TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
久遠からの返事が届いたのは、その日の夜だった。夕食を終えた私は、自室のテーブルでスマホを手に取る。通知に名前を見つけただけで、椅子の上で背筋が伸びた。
通話はオンラインで構わないし、こちらの同席者も歓迎するという。話したいのは、現在の活動と、これからやってみたいこと。それから、AMAGI LIVEで活動することへの関心について。ただし、その場で所属を決めてもらうための面談ではない、とも書かれていた。
制作については、差し支えない範囲で聞ければ嬉しいという言い方に留まっている。私はそこを読み返し、少しだけ息を吐いた。いきなり映像の秘密を説明しろという話ではなさそうだ。
そして、最後の提案で指が止まる。デビュー準備中の琴坂美緒という人と、希望があれば通話の後半で短い顔合わせを設けたいという。
「……顔合わせ?」
思わず呟いてから、先へ進めていた指を戻した。会社の人と話すだけでも緊張するのに、これからデビューする人まで。胸が弾むのと同じくらい、急に落ち着かなくなった。
私はリゼットに頼んで、エサソンへ相談の時間を取れるか確かめてもらった。やがて彼が訪れると、スマホを差し出したい気持ちをこらえ、まず席へ着くのを待つ。
「久遠から返事が来たわ。オンラインでいいそうよ。あなたの同席も。それと、もう一人、顔合わせをしないかって」
「順に拝見しましょう」
エサソンは画面を読み、最後の段落まで確かめてからスマホを返した。私はその間、膝の上で組んだ指をほどいたり、握り直したりしていた。
「先方の参加者は、久遠という方と、担当の柚木という方ですね。琴坂という方は、姫様が望まれる場合に、後半の顔合わせへ参加する。最初から全員で話すということではないようです」
「ええ。顔合わせを断っても、面談はできると書いてあるわ」
「では、別々に考えればよろしいでしょう。お話を聞くことと、その方に会うことを、一度に決める必要はありません」
そう言われて、肩の力が少し抜けた。画面に並んでいると、全部まとめて受けなければいけないような気がしてしまう。相手はきちんと分けて書いてくれているのに、勝手に慌てていたらしい。
「ただ、琴坂さんって、どんな人なのかしら。まだデビューしていないなら、配信を見て確かめることもできないわよね」
「分かるのは、先方の事務所で活動の準備をしているということまでです。姫様と気が合うかどうかは、話してみなければ分からないでしょう」
「私が入ったら、同期になるかもしれないのよね」
「可能性はありますが、所属も、デビューの時期も、まだ決まっておりません」
分かっている。けれど、同期という言葉だけで、つい先のことを想像してしまう。男だった頃、何気なく見ていた新人たちの初コラボ。あの輪の中に、私も入れるかもしれないのだ。
同時に、そちらへ気持ちが走るほど、置き去りにしてはいけないものも浮かんだ。私はただ、憧れの事務所へ入りたいだけで、この話を進めているわけではない。
「活動を続けられるかも、ちゃんと聞かないとね。事務所に入ったら、決まった時間に配信しなければいけないのかとか、撮影する場所を指定されるのかとか」
「ええ。移転の準備もあります。姫様の望む活動と、先方が求める活動が両立するかを確かめる場にすべきでしょう」
「日本との交流につなげたい、という話まで、最初からするつもりはないわ。ただ、何でも自由にできるわけではないことは、隠さないほうがいいと思う」
「事情をすべて明かす必要はありませんが、守れない約束はなさらないことです」
私はうなずき、メモへ『活動の頻度』『場所』『今の活動を続けられるか』と書き込んだ。憧れだけなら、全部お願いしますと言ってしまいたくなる。だからこそ、ここに書いておく必要があった。
「顔合わせは、受けたいわ。まだ仲間になると決まったわけではないけれど、どんなことをしたい人なのか、聞いてみたい」
「それでしたら、そのままお伝えすればよろしいかと。ただし、面談中に難しい話が出た場合は、顔合わせを別の機会にする余地も残しておきましょう」
「そうね。無理に一度で全部済ませなくてもいいのよね」
会ってみたいと言えるだけで、胸が少し軽くなった。相手がどんな人かも知らないのに、緊張するからと断ったら、あとできっと気になってしまう。
「通話の日時は、私たちの予定も確認してから返すわ。使うものと、接続の方法も教えてもらって、先に試しておきたい」
「その際、映像に何が入るかも確かめましょう。話す内容だけ気をつけても、背後に余計なものが映っては意味がありません」
「……まず、この部屋を背景にしていいか、からね」
私は窓辺と、壁際の家具を見回した。動画では異世界らしさを見せるために選んだ景色も、通話ではどこまで見せるか考えなければならない。エサソンが同席するなら、二人の声がきちんと届くかも試す必要がある。
スマホへ視線を戻し、私は返事の下書きを開いた。面談で話す内容を知らせてくれたお礼と、琴坂さんとも会ってみたいという気持ちを、まず書く。日時と接続方法は相談したい、と続けた。
同期になるかもしれない人。まだ、そのくらいの距離でいい。画面の向こうにいる誰かを、いきなり仲間と呼ばず、かといって遠ざけもせずに、まずは言葉を交わしてみよう。
私は下書きをエサソンへ見せた。今度は、送る前から何度も大丈夫かと尋ねるのではなく、自分が何を望んでいるかを、きちんと伝えられたか確かめるために。
「顔合わせを希望することも、日時は相談したいことも伝わっております。これでよろしいでしょう」
「じゃあ、送るわね」
私は文面を返信欄へ移し、最後に宛先を確かめて送信した。今度は指が止まらなかった。話を聞きたい。琴坂さんにも会ってみたい。自分で決めたことなのだから、そこまでエサソンに背負わせる必要はない。
送られた文章を眺めていると、背後から控えめな咳払いが聞こえた。振り向けば、リゼットが寝間着を腕に掛け、穏やかな顔で立っている。穏やかすぎて、かえって嫌な予感がした。
「ルミィ様。お話がまとまりましたら、そろそろお休みの支度をいたしましょう」
「もうそんな時間?」
「はい。お返事を待ちながら夜更かしなさるおつもりでしたら、先に申し上げておきます。明日の朝、眠いと仰っても授業はなくなりませんよ」
まだ何も言っていないのに、考えていたことを見抜かれた。私はスマホを伏せ、仕方なく椅子から降りる。
「それでは、私も失礼いたします。先方から候補日時が届きましたら、明日、予定を照らし合わせましょう」
「うん。ありがとう、エサソン」
見送るため顔を上げると、彼は眼鏡の位置を直して小さくうなずいた。扉が閉じたあとも、気持ちだけはまだテーブルのスマホへ戻ろうとする。リゼットに手を取られて、ようやく私は足を動かした。
寝る前に一度だけ通知を確かめたが、新しい返事は届いていなかった。相手にも都合がある。当然のことなのに、少しがっかりしてしまう。私は充電につないだスマホを小机へ置き、布団を引き上げた。
琴坂さんは、どんな声で話すのだろう。そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、朝食を終えてから画面を開くと、久遠から新しいメッセージが届いていた。顔合わせを希望したことへのお礼と、通話の候補日時。それから、接続に使う会議サービスの案内が並んでいる。
候補は幾つかあった。その中に、明後日の午後がある。私は昼食の時間と授業を思い浮かべ、その時間なら落ち着いて話せそうだと考えた。だが、自分の都合だけで選ぶわけにはいかない。
授業に来たエサソンへ画面を見せると、彼は手帳を開いて予定を確かめた。
「明後日の十四時でしたら、私も同席できます。移転に関わる用事とも重なっておりません」
「じゃあ、この時間でお願いしたいわ。日本の十四時、よね」
「はい。先方も日本時間と明記しております」
私はメモへ、明後日、十四時、と書いた。向こうの日時に合わせて約束すること自体は、男だった頃にもしていたはずだ。それなのに、今は予定が一つ入っただけで、妙に胸が高鳴る。
「顔合わせも、その時間に琴坂さんが参加できるそうよ」
「では、まずは面談、双方に支障がなければ後半に顔合わせですね。時間を延ばしてまで無理に話す必要はありません」
「分かっているわ。……でも、楽しみではあるのよ」
エサソンは手帳を閉じた。期待するなとは言わず、私のメモへ目を向ける。
「楽しみにされるのでしたら、当日、接続できませんでしたということにならぬよう、準備をいたしましょう」
「そこは、ちょっと現実に戻すのね」
私は苦笑しながら、希望する日時を久遠へ返信した。接続方法を先に確かめ、使い方で分からないことがあれば連絡する旨も添える。返事を送ると、明後日という言葉が急に近く感じられた。
次は、通話の準備だ。スマホの小さな画面を二人で覗き込み続けるより、ノートパソコンを使ったほうが話しやすい。カメラに映る範囲も、声の届き方も、実際に座って確かめよう。
「午後、撮影に使っている機材を出して、試してみたいわ。リゼットにも、映り込みを見てもらえるか聞いておく」
「承知しました。ただし、その前に本日の授業です」
私は口を開きかけ、そのまま閉じた。面談の準備があるから授業は休み、とはならないらしい。スマホを脇へ置いて教材を引き寄せると、エサソンが満足げにうなずく。
国家再建も、ライバーへの第一歩も、まずは先生の授業を終えてから。私は明後日の予定をもう一度だけ眺め、今日の課題へ向き直った。
◇ ◇ ◇
希望日時への了承を送り、接続の案内を済ませて迎えた通話当日。天城エンタテインメントの小会議室で、久遠灯はノートパソコンの画面を見つめていた。隣では柚木が音声を確認し、後半に参加する予定の琴坂には、こちらから連絡するまで待ってもらっている。
「入室の通知、来ました」
「お願い」
柚木が操作すると、画面の向こうに白と若草色が広がった。椅子にちょこんと座る銀髪の少女。その姿を認めた瞬間、灯は準備していた挨拶を忘れかけた。
小さな卵形の顔に、柔らかく丸い頬。明るい象牙色の肌には薄く血色が透け、淡い藤紫の瞳がこちらを見ている。白に近い銀髪は片側を細く編まれ、顔を傾けるたび、頬の脇の後れ毛がわずかに揺れた。髪の間から覗く葉形の耳も、動画で見たとおりだ。
白い丸襟と、袖を飾る細い蔦の刺繍。大きな宝石や王冠はない。それでも、背筋を伸ばし、小さな両手をそろえているだけで、姫という言葉がしっくりくる。
「こんにちは。ルミナ・エルシア・エルフィネです。今日は、お時間をいただきありがとうございます」
澄んだ声に合わせ、唇が動いた。丁寧に頭を下げて顔を上げると、口元に少し緊張した笑みが浮かぶ。完成された人形のようだった顔が、その一瞬で幼い子供の顔になった。
「こちらこそ、ありがとうございます。AMAGI LIVEの久遠です。隣が、担当マネージャーの柚木です」
「柚木です。よろしくお願いします。声は問題なく聞こえていますか?」
「はい、よく聞こえています。こちらの声も大丈夫ですか?」
「ええ、きちんと届いています」
受け答えは自然だった。だが、灯の頭には別の疑問が渦巻いている。オンラインを希望したとはいえ、面談にもアバターで参加するとは思っていなかった。銀髪に尖った耳を持つ少女が本人の姿だという可能性は、彼女の頭には浮かびもしない。顔を出さない活動者なら、不自然な選択ではない。問題は、アバターだと疑わずに見ているその姿が、あまりにも精巧なことだった。
昨日まで見ていた動画と、まるで変わらない。圧縮による細かなにじみはあっても、髪が肩に触れたときの動きや、襟元の布の寄り方が損なわれていない。しかも今、こちらの質問に返事をしている。
「……あの、最初に一つだけ、確認してもよろしいでしょうか」
「はい?」
「今日は、動画に出ていたお姿のままでご参加なのですね」
少女がわずかに首を傾げた。耳先も、ほんの少し上を向く。その細かな反応に、灯はまた目を奪われた。
「ええ。この姿では、何か問題がありましたか?」
「いえ。お顔を出していただきたいという意味ではありません。予想していたより、ずっと動画そのままだったので」
説明しながら、灯は自分が何を驚いているのかを整理した。彼女にとって、画面に映る少女がアバターであることは、確かめるまでもない前提だった。驚いているのは、その姿で面談に来たことではない。この精巧さのまま、その場で動かせるのだとすれば――昨日考えていた制作体制の見積もりから、考え直さなければならない。
「念のため伺いますが、この映像は今のお姿を、そのままリアルタイムで送っていただいているのですよね。事前に用意した動画ではなく」
「はい。今、そちらの画面を見ながらお話ししています」
「でしたら、少しだけお付き合いいただけますか。右手で指を二本立ててから、その手を横へ向けていただけますでしょうか」
言ったあとで、灯は気まずくなった。面談に招いておきながら、最初に頼むことがこれでは、相手も戸惑うだろう。それでも、用意された挨拶映像と音声だけが組み合わされている可能性を、自分の中で捨てきれなかった。
少女は一度、自分の右手へ目を落とした。小さな指を二本立て、カメラに見せてから手首を返す。親指の下で肌がわずかにたわみ、指の間へ落ちる影まで自然に変わった。
「こう、ですか?」
「はい。ありがとうございます。もう下ろしていただいて大丈夫です」
頼んだ順序で動き、直後の言葉にも応じた。少なくとも、決まった映像を流しているだけでは説明がつかない。灯は膝の上で、そっと指を握った。
手を戻した拍子に袖口がテーブルへ触れ、布が小さく折れた。少女は気にするでもなく両手を重ねる。動画のために作り込まれた一場面ではない、何気ない動作。それさえ、見ている限り破綻しなかった。
「ルミナさん、すみません。こちらが少し驚いてしまって」
柚木が笑みを添えて間へ入った。灯が画面ばかり見つめていたことに気づいたのだろう。
「最初のお願いが指の体操になってしまいましたね。手を振ってください、くらいにしておけばよかったです」
「いえ……通話が初めてなので、私が何か間違えたのかと思って」
少し困ったような笑みとともに、丸い頬へ赤みが差した。さっきまで立ち気味だった耳が、わずかに落ち着く。顔の表情にただ追従するだけではない動きまで付いているのか。灯は問いかけたい気持ちを、どうにか飲み込んだ。
「間違っていません。こちらの確認です。お付き合いいただいて、ありがとうございました」
灯ははっきり伝えた。技術の話で時間を埋めない。昨日、自分たちで決めたことを、もう忘れかけていた。
今起きているのは、動画と遜色のない姿が、その場の会話に合わせて動いているという事実だ。灯はそれをリアルタイム描画の結果と受け取っていたが、実際に確かめたのは、相手が即座に応答し、頼んだ動作をしたことだけだった。アバターだという前提そのものを、彼女は一度も問い直していない。
それでも、録画なら膨大な時間をかけられる、という逃げ道は消えた。灯は呼吸を整え、技術について書いていたメモを裏返す。
「それでは、改めて。今日はまず、ルミナさんがこれからどんな活動をしてみたいか、お聞かせいただけますか」
「まずは、動画を続けたいです。食事だけではなくて、私の暮らしている場所や、身の回りのことも、少しずつお見せできたらと思っています」
少女は手元へ視線を落とし、それからカメラを見直した。さっきまでの戸惑いは残っているものの、今度は答えを探しているというより、考えてきたことを言葉にしているようだった。
「こちらでは当たり前のことでも、日本の方には珍しいかもしれませんし。反対に、私が日本のものを知って驚くところも、見ていただけたら」
「今の昼食動画のように、日常を見せる活動ですね」
「はい。ただ、ずっと見ていただくだけではなく、見てくださる方とも話してみたいです。コメントを読んで、質問に答えたり、教えてもらったり」
「生配信も考えている、ということですか?」
「ええ。今日、こうして話せるのが分かったので……やってみたい気持ちは、前より強くなりました」
最後の一言で、少女の表情が少し明るくなった。灯はメモへ『日常の動画・雑談』と書く。映像の精巧さより先に、その内容を尋ねてよかったと思った。
「たとえば、コメントでどんなことを聞いてみたいですか?」
柚木が問いを添える。少女は少し考え、口元を緩めた。
「おすすめの食べ物、でしょうか。私の知らないものが、まだたくさんありそうなので」
「お姫様への献上品募集ですね」
「いえ、送っていただくということではなくて。名前を教えていただいて、自分で買えるものなら……」
真面目に訂正しかけた少女が、柚木の笑みに気づいて言葉を止めた。丸い頬がわずかに膨らむ。
「……からかっています?」
「少しだけ。でも、その話は聞いてみたいですね。教えたものを次の動画で食べてくれたら、コメントした方も嬉しいと思います」
「それなら、動画と配信をつなげられますね」
少女はうなずいた。受け答えの間に見える素直な反応は、録画で見た昼食の笑顔と地続きだった。灯は企画名を書きかけ、やめる。まずは本人の希望を最後まで聞くべきだ。
「ほかの方と一緒に話したり、何かを教わったりする配信も、やってみたいです。一人では気づかないことがありそうですから」
「コラボレーションにも関心があるのですね。ゲーム配信はどうでしょう?」
「興味はあります。ただ、今は何をどこまでできるか、まだ分かりません。ゲームができなければ配信することがない、という形にはしたくないです」
灯はうなずいた。自社ハードの制約を説明する前に、相手からその考えが出た。都合がよいからと、そのまま話を進めてはいけない。ゲームに頼らない活動を望むことと、選べるゲームを制限されてもよいことは違う。
「そこは、こちらの活動条件もきちんとご説明します。今のお話なら、動画や雑談を軸にすることは考えられますが、所属後にどこまで自由にできるかは、具体的に確認していきましょう」
「はい。それと、配信の頻度や、撮影する場所についても伺いたいです。今の活動以外にも用事があって、毎日、決まった時間にできるとは限らないので」
遠慮がちだった声が、そこで少し慎重になった。灯はすぐに可否を答えず、手元のメモへ項目を加える。
「毎日できると約束していただく必要はありません。どのくらいの時間を取れそうか、無理のない予定を相談しましょう。場所についても、来社が必要な企画と、ご自宅からできる活動を分けてお伝えします」
「今の動画を続けられるかも、知りたいです。私のことを知ってくださった方と、また同じ場所でお会いしたいので」
「これまでの活動を、急に全部やめてほしいというお話ではありません。ただ、使うアカウントや公開する内容は、所属する場合には一緒に整理することになります」
少女の肩から、わずかに力が抜けた。入りたいと言わせるより先に、続けたいことを聞く。灯はその順序を忘れないよう、丸を付けた。
「ルミナさんにとって、活動を通じて一番実現したいことは何でしょう?」
柚木が尋ねると、少女はすぐには答えなかった。視線が一度、画面の外へ向く。それから戻ってきた瞳には、食べ物の話をしていたときとは違う落ち着きがあった。
「私のいる場所を、ただ珍しい景色として見て終わりにしてほしくないです。ここで暮らす人や、作っているものにも、興味を持っていただけたら嬉しいです」
「ご自身だけでなく、周りの方のことも伝えたい、と」
「はい。まずは私を見て笑っていただければ、それでいいと思います。でも、いつかは、私の向こう側にも目を向けてもらいたいです」
灯はペンを止めた。異世界の姫という設定を広げたい、と受け取ることはできる。だが、少女の口調には、世界観の説明だけでは片づけにくい真剣さがあった。
その理由を、今すぐ決めつける必要はない。灯は書きかけていた『キャラクター』の横に、『伝えたい暮らし』と加えた。
「分かりました。では、その希望を大切にしながら、こちらでどんなお手伝いができるか、お話しさせてください」
画面の向こうで、少女が小さくうなずいた。灯は事務所の案内を手元へ引き寄せる。ようやく、驚くためではなく、話をするための面談が始まった気がした。
「まず、ゲーム配信には制約があります。うちでは、AMAGI LINK VERSEのタイトルに限っていただいています。他社のゲーム機や、パソコンでのゲーム配信はできません」
「同じゲームでも、ですか?」
「はい。複数の機種で発売されている作品でも、配信に使えるのは、うちの機種の版です」
灯はそこで言葉を切った。魅力的な支援内容を並べてから、小さく添える条件ではない。少女が考える時間を取れるよう、画面の反応を待った。
「遊びたいゲームが、そちらの機種に出ていなければ、配信では遊べないのですね」
「そうです。対応している作品が少ないことも、正直に申し上げます。ゲーム中心で活動したい方には、大きな制約になります」
「……なるほど。動画や雑談まで、ゲームに関係する内容にしなければいけない、ということではないですよね?」
「そこは違います。歌や雑談、ゲーム以外の企画も活動の柱にできます。ルミナさんの日常を見せる動画についても、具体的な内容を伺いながら相談したいと思っています」
少女は一度うなずいたが、すぐに承諾の言葉は口にしなかった。灯は案内の頁をめくる。聞いてもらえていることと、条件を受け入れてもらえたことを混同しないように。
「では、支援していただけるのは、どのようなことですか?」
「日々の企画や準備は、僕たちマネージャーが一緒に考えます」
柚木が手元の資料を寄せた。灯が契約条件を説明する間は黙って聞き、実際の活動の話になってから口を開く。その切り替えは、いつもより慎重だった。
「何をしたいかを聞いて、準備するものや、手伝いが必要なところを整理します。動画の見せ方、配信の進め方、ほかの方との企画の調整ですね。全部、本人が一人で連絡して段取りを組む必要はありません」
「企画を全部決めていただくのではなく、一緒に考えるということですか?」
「はい。食べたいものまで僕が指定したら、ルミナさんの昼食じゃなくて、僕の買い物リストになってしまいますから」
少女の口元が緩んだ。柚木も笑い、それから話を戻す。
「ただ、公開前に確認が必要な内容もあります。ほかの方の作品を使うときや、企業の商品を紹介するお仕事などですね。判断に迷うものは、先に相談していただければ」
「窓口も事務所で受けます。仕事の依頼を整理し、条件を確認してから、ご本人の意向を伺います」
灯が引き継いだ。少女は画面の外へ短く目を向け、またこちらを見る。相談相手がそばにいるのだろう。返答を急かすことはせず、灯は続けた。
「制作面も、必要な支援を相談できます。ただ、今お使いの映像の仕組みが分からないので、こちらの設備へそのままつなげられるとは、まだお約束できません」
「今の撮影方法を、必ず変えなければならないのではないのですね」
「ええ。今の良さを残すためにも、何が必要で、何を変えなくてよいかを先に確かめたいです。機材や制作作業についても、支援できる範囲と費用の扱いを、具体的にご説明します」
灯は、モデルのデータを見せてほしいという言葉を飲み込んだ。今日は活動についての相談だ。制作側との協力が必要なら、改めて相手と範囲を確かめればいい。
「配信の回数については、今取れる時間を伺って、予定を組むことになります。来社が必要な収録や企画も、事前に調整します。いつでも呼べば来られる、という前提では進めません」
「少し先に、暮らす場所を移す予定があります。今と同じように配信できるか、確かめる時間も必要なのですけど」
「でしたら、まず環境が落ち着くまでにできることと、その後の活動を分けて考えましょう。デビューの日を先に決めてから、間に合わせてください、とはしたくないですね」
柚木が答えると、少女はほっとしたように息をついた。灯は、四期生として並べたい気持ちだけで時期を押しつけないよう、予定欄へ『移転後の環境確認』と記した。
「収益や、名前の扱いについても、伺ってよろしいですか?」
「もちろんです。収益の分配、制作費の負担、現在の名前やアカウントをどう扱うか、契約期間と終了時の取り扱い。そのあたりは、書面で確認していただく必要があります」
「今日、全部決めなくてもよいのですよね」
「はい。内容をお持ち帰りいただき、同席されている方とも相談してください。不明な点は、その後で一つずつお答えします」
少女がゆっくりとうなずく。その姿を見て、灯は資料を少し脇へ寄せた。説明したいことはまだあるが、こちらが話し続けるだけでは、相手の疑問を拾えない。
「支援がある分、ご相談いただくことや、守っていただく取り決めも増えます。個人での活動より、何でも自由というわけではありません。そのうえで、一緒に活動したいと思えるかを考えていただきたいです」
「ありがとうございます。手伝っていただけることだけでなく、できなくなることも聞けてよかったです」
「入ってから、こんなはずじゃなかった、では困りますからね。僕らも」
柚木が肩をすくめると、少女は小さく笑った。灯も笑みを返す。必要なのは、都合のよい返事を引き出すことではない。続けたい活動を、双方が無理なく支えられるかを確かめることだった。
「では、今のお話で、もう少し詳しく聞いておきたいところはありますか?」
「はい。動画に、ほかの人が出る場合も、毎回そちらへ相談することになりますか?」
「どのような出演かによります。継続して出演される方なら、先に役割と公開する範囲を整理できます。ただ、ご本人が映ることを了承しているかは、必ず確かめたいですね」
「顔を出さず、手だけ映る場合でも?」
「はい。声や、画面に入る持ち物から分かることもありますから。本人は手だけのつもりだったのに、ということにならないように」
少女が納得したようにうなずいた。昼食動画に映っていた手袋を、灯は思い出す。あの手を添える人にも、活動を続けるかどうか選ぶ意思がある。その確認は、映像の出来とは別の話だった。
「それと、紹介するものを、こちらで選ぶことはできますか。暮らしている場所で作られたものなどを、お見せしたいのですが」
「内容を伺って相談できます。ただ、見ていただくための紹介と、販売や広告としての紹介は分けましょう。お金をいただく仕事なら、そのことを視聴者にも分かるようにする必要があります」
「売る話まで進めるときは、別に相談するということですね」
「ええ。動画に出したから、すぐ事務所で売れるというお約束ではありません。何を、誰が、どのように扱うかを確かめてからです」
少女は手元に何かを書き留めた。灯は、これまでの返答が単なる相づちではなかったことを感じる。本人が続けたい活動に、条件を一つずつ当てはめているのだ。
「もう一人、私の活動を手伝ってくれている者からも、質問してよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ」
少女が隣へ顔を向けた。画面の端から白髪に縁なし眼鏡の男が身を寄せ、軽く頭を下げる。一本目の動画に映っていた人物だ。灯は一瞬だけ、こちらも同じ品質なのかと目を奪われ、すぐに挨拶へ意識を戻した。
「エサソン・ローレグと申します。ルミナの予定や、活動に必要な物の手配を手伝っております」
「久遠です。ご同席ありがとうございます」
「柚木です。よろしくお願いします」
「先ほど、制作費の負担を確認すると仰いました。事務所で負担する費用と、本人が負担する費用は、契約の前に分けて示していただけるのでしょうか」
穏やかな声だったが、問いの焦点は明確だった。灯は案内をいったん閉じ、男の顔を見る。
「はい。少なくとも、何に費用がかかり、誰が負担するのか、本人側の収益から差し引くものがあるかは、分かる形でお示しします。今日は個別の制作内容まで決まっていませんので、具体的な金額は改めてになります」
「追加の支出が必要になった際も、実施する前に相談していただきたい。支援を受けたつもりが、後から負担だけ増えることは避けたいので」
「承知しました。その確認方法も含め、書面でご相談しましょう」
灯は質問事項を余白へ加えた。支援しますという言葉だけでは、この男は納得しないらしい。もっとも、何を支えるか曖昧なまま期待させるほうが、あとで困るのはこちらだった。
「契約が終わった場合についても伺います。今使っている名前や、これまで公開した動画は、本人が引き続き使えるのでしょうか」
「現在お持ちのものと、所属後に共同で作るものは分けて確認します。名前、アカウント、動画、それぞれについて、権利と利用できる範囲を整理する必要があります」
「つまり、全部同じ扱いにはならないと」
「はい。ここで一括して、すべて自由に使えますとは申し上げられません。終了時に何が残り、何が使えなくなるのかも、契約前に確認していただきます」
「私の名前なのに、私が使えなくなることもあるのですか?」
少女の声が少し強くなった。重ねていた両手が離れ、男へ視線が向く。灯はすぐに言葉を補った。
「今の名前を取り上げる、という話ではありません。何を事務所の活動に使い、どこまで利用を認めるかを、曖昧にしないための確認です。大切な名前だというご希望も、きちんと伺っておきます」
「……はい。今の名前で、活動を続けたいです。それは、先にお伝えしておきたいです」
「分かりました。名前を変える前提では進めません」
少女はまだ少し硬い表情のまま、うなずいた。異世界の姫という名乗りを、単なる売り文句のように扱ってはいけない。灯はそのことを、もう一度自分に言い聞かせた。
「活動が一時的に難しくなった場合は、どうなりますか。移転に伴う通信の不具合など、予定どおりにできないことも考えられます」
「分かった時点で、まず僕たちへ連絡してください。企画を延期するのか、別の内容にするのか、視聴者へどう知らせるのかを一緒に考えます」
「連絡そのものが取れなくなる場合もあります。その際の対応や、休止が長引いた場合の扱いは、事前に決めておく必要があるでしょう」
「ええ。その点は契約にも関わりますので、私から確認してお返事します。どんな事情でも問題ないとは言えませんが、毎回その場の判断だけで処理するのは避けたいです」
灯が答えると、男は小さく頭を下げた。少女だけを相手にしていたときより、会議らしい空気になっている。柚木は手元のメモを見直し、少しだけ笑った。
「今日は質問を全部片づけるより、宿題を取りこぼさず持ち帰る日になりそうですね」
「曖昧な答えで片づけられるより、そのほうが助かります」
「では、費用と権利、休止時の扱いを分けた資料をお送りします。読んでいただいてから、もう一度ご相談する形でよろしいでしょうか」
「はい。エサソンと一緒に、確かめたいです」
少女の表情がようやく和らいだ。灯は採用欄へ印を付ける代わりに、次に送る資料の項目を囲んだ。話が進むとは、必ずしも、その場で承諾をもらうことではない。お互いが何を気にしているか分かっただけでも、今日は十分な前進だった。
「では、条件のお話はいったんここまでにしましょう。このあと、予定していた琴坂さんとの顔合わせに移ってもよろしいですか?」
「はい。お願いします」
それまで画面へ身を寄せていたエサソンが、軽く会釈して少女の隣へ退いた。柚木は待機している琴坂へ連絡を入れる。ほどなく参加の通知が現れ、灯は新たな参加者を通話へ迎えた。
画面が切り替わり、長い黒髪の女性が映る。自室からつないでいる琴坂美緒は、カメラへ目を向け、口を開きかけたまま止まった。
「琴坂さん、聞こえますか?」
「……はい。聞こえております」
柚木の呼びかけに答えてからも、琴坂の視線は画面の一角へ吸い寄せられていた。動画で見た少女が、こちらを見ながら小さく首を傾げている。灯には、彼女が何に驚いているのか、説明されなくても分かった。
「ルミナさん、こちらが琴坂美緒さんです。今、デビューに向けた準備を進めている方です。琴坂さん、こちらはルミナさん。活動のお話を伺っていたところです」
「はじめまして。ルミナ・エルシア・エルフィネです。今日は、お時間を取っていただいてありがとうございます」
少女が背筋を伸ばして挨拶した。銀髪が肩からさらりと落ち、琴坂が一拍遅れて頭を下げる。
「はじめまして、琴坂美緒と申します。こちらこそ、お話しできて嬉しいです。動画を拝見していたので……少し、見入ってしまいました。失礼いたしました」
「いえ。私も、どんな方なのか楽しみにしていました」
「そう言っていただくと、用意した自己紹介の難易度が上がりますね」
琴坂の口元に、小さな笑みが浮かんだ。少女が瞬きをする。その反応を見て、琴坂は肩から少し力を抜いた。
「歌うことが好きです。配信でも、歌やお話を中心にできればと考えています。ゲームもするのですが、上手さを期待していただくと、たぶんお互いに傷つきます」
「それは……私も、同じかもしれません」
「では、勝負をするときは安心ですね」
「いえ、私を基準にして安心されるのは、少し危ないと思います」
柚木が口元へ手を当てた。灯も思わず笑う。面談では慎重に言葉を選んでいた少女が、今は困ったような笑みを浮かべている。琴坂の冗談は、相手へ返事を求めながらも、答えを急かしてはいなかった。
「琴坂さんは、私の動画を、いつご覧になったのですか?」
「合格のご連絡をいただいたあとです。同じ頃に活動を始める方が気になって、新人の方を探していました。そのときに」
「そうだったんですね。……どうでしたか?」
少女がわずかに身を乗り出した。琴坂は一度視線を落とし、すぐにカメラへ戻す。
「正直に申し上げると、困りました」
「困った?」
「これから頑張ろうと思っていたところへ、あんな動画が流れてきたので。私の自己紹介まで、お食事動画の後ろに並べられたらどうしようかと」
少女の目が丸くなった。琴坂の声は柔らかいままだったが、灯には、その冗談がまるきり嘘ではないことが分かった。
「私、ご飯を食べていただけなのですが……」
「だから困るんです。ご飯を食べるだけで、続きを見たくさせるんですから」
「……ありがとうございます。褒めていただいた、でいいんですよね?」
「はい。少しだけ、悔しさも混ざっていますけれど」
少女がようやく笑った。取り繕って否定することも、大げさに謙遜することもせず、嬉しそうに頬を緩める。その顔を見て、琴坂も笑みを深めた。
「でも、こうしてお話しできると伺って、嬉しかったです。もし同じ場所で活動することになったら、どんな方なのか、先に知っておきたかったので」
「私もです。まだ、こちらで活動するかは決められていませんけれど、誰かと一緒に何かをするのは、楽しそうだと思っています」
「ええ。今日は、その何かを決めるところまで頑張らなくて大丈夫です。まずは顔と名前を覚えていただければ」
「顔は、もう覚えました」
「私もです。そちらは、忘れようとしても難しそうですけれど」
琴坂が冗談めかして言うと、少女は自分の頬へ触れた。灯はその仕草を眺めながら、琴坂が技術の話に踏み込まないことに気づいた。驚きはした。それでも今、彼女が話しているのは、画面の向こうで返事をする相手についてだった。
「それでは、ルミナさんは、どんなことを一緒にしてみたいですか? 約束ではなく、もしものお話として」
「食べ物のお話、でしょうか。琴坂さんのお好きなものを教えていただいて、私が食べてみるとか」
「お好きなものではなく、おいしそうに食べる姿を見たいものでもよろしいですか?」
「……今、少しだけ、嫌な予感がしました」
「ご安心ください。まずは普通のお菓子からにいたします」
「まずは、という言葉が安心できないのですが」
今度は柚木が声を出して笑った。琴坂も笑い、少女は困った顔のまま、口元だけを緩める。会議室の空気から、条件を確かめ合っていたときの硬さが薄れていった。
「では、私からも一つ。琴坂さんの歌を、いつか聴かせていただけますか?」
琴坂の笑みが、ほんの少し変わった。からかう言葉を選ぶときとは違う、照れを含んだ顔だった。
「はい。そう言っていただけるのは、とても嬉しいです。お聴かせできるように、準備しておきます」
「楽しみにしています」
少女はまっすぐに答えた。灯は二人を見比べ、次の話題を挟もうとしていた口を閉じる。少し前まで技術の出来に目を奪われていた自分が、今は、琴坂がどんな菓子を選び、ルミナがどんな顔をするかを想像していた。
同期と呼ぶには、まだ早い。コラボの予定も、何一つ決まっていない。それでも、画面の向こうの相手に、次に聞いてみたいことはできたらしい。灯が資料の脇へ置いたペンから手を離すと、柚木が二人の会話へ軽く身を乗り出した。
「お菓子の食べ比べなら、いつかオフコラボもしてみたいですね。同じ机に並べて、琴坂さんがルミナさんへ一つずつ渡すような」
「渡す前に、私が食べてしまわないように気をつけます」
「そこは、気をつけていただけると助かります」
少女が真顔で返し、琴坂が笑った。柚木はつられて笑ってから、あくまで将来の企画案だと付け加える。
「オンラインでもできますが、同じ場所にいると、相手の皿を覗いたり、交換したりできますから。反応を拾いやすいんです」
「そちらのスタジオへ行って、一緒に配信するということですよね」
「はい。ただ、今のお姿をこちらでどう撮るかは、別に相談が必要です。今の映像を、そのままスタジオの機材で扱えるかも分かりませんので」
灯は画面の少女へ目を向けた。こちらが思い描いているのは、二人が同じカメラに収まり、同じ品を手にする光景だ。少女の映像だけを合成しても、実物の菓子を受け渡すところまでは解決しない。彼女がアバターではなく本人の身体を映している可能性は、相変わらず灯の頭になかった。
「同じ場所で、物を受け取れるといいのですね」
「ええ。隣の人と手渡しできて、その様子を一台のカメラで撮れると、今回の企画は分かりやすいです。もちろん、それができなければコラボできない、という話ではありません」
少女はすぐには答えなかった。自分の手を見下ろし、指をゆっくりと開く。隣のエサソンへ顔を向けたあと、もう一度カメラを見る。
「少しだけ、こちらで相談してもよろしいでしょうか。今のお話で、考えてみたいことができました」
「どうぞ。急いで結論を出さなくて大丈夫です」
了承を得ると、少女はマイクを切った。琴坂は柚木へ、食べ比べなら甘いものと塩気のあるものを揃えたい、と話し始める。灯は二人の声を聞きながら、画面の向こうで交わされる相談が終わるのを待った。
マイクを切った私は、エサソンへ身を寄せた。ここからは帝国語だ。今思いついたことを、そのまま日本語で喋ってしまうわけにはいかない。
「ねえ。向こうが必要としているのは、映像じゃなくて、そこにいる身体なのかもしれない」
「同じ場所で物を受け渡したい、というお話でしたね」
「うん。だったら、アバターを画面に映す代わりに、アバターと同じ身体を作って、そちらを撮ればいいんじゃないかしら。ホムンクルスを使うような方向で、セリノアに考えてもらえない?」
姿を見せる部分と、動かす部分を分けて考える。セリノアとの遠話で整理したことが、別の形でつながり始めていた。映像の中だけで動く必要はない。日本に実体があれば、琴坂さんから渡されたお菓子を、その手で受け取れる。
「ホムンクルスの制作が可能だとしても、命令どおりに動かすだけでは、配信する本人の代わりにはならないでしょう」
「だから、本人の意識をリンクさせるの。自分の手を動かすように、ホムンクルスの手を動かして、自分の声で喋る。向こうで見たものや聞いたものも、本人へ戻ってこないと困るけれど」
「意識そのものを移すのですか。それとも、本人は元の身体に残したまま、感覚と操作だけをつなぐのですか?」
その問いに、勢いづいていた思考が一度止まる。確かに、意識をつなぐと言うだけでは曖昧すぎた。元の身体をどうするかも、安全に戻れるかも、何一つ考えられていない。
「そこは、まだ決められない。今は、本人の意思で動かせる身体を用意する、という草案までね」
「承知しました。ただ、日本の方々が使うのであれば、魔法を扱えない者にも接続できる必要があります。その身体を日本で維持できるかも含め、セリノアへ確認しましょう」
「うん。それで、身体が実際にそこにあるなら、最後は普通のカメラとマイクで撮るだけ。リアル配信と同じように」
私は手元へ三つ、短く書き留めた。アバターと同じ姿のホムンクルスを作る。本人の意識をリンクさせて操る。その身体を、リアル配信と同じように撮影する。
並べてみれば簡単そうなのに、一つ目から実現できるか分からない。まして、二つ目は使う人の安全に関わる。これは完成した技術の説明ではなく、セリノアへ持っていく研究の宿題だった。
「……お菓子を受け取るために、ずいぶん大きな話になったわね」
「姫様が今のお話を先方へ売り込まれなければ、まだ宿題で済みます」
「分かってる。できるとは言わないわ」
念を押すエサソンへうなずき、私はマイクを戻した。琴坂さんが話を止め、こちらへ笑みを向ける。
「お待たせしました。そちらのスタジオで撮影することについて、一つ、考えてみたいことができました」
「どのような案でしょう?」
久遠さんの問いに、私はメモへ目を落とした。身体を作ることも、意識をつなぐことも、まだ内輪で思いついただけだ。今は具体的な方法を告げず、実現したい撮影の形だけを伝えよう。
「私だけではなく、琴坂さんや、ほかのライバーの方も、それぞれの配信でのお姿のまま、そちらのスタジオで、私の動画と同じような撮影ができるかもしれません。お菓子を手に取ったり、隣の方とやり取りしたりするところを、自然に映せるような」
久遠さんの手が止まった。隣の柚木さんも、笑みを残したままこちらを見る。
「ルミナさんの動画のような表情や動きを、ほかのライバーの姿でも、こちらのスタジオで撮れる可能性がある、ということでしょうか?」
「はい。まだ可能性の話ですし、どうすれば実現できるかも、協力してくれる者と確かめてからになります。今のお話を聞いて、私がそちらで撮影するだけでなく、ほかの方にも使える方法を考えられないかと思ったんです」
「なるほど……。ほかのライバーにも使えるなら、食べ比べ以外の企画にもつながりそうですね」
久遠さんはメモを取りかけ、いったんペンを置いた。
「まず、こちらからはオフコラボでどんな撮影をしたいかを整理してお渡しします。具体的な方法は、検討が進んで、お話しいただける段階になってからで構いません。所属のお話とは分けましょう。今、実現すると約束していただく必要はありません」
「ありがとうございます。協力してくれる者と、確かめてみます」
「では、お菓子の候補だけは、私も考えておいてよろしいですか?」
琴坂さんがそっと口を挟んだ。その声に、難しい方向へ傾きかけていた空気が少し緩む。
「はい。できるかどうかに関係なく、教えていただけると嬉しいです」
「よかった。研究の成果が出るまで、お菓子を禁止されたらどうしようかと思いました」
「そこまで厳しい研究には、したくないです」
笑いながら答え、私はメモの三項目をもう一度見た。国家との交易へたどり着くには、まだ遠い。それでも、同じ机に座って何かを受け取るという、小さく具体的な光景が初めて浮かんだ。
実現できるかは、これからだ。けれど、セリノアへ何を相談したいのかは、遠話を終えたときよりも、ずっとはっきりしていた。
「では、本日はこのあたりにしましょうか。最後に、次に確認することを揃えておきますね」
久遠さんが手元のメモへ視線を落とした。私は新しい案を書きつけていた紙を脇へ置き、背筋を伸ばす。
「こちらからは、活動条件を確認する資料をお送りします。費用の負担と収益の扱い、名前や今のアカウント、公開済みの動画、契約が終わった場合の扱い。それから、移転中に連絡や活動が難しくなった場合の対応も、分けてご説明します」
「ありがとうございます。今日、その場では決められなかったところですね」
「はい。読んでいただいて、分かりにくいところや、ご希望に合わないところを教えてください。今日のお話だけで、所属を承諾されたとは受け取りません」
隣のエサソンが、小さくうなずいた。私もそれに続く。話を聞きたいという返事と、契約への返事を混ぜずにいてくれる。そのことに、改めてほっとした。
「撮影については、スタジオでどんなことをしたいかを、こちらでまとめます。ルミナさんの側では、協力される方と相談して、検討できそうかを確かめていただければと思います。具体的な方法を、今すぐお知らせいただく必要はありません」
「はい。ただ、移転の準備もありますので、お返事まで少しお時間をいただくかもしれません」
「承知しました。資料をお送りした際に、次にお話しする時期も相談しましょう。移転前後のご都合を伺ってからで構いません」
「資料についての質問は、私からお送りしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです、エサソンさん。ルミナさんのご意向も一緒に伺いながら進めたいと思っています」
エサソンが礼を述べる。久遠さんは確認を終えたように顔を上げ、柚木さんへ目を向けた。
「企画や準備の細かな相談は、僕も伺います。今日は思いついたことがいろいろ出ましたけど、全部、一度に宿題にしなくて大丈夫ですからね」
「お菓子の候補は、宿題に入りますか?」
「琴坂さん、それは急ぎません」
「承知しました。では、楽しみのほうに入れておきます」
私は思わず笑った。面談という言葉に身構えていたのに、終わるころには、次にどんなお菓子の名前を教えてもらえるのかが気になっている。
「今日は、お話しできて嬉しかったです。琴坂さんも、ありがとうございました」
「こちらこそ。またお話しできるのを楽しみにしております」
「私もです」
「では、資料の準備ができましたらご連絡します。本日はありがとうございました」
久遠さんへ礼を返し、私は通話を終えた。画面から三人の姿が消えた途端、それまで意識していなかった肩のこわばりに気づく。大きく息を吐いてから、エサソンと顔を見合わせた。
答えを出すのは、資料を読んでから。それでも、次に話す相手ができたことだけは、もう確かだった。
天城エンタテインメントの小会議室では、琴坂も挨拶をして通話を抜けた。接続終了の表示を確かめ、灯はノートパソコンから顔を上げる。隣で柚木が、ようやく背もたれへ身体を預けた。
「……お菓子の話で終わりましたね」
「あなたが食べ比べを提案したのでしょう」
「そうなんですけど。もう少し、無難な顔合わせになると思っていました」
柚木が机のメモを眺めた。費用、権利、休止、撮影。並んだ文字の端に、いつ書いたのか『甘い・しょっぱい』と小さく添えてある。灯はそこへ目を留め、笑った。
「無難ではなかったけれど、話しやすそうではあったわ」
「琴坂さん、遠慮して毒を薄めるのかと思ったら、普通に混ぜてましたね」
「ルミナさんも、きちんと返していたし」
「ええ。僕が間に入るより、お菓子を置いたほうが早そうです」
灯は笑みを残したまま、通話中の少女を思い返した。活動条件を確かめるときの慎重さと、歌を聴きたいと伝えるときの素直さ。画面で見ていた印象だけでは分からないものが、今日はいくつもあった。
「エサソンさんが費用の話を始めたときは、急に別の会議へ来た気がしたわね」
「あの方に『支援します』だけで済ませたら、次の質問がすぐ飛んできそうです」
「分かりやすい資料にしないと」
「はい。気持ちよく頷いてもらったあとで、読めないほど細かい文字を並べるのは、さすがに格好悪いですから」
柚木が身体を起こし、資料の準備についてメモを付け足した。灯も自分の紙へ目を落とす。そこで、撮影の項目を囲んだ線に、もう一度指を置いた。
「ほかのライバーも、あの動画のように撮れるかもしれない、か」
「気になります?」
「ならないわけがないでしょう」
「ですよね。久遠さん、あそこだけペンが止まってました」
見られていたらしい。灯は否定せず、ペンを指先で転がした。どんな仕組みなのか、何を用意すれば使えるのか。聞きたいことは山ほどある。だが、相手が述べたのは可能性でしかなく、こちらには確かめられる材料がまだない。
「でも、今の段階で、できる前提の企画を積み上げるのはやめましょう」
「了解です。まずは、普通にオフコラボで何をしたいかですね。できないことは、別のやり方を考える、と」
「ええ。技術の話が進まなくても、今日聞いた活動の希望まで消えるわけではないもの」
「お菓子も消えませんしね」
「そこへ戻すの?」
「今日いちばん具体的に話せたものなので」
灯は今度こそ声を出して笑った。大きな可能性の話をしていたはずなのに、手元に残ったのは、まず相手へ渡す資料と、同じ机で菓子を食べる企画だった。それくらいから始めるほうが、今はいい。
柚木がノートパソコンを閉じ、メモをまとめて立ち上がる。灯も書類を揃え、会議室の予約が終わる前に席を離れた。扉を閉める直前、柚木が振り返った。
「食べ比べの候補、琴坂さんが本当に送ってきたら、僕が受け取っておきますね」
「撮影の要望と混ぜないでよ」
「別紙にします」
廊下へこぼれた笑い声が遠ざかり、小会議室は静かになった。机のそばには、二人が使った椅子だけが、少しずれたまま残っていた。