TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
20話を出す際に誤って21話を出してしまいました。
予約投稿した際の確認不足となります。
大変申し訳ございませんでした。
つきましては本日の投稿は20話、21話の二話投稿となります
まぶたの裏が、ほんのりと明るい。
目を開けると、天蓋の布越しに、夜明け前の淡い青が滲んでいた。窓の外はまだ薄暗く、宮殿の中も静まり返っている。リゼットが朝の支度に来るまでには、もう少し時間がありそうだ。
昨日は動画の反応を眺めているうちに気持ちが高ぶり、なかなか寝つけなかった。そのくせ幼い身体は、いつもより早く律儀に目を覚ましてしまったらしい。もうひと眠りしようか――そう思いながらも、手は半ば習慣のように小机の上を探っていた。
指先に、ひんやりとした平たい感触が触れる。スマホを引き寄せ、枕に頬を埋めたまま画面を点けた。
「……まぶし……」
暗がりに慣れた目に、画面の光が容赦なく突き刺さる。思わず目を細め、しょぼしょぼするまぶたを指でこすった。明るさを下げようとして、うっかり別の場所を叩き、また眩しさに顔をしかめる。我ながら、寝起きの手際は最悪だった。
ようやく目が慣れてくると、ロック画面には通知がずらりと並んでいた。動画への反応に、引用に、フォロー。昨日の昼に投稿してから、通知の数字はいまだに増え続けているらしい。
ぼんやりとした頭のまま、指で通知を流していく。その中に、一つだけ毛色の違うものが混じっていた。
「……ん……DM……?」
ルミナ姫のアカウントにDMが届くこと自体は、もう珍しくもない。応援のメッセージもあれば、正体を問い詰めるもの、明らかに怪しい勧誘もある。どうせ、またそのどれかだろう。まだ半分眠ったままの頭でそう決めつけ、私はメッセージ画面を開いた。
差出人の欄に、どこかで見た覚えのある社名が並んでいる。
株式会社天城エンタテインメント。
「あまぎ……えんため……」
口の中で転がしてみても、寝ぼけた頭はなかなか意味を結ばない。どこかで聞いた名前だ。確か、男だった頃に……。考えるのを半ば放棄したまま、私は本文へ視線を落とした。
『突然のご連絡、失礼いたします。株式会社天城エンタテインメント、AMAGI LIVE事業部の久遠と申します。ルミナ姫の動画を拝見し、その表現力とお人柄に深く感銘を受けました。つきましては、ぜひ一度お話しさせていただけないでしょうか。ご検討いただけましたら幸いです』
一度読む。意味が頭に入ってこない。
二度読む。単語だけが、ばらばらに頭の中を素通りしていく。
三度目に「AMAGI LIVE」の文字を目にしたところで、ようやく一つの像が結ばれた。
AMAGI LIVE。ゲーム機メーカーとして誰もが知る天城エンタテインメントが運営する、Vライバー事務所だ。男だった頃、仕事に疲れた深夜に、何度もそこに所属するライバーたちの配信を眺めていた。スパチャを投げる余裕も、コメントを打つ勇気もなく、画面の端で数字の一つとして。
スマホを持つ指が、ぴたりと止まった。
息をするのも忘れ、私は画面を見つめたまま固まる。どれほど読み返しても、そこに書かれているのは、一度話をさせてほしいという申し出だった。企業から。それも、あのAMAGI LIVEから。
頭の中の霧が、一気に吹き飛んだ。
「ぴゃあっ⁉」
自分でも聞いたことのない声が、喉から飛び出した。跳ね起きた拍子に掛け布団がずり落ち、手から滑ったスマホがシーツの上で一度弾む。慌てて両手で拾い上げ、もう一度画面を確かめた。消えていない。夢でもない。差出人の名前も本文も、さっきと一字一句変わらずにそこにある。
「え、うそ、本物? なりすまし……じゃない、よね? え、えっ?」
誰に聞かせるでもなく、言葉にならない言葉がこぼれていく。小さな胸の中で、心臓が暴れるように脈打っていた。
そのとき、扉が控えめに三度叩かれた。
「ルミィ様、おはようございます。何やらお声が聞こえましたが、お目覚めでございますか?」
返事をするより早く扉が開き、リゼットが朝の支度道具を載せたワゴンを押して入ってきた。いつもと変わらない穏やかな笑顔だ。けれど、寝間着を乱したままベッドの上でスマホを握りしめ、固まっている私を見た途端、その目がすっと細められた。
「……ルミィ様。そのようなお声を出されるなら頬をおつまみいたしますと、昨日申し上げたばかりでございますよね?」
「ち、違うの、リゼット。これには深いわけが……」
とっさに両手で頬をかばう。リゼットは小さくため息をつき、ワゴンをベッドの脇へ寄せた。
「深いわけがおありでも、まずはお顔を洗って、御髪を整えてからでございます。そのように寝癖を跳ねさせたまま、殿方とお会いになっては困りますから」
小言を聞きながら、私はふと、奇妙な感覚にとらわれた。
寝起きにスマホを確かめて、届いていたものに固まる。間の抜けた声を上げたところへ、リゼットがワゴンを押して入ってきて、寝起きの姿をたしなめられる。
……あれ? この流れ、前にもなかったっけ?
記憶をたどるまでもなかった。最初の動画を投稿した翌朝も、私はまったく同じように通知の数に固まり、「まずい」とうろたえて、身なりを整えてからにしろとリゼットに止められたのだ。さらに遡れば、二年前にも寝間着のまま殿方と会ったことを咎められ、問答無用で湯浴みへ連行されている。
どうやら私は、朝に弱いうえに、まるで学習していないらしい。
妙な既視感に頭を抱えたくなりながら、私は握りしめたスマホへ、もう一度だけ視線を落とした。
文面は、何度見ても変わらない。けれど、そこから先をどうすればいいのかは、見つめているだけでは分からなかった。
嬉しい。間違いなく嬉しい。天城グループの目に留まるために始めたことなのだから、望んでいた結果だ。なのに、いざ向こうから声をかけられると、返信欄を開く指にまで力が入る。
ここで勢いに任せて、ぜひお願いします、と返していいのだろうか。相手が何を知りたいのかも、どこまで話していいのかも、まだ整理できていない。
「ルミィ様」
「……うん。分かってる。先に顔を洗うわ」
今度こそスマホの画面を消し、小机へ伏せて置く。手を離すと、ようやく自分が肩にまで力を入れていたことに気づいた。
リゼットに手を添えられ、ベッドから降りる。用意された水で顔を洗うと、頬に残っていた熱が少しだけ引いた。差し出された布で水気を拭っている間にも、頭の中では返信の言葉が浮かんでは消えていく。
「嬉しいお知らせだったのでございますか?」
椅子へ座らされ、髪に櫛が通り始めたところで、リゼットが尋ねた。鏡越しに目を合わせると、先ほどまでのたしなめるような表情は、もう消えていた。
「ええ。日本の会社から、一度お話ししたいって連絡が来たの。私が動画を見てほしかった会社よ」
「まあ。それは、ようございましたね」
「ただ、本当にその会社の人なのかも確かめないといけないし、何を話すかも考えないと。エサソンに相談したいの。あとで、ここへ来てもらえる?」
「では、まずはお支度を済ませましょう。朝食のあとに、私からエサソン殿へお伝えいたします。お話をなさるにも、お腹を空かせたままでは落ち着きませんよ」
鏡の中の私が、わずかに頬を膨らませる。今は朝食より相談を優先したい。そう言いかけたところで、リゼットが後頭部の跳ねた髪を押さえた。
「お急ぎになるお気持ちは分かります。ですが、その方も、返事をする前に身支度と朝食を済ませたからといって、お怒りにはならないでしょう?」
……それは、そうだ。
そもそも日本の会社が、この時間から返事を待ち構えているとも思えない。先ほどまで寝ぼけていたくせに、自分が目を覚ました途端、世界まで動き出すと思ってしまったらしい。
私は観念して肩の力を抜き、リゼットの手に任せた。
髪を整え、普段の淡い青のドレスへ着替えるころには、窓の外も明るくなっていた。小机へ手を伸ばしかけると、リゼットが何も言わずにこちらを見る。私はその手を引っ込め、代わりにテーブルの椅子へ向かった。
朝食の温かいスープをひと口飲む。空腹を意識していなかっただけで、身体はちゃんとお腹を空かせていたらしい。喉を通った温かさに、胸の中でせわしなく跳ねていたものが、少しずつ落ち着いていく。
パンは小さくちぎって口へ運んだ。今日はカメラもないし、大きく噛み切る理由もない。向かいで見守っていたリゼットが、満足そうにうなずく。
昨日の動画では、この何でもない食事を見てもらうために、ずいぶん身構えていた。その結果が、今、小机の上にある。そう思えばまた頬が緩みそうになったが、今度は手元の皿へ視線を戻した。
「ごちそうさまでした」
ナプキンで口元を拭い、ようやく席を立つ。食器を下げ始めたリゼットへ、私は小机から取ったスマホを見せた。
「リゼット、エサソンを呼んできてもらえる? この部屋で、連絡の内容を一緒に確かめたいの」
「かしこまりました。こちらを片づけましたら、すぐにお声がけしてまいります」
そこは急かさずに待った。代わりに、画面を消したまま、話す順番だけを頭の中で決めていく。
連絡が来たこと。相手の名乗っている会社と名前。話をしたいと書かれていること。まずはそれだけでいい。採用が決まったわけでも、交易の話ができると分かったわけでもない。期待と事実を一緒にして話せば、あの男はきっと、そこから指摘してくる。
リゼットがワゴンを脇へ寄せ、部屋を出ていった。私はスマホを手に、テーブルのそばへ戻る。ネットにつながっているのは、この部屋に置いたルーターの電波のおかげだ。ルーター自体は、クローゼット越しに通したLANケーブルで、日本側のモデムにつながっている。エサソンの部屋まで出向いてから接続が切れては、相手の情報を確かめるにも困る。今日は、こちらへ来てもらうほうがいい。
扉の向こうから、宮殿が朝の支度を始めた気配が伝わってくる。食器の触れ合う音に、廊下を行き交う足音。私は椅子に座り、スマホをテーブルへ置いた。画面に残る久遠という名前を、もう一度だけ目で追う。
頭の中で何度も繰り返していたせいで、相談する言葉はもう覚えている。それでも、スマホを握る指には、また少し力が入っていた。
やがて扉の外から足音が近づき、控えめなノックが響いた。
「ルミィ様、エサソン殿をお連れいたしました」
「ありがとう。どうぞ入って」
リゼットが扉を開け、エサソンが部屋へ入ってくる。テーブルのそばで待つ私に目を向けると、その視線が手元のスマホに止まった。縁なしの眼鏡を直し、彼はいつもの淡々とした調子で口を開いた。
「おはようございます、姫様。朝からお呼びになるとは、何かございましたか?」
「おはよう、エサソン。……ちょっと、相談したいことがあるの」
落ち着いて言うつもりだったのに、語尾が少しだけ弾んだ。エサソンは私の顔とスマホを見比べると、向かいの椅子を引き寄せた。
リゼットが扉を閉め、私の傍らへ戻ってくるのを待ってから、私はスマホをエサソンへ差し出した。
「これ。今朝、気づいたの。昨日の動画を見て、一度話をしたいって」
エサソンは画面へ目を落とした。指先で文章を少しずつ送り、読み終えたあと、もう一度差出人の欄へ戻る。私にはやけに長く感じられたが、急かすのは我慢した。
「天城エンタテインメント。姫様がお持ちのゲーム機を作っている会社ですね」
「そう。その会社が運営している、配信者の事務所よ。私が目に留まりたかった相手なの」
「なるほど。それで、もうお返事は?」
「まだ。あなたに見てもらってからにしようと思って」
エサソンが画面から顔を上げた。
「賢明です」
「……何よ、その意外そうな顔」
「姫様のことですから、すでにお会いする約束まで済ませておられるかと」
「私だって、そのくらいは考えるわよ」
思わず胸を張ったものの、勢いで返信しかけた覚えはある。朝食より先に相談したかったことまで思い出し、私は少しだけ視線をそらした。傍らのリゼットは何も言わなかった。言わなかったけれど、口元がわずかに緩んでいる。
「相手が本当にその会社の者か、確かめる必要がありますね。この名乗りだけでは分かりません」
「うん。まずは公式の案内から、この人か、このアカウントにつながる情報があるか調べたい。分からなければ、会社の窓口を通して確認できる方法を聞くわ」
「向こうから送られた案内だけを頼りにしない、ということですか」
「そう。会社の名前を使って、別の場所へ誘うことだってできるもの」
口にすると、ようやく頭が仕事を始めた気がした。嬉しい知らせだと受け取った途端、それまで疑っていた勧誘とは別物のように考えてしまった。けれど、見知った会社の名前があるだけで、信用していい理由にはならない。
エサソンは小さくうなずき、スマホを私へ返した。
「それと、何について話したいのかも、先に伺いましょう」
「動画の表現力と人柄って書いてあるけど……」
「それは、お声がけの理由です。姫様へ何を尋ね、何を提案するつもりなのかまでは書かれておりません」
その指摘に、私は文面を読み直した。確かに、話したいとはあるが、所属の誘いとも、機材の問い合わせとも書かれていない。
「じゃあ、本当にあの会社からの誘いで、活動の話だったら……一度話してみたいの。できれば、最初はオンライン通話で」
「オンラインというのは、こちらにいながら、相手と顔を見て話せる方法ですね?」
「そう。声だけじゃなく、カメラで映した姿も相手に届くの。こちらも向こうの顔を見ながら話せるわ。向こうも配信者の事務所なんだから、そういう相談はできると思う。もちろん、相手がどうしたいかは聞かないと分からないけど」
出向くとなれば、習ったばかりの認識阻害を保ち、道中で人目に触れることにも気を配らなければならない。通話なら、この部屋で二人に隣にいてもらえる。見せる範囲を決めてカメラを置けるし、慣れない場所で五歳児扱いされながら話すより、ずっと落ち着いて臨めそうだった。
「私としては、そのほうが助かるわ。会って話す必要があるかどうかも、まず通話してから考えたいの」
「承知いたしました。では、最初から訪問する前提ではなく、通話をご希望だとお伝えしましょう」
そこで一拍を置き、エサソンは改めて私を真っ直ぐに見る。
「姫様は、何をお望みなのですか。配信者として所属することか、日本の品を手に入れるための取引か」
今度は、すぐには答えられなかった。
最初の目的は、日本の企業と接触し、帝国に必要な物資や技術へつながる道を作ることだった。だから天城グループのゲーム機を使い、動画を投稿した。そのはずなのに、AMAGI LIVEという名前を見たとき、胸を満たしたのは国のことばかりではない。
かつて画面の端で見ていただけの場所から、私へ声がかかった。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「……どっちも、かな。でも、今すぐ交易を持ちかけたいわけじゃない。まずは私の活動に興味を持ってくれた人と、話をしてみたいの」
「その先に、取引の機会があるかもしれないと」
「ええ。ただ、配信者の事務所に農業支援を頼んだって、困らせるだけでしょう。会社が同じグループだからって、何でも扱っているわけじゃないもの」
エサソンはしばらく私を見ていたが、やがて静かにうなずいた。
「でしたら、最初から二つの話を混ぜないことです。姫様の活動について声をかけた相手へ、いきなり帝国の窮状を語っても、何に答えればよいのか分からなくなるでしょう」
「うん。それは分かる」
「分かっておられるなら結構。最初の通話で、穀物の必要量を読み上げ始められても困りますから」
「そんな話から始めると思ってたの?」
「姫様がその話を始められた場合に、止める準備です」
この男、私を何だと思っているのだろう。少しだけ頬を膨らませたが、エサソンは涼しい顔で、テーブルの上のスマホへ目を向けた。
「動画の作り方を尋ねられた場合に備えて、技術の件も整理しておきましょう。セリノアには、すでに話を通してあります」
その名を聞いて、私は顔を上げた。エサソンの姪で、いずれ力を借りたいと話していた相手だ。
「もう連絡してくれていたの? どんなものが必要かも?」
「はい。遠話魔法で定期的に連絡を取り合っておりますので。姫様の映像について、日本の人々が何を技術だと捉えているのか、それをこちらで代替するなら何が必要になるのか、大まかには伝えてあります」
「……遠話魔法? 離れた相手と話せる魔法があるの?」
聞き慣れない名前に、思わず説明の途中で口を挟んだ。手紙か使いを送っているのだとばかり思っていたが、定期的に話しているというのは、文字どおりの意味だったらしい。
「はい。離れた場所にいる相手と声を交わす魔法です。セリノアとの連絡にも使っております」
「電話みたいなものまであるのね……。知らなかったわ」
「姫様にお教えしているのは、まだ基礎の一部ですから。そのあたりも、いずれご説明するつもりでした」
知らない魔法は、まだまだあるらしい。どんな条件で使えるのかは、これから教えてもらわなければならない。それでも、エサソンが定期的にセリノアと話しているなら、彼女を呼び寄せる以外にも相談の道はありそうだ。そのことに、少し気が楽になった。
「じゃあ、あの動画そのものを作り直すんじゃなくて、向こうが欲しがりそうな働きを、別の方法で実現できないか考えているのね」
映像の中で私がしていることは、本当にパンを食べ、笑っているだけだ。それを再現する装置があるわけではない。けれど、相手がその映像に見いだしたものを、魔法で別の形にできる可能性はある。そのための相談が、すでに動き始めていた。
「ええ。セリノアは、魔法で置き換えられる部分がないか模索しております。ただ、必要な条件がまだ曖昧です。できるとお約束する段階ではございません」
「それはそうね。向こうが何をしたいのか、私たちだって知らないもの」
私はスマホの文面へ視線を落とした。仮に映像の技術を尋ねられても、動画の秘密を明かすことと、相手の望む働きを聞くことは別だ。何が必要なのかを知れば、セリノアへ伝える話も、今より具体的になる。
「今、どこまで考えてくれているのか、私も聞ける?」
「もちろんです。私を通して遠話魔法でお話しいただけます。次の連絡で都合を確かめましょう。姫様から直接ご説明いただいたほうが、私の伝え方に不足があった場合も補えます」
「ありがとう。私も、日本の技術に詳しいわけじゃないから……分からないところは分からないって言って、一緒に整理したいわ」
離れた場所にいるから、会う日まで何も相談できない。私はそう思っていた。けれど、エサソンを通して遠話魔法で話せるのなら、セリノアがここへ来るまで待つ必要はない。もちろん、いつでも自由に使えると分かったわけではない。まずは彼に使用の条件を教わり、彼女の都合も確かめよう。日本の電話に慣れた感覚と、この世界で何ができるのかという知識が、私の中ではまだ結びついていなかったらしい。
「では、先方に技術を尋ねられたら?」
「存在しない機材を使っているとは言わない。撮影方法の詳しい話はまだできないけど、何を実現したいのかは聞いてみる。代わりの方法で役に立てるかどうかは、セリノアと相談してから答えるわ」
「結構です。模索中のものを、完成した技術としてお売りにならなければ」
「しないわよ。異世界や扉のことまで、最初の通話で全部明かすつもりもない。相手を知って、必要なことを確かめてからよ」
そこまで口にして、私は小さく息を吐いた。今すぐすべての答えを用意する必要はない。ただし、期待を持たせるためだけに、できないことをできると言うのはやめよう。その線だけは、先に決めておきたかった。
「通話になった場合も、私が隣で話を伺います。直接お会いすることになれば、もちろん同行いたします」
エサソンの言葉に顔を上げた。
「うん、お願い。画面越しでも、私一人だと話したいことを詰め込みすぎそうだし。そもそも、最初から事務所へ行くとは限らないでしょう?」
「ええ。会合の方法も、相手の都合と合わせて決める必要がありますね」
「では、通話の間も、私がおそばに控えております」
横から、リゼットがきっぱりと言った。日本語の文章は読めなくても、ここまでの話は分かっている。彼女は私を見つめ、膝の上で両手をそろえた。
「ルミィ様がお話に夢中になられたとき、お疲れに気づく者も必要でございます」
「……まだ、そこまで長く話すって決まってないわよ」
「決まってからでは、お止めするのが大変ですので」
エサソンが、珍しく異論もなくうなずいた。どうやら二人の間では、私が夢中になると周りを見なくなることまで、すっかり共通認識になっているらしい。
けれど、そのことに腹は立たなかった。一人で返信欄を見つめていたときよりも、今はずっと息がしやすい。
「じゃあ、まずは相手を確かめる。そのうえで、何を話したいのか聞いて、オンライン通話をお願いできるか相談する。所属や取引を決めるのは別。技術の件は、セリノアの話も聞いてから。……それでいい?」
「はい。話を聞く約束と、相手の求めに応じる約束は、分けておきましょう」
私はうなずき、テーブルの上のスマホを手に取った。さっきまで、たった数行の文章の向こうに、デビューも交易も国の再建も、まとめて見ようとしていた気がする。
けれど、届いたのは、まず一度話をしたいという連絡だ。その一歩に、全部を載せる必要はない。
「エサソン」
「何でしょう」
「……それでも、嬉しいのは嬉しいんだけど」
口にしてしまうと、今度こそ笑みを隠せなかった。エサソンは眼鏡を直し、わずかに口元を緩める。
「喜ぶことまで止めた覚えはございませんよ。返事をする指まで浮かれなければ、それで結構です」
ひどい言い草だ。そう思いながらも、私は小さく笑った。返信欄はまだ開かず、まずは会社の公式な案内を確かめるため、検索画面へ指を伸ばした。
検索欄に社名を入れたところで、向かいのエサソンが懐から小さな革袋を取り出した。中から現れたのは、掌に収まる木の札だった。中央に丸い魔石が埋め込まれ、その周囲には細かな線が刻まれている。
「それが、遠話魔法に使うもの?」
「はい。セリノアとの連絡用の媒体です。技術の話を聞いておきたいのであれば、先に向こうの都合を確かめましょう」
私は検索をいったん止め、スマホをテーブルへ置いた。会社の確認はあとでもできる。今は、目の前に出てきた魔法の道具が気になった。
「札みたいに見えるけど、こういう形じゃないと駄目なの?」
「形は何でも構いません。核となる魔石が必要なのです。持ち歩きやすければ、飾りや道具の形にしてもよいでしょう」
エサソンは木の札をテーブルへ置き、魔石の縁を指先で示した。私は身を乗り出しかけ、袖がスマホに触れそうになったところで慌てて手を引っ込める。
「これで、話したい人につなげられるのね」
「誰にでも、というわけではございません。媒体は二個一対で作られ、その対の相手としかつながりません。この札の対を持っているのがセリノアです」
「じゃあ、ほかの人の媒体には?」
「つなげられません。別の相手と連絡するには、その相手と一対になった媒体が必要です」
なるほど。電話のように連絡先を選べるのではなく、相手ごとに専用の道具を持つわけか。便利だと思った途端に、持ち歩く荷物の心配をしてしまうのは、元の世界の感覚が抜けないせいだろう。
「それで、私もこれを使えば話せるの?」
「接続が済んでからなら。最初につなぐときは、双方が遠話魔法を使える必要があります。今回は私とセリノアが、それぞれの媒体を手にして術を発動させます」
「片方だけでは駄目なのね」
「はい。私が媒体を手に取り、術を使うと、対の媒体が接続の知らせを出します。それを受けたセリノアが、自分の媒体を手に取り、同じく遠話魔法を発動させる。そこで初めて接続が完了し、話せるようになるのです」
私は木の札を見下ろした。こちらが呼びかけても、向こうが応じるまでは声が届かない。その点は、電話とよく似ている。
「接続できたら、私はどうすればいい?」
「媒体に触れて、お話しください。一度つながれば、遠話魔法を使えない方でも声を届けられます」
「聞くときも、触っている必要があるの?」
「いいえ。相手の声は媒体そのものから出ます。その場にいれば、どなたにも聞こえますよ」
横にいたリゼットも、木の札へ目を向けた。私だけに聞こえるわけではないのなら、彼女も一緒に話を聞ける。その一方で、扉の向こうにまで聞かせるつもりはなかった。
「でしたら、廊下の様子を確かめてまいりますね」
リゼットは静かに席を立ち、扉を少しだけ開けた。朝の支度の音は先ほどより遠くなっている。近くに人がいないことを確かめて扉を閉めると、私たちのそばへ椅子を寄せた。
エサソンは、その間に手帳を開いていた。これまでセリノアへ伝えたことを確かめるように頁をめくり、空いているところへ短く書き足していく。
「まずは、天城から連絡が来たことを伝えます。先方の希望はまだ不明だという点も。それから、今どのような代替方法を考えているのか、本人に説明してもらいましょう」
「私からは、動画で何を見せようとしたのかを話せばいい?」
「ええ。ただし、セリノアにも都合があります。今お話しできるかを先に尋ねますので、つながった途端に質問を並べないように」
「分かってるわよ。……そんなに喋り出しそうに見える?」
「先ほどから、札を見るたびに身を乗り出しておられます」
私は慌てて背筋を戻した。リゼットが隣で小さく笑う。知りたいことは増えたが、まず相手が応じてくれるかどうかだ。私はスマホを脇へ寄せ、札へ触れるための場所だけをテーブルの上に空けた。
エサソンが木の札を手に取る。魔石を覆わないよう指を添え、目を伏せた。その手元へ意識を向けているらしく、いつもの皮肉も、眼鏡を直す仕草も止まっていた。
やがて、核の魔石に淡い光が宿った。
「術を発動させました。これで、向こうの媒体が接続を知らせます。セリノアがそれを手に取り、術で応じれば話せます」
私はうなずき、伸ばしかけた手を膝へ戻した。まだ声は届かない。彼女が対の媒体を手にするまで、この小さな札を眺めて待つしかないのだ。
日本の会社の返事を考えていたはずが、今は初めて知った魔法の向こう側を待っている。私は口にする最初の挨拶を、胸の内でそっと確かめた。
『なに、兄さん。定時の連絡以外でつなぐなんて、珍しいね』
木札から届いたのは、抑揚の乏しい女性の声だった。本当に声が届いた。その不思議さに目を見張ったものの、すぐに別の言葉が引っかかった。
「兄さん?」
「姪ではありますが、昔から私を兄と呼んでいるのです」
『……そこに誰かいるの?』
しまった。声が周りにも聞こえることに気を取られて、自分から話すには札に触れる必要があるのを忘れていた。
「姫様、手を」
「あ、うん」
促されて、私は慌てて木札に手を添えた。先ほどまで頭の中で繰り返していた挨拶が、いざとなると出てこない。相手の顔が見えないせいか、妙に喉が詰まった。
「あ、あの……初めまして。ルミナと申します」
『ああ、あなたがルミナ姫ね。初めまして、セリノア・ローレグです。そこの愚兄がお世話になっています』
愚兄って。親しげに呼んでいたかと思えば、今度はずいぶんな言いようだ。そっとエサソンを見たが、眉一つ動かさない。どうやら、この二人にはいつものやり取りらしい。
「こちらこそ、このたびはお力を貸していただき、ありがとうございます」
『待って』
短い一言に、肩がぴくりと跳ねた。何か失礼なことを言っただろうか。木札に添えた指を動かせないまま、私は続く言葉を待った。
「あ、はい」
『あなたはエルフィネの姫で、この腐りきった帝国を潰すための旗印でしょう。もう少し堂々となさい。あなたのお母さま、セレスティア様にも、女王としての威厳があったわ』
お母さまの名が出た途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。まだ会ったこともない母と比べられると、急に自分が頼りなく思えてくる。背筋を伸ばしたものの、口から出たのは、またも弱気な言葉だった。
「あ、すみません……」
『そうやって、すぐに謝るのをやめなさいと言っているのだけど……まあ、いいわ。それで、今日は何の用?』
ようやく用件を話せると思って息をつくと、隣でエサソンがそれよりも深いため息をついた。
「姫様に威厳を求めるのでしたら、あなたも少しは言葉を選んでください。……まず、そちらの状況を聞かせていただけますか?」
『今は馬車でセレンディアへ向かっているところよ。近日中には到着する見込みね』
「では、今は話をする時間があるのですね」
『ええ。今なら大丈夫よ』
私は木札に手を添えたまま、そっと呼吸を整えた。堂々と、か。すぐに女王のようには振る舞えなくても、せめて次は、必要以上におどおどせずに話そう。
「エサソンから、私の動画について話は聞いているのよね。日本で使われている技術を、魔法で代わりにできないか考えてくれていると聞いたわ。今は、どこまで分かっているの?」
途中で声が小さくなりかけたが、どうにか最後まで言い切った。木札の向こうで、セリノアがわずかに息をつく。
『聞いているわ。ただ、進んでいるかと聞かれると、まだ何を作るべきか整理しているところね。兄さんの説明では、あなたの姿や動きを、日本の人たちは作り物の映像だと思っているのでしょう?』
「ええ。本当は私がそのまま映っているだけなのだけど」
『なら、その映像を魔法で作るのか、別の姿を作って本人の動きに合わせるのかで、考えることが違うわ。見た目だけ似せたいのか、動きまで同じにしたいのか。それもまだ分からない』
私は小さくうなずきかけ、声にしなければ伝わらないことを思い出した。
「そうね。私も、相手が何に興味を持っているのかまでは分かっていないわ」
「その点に関連して、日本の会社から姫様へ連絡が来ました」
エサソンが手帳へ目を落とし、言葉を引き継いだ。
「一度話をしたい、という申し出です。身元と用件はこれから確かめますので、今のところ、技術について何か求められたわけではありません」
『なるほど。何か頼まれたから急いで作れ、という話ではないのね』
「ええ。ただ、もし技術のことを聞かれたら、何ができそうなのかくらいは知っておきたくて」
答えながら、胸の中で膨らんでいた期待が少し落ち着いた。魔法なら何とかなる。そんな都合のよい結論を、私は知らず知らずのうちに待っていたのかもしれない。
『今、考えているのは、姿を見せる部分と、その姿を動かす部分を分けて調べることよ。さらに、作ったものを日本の機械で映像として扱えるかは、また別の問題になるわ』
「目で見えれば、撮影はできるんじゃないの?」
『その機械が何を捉えているのか、私は知らないもの。人の目には見えても、機械には映らないなら役に立たないでしょう?』
思わず木札を見つめた。認識阻害も、相手の受け取り方に働きかける魔法だった。見えることと、そこに何かがあること。それを同じに考えてはいけないのだ。
「……確かに。それじゃあ、候補を考えている段階で、撮影できるかどうかも、まだ試していないのね」
『ええ。日本の機械も、実際の動画も、私はまだ見ていないわ。こちらだけで都合のよいものを作って、あとから使えないと分かっても困るもの』
「そうね。まず、何が必要なのかをはっきりさせないと」
少し残念ではあった。けれど、分からないことを分からないと言ってくれる相手なのは、むしろありがたい。勢いでできると約束されるより、ずっと安心できた。
「私たちがセレンディアへ移ったら、実際の動画と、撮影に使っている機械を見てもらいたいわ。その前に日本の人と話せたら、何を望んでいるのかも確かめておく。それで、考えやすくなるかしら?」
『なるわ。特に、何を似せたいのかは聞いておいて。顔なのか、動きなのか、それとも別のことなのか。全部、と言われたら、どれを一番必要としているのかもね』
「分かったわ。ただ、先方が技術の話をしたいとは限らないから、そのときは改めて相談させて」
『ええ。それでいいわ。必要なものが決まってから、使えそうな術と、足りないところを詰めましょう』
隣でエサソンのペンが短く走った。私は木札に添えた指の力を、ようやく緩める。
魔法で何でも置き換えられると分かったわけではない。それでも、次に何を聞けばいいのかは見えてきた。正体を知られないための言い訳を用意するのではなく、相手の欲しいものを確かめる。まずは、そこからだ。
「では、今日はここまでにしましょう。移動中に時間を取ってくれて、ありがとう。道中、気をつけてね」
『ええ。あなたも、話を急いで決めないようにね。できるか分からないことまで請け負われると、こちらが困るから』
「分かっているわ。できそうなことと、確かめないと分からないことは、分けて話す」
『それなら結構。兄さん、あとはよろしく』
「言われずとも。到着したら、また連絡をください」
挨拶を交わし終えると、私は木札から手を離した。エサソンが媒体を手にして術を終え、魔石の光が消える。さっきまであれほど近くに感じていた声が途絶えると、部屋は急に静かになった。
初めての遠話は、思っていた以上に気を張るものだった。私は小さく息を吐き、テーブルのスマホへ目を戻した。
「……さて。今度は、こっちの返事ね」
「その前に、先ほど調べかけていた身元の確認を済ませましょう。先方が名乗る会社に、確かに属している方か。それと、この連絡がご本人のものかは、別に確かめる必要があります」
「うん。名前が見つかっただけで、安心してはいけないのよね」
エサソンは木札を革袋へ戻し、手帳を私の側へ少し寄せた。書き留められているのは、相手の確認、話したい内容、通話の方法。その短い項目を見ていると、浮き立っていた気持ちにも輪郭が戻ってくる。
「返信は先に考えておきたいの。確認が済んだら送れるように」
「それでしたら、まず下書きとして。喜びのあまり、何でもお受けしますと書かれませんように」
「さすがに、そこまでは書かないわよ」
言い返しながら、少しだけ視線をそらした。相談する前の私なら、ぜひお願いします、だけで送っていたかもしれない。否定しきれないのが悔しい。
私はメモを開き、日本語で文面を打ち始めた。お礼と、話をしてみたい気持ちは素直に書く。ただし、何の話なのか分からないまま、先へ進む約束はしない。
「オンラインでの通話を希望することと、そちらが話したい内容を先に教えてほしいこと。それから、あなたにも同席してもらいたいわ」
「私については、活動を手伝う者、とお伝えいただければ十分でしょう。役職まで説明する必要はございません」
元帝国財務官兼魔法教師。確かに、そんな紹介をしたら話がややこしくなる。私は口元を緩めながら、短い文を一つ加えた。
『久遠様。ご連絡いただき、ありがとうございます。動画をご覧いただけて、とても嬉しく思います。ぜひ一度、お話を伺えればと思っております。差し支えなければ、どのような内容をお考えか、事前にお知らせいただけますでしょうか。また、最初はオンラインでの通話を希望しております。活動を手伝ってくれている者も同席させていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。ルミナ』
打ち終えた画面をエサソンへ向ける。彼はしばらく黙って読み、それから小さくうなずいた。
「よろしいかと。お話を伺うという返事であって、所属や取引への承諾にはなっておりません。日時や使用するものは、先方のお返事を見てから相談できます」
「技術のことは、今は書かなくていい?」
「聞かれてもいないことを、こちらから持ち出す必要はありません。先ほどセリノアと話したとおり、まずは相手が何を望んでいるかです」
私はもう一度、下書きを読み返した。嬉しい。話してみたい。その気持ちまで隠す必要はない。けれど、嬉しいからこそ、ちゃんと相手を確かめてから返したいと思った。
「これなら、堅すぎないかな。せっかく声をかけてくれたのに、警戒ばかりしていると思われたら嫌なのだけど」
「礼も、話す意思も伝えてあります。慎重であることと、相手を拒むことは違いますよ」
その言葉に、胸のつかえが少し取れた。私は文面を保存し、まだ送っていないことを確かめてから、メモを閉じる。
返事はできた。あとは、送る相手を確かめるだけだ。急ぎたい気持ちをなだめながら、私はエサソンと一緒に、先ほど開いていた検索画面へ戻った。
検索欄へ、会社名と事務所名を順に入れる。見覚えのあるライバーたちの名前が並ぶと、それだけで安心しかけた。けれど、今日は動画を見に来たわけではない。私は指を止め、会社の案内へ進んだ。
運営会社の名称を確かめ、そこから事務所の公式案内をたどる。届いたメッセージに書かれた名前だけでなく、会社と事業部の関係も一致していた。さらに公開されていた事業紹介には、担当者として久遠灯という名前が載っている。
「この人、みたいね。事業部長って書いてある」
思わず声が弾んだ。そんな立場の人が、私の動画を見て声をかけてくれた。その意味を考えると、また頬が緩みそうになる。
「その方が実在し、会社に属していることは確かめられました。ですが、メッセージを送った者が同じ方とは、まだ限りません」
「……分かっているわ。そこは別、よね」
プロフィールへ戻り、投稿の履歴も見た。会社の話題や配信の告知はある。だが、それらしいことを書くのは、なりすましにだってできる。眺め続けても、私たちだけで答えが出るものではなさそうだった。
そこで、会社の公式案内に掲載されている問い合わせ窓口を使うことにした。届いたメッセージのリンクからではなく、自分でたどった会社側の窓口だ。
「確認の文章、失礼にならないかな」
「事実だけをお伝えください。久遠という方を名乗るアカウントから連絡をいただいた。このアカウントが会社のご担当者のものか、確認したい。それだけで十分です」
私は活動名と連絡を受けたアカウント、届いた文面を添え、確認をお願いする短い問い合わせを書いた。住所も、本名も、余計な事情も書かない。エサソンに読んでもらってから送信し、今度こそスマホをテーブルへ置いた。
送ったのは、話を受ける返事ではなく、相手を確かめるための問い合わせ。それでも胸がどきどきして、画面を伏せるまでに少し時間がかかった。
返事を待つ間は、通話で話してよいことをエサソンと確かめた。動画を作り始めた理由や、これからしてみたい活動。そのくらいなら、正体を明かさずに答えられる。反対に、撮影の仕組みや暮らしている場所については、尋ねられてから答え方を考える必要があった。
何度も画面を見たくなるのをこらえていると、やがて問い合わせに使った連絡先へ返事が届いた。私はエサソンを呼び、文面を一緒に読む。
会社窓口の回答には、久遠灯が同社の担当者であることに加え、私が提示したアカウントも本人のものだと記されていた。動画を見て送った面談の申し出で間違いないという。私が送った確認事項に、一つずつ答えてくれていた。
「これで、返していいのよね?」
「ええ。連絡元の確認はできました。ただし、話の内容まで決まったわけではありませんよ」
「そこは、返事で聞くんでしょう?」
エサソンがうなずく。私は窓口へ確認のお礼を返したあと、保存していた下書きを開いた。
何度も読み返した文章なのに、今はさっきと少し違って見える。画面の向こうにいるのは、名前だけの誰かではない。私の動画を見て、話したいと思ってくれた人なのだ。
久遠とのメッセージ画面へ戻り、下書きを返信欄へ移す。感謝と、話を聞きたいという意思。事前に用件を知らせてほしいこと、オンライン通話の希望、それから活動を手伝う者の同席。どれも抜けていない。
それでも、送信のところで指が止まった。
「……変じゃない?」
「先ほどから文面は変わっておりません」
「分かっているけど、最後にもう一回、聞きたくなるの」
呆れたようなエサソンの顔を見て、私は小さく笑った。そのおかげで、ようやく肩の力が抜ける。
息を一つ整え、送信を押した。返信が画面に並ぶ。取り消そうとは思わなかった。ただ、胸の中で何かが一歩先へ進んだ気がした。
「……送れた」
「では、今は先方のお返事を待ちましょう」
私はうなずき、スマホをそっと置いた。すぐに返ってくるとは限らないし、話してみてどうなるかも分からない。
それでも、もう私は、画面の端にいるだけの視聴者ではなかった。声をかけられて、考えて、自分の言葉で返事をした。その小さな事実が嬉しくて、しばらく口元の緩みを抑えられなかった。
◇ ◇ ◇
同じころ、天城エンタテインメントのオフィスでは、久遠灯が届いた返信を読み返していた。会社窓口から回ってきた連絡元の確認に対応したあとで、本人からの返事が届いたのだ。
画面の端には、昨日開いていた四期生の応募者一覧がまだ残っている。灯はそのウィンドウをいったん閉じ、ルミナの文面だけを表示した。
「柚木くん。返事、来たわ」
声をかけると、少し離れた席から柚木が顔を上げた。資料を一枚手元へ伏せ、灯の机へ歩いてくる。
「お、異世界との交渉が進展しましたか」
「まだお話を伺いたい、という返事よ。オンライン通話を希望していて、活動を手伝う人も同席させたいそう」
「いいですね。いきなり知らない会社へ来てくれ、より、そのほうが話しやすいでしょうし」
柚木は軽口を引っ込め、画面へ目を落とした。礼の言葉から最後の署名まで読み、事前に話の内容を知りたいという一文で視線を止める。
「何を話したいのか、ちゃんと返しましょう。こっちが誘ったんですから、相手に探らせる形にはしたくないですね」
「ええ。まず、今の活動状況と、これからどんなことをしたいか。それから、うちで一緒に活動することに関心があるかを聞きたいわ」
「その場で所属を決めてもらう話ではない、と添えますか」
「そうね。制作についても興味はあるけれど、話せる範囲で。技術の説明が面談の条件だとは思われたくない」
灯は短く打ち込み、いったん指を止めた。昨日、動画を見たときの驚きはまだ残っている。だが、返信をくれた相手は、技術資料ではなく、一緒に活動できるかもしれない人だった。
「同席する方が、動画を作っている人なのかしら」
「かもしれませんけど、まだ分からないですね。まず何を手伝っている方なのか伺えばいいと思います。いきなり制作責任者扱いしたら、眼鏡のお兄さんが困るかもしれませんよ」
「動画に映っていた人と同じかも、まだ分からないでしょう」
「ですね。そこも含めて、初めまして、からです」
相談する内容を手帳へまとめていた柚木が、ふとペンを止めた。灯の顔を見てから、四期生の準備資料へ目を向ける。
「部長、ひとつ提案してもいいですか。通話の後半に、琴坂美緒さんにも入ってもらうのはどうでしょう」
「琴坂さんを?」
「ええ。ルミナさんがうちへ入るなら、同期としてデビューする予定になる相手でしょう。運営と話すだけじゃなく、一緒に活動する人と少し話せると、イメージが湧くんじゃないかと思いまして」
灯は背もたれから身体を起こした。上品な口調の中へ、さらりと毒を差す琴坂。姫らしい所作を保ちながら、食べ物を前にすると嬉しさがこぼれるルミナ。並んで話す姿を想像すると、確かに見てみたい組み合わせだった。
「相性を見られる、ということね」
「ただ、相性の試験です、みたいにはしたくないですね。琴坂さんを突然連れてきて、はい、面白く喋ってください、ではどちらも困るでしょうし」
「それはそうね。面談と顔合わせは、分けたほうがよさそう」
「最初は僕らだけで話して、二人とも希望するなら、後半に短い顔合わせを設ける。そのくらいなら、断る余地も残せます」
柚木は手帳に線を引き、面談の項目とは離して書き足した。段取りを組む手は早いが、今回は候補者の名前の横へ、先に『意向確認』と記している。
「琴坂さんにも、個人で活動している方と話す機会を考えている、と伝えておきます。ルミナさんの動画を見てもらうにしても、同期に決まった、とは言いません」
「ええ。こちらが先走って期待させるのは避けたいわ。ルミナさんにも、採用済みのデビュー準備中の方との顔合わせを提案したい、と説明しましょう。参加するかは選んでもらう」
「了解です。琴坂さんとの準備の相談も、今日、別に時間をください。同席の話だけで済ませず、活動の希望も聞きたいので」
昨日は選考に付き合ううち、後回しになりかけていた相談だった。灯はうなずき、自分の予定を開く。
「その時間も取りましょう。通話の候補日時は、琴坂さんの都合が分かってから。顔合わせを希望されなければ、私たちだけで進めればいいわ」
灯は返信の下書きへ戻った。話したい内容を先に示し、オンラインで構わないことと、相手側の同席を歓迎することを書き加える。こちらは久遠と担当マネージャーの柚木が参加する予定だと伝え、琴坂との短い顔合わせは、あくまで希望があればという提案に留めた。
「……これなら、話を聞きに来たつもりが、いつの間にか同期を紹介されていた、とはならないわね」
「その驚きは、デビューが決まってからの楽しみに取っておきましょう」
軽く笑う柚木につられ、灯も口元を緩めた。四期生の空いた席へ、まだルミナの名前は入れない。それでも、昨日まで書類の中だけで探していた未来が、少しずつ会話の形を取り始めていた。
◇ ◇ ◇
自室の机に置いたノートパソコンには、まだ「#新人Vtuber」の検索結果が開いていた。私は通話の通知が届く直前まで見ていた画面を閉じ、ヘッドセットをつけ直す。黒い画面に映る髪を指で整え、接続を押した。
琴坂美緒、二十三歳。つい先日、AMAGI LIVEから合格通知をもらったばかりの、まだ何者でもない配信者だ。採用が決まったときは嬉しかった。けれど、嬉しいだけでデビューまで過ごせるほど、私は呑気ではなかった。
「こんばんは、琴坂さん。音、聞こえますか?」
「はい。こちらの声も届いていますか、柚木さん」
「ばっちりです。お時間ありがとうございます。まず、準備で気になっていることから伺ってもいいですか」
画面に映る柚木さんは、今日も襟元を少し緩めていた。気楽な話し方のおかげでこちらも話しやすい。私は手元のメモを見ながら、歌や雑談をどう配信へ組み込むか、初回までに何を用意すればいいのかを尋ねた。
一つずつ話している間も、頭の隅には、閉じた検索画面のことが残っていた。合格通知をもらってから、私は同時期に活動を始める人を調べていたのだ。新人同士なら誰がどんなことを得意としていて、何を見せようとしているのか。気にならないはずがない。
そこで見つけたのが、銀髪の幼い姫だった。ルミナ。最初は名前を覚えるつもりもなかったのに、動画を一度見ただけで、すっかり頭に残ってしまった。
「それと、もう一件、ご相談があります。デビュー準備とは別の話なんですけど」
「はい。何でしょう」
「今、個人で動画を出している方と、オンラインでお話しする機会を考えています。お互いに希望があれば、琴坂さんにも後半の顔合わせへ参加していただけないかと思いまして」
「その方というのは?」
「ルミナさんです。異世界の姫、と名乗っている方なんですが、ご存じですか?」
指先が、メモの端で止まった。まさか、その名前をここで聞くとは思わなかった。
「……存じています。新人の方を調べていて、動画を拝見しました」
「あ、もう見ていたんですね。どうでした?」
「大変、可愛らしい方ですね。食事をしているだけで、あれほど見ていられるのは、少々ずるいと思いました」
柚木さんが小さく笑う。冗談に聞こえたのなら、そのままでいい。私としては、半分以上が本音だった。
挨拶はきちんとしているのに、パンを食べた途端、嬉しさが顔いっぱいに広がる。次の一口を待ってしまう自分が悔しくて、いったん動画を閉じた。それなのに、反応が気になって、結局また検索してしまった。
私がこれから声や歌を知ってもらおうとしている時期に、あの子も活動を広げていく。同じ「新人」の括りで紹介されたら、話題は全部あちらへ行くのではないか。まだ何も始まっていないのに、そんな心配までしていた。
「ルミナさんは、うちからデビューなさる予定なのですか?」
「いえ、まだそこまでは。こちらからお声がけして、話を聞いていただけることになった段階です。今後の活動や、うちへの所属に関心があるかを伺うつもりです」
「では、もしお話がまとまれば、四期生として?」
「そういう可能性はあります。ただ、琴坂さんの同期に決まった、という話ではありません。そこは先にお伝えしておきますね」
私は気づかれないよう、ゆっくりと息を吐いた。同じ事務所から出るかもしれない。その可能性だけで、胸に引っかかっていたものが少し軽くなる。
自分でも現金だと思う。別の場所でデビューされれば強敵なのに、隣に並ぶ可能性があると聞いたら安心するなんて。だが、あの子へ集まる視線が事務所や同期の紹介にも向くなら、私はただ話題の波に押し流されるだけではない。
もちろん、隣にいたからといって、見てもらえる保証はない。それでも、遠くで比べられるばかりだと思っていた相手と、同じ場で言葉を交わせるかもしれない。その違いは大きかった。
「なるほど。それでしたら、ぜひお話ししてみたいです」
「ありがとうございます。ただ、参加は任意です。顔合わせをしたから、必ず一緒に企画をやらなければならない、ということでもありません」
「はい。まずは、ご本人を知る機会ということですね」
「そうです。ルミナさんにも同じように希望を伺います。お二人とも会ってみたいということなら、面談の後半に短くお時間を取ろうと思っています」
私はメモの空いているところへ、ルミナ、と書いた。検索欄へ入れていたときとは違う。今度は、話しかけるかもしれない相手の名前だった。
「顔合わせでは、何か準備したほうがよろしいでしょうか。自己紹介と、今後やってみたいことくらいでしょうか」
「そのくらいで大丈夫です。上手く盛り上げなきゃ、と気負わないでください。僕も進行しますので」
「安心しました。初対面のお姫様を、庶民の話術で楽しませる試験だったら、少し困ってしまいますから」
「それは僕も困りますね。宮廷作法、履歴書に書いてないので」
つい笑いがこぼれた。さっきまで、あの子の話題を聞くだけで身構えていたのが嘘のようだ。まだ所属が決まったわけでもないのに、ずいぶん気が早い。
「日程は、お互いのご都合を伺ってから調整します。参加できる時間帯を、あとで送っていただけますか」
「承知しました。準備の予定と合わせて、お送りします」
残っていた確認事項を話し終え、通話を切ると、画面に自室の静けさが戻った。私はヘッドセットを外し、背もたれへ身体を預ける。
もう一度SNSを開くと、検索欄には「#新人Vtuber」が残っていた。さっきまで見ていたルミナの動画を探し、今度は音を出して再生する。
同じ事務所に来てくれればいい。そんな願いが先に浮かび、自分の都合のよさに苦笑した。注目を奪われたくない気持ちが消えたわけではない。それでも今は、それだけではなかった。
画面の中の姫は、またパンを口へ運んで嬉しそうに笑っている。会ったら、何を話そう。私はその顔を眺めながら、メモへ自己紹介の一行を書き始めた。