がなかなかいないのよ」
灯は礼を言ってカップを受け取り、画面を顎で示した。
「うちはゲーム配信がAMAGI LINK VERSEのタイトル限定でしょう。他社ハードもPCも駄目。複数機種で出てる人気作でも、うちの機種版じゃないと配信できない」
「しかもシェアは低いし、対応タイトルも少ない、と」
「そう。だから流行りに乗れなくても人を惹きつけられる配信スキルか、ゲームに頼らないキャラクター性が要るの」
柚木は苦笑し、そろえた付箋の一枚に指を置いた。応募者の得意分野だけでなく、活動について尋ねたいことまで、小さな字で書き込まれている。
「名前だけは有名なんですけどねえ。ただ、併願してるから本気じゃない、とも限らないでしょう。うちの制約を知ったうえで何をやりたいのか、書類だけじゃ分からない子もいます」
「本当に実力のある子ほど、制約のない事務所か個人を選ぶわ。おかげで一期に採れるのは二、三人がやっと。卒業者は一人も出てないのに、三期生までたった八人よ」
自嘲気味に言って、灯は熱いコーヒーをひと口すすった。苦味だけが、やけに舌に残った。
「でも、一人は決まったんですよね。琴坂さん」
「ええ。琴坂美緒、二十三歳。あの子だけは一周目で即決だったわ」
灯はマウスを動かし、一覧の中で唯一チェックの付いた行を開いた。画面に映し出されたのは、黒髪を胸元まで伸ばした女性だった。背はやや高く、すっきりとした目鼻立ち。カメラの前でも背筋がまっすぐ伸びていて、それだけで育ちの良さがうかがえる。
「PR動画、僕も見ましたよ。喋り方は上品なのに、ときどきさらっと毒が混ざるんですよね。言ったあと、相手の反応を待つ間もいい。毒舌キャラを頑張って作ってる感じがしないんです」
「そう、あのギャップは強いわ。それに声がいいし、歌も上手い。ゲームに頼らなくても、歌と雑談だけで人を呼べる子よ」
「あの一言、次は何が出るんだろうって続きを見たくなるんですよ。そこ、作らなくても魅力になってますよ、って本人に伝えたいですね」
「だからこそ困るのよ。四期生を一人だけで出すわけにはいかないでしょう。一緒に企画を広げられる子がいれば、あの子の良さももっと活きるわ」
柚木はうなずき、隣の空いた椅子を引き寄せた。手元の資料には、琴坂の活動準備について確認したい項目も挟まっている。灯がそれに目を留めると、彼は少しだけ笑みを引っ込めた。
「琴坂さんがどんな相手と何をやりたいかも、聞いておきます。準備の相談と一緒に。……その前に、もう一周付き合いますよ」
「ありがたいけど、準備の相談は先に上げて。私の選考に付き合うのと、一人で背負うのは違うわよ」
柚木は一瞬、手元の資料を見下ろし、「はい。そこは明日、時間をください」とうなずいた。灯も小さく笑い、スクロールバーを一番上まで戻す。窓の外では、いつの間にか街の明かりがともり始めていた。
柚木がマウスへ手を伸ばしかけた、そのときだった。
フロアの入口から、慌ただしい足音が近づいてくる。振り向くより先に、息を切らした声が飛んできた。
「部長! 久遠部長! まだいますか⁉」
駆け込んできたのは、広報担当の早瀬だった。普段はSNSの数字を眺めながら涼しい顔でキーボードを叩いている彼女が、今は髪を振り乱し、タブレットを胸に抱えている。
「いるわよ。どうしたの、そんなに慌てて」
「スクープです、スクープ! 今、トレンドがとんでもないことになってて……とにかく、これ見てください!」
早瀬は灯の机にタブレットを置くと、返事も待たずに再生ボタンを押した。柚木も椅子ごと身を乗り出し、三人の視線が小さな画面に集まる。
映し出されたのは、陽の差し込む窓辺だった。白と若草色のドレスをまとった銀髪の少女が、テーブルについてこちらへ微笑みかけている。髪の間からは、細く尖った耳が覗いていた。
「ごきげんよう。異世界の姫、ルミナ・エルシア・エルフィネです」
「……異世界の、姫?」
「自称です。今日の昼過ぎに上がった二本目の動画なんですけど、一時間足らずで一気に拡散されて、もう考察スレまで立ってるんです。一本目には後ろに眼鏡のエルフのお兄さんも映ってて、そっちにまでファンがついてます」
早瀬の説明を聞き流しながら、灯は画面から目を離せずにいた。
少女の背後から、白い手袋をはめた手が皿を並べていく。少女はパンを大きめにちぎり、口へ運んだ。パンがふわりと潰れ、噛み切られた断面に小さな歯形が残る。
「止めて」
思わず声が出た。早瀬が慌てて一時停止すると、灯は画面へ顔を近づけ、指でシークバーを少しだけ戻す。コマ送りで同じ場面を繰り返し、もう一度、さらにもう一度。
「……嘘でしょう」
「部長?」
「パンの変形が、噛んだ位置に合わせて毎回ちゃんと計算されてる。断面も破綻してない。柔らかいもの同士の接触は、今のゲームエンジンでも一番ごまかしが利かないところなのよ。普通は口元をカメラから外すか、カットを割って逃げるわ」
灯はかつて、ゲームプロデューサーとして開発の最前線に立っていた。リアルタイム描画の限界と予算の壁に、何度も頭を打ちつけてきた身だ。だからこそ、画面の中で起きていることの異常さが分かってしまう。
手袋の布は、皿を置くたびに指の関節に沿って寄り、離れるときには自然に戻っている。窓からの逆光を受けた銀髪は一本一本が透け、頬には光が肌の内側で柔らかく散ったような赤みまで乗っていた。どこを見ても、めり込みも、ちらつきも見当たらない。
「髪の物理、布の干渉、肌の表面下散乱……全部入ってるのに、どこも破綻してない。しかもカメラは長回し。仮にプリレンダーだとしても、この尺をこの品質で出すなら、相当な設備とスタッフが要るわ」
「そんなにすごいんですか?」
「すごいなんてものじゃないわ。うちの3Dライブが、子供のお遊戯に見えるくらいよ」
自嘲気味に言って、灯は椅子の背にもたれた。画面の中では、少女が肉を豆粒ほどに切り分け、口へ運んでは幸せそうに頬を緩めている。
「技術も確かにすごいですけど、僕は、この子をもう一度見たくなる理由のほうが気になりますね」
柚木が画面を指さした。灯が繰り返し戻していたパンの断面ではなく、その一口を飲み込んだあとの少女の顔だった。
「ナイフとフォークの使い方も、口元を拭く仕草もきれいでしょう。でも、食べたあとは嬉しさが顔いっぱいに出る。きちんと挨拶していた子が、一口でこんな顔になるんだ、って。それで次の一口まで見ちゃうんですよ」
「五歳って言ってましたね、この子」
「年齢と見た目のずれも、設定として気になりますね。ただ、五歳を強調しなくても、この子を見たい理由はもうあります。姫らしい所作と、ご飯が嬉しくてたまらない顔。その両方が、同じ子のものに見えるんです。メイドの手袋まで世界観はそろってるのに、堅苦しくない」
柚木の言葉に、灯は小さくうなずいた。琴坂美緒の毒舌と同じく、肩書から少しはみ出す瞬間が、続きを見たい気持ちにつながっている。技術の謎を追わなくても、この少女の昼食には見ていたくなる理由があった。
「……でも、だとしたらおかしいのよ」
灯の声が、わずかに低くなる。
「これだけのクオリティを、個人で用意できるとは思えない。モデルを作るだけでも、一流のスタジオが年単位でかかる品質よ。それを惜しげもなく、正体不明のアカウントで流してる」
「どこかの企業の、新しいエンジンの技術デモってことですか?」
「あるいは、大手事務所が仕込んだ新人の匂わせか、海外企業のステルスマーケティング。正体を伏せて話題を集めてから、種明かしをする――よくある手よ」
口にしてみると、どれもありそうに思えてくる。早瀬が不安そうに眉を寄せた。
「だとしたら、うちが下手に触るとまずいですよね」
「ええ。他社の企画に首を突っ込んだら、こっちが笑いものになるわ」
フロアに沈黙が落ちた。空調の唸りだけが、やけに大きく聞こえる。画面の中では、少女がナプキンで口元を拭い、カメラへ向けて満面の笑みを浮かべていた。
「それでは皆様、よき一日を。またこの窓辺で、お会いしましょう」
動画が終わり、暗くなった画面に三人の顔がうっすらと映り込む。
灯はしばらく黙ったまま、その黒い画面を見つめていた。
「……でも、もし個人だったら」
ぽつりと漏れた言葉に、柚木と早瀬が顔を見合わせる。
「どこにも属さない個人が、この技術を一人で、あるいはごく少人数で持っているのだとしたら。それは、うちが喉から手が出るほど欲しいものよ」
「部長、技術の話と、この子の活動の話は分けて聞きましょう。動画を作った人と、出ている人が同じとも限らないですし」
「ええ、そこは確認するわ。AMAGI LINK VERSEの3D表現は、ずっと他社に後れを取ってる。制作側と協力できるなら、ライバーの3D配信だけじゃない、ハードそのものの売りにもなる。それに――」
灯は、琴坂美緒の資料を開いたままのウィンドウへ視線を移した。
「ゲームに頼らないキャラクター性。今いちばん欲しい条件を満たしてるのは、この子かもしれない」
「……まずは所属と、今後どんな活動をしたいかですね。もし個人でも、話を聞いてくれたから加入する気がある、とは受け取らないようにしましょう」
「分かってるわ。企業の企画なら、その時点で話を切り分ける。こちらの所属も目的も明かして、まずは面談の打診だけ。聞くだけならタダでしょう」
灯はタブレットを早瀬へ返すと、自分のパソコンでブラウザを開いた。早瀬に教わったアカウント名を検索し、プロフィール画面からメッセージの入力欄を呼び出す。
キーボードへ指を置いたまま、一度だけ深く息を吸った。これまで何十本もの企画書を書き、取引先への提案も数えきれないほどこなしてきた。それなのに、たった数行の文章を打つ指が、今は少しだけ重い。
『突然のご連絡、失礼いたします。株式会社天城エンタテインメント、AMAGI LIVE事業部の久遠と申します。ルミナ姫の動画を拝見し、その表現力とお人柄に深く感銘を受けました。つきましては、ぜひ一度お話しさせていただけないでしょうか。ご検討いただけましたら幸いです』
読み返して、誤字がないことを確かめる。横から覗き込んでいた柚木も、最後の一文まで目を通してから、いつもの軽い笑みに戻った。
「異世界のお姫様に面談のお願い、ですか。返事が来たら、まず何を話したいか聞きましょう。技術の質問だけで時間を埋めたら、もったいないですし」
「返事が来なかったら、そのときは笑ってちょうだい。来たら、面談の段取りをお願い。採用や条件の話は、私がするわ」
柚木は「了解です」とうなずき、資料の余白に短く書き留めた。前職の配信番組でも、出演者が何を話せるのかを聞く前に段取りだけが決まると、あとで無理が出た。所属も制作体制も不明な相手なら、なおさら急いで企画へ当てはめるべきではない。灯は彼の手元を一瞥し、小さく肩をすくめて送信ボタンをクリックした。画面に「送信しました」の文字が浮かび、すぐに消える。
窓の外では、すっかり夜の色に染まった街の明かりが、静かに瞬いていた。