TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
「……終わったぁ」
声に出すと、思っていた以上に情けない響きになった。私はテーブルへ両手を置き、その間へ額を伏せかける。エサソンの視線を感じ、どうにか途中で止めた。
「お疲れさまでございました。まだ、お話を整理できる程度の余力はありますか?」
「ある。今のうちに書いておかないと、お菓子の話しか覚えていられなくなりそう」
「それでは困りますね」
ちっとも困っていなさそうな顔で返される。私は背筋を伸ばし、通話中に書き散らした紙を手元へ集めた。条件のメモと、ホムンクルスの草案が、同じ紙の上で入り乱れている。これをそのままセリノアへ話せば、どこから手をつけるべきか分からなくなるだろう。
「まず、事務所に入る話と、技術を考える話は別ね。契約の資料は、届いてからあなたと読む。セリノアには、撮影のために何ができるかを相談する」
「ええ。先方にどこまでお伝えしたかも、最初に説明しましょう。具体的な方法は伏せ、ほかのライバーにも同じような撮影ができる可能性だけをお話しした、と」
「実現できるとも、いつまでに作るとも、約束していない。それも伝えておきたいわ」
紙を分け、私は新しい一枚へ三つの項目を書き直した。身体。意識の接続。撮影。今すぐ必要なのは立派な研究計画ではなく、この三つについて、できることと分からないことを分けてもらうことだ。
「身体については、アバターと同じ姿を作れるか。でも、最初から顔まで完璧にしなくてもいいのよね。物に触れられる身体なのか、指を動かして何かを持てるのか、そこから確かめるべきかしら」
「姿を似せることと、動作に耐える身体を作ることは、分けて尋ねたほうがよいでしょう。声や表情も、必要な機能として挙げておきます」
「それから、どれくらい魔力が必要で、どう維持するのか。日本でも動かせるのか。作ったあと、ずっとセリノアがそばにいないといけないなら、スタジオには置けないもの」
日本へ持ち込む身体と、帝国にいる作り手。その距離を考えた途端、草案の簡単そうな見た目が剥がれた。作れることと、使い続けられることも別なのだ。
「もう一点。その身体に、独立した意思があるのかは確認したいですね」
「……そうね。もし自分で考える相手なら、機材みたいに使う話にはできない」
私は身体の項目へ、その問いも加えた。都合のよい入れ物だと決めつける前に、ホムンクルスというものが何なのか、きちんと聞かなければならない。
「次は、意識の接続ね。本人の意思で動かせて、見たものや聞いたものが本人へ戻ること。口で言うのは簡単だけど、私には方法が分からない」
「元の身体に意識を残して操るのか、意識そのものを移すのか。その違いから、セリノアに意見を求めましょう。接続中の元の身体がどうなるかも、先ほどのお話では決めておりません」
「切れたとき、安全に戻れるかも。ホムンクルスが壊れたら、本人まで傷つくようなものは困るわ」
想像しただけで、指先が冷たくなった。誰かと同じ机に座りたいという願いのために、その人自身を危険へさらしては意味がない。私は安全に関わる問いへ線を引く。
「今回使ってもらうのは、AMAGI LIVEのライバーの方々ね。琴坂さんたちは魔法を使えないんだから、そういう人でも接続できるかを聞かないと」
「ええ。まずは日本にいる所属ライバーが、日本に置いた身体を使えることを目指しましょう。将来的には世界をまたいで使用するかもしれません。ですが今は将来の拡張として検討する余地を残す程度でよいかと。今回の実現条件には含めません」
「そうね。将来できることを増やしたくても、今必要な仕組みを後回しにしないことね」
私は接続の項目へ、日本国内での利用、と書き添えた。今回の利用者はAMAGI LIVEの所属ライバーだけで、異世界をまたぐ必要はない。世界を越える仕組みまで最初から完成させようとすれば、研究の範囲を広げすぎてしまう。将来の拡張を妨げないかは相談しても、まずは今使う人たちのための接続を優先しよう。
「最後は、撮影。普通のカメラで撮れるつもりで考えたけど、それも試すまでは分からないわね」
「人の目に見えることと、日本の機械へ映ることが同じかは、実際に確かめたいところです。声についても、マイクで拾えるかを確認する必要があります」
「セリノアには、移転してから機材と動画を見せる予定だったでしょう。そのとき、琴坂さんたちの姿をどう見せたいのかも説明したい。ただ、本人の姿の資料は、こちらが勝手にもらえるわけではないから……」
「まずは姫様の動画と、手元にある機材で、撮影というものを理解してもらいましょう。ほかの方の外見を再現するための資料は、その段階になってから先方へ相談すればよいかと」
私はうなずいた。天城から届くのは、どんな撮影をしたいかという要望だ。それを聞くことと、誰かのアバターを作り始めることは、まだつながっていない。
「食べるところまで必要かも、分けておこう。最初はコップを持って、受け渡せるだけでもいい。味が本人へ伝わるかは、その先ね」
「お菓子の話から始まった割には、冷静な順序でございますね」
「私だって、お菓子のために琴坂さんを実験台にはしないわよ」
エサソンの口元が、ほんの少し緩んだ。私は軽く睨んでから、紙へ目を戻す。身体を作れるか。安全につなげるか。機械で撮れるか。まずはそれぞれを切り分け、できない部分があれば、別の方法を考える。
「セリノアには、完成品を頼むんじゃなくて、この方向で検討できるかを聞く。今の研究で使えそうなものがあるのか、新しく調べる必要があるのかも」
「承知しました。移動中でもありますから、落ち着いてお話しできる時間を確かめます。先方からの撮影要望が届けば、それも添えて相談しましょう」
「うん。移転の準備まで後回しにはしないようにね。研究が面白くなって、セリノアが荷物を忘れてきたら困るもの」
「その注意は、本人へ直接お伝えください」
さらりと返され、私は口を閉じた。遠話の向こうから、どんな返事が来るかは容易に想像できる。注意する項目は、紙に書かずにおくことにした。
相談事項を読み直し、契約のメモとは別に重ねた。まだ、何も作れていない。それでも、何を頼みたいのか分からないまま研究者へ丸投げするよりは、少しだけ前へ進めたはずだ。
エサソンが紙へ目を通す間、私は閉じた通話画面をもう一度眺めた。琴坂さんと同じ机に座る。そのための宿題は、思っていたよりもずっと多い。けれど、いつか実現したときに何をしたいかだけは、もう迷わなかった。
セリノアと話せたのは、その日の夕方だった。エサソンが定期連絡の折に相談の時間を取れるか尋ねたところ、今は馬車を降りて休んでいるので構わない、という返事をもらえたのだ。私は整理した紙をテーブルへ広げ、接続された木札へ手を添えた。
「天城の方々と、お話ししてきました。それで、研究について相談したいことが増えてしまって」
『兄さんから概要は聞きました。姿を映すのではなく、姿そのものを作る。それを本人が操りたい、ということですね』
「はい。ただ、先方には具体的な方法は告げていません。ほかの方も私の動画のように撮影できる可能性がある、とだけ。実現するとも約束していません」
『それなら結構です。作れるものと、まだ考えただけのものを、混ぜて話されては困りますから』
木札から返る声は、先日の遠話よりも少し弾んで聞こえた。興味は持ってくれたらしい。けれど、期待だけで話を進めないよう、私はまず身体の項目へ指を置いた。
「アバターと同じ外見のホムンクルスは、作れるのでしょうか。手や顔を動かしたり、声を出したりすることも含めて」
『生物としての構造は、すべて再現できます。歩くための脚も、細かなものを扱う指も、表情を作る部分も、発声に必要なものも。身体を作ること自体は問題ありません』
「では、身体の仕組みから新しく考える必要はないのですね」
『ええ。ただし、どんな姿にするかは教えていただかなければ。身体的な特徴と各部の大きさ。資料は細かいほど、望んだ姿に近づけられます』
私は身体制作の横へ、可能、と書いた。天城のライバーの姿については、設定資料の提供と、その資料を使ってよいという了承を得る必要がある。研究の方向が定まったら、久遠さんへ改めて相談しよう。今ここで勝手に誰かの姿を作る話にはしない。
「その身体に、自我はありますか?」
『ありません。独立した自我を作るのは生命の創造の領域です。魔法で再現できるものではありません』
私はそっと息を吐いた。生物の構造を再現することと、新しい意思を持つ命を作ることは違う。少なくとも、この方式で誰かの自由を奪う心配はなさそうだった。
「維持と修復は、どうなりますか。セリノアがそばにいなくても使えるのでしょうか」
『動かすのは傀儡魔法です。稼働できる時間は、操る術者に依存します。修復は魔力を共有することで可能です。作り手の私が、毎回そばで動かす必要はありません』
「時間は術者次第、修復には魔力が必要……そこは、こちらが撮影の工夫で解決できることではないですね」
『そうですね。どれほど使えるかは、使う側の条件を見なければ』
具体的な稼働時間まで決まったわけではない。私は可能という印の隣へ、術者の条件、と書き添えた。形を作ることには答えが出た。けれど、私たちが望む配信に使えるかは、まだこれからだった。
「本人の意識をつなぐことは、どうでしょう?」
『遠話魔法を応用すれば、理論的には可能です。ただ、声を伝えるものを、そのまま意識の接続へ使えるわけではありません。新しい魔法を創ることになります』
「では、今ある術を少し変えて、すぐ試せるという話ではないのですね」
『ええ。本人の身体に意識を残して操るのか、どのような接続にするのかも、実際に組み立てて確かめなければ。そこは合流してからです』
可能。その言葉だけで、もう使える姿を想像しかけていた。けれど、セリノアが答えたのは、あくまで理論の話だ。私は意識の項目へ、理論、と書いた。出来上がっているものと、これから作るもの。その境界を、彼女は曖昧にしていなかった。
「五感を共有することも、同じですか。見たり聞いたりするだけではなく、触った感触や味まで」
『理論上は、五感すべてを共有できます。実際の身体と遜色なく感じられるようにすることも。ただ、自然に動かしながら感覚を受け取れるかは、術を作ってから検証します』
「接続が切れたときや、ホムンクルスが壊れたときに、本人へ影響が出ないかも確かめたいです」
『恐らく問題ないでしょう』
返事があまりにもさらりとしていたので、私は紙から顔を上げた。エサソンも、眼鏡の奥で目を細めている。
「恐らく、のままで人に使ってもらうことはできません。そこも、合流してから検証する項目に入れてください」
『もちろんです。今のお話は見立てであって、安全を確かめたという意味ではありません』
その言葉を聞いてから、私は安全性の項目にも検証と記した。身体の制作には問題がなくても、使う人まで無事であることは、別に確かめなければならない。
「では、魔法を使えない日本の方でも、利用できますか?」
『ホムンクルス側へ魔石を埋め込み、使う人が専用の媒体を持つ形なら可能です。媒体側にも魔石が必要になります』
「魔石を使って動かすのですね」
『ええ。ただし、魔力を補充する問題が残ります。魔石へ魔力を貯める技術はありますが、魔法を使えない人でも補充できるようにするのは、別の課題です』
使うための媒体を渡すだけでは足りない。魔力が尽きるたびに私たちを呼ばなければならないなら、天城だけで続けられる技術にはならない。私は日本人の利用という項目を、接続と補充の二つに分けた。
「では、魔法を使えない人でも魔力を補充できる方法を、改めて検討してもらえますか。接続する術とは別に」
『承知しました。媒体を作ることと、魔力を補充する仕組みは分けて考えます』
専用の媒体。その言葉を聞きながら、頭に浮かんだのはフルダイブVRだった。身体を動かす命令と、返ってくる感覚をつなぐもの。形だけなら、思い当たる機械がある。
「媒体の候補として、AMAGI LINK VERSEのアクセサリにある、VR用のHMDは使えないでしょうか。頭に着ける機械です。顔の前を覆って、映像を見るための」
『形は何となく分かりましたが、機械を見ていないので判断できません。姫様は、それ自体で意識をつなげられるとお考えなのですか?』
「いえ。日本にあるそれで、今回のことができるとは思っていません。専用媒体を作るなら、使う人に馴染みのある形を土台にできないかと。魔法をどう組み込むかは、見てもらってからです」
市販の機械が、そのまま魔法の装置になるわけではない。フルダイブという連想と、現実にできることをごちゃ混ぜにしないよう、私は候補の横へ小さく丸を付けた。セリノアには合流後に実物を確認してもらい、使えるかどうかを判断してもらおう。
「今回必要なのは、日本にいるAMAGI LIVEのライバーが、日本の中で使う接続です。ただ、将来は世界をまたぐ使い方も加えられるよう、拡張の余地は残せるでしょうか。今すぐ実現してほしい、ということではありません」
『境界を越えられるかは、日本へ行ってみないと分かりません。ですが、将来の拡張として検討することはできます。まずは日本の中で成立する接続を優先しましょう』
「はい。合流したら、一緒に日本へ行きましょう。機材も、向こうの環境も、そのときに見てもらいます。世界をまたぐ接続は、当面の課題とは分けておきますね」
『ええ。国内で使う仕組みを作る際に、あとから拡張できる余地があるかは考えておきます。境界を越える接続そのものの検証は、その先で構いません』
私は日本での利用を優先する印を付け、世界をまたぐ接続は将来の拡張として欄外へ移した。私自身が帝国からホムンクルスを操る予定はない。今は所属ライバーが日本国内で安全に使える仕組みを形にし、境界を越える使い方は、必要になったときに改めて検討すればいい。
「最後に、カメラで撮ることです。人の姿を映像にして、向こうの画面へ送る機械なのですが……ホムンクルスも同じように映るのでしょうか。声も、マイクという機械で拾います」
『そのカメラというものは分かりませんが、実際の人物が映るのであれば可能でしょう。こちらは、実際の人物と同じ構造の身体です。姿を見せるだけの幻ではありませんから』
「では、撮影のために、身体へ別の仕掛けを加える必要はなさそうですね」
『ええ。機械については見せていただきますが、身体の側に問題はないと考えます』
通常撮影には、新たな魔法を考える必要はなさそうだ。セリノアが日本の機材をまだ知らないことは忘れずにおくが、ここは解決策を追加で頼む項目から外してよいだろう。
「整理すると、身体は作れる。自我はなくて、動かすのは傀儡魔法。修復は魔力共有で可能。意識と五感の接続は理論上はできるけれど、新しい魔法を作って検証する必要がある。安全性も、そのときに確かめる、ですね」
『はい。加えて、魔法を使えない方のための媒体と、魔力を補充する仕組みです。世界をまたぐ接続は、将来の拡張に備えて検討するだけで、今は優先しません』
「外見の資料は、私から天城へ提供と利用の了承を相談します。まずは今日聞けたことと、これから確かめることを、混ぜないようにします」
『それでよろしいでしょう。兄さん、こちらへ送る相談事項も、その区別を保ってください』
「承知しております。姫様が宿題を一枚にまとめたつもりで、研究を丸ごと一つ増やされたことも、よく分かっておりますよ」
木札の向こうで、セリノアが短く笑った。私は反論しようとして、手元の紙を見る。確かに、最初の三項目から枝がずいぶん増えている。
「……無理に移転前に完成させてもらうつもりはありませんから」
『完成させろと言われても困ります。ですが、合流するまでに、術の組み合わせは考えておきます』
「ありがとうございます。では、続きは合流してから。日本をご案内する約束も、忘れません」
遠話を終え、木札から手を離した。私は紙の上で、可能と書いたところと、検証と書いたところを見比べる。思いつきが完成品に変わったわけではない。それでも、どこから考え始めればよいのかは、ようやく分かった。
まずは、作れる身体。その次に、人が安全に使える接続。そして、日本で続けて使うための仕組み。AMAGI LIVEのライバーが、自分の配信での姿のままお菓子を受け取れるようになるまでには、まだいくつも越えるものがある。私はその隣に、自分の身体で座ればいいのだ。
私はHMDと書いた丸印へ目を留めた。ゲーム機のアクセサリが、異世界の魔法の媒体になるかもしれない。久遠さんが聞いたら、今度はどんな顔をするだろう。想像して少し笑ってから、資料が揃うまではまだ内緒だと、自分へ言い聞かせた。
「まずは、天城エンタテインメントへの依頼を出してもらってもいい、エサソン? 設定資料の提供と、検証に使うための許諾について」
「かしこまりました。アバターの利用許諾についてですが、所属ライバーを確認したところ、八名いらっしゃるようです。資料をお願いする相手に、ご希望はございますか?」
名前を指定するとなると、急に話が具体的になる。画面越しに見ていた人たちの姿が、研究の先で実際に動くかもしれない。胸が弾みかけたが、今は憧れよりも、なぜその人たちの資料が必要なのかを考えるべきだった。
「え、ああ、そうね……一期生の三名でお願いしたいわ。三人とも了承してくださるのが理想だけれど、難しければ、まずはどなたか一人でも」
「一期生の三名を選ばれたのは、何か理由があるのですか?」
「ええ。まず、天ノ川ほたるさんは、普通の人間の姿だから、基本の身体を再現する基準にできるでしょう。ギア・ヴォルテクスさんは、手が機械仕掛けの義手なの。機械の見た目を、どこまで再現できるか確かめたいわ」
指を折りながら説明していると、先ほどのセリノアの言葉が頭をよぎった。生物の構造は再現できる。それなら、機械に見える部分はどうなるのか。できると答えてもらった範囲と、自分が試したい範囲の違いが、少しずつ見えてきた。
「最後の九尾院コンさんは、狐の耳と九本の尻尾を持つ人よ。その姿を再現できれば、使う人が元の身体には持っていない器官の感覚まで受け取れるか、確かめられるかもしれない」
「それに、三人とも一期生でしょう。事務所で新しい技術を導入する最初の候補として相談するなら、理由も説明しやすいと思うの。もちろん、実際に使っていただくのは、安全性を確かめて、ご本人にも了承していただいてからよ」
「なるほど。では、三名を候補として挙げ、資料の提供と検証への利用について、先方へ相談いたします」
私はうなずいた。候補を挙げたからといって、協力してもらえると決まったわけではない。それでも、依頼の理由を言葉にできたことで、少し肩の力が抜けた。研究の話はいったん脇へ置き、今度は移転の準備へ頭を切り替える。
「あとは、移転の準備ね。前に買った土などは、もう馬車へ移してあるのよね?」
「はい。姫様の扉を使って、馬車へ移してあります」
その返事に、ほっと息をついた。新しい身体を作る相談に夢中になって、自分たちの引っ越しを忘れていた、では笑えない。運び終えたものを頭の中で確かめながら、私はエサソンを見上げた。
「ほかに、準備しておくものはあったかしら?」
「日本の機材を、移転先でも使えるようにしておく必要があります。まずは通信と電源です」
「そこは、今と同じようにすれば……」
言いかけて、私は口を閉じた。今の回線は、日本側から引いた線を、この部屋に置いたルーターへつないでいる。家具を運ぶように全部まとめて移せば、それで済むわけではなかった。
「今と同じようにするために、何を運び、どこにつなぐかを確かめましょう。姫様の扉が移転先で日本の部屋へつながることと、機材を支障なく使えることも、別の確認です」
「分かったわ。ルーターと線、それから電源。向こうへ着いたら、まず接続を試すのね」
「はい。撮影機材も、持ち出すものを分けておきましょう。移転の荷物へ紛れれば、探すだけで時間を使います」
私は紙の端へ通信と電源、と書いた。その下に撮影機材を足す。今日の通話がうまくいったせいで、次も当然につながるような気になっていたらしい。エサソンに指摘されるたび、浮ついた気持ちが少しずつ現実へ戻される。
「通話に使ったものは、すぐ取り出せるようにしておくわ。全部の荷物が片づくまで、連絡できないのは困るもの」
「ええ。ただし、移転直後から撮影を続けられると決めつけないことです。先方にも、環境を確かめる時間が必要だとお伝えしてありますから」
「そこまで急がないわよ。……たぶん」
最後の言葉を聞いたエサソンが、眼鏡の奥からこちらを見た。私は目をそらさず、たぶん、を取り消すようにうなずく。琴坂さんとまた話したい気持ちはある。けれど、それだけで引っ越しを急げば、あとで困るのは自分たちだ。
「それから、姫様ご自身の荷物です。衣類や身の回りのものは、リゼットとも確認してください」
「そちらは、私が口を出すより、リゼットに任せたほうが安心なのでは?」
「任せることと、何も確認しないことは違います。持っていきたいものがあるなら、今のうちにお伝えを」
私は部屋を見回した。身の回りのことは、いつもリゼットが先に気づいて整えてくれる。それに甘えて、移転の支度も全部済んでいるような気になっていた。机の上のメモ一枚でさえ、どの荷物へ入れるか決めなければ、向こうで見つからなくなる。
「この紙も、持っていくものに入れておかないとね。契約の確認と研究の相談、それから移転の支度。もう別々にしておいたほうがよさそう」
「本日の話を整理したものは、私も控えを作っておきます。先方へ出す依頼の文面は、送る前に姫様へお見せします」
「お願い。まだ方法は明かさずに、外見を再現する検討に必要な資料を相談したい、と伝えて。利用できる範囲も、向こうに確認してもらいましょう」
エサソンがうなずいた。今日、久遠さんは、話を聞くことと条件を受け入れることを何度も分けてくれた。今度はこちらの番だ。資料を頼んだだけなのに、技術を提供する約束として伝わっては困る。依頼の文面にも、その区別を残しておきたかった。
「資料をいただけなければ、別の検証用の姿を考えることになりますね」
「ええ。三人の姿で試せたら嬉しいけれど、了承してもらえるのが前提だから」
口にしてみると、少しだけ名残惜しさが残った。好きなライバーの姿が目の前で動くかもしれないという期待は、やはり大きい。それでも、その期待のために、相手の返事を都合よく受け取ってはいけない。私は候補の名前の横へ、許諾待ち、と書き添えた。
「……ところで、私たちの引っ越しの確認をしていたはずよね」
「はい。姫様が研究の話へ戻されました」
「そうだったわね」
反論の余地がなく、私は小さく笑った。紙を三つに分けたところで、頭の中まできれいに分かれるわけではないらしい。せめて、今夜やることだけは一つずつにしよう。
「まずはリゼットと荷物を確認するわ。機材の一覧は、明日あなたと見直したい。それでいい?」
「承知しました。研究については、セリノアとの合流を待ちましょう。今夜、さらに宿題を増やす必要はありません」
「増やさないわ。……お菓子以外は」
「お菓子も、荷物の一部でございますよ」
最後まで現実的な返事をされ、私は肩をすくめた。けれど、胸の奥の焦りは、話し始めたときよりも薄れていた。全部を今日片づける必要はない。確認することも、頼れる相手も、もう分かっている。
私は研究の紙を重ね、移転のメモだけを手元へ残した。新しい身体を作る前に、まずは今の自分が無事に引っ越さなければ。そう考えると、リゼットへ何から話すかも、自然に決まった。
◇ ◇ ◇
ルミナたちが移転の支度を進めている間に、日本側でも、面談の続きを相談するための時間が設けられていた。
天城エンタテインメントの小会議室。閉じた扉の向こうから、廊下を行き交う足音がかすかに届く。久遠灯は向かいに座った柚木へ、ノートパソコンの画面を傾けた。机には先日の面談の資料。画面にはルミナの姿ではなく、エサソンを窓口として届いた設定資料の提供依頼が表示されている。
対象は、天ノ川ほたる、ギア・ヴォルテクス、九尾院コンの三名。人間型を基準に、機械の義手や、元の身体にはない耳と尻尾まで再現できるか確かめたいという。柚木は手元のメモを開き、灯へ顔を向けた。
「三人分、まとめてお渡ししますか?」
「違う特徴で比較したいという理由は分かるわ。ただ、こちらが見たのはルミナさんたちの映像だけ。ほかの姿でも同じことができるかは、まだ分からない」
灯は依頼の末尾へ目を落とした。制作を担う協力者にも資料を見せたいという。手元の映像から仕組みを推測し続けるより、対象を絞った試作の結果を見るほうが、協力の可能性を判断しやすい。だが、その期待だけで資料を渡すつもりはなかった。
「まず、権利関係を確認して、三人にも用途を説明しましょう。そのうえで、外見の再現に必要な資料だけ。元のモデルデータまで渡す話にはしないわ」
「共有先は、先方が指定する制作協力者までですね」
「ええ。誰が扱うのかを先に確認して、秘密保持と、試作が終わったあとの資料の扱いも書面にする。認めるのは非公開の作成とテストまで。結果を記録する撮影は含めても、配信や動画の公開は別に相談してもらうわ」
「所属の返事をもらうための条件には、しないんですね」
「もちろん。人に使ってもらう試験への参加も、この許諾には含めない。まず確かめたいのは、既存のライバーの姿でも再現できるかよ。結果を見てから、次に何を一緒にできるか考えましょう」
柚木が確認事項を書き留める。灯も三名の名前へ目を戻した。自社の配信やハードに生かせるかもしれない。その期待は消えていない。だからこそ、採用の話も、技術の導入も、まだ決めない。今渡すのは、答えではなく、答えを確かめるための限られた材料だった。
◇ ◇ ◇
天城との確認をエサソンに手伝ってもらいながら、私はリゼットと荷物をまとめていった。届いた設定資料は研究の紙と一緒に鞄へ収め、出発前にもう一度だけ中身を確かめる。セリノアへ渡す準備はできた。あとは、私たち自身がセレンディアへ向かう番だった。帝都を離れれば、ようやく自分から動ける。そう思うと胸が軽くなる一方で、宮殿に残るお母さまのことが心に引っかかった。今度は、会いに戻れるだけの力をつけたい。
そして、移転の日が来た。
帝都を離れる馬車の中で、私は膝に置いた鞄の留め具を、もう一度確かめた。中には、天城から届いた三人分の資料と、利用許諾の内容を控えた紙が入っている。
天ノ川ほたるさん、ギア・ヴォルテクスさん、九尾院コンさん。天城で権利関係を確認し、三名それぞれの了承も得たうえで、外見の再現に必要な設定資料を提供してもらえた。元のモデルデータは含まれていない。認められたのは、非公開のアバター作成とテスト、その結果を記録するための撮影まで。配信や動画の公開は別途相談が必要で、この許諾に、人が操作する試験への参加同意まで含まれているわけではなかった。
資料の共有先には、制作協力者としてセリノアを指定してある。秘密保持と、試作が終わったあとの資料の扱いも、エサソンと確認して書面で取り決めた。所属を承諾することが提供の条件になっているわけではない。天城が知りたいのは、三名の姿でも再現できるかという検証の結果だ。資料が届いたときは、つい何度も眺めてしまった。けれど、今の私たちに必要なのは公開の約束ではなく、まず検証するための手がかり。セリノアへ渡すときも、利用できる範囲と資料を扱う条件を、一緒に伝えなければならない。
そのセリノアは、すでにセレンディアへ到着していた。他のエルフたちと領主館を整え、研究所も確保して、研究を始めているという連絡を受けている。私たちが着くまで待たずに動いてくれていることは心強い。何をどこまで進めたのかは、会ってから聞こう。
車輪が石を踏み、座席が大きく揺れた。鞄を抱き直すと、隣のリゼットが私の肩へそっと手を添える。向かいのエサソンは、窓の外へ目を向けたままだった。
「舌を噛まないよう、お気をつけくださいませ」
「うん。……この揺れを、ずっと我慢して行くわけではないのよね」
「そのための段取りでございます。ただ、今はまだおとなしくお乗りください」
リゼットに言われ、私は座り直した。この馬車でセレンディアまで走るわけではない。それでも、帝都を出たところを見られる可能性がある以上、途中までは普通の旅人と同じように街道を進む必要があった。
乗っているのは、私とリゼットとエサソン。そして、御者台にいる雇われの御者を合わせた四人だけだ。先行させた馬車とは別に用意した、この馬車は、私たちが帝都から旅立ったという形を残すためのものだった。 扉の形状と開き方は先行した馬車と同じものを選び、所有者にも、私に貸し与えると明言してもらってある。これなら、二台の扉をつなぐ条件を満たせる。
窓から見える景色が建物から畑へ、畑からまばらな木立へ変わっていく。私は背後を確かめたい気持ちをこらえ、鞄を両手で押さえた。旅立てたという安堵より、まだ予定どおりに合流できていない緊張のほうが大きい。
やがて、エサソンが窓から顔を戻した。
「十分に帝都から離れました。ここから先で、馬車を止めてもらいます」
私はうなずいた。エサソンが御者へ声をかけ、街道脇の、人通りを避けられる場所で馬車を停めさせる。車輪の音が止まると、急に外の風と馬の息遣いが近くなった。
降りて御者へ話しかけたエサソンが、催眠魔法を使う。ほどなく御者は眠りへ落ち、支えられるようにして御者台へ身体を預けた。私はリゼットとともに馬車を降り、近くに誰もいないことを確かめてから、扉へ向き直る。
扉の向こうに思い描くのは、セレンディアへ先行した馬車だ。荷物を移すときに確かめた、その車内。私は手を伸ばし、目的の場所へつながるよう意識を集中した。
開いた扉の先には、今まで乗っていた座席とは違う、荷物の積まれた車内が現れた。その奥から顔を出したエルフが、私たちを認めて頭を下げる。
「お待ちしておりました、姫様」
聞き慣れた呼びかけに、ようやく胸の奥が緩んだ。帝都からここまで走った距離とは比べものにならない旅路を、この扉一枚で越えられる。その不思議さには慣れてきたはずなのに、今日は少し足がすくんだ。
「荷物からお願いいたします。姫様は、こちらでお待ちください」
リゼットが言い、扉の向こうのエルフと手分けして荷物を移し始める。先に運んである土などとは別に、今日まで手元に残していたものだ。私は資料の入った鞄を最後まで抱え、運び終えた荷物を目で追った。
その間に、エサソンは御者へ再び催眠魔法を施した。私たちを乗せて運んでいたことを思い出せなくし、目を覚ましたら近くの町まで馬車を進めるよう暗示を与えるという。記憶そのものを消すのではなく、その記憶を思い起こそうとする意識を逸らすのだ。
眠る御者の顔を見ていると、胸が少し重くなった。こちらの事情に巻き込まれただけの人だ。思い出せなくしても、私たちを運んだ事実までなくなるわけではない。本人が覚えていなければそれで済む、と簡単に考えたくはなかった。
「御者の報酬は、済んでいるのよね」
「はい。支払ってあります。町まで戻る道にも、無理はございません」
エサソンの返事にうなずく。それで私の気が軽くなったとしても、御者にとって何かが変わるわけではない。せめて、帰り道に危険がないようにすることだけは、確かめておきたかった。
移し忘れがないことを確認すると、リゼットが扉の向こうへ渡った。私は鞄を抱き直し、そのあとへ続く。踏み越えた足元から、別の馬車の床板の感触が伝わってきた。
振り返ると、扉の向こうにはダミーの馬車の御者台の一部と、その脇からこちらへ歩いてくるエサソンが見えた。彼が最後に乗り込んだのを確かめ、私は扉を閉じる。その瞬間、二台の馬車をつないでいた接続が解除された。
もう一度開いた先は、先行した馬車の外だった。こちらの街道を渡る風が頬へ触れる。遠くには、これから入るセレンディアが見えていた。
「……着いた、でいいのかしら」
「町へ入るのは、これからです」
エサソンに訂正され、私は苦笑した。旅の途中を飛び越えたせいで、気持ちまで先走っている。リゼットが座席を整え、私は促されるまま、鞄を膝に載せて座った。
先行していた馬車が動き出した。帝都側では、御者が目を覚ましたら近くの町へ向かうはずだ。仕事を終えたあとのダミーの馬車は、手配していたエルフたちが回収する。そこまでを任せ、私は今度こそ、前方の景色へ目を向けた。
セレンディアへ入るころには、私は窓から目を離せなくなっていた。領主として暮らす場所。これから動画で見せたい場所。そして、帝国を立て直すために足場を作らなければならない場所だ。
けれど、窓の外に広がる町は、その言葉から思い描いていたものとは違っていた。通りに面した家々は壁の塗りが剥がれ、むき出しの木材が黒ずんでいる。屋根の一部を板で塞いだ家もあれば、窓に布を張っただけの家もあった。壊れてから、直す余裕のないまま暮らしてきたのだと分かる傷み方だった。
店らしい建物の前を通っても、客を呼ぶ声は聞こえない。閉じた戸の脇に傾いた看板が残り、開いている店にも、棚を埋めるほどの品物はなかった。道の端には崩れた石が寄せられている。馬車の車輪がくぼみを踏むたびに、膝の上の鞄が小さく跳ねた。
その音に気づいた人たちが、仕事の手を止めてこちらを見る。継ぎ当ての重なった服。袖からのぞく細い手首。母親の陰から顔を出した子供は、私と目が合うと、母親の服を握り直した。母親は子供を抱き寄せ、馬車へ小さく頭を下げる。
歓迎の声は上がらなかった。けれど、罵声も、睨みつける目もない。人々は道を空けたまま、馬車の中を確かめるように見ていた。新しい領主が来た。そのことで自分たちの暮らしがどうなるのか、まだ分からない。そんな戸惑いが、通りの静けさの中にあった。
私は窓から目を離さないまま、エサソンへ声を落とした。
「……私が来ることは、もう伝わっているのよね」
「はい。先行した者たちが、姫様が新しい領主として来られることと、町を立て直すために動いていることを説明しております。姫様への恨みや怒りはございません。ただ、暮らしがこれからどうなるのか、不安は残っているようです」
私は膝の上の鞄へ目を落とした。中には、天城から届いた三人分の資料が入っている。あれを使って何ができるのか、セリノアと話すのを楽しみにしていた。ここへ着くついさっきまで、私の頭を占めていたのは、そんなことだった。
町が疲弊しているのは知っていた。だから立て直そうと考えた。けれど、知っていることと、目の前で見ることは同じではない。痩せた土地も、足りない物資も、これまでは話し合いの中の言葉だった。その言葉の向こうで、今日も暮らしている人たちがいる。
恨まれていないと聞いても、ほっとすることはできなかった。この人たちは、私を責めずに待ってくれている。それなのに、新しい領主の顔を見ても、不安を手放せないのだ。私が何を言うかではなく、これから何をするかを見るしかないのだから。
胸の奥が重くなり、鞄の持ち手を握る指に力が入った。今すぐ窓を開けて、大丈夫だと言いたくなる。けれど、何が足りず、どこから手をつけるべきかも確かめていない私が、その一言を口にするのは違う気がした。
研究も、配信も、やめるわけではない。どちらも、この町と国を支える道につなげたいと考えている。だからこそ、その先にいる人たちを、置き去りにしてはいけない。私は窓の外へ向き直り、通り過ぎていく家と、その前に立つ人たちを、もう一度目に留めた。
「館に着いたら、町の様子も聞かせて。何が足りないのか、先に来た人たちがどこまで手をつけているのか。まず、それを知りたいわ」
「承知いたしました」
道の先で馬車を待っていたエルフたちが、こちらを認めて手を上げた。案内に従って進むと、やがて領主館の前で車輪が止まる。玄関から出てきた人物を見て、エサソンがわずかに顎を引いた。
「セリノア」
「お待ちしていました、兄さん。姫様、ようこそセレンディアへ」
木札から聞いていた声が、今度は目の前から届く。その違いだけで、到着したという実感が一気に押し寄せた。私はリゼットの手を借りて馬車を降り、セリノアへ顔を上げた。
そこに立っていたのは、人間なら十代半ばほどに見える、すらりとしたエルフの少女だった。銀白色の髪を背中の半ばまで伸ばし、うなじの辺りで無造作に一つに束ねている。頬の横に残った細い髪の間から、長く尖った耳がのぞいていた。整った顔立ちにはエサソンとどこか似たところがあるけれど、淡い紫の瞳は彼ほど皮肉げではない。私へ視線を向けても表情はほとんど変わらず、何を考えているのか読み取りにくかった。ただ、目をそらさずにこちらを確かめる様子から、関心がないわけではなさそうだ。感情が表に出にくい人なのかもしれない。
身につけているのは、飾りの少ない紺色の長衣だった。袖口は作業の邪魔にならないよう細く絞られ、腰の革帯には小さな袋と、薄い手帳が差してある。近くで見ると、指先には落としきれていないインクの染みがあった。出迎えのために着飾るより、さっきまでの仕事をひとまず中断して出てきたような姿だ。木札越しに研究の話をしていた声と、その外見が、私の中でようやく一人の人物としてつながった。
「迎えてくださって、ありがとうございます。館の整備まで進めていただいて」
「整備は皆で分担しました。研究に使う場所も確保してあります。資料が届いているのでしたら、あとで拝見させてください」
セリノアの視線が、私の鞄へ向いた。早い。挨拶を終える前から、もう研究の話になりかけている。私は留め具へ手を置き、念のため言葉を添えた。
「三人分の設定資料を持ってきました。元のモデルデータではありません。非公開の作成とテスト、それを記録する撮影まで使えますが、配信や動画の公開には別の了承が必要です。共有先にはセリノアを指定してあります。秘密保持と、試作後の資料の扱いも、この書面のとおりにお願いします。人が操作する試験への参加同意は、別に必要です」
「承知しました。資料は私の手元で管理し、ほかの者へ見せる必要が出たら、先に相談します。まずは非公開の試作と記録までですね。公開も、人に操作してもらうことも、別に了承を得てから。試作後の扱いも書面を確認しますので、一緒に預からせてください。それでは、再現する身体の特徴から拝見しましょう」
「その前に、姫様のお部屋と、お荷物の置き場所を確認させてくださいませ」
リゼットが柔らかな声で割って入った。セリノアが一度目を瞬き、私も思わず背筋を伸ばす。ついさっき、研究より先に自分の引っ越しだと考えていたのに、資料へ話が向いた瞬間、もう忘れかけていた。
「……はい。まずは荷物を置いてからですね」
「ええ。ようやくお着きになったのですから」
リゼットにうなずき、私は鞄を抱え直した。セリノアが館の中へ案内し、エサソンは馬車から降ろす荷物の確認へ回る。玄関をくぐると、整えられた廊下の奥へ、これからの暮らしが続いていた。
その日のうちに、御者が近くの町へ着き、ダミーの馬車もエルフたちが回収したという報告が届いた。それを聞いて、私はようやく、帝都を離れるための段取りがすべて済んだのだと息を吐いた。
新しい場所へ来た。研究も、配信も、ここから改めて始められる。けれど、今日最初に取りかかったのは、リゼットに言われたとおり、鞄を置く場所を決めることだった。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、帝都の宮殿にそびえる塔の一室にも、旅立ちの知らせが届いていた。
高い窓から差す光が、石床の上に細い四角を作っている。窓辺に置かれた椅子で、セレスティア・エルフィネは読みかけの本を閉じた。小柄な身体と丸みのある顔立ちは、十七、八の少女を思わせる。けれど、本を閉じる所作には、長く国を治めた者の落ち着きがあった。廊下で鍵の触れ合う音がして、扉が開く。入ってきたエルフの侍女は一礼し、扉が再び閉じられるまで口を開かなかった。
「ルミナ殿下が、帝都を出立なさいました」
セレスティアは本の表紙へ指を置いたまま、春の若葉色の瞳を侍女へ向けた。
「……予定どおりに?」
「はい。お供の方々とともに、馬車で城門を出られたとのことです」
「そう。まずは、無事に出られたのですね」
それより先の無事まで、この知らせが保証するわけではない。セレスティアは続く問いを飲み込み、本を小机へ置いた。肩までの銀髪をまとめたリボンに、窓の光が触れる。蔦の刺繍をなぞろうとした指が、その手前で止まった。
同じ意匠の衣装を、娘へ届けたことがある。あの子は袖を通してくれただろうか。窮屈ではなかっただろうか。女王として民の衣食を案じていたころには迷わなかったことを、たった一人の娘については、誰かに尋ねなければ知ることさえできない。
生まれて間もなく引き離された娘。今の声も、笑い方も、セレスティアは知らなかった。皇帝が口にした、似てきたという言葉だけでは、その顔を思い描くには足りない。鏡に映る自分の丸い頬を見ても、そこに娘の表情を重ねることはできなかった。
「レーヴェン卿から、ほかに何か?」
「今のところは、出立のお知らせのみでございます」
侍女の答えに、セレスティアはうなずいた。娘が何を目指して帝都を離れたのか。その計画を知って帝都に残るのは、セレスティアと目の前の侍女、そして皇宮書庫を預かるオルド・レーヴェンの三人だけだ。表向きの出立を知る者が、娘の本当の意図まで知っているわけではない。
「知らせは、これまでどおりに。無理に詳しい報告を求めて、あの子の動きを目立たせてはなりません」
静かな声だったが、侍女は背筋を伸ばした。
「承知いたしました」
帝国の崩壊を見据え、その先を生き抜く力を育てる。伝えられた計画の筋は理解できた。だが、それを担うのがわずか五歳の娘であることを、セレスティアは切り離して考えられなかった。
自分もかつて、国を守るために決断した。抗い続ければ民が死ぬ。それを避けるために帝国へ下り、今はこの部屋にいる。あのとき別の道があったのか、答えの出ない問いを、娘にも背負わせることになるのではないか。
「……私は、あの子の考えをすべて正しいと認めたわけではありません」
侍女は何も言わず、言葉の続きを待った。
「危うい計画です。目指すものが大きければ、その途中で失うものも大きくなる。あの子自身が、取り返しのつかない傷を負うかもしれない」
セレスティアは膝の上で手を重ねた。母としては、引き止めたかった。計画など捨てて、安全な場所に隠れていてほしい。だが、塔の中にいる自分が、娘に安全な場所を与えられるわけではない。
「それでも、私が恐ろしいというだけで、あの子の決断を奪いたくはないのです」
まだ会えてもいない。抱きしめたことも、泣く声に応えたこともない。その自分が、母という立場だけを頼りに、娘の選んだ道を閉ざしてよいのだろうか。
「けれど、選んだからには最後まで進め、などとは言わないでください。苦しくなれば立ち止まってよい。道を変えてもよいのだと。それだけは、伝えられる機会があれば」
「……はい。必ず」
侍女が深く頭を下げる。顔を上げると、膝の上で重ねられたセレスティアの手に、そっと自分の手を添えた。慰めの言葉を探す代わりの、昔から変わらない仕草だった。セレスティアは指先の力をわずかに緩め、それから窓へ目を向けた。
ここから城門は見えない。娘の馬車が進んだ道も、遠い領地も、この窓の向こうにはなかった。それでも今日、娘はこの帝都を離れ、自分の足で進むための一歩を踏み出したのだ。
会いたい、と口にすれば、誰かが無理をするかもしれない。セレスティアはその願いを胸の内にとどめ、代わりに小机の本を手元へ引き寄せた。読みかけの頁を開いても、しばらく文字は目に入ってこなかった。
いつか娘がここへ来たとき、まず何を話そう。計画を問いただすより先に、旅で何を見たのかを聞きたい。母を救うためではなく、ただ会いに来てもよいのだと、今度こそ自分の声で伝えたかった。