TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
023_国家再建、まずは踏み台から
セリノアに案内された部屋へ入ると、私はまず窓へ目を向けた。ここが、これから私の部屋になる。そう思うと、廊下を歩いている間は薄かった実感が、ようやく追いついてきた。
抱えていた鞄をベッドの傍らへ下ろす。続いてリゼットが運んできた荷物を並べ、さっそく留め具を外し始めた。
「お召し物はこちらへ収めますね。書類の入ったお鞄は、ひとまずそのままにしておきます」
「ええ、ありがとう。あとで使うから、出しやすいところにお願い」
リゼットはうなずくと、畳まれた衣服を取り出し、収納場所を確かめながら整理を始めた。その手際を見ていると、私が手を出すより任せたほうが早そうだ。私は入口に残っていたセリノアへ向き直った。
「セリノア。この館に、ミーティングルームみたいな部屋はありますか?」
「みーてぃんぐるーむ、ですか。それは、どのようなお部屋でしょう?」
首を傾げられて、ようやく気づいた。日本の機材を見せる前に、日本の言葉を当たり前のように使ってどうする。
「何人かで集まって、報告を聞いたり、相談したりするための部屋です。机を囲んで座れて、地図や書類を広げられると助かります。途中で人が出入りしないところがいいのですが」
「それでしたら、評議室がございます。領主が家臣を集め、領内のことを話し合うための部屋です。大きな卓もありますし、扉を閉めておけば、廊下から話を聞かれることもないでしょう」
「では、そこを使いたいです」
研究の資料を広げるにも、領内の状況を聞くにも、ちょうどよさそうだ。まずは皆が何を知っていて、何を進めているのかを揃えたい。私の頭の中だけで研究と領地の話を行き来していては、聞く側も困るだろう。
「一刻後に、そこでブリーフィングをしましょう」
「ぶりーふぃんぐ……というのは、何をするのでしょう?」
またやった。ついさっき、ミーティングルームが通じなくて説明したばかりでしょうが。私の反省、部屋の入口からここまで歩くより寿命が短くない?
セリノアは真面目な顔で答えを待っている。知らない言葉を確かめているだけなのだから、何も悪くない。悪いのは、頭の中だけ日本の会社へ出勤している私だ。ここは領主館。会議室の予約表もなければ、横文字を使うと仕事をした気になる上司もいない。
「……今の状況と、これから何をするかを、皆で確認するための打ち合わせです。まず、こちらで進めていることや困っていることを教えてください。そのうえで、私たちが持ってきた情報をお伝えして、先に取りかかることを決めたいのです」
「なるほど。皆が同じ事情を把握してから、今後の方針を話し合うのですね」
「はい、そういうことです。セリノアから、関係する方々に一刻後、評議室へ集まるよう伝えていただけますか。エサソンにもお願いします」
「承知しました。こちらで進めていることも、そのときにご報告します」
「はい、お願いします。私も、持ってきた資料をそれまでに整理しておきます」
セリノアは一礼し、部屋を出ていった。私はベッドの傍らの鞄へ手を伸ばす。荷解きはリゼットに任せても、こちらの中身まで任せるわけにはいかない。
新しい部屋でひと息つくのは、そのあとになりそうだった。
私は鞄を開き、まず書類を取り出した。天城から届いた設定資料と、その扱いを取り決めた書面。それから、エサソンと整理した相談事項の紙。途中で混ざらないよう束を分け、机の上へ順に並べていく。
評議室へ持っていくものをひとまとめにし、残りを鞄へ戻す。タブレットも取り出して手元へ置いたところで、ようやく机らしい眺めになった。衣服の整理を進めるリゼットを横目に、私は部屋の扉へ視線を向ける。
資料の準備も大切だが、その前に一つ確かめておきたい。ここからでも、あの扉の力が使えるのかどうかだ。
近づいてみると、帝都の寝室の扉とは、勝手が違っていた。こちらは室内へ引いて開ける扉だ。セリノアが案内してくれたときも、扉はこの部屋の側へ開いていた。帝都では、外へ押して開けていたのに。
それに、ドアノブの位置も低い。扉そのものは私から見れば十分に大きいが、腕を伸ばせば、あと少しで届きそうな高さにある。
……ちょっと待って。なら、帝都のあれは何だったの?
この高さを見て初めて、向こうのドアノブが、わざと少し高い位置へ取り付けられていたのだと気づいた。大人にはたいした違いではなくても、私には決定的な差になる。扉の重さだけではなかったらしい。そもそも、握らせる気からなかったのか。
届かないノブへ必死に飛び跳ねていた自分を思い出し、今さら腹が立ってきた。あれを成長で乗り越えようとしていた私、ずいぶん律儀に相手の都合へ付き合っていたものだ。
けれど、今は帝都の扉に文句を言っている場合ではない。問題は、開く向きが逆になっていることだ。
帝都では、寝室から扉を押し開ける動きが、そのまま日本の自室へ入る動きにつながっていた。だが、こちらは手前へ引く。日本の自室の扉も、部屋へ入るときは押して開けるものだ。同じつもりでつなごうとしても、開く向きが合わない。
いつもの部屋を思い浮かべればいい、と考えていたが、それだけでは済まないらしい。ここから自室へ直接入るのは、やめておいたほうがよさそうだ。
なら、接続先を変えればいい。自室ではなく、アパートの玄関。外から玄関の扉を手前へ引いて開け、その先の室内へ入るところを思い描く。それなら、今の動きと揃う。
私は扉の前に立ち、ドアノブへ手を伸ばした。
届かない。
……低い。確かに帝都よりは低い。でも、私も低い。扉への不満を一つ解消したところで、こちらの背丈まで都合よく伸びるわけではなかった。
踵を浮かせ、精いっぱい背伸びをする。ようやく指がノブへ掛かり、握り直すことができた。飛び跳ねなくて済むだけ、帝都よりはずっとましだ。
意識を向けるのは、見慣れた自室ではない。玄関の扉を開けた先の、狭い土間と、その奥へ続く廊下。帰宅するたび何度も目にしてきた景色を、頭の中で確かめる。
そのままノブを回し、扉を手前へ引いた。足元へ近づいてくる扉を避けるように、一歩下がる。
開いた隙間の向こうに見えたのは、領主館の廊下ではなかった。
靴を脱ぐための小さな土間。その先の一段高くなった床と、自室へ続く見慣れた廊下。間違いない。日本で暮らしていたアパートの玄関だ。
私はノブを握ったまま、そっと息を吐いた。自室へ直接ではない。それでも、ここから帰れる。新しい部屋の扉も、ちゃんと私の力に応えてくれた。
背後で、衣服を畳む音が止まった。
「……ルミィ様。そちらは、日本のお住まいですか?」
振り返ると、リゼットは畳みかけの服を両手に持ったまま、扉の向こうを見つめていた。目を丸くしているが、慌てて駆け寄ってくるわけではない。馬車の扉をつないだところも見ているのだから、力そのものに驚いたのではなさそうだ。
「ええ。ここからでもつなげられるか、確かめていたの。今回は部屋ではなくて、玄関だけど」
「先ほどまで、こちらには館の廊下がございましたのに……」
リゼットは服をそっとベッドへ置き、私のそばまで来た。開いた扉の縁へ目をやり、それから向こう側の床を確かめる。見慣れた力でも、自分がさっき通った場所が別の世界へ変われば、やはり妙な気分なのだろう。
「これからは、こちらの部屋からも行き来できるのですね」
「そうみたい。毎回背伸びするのは大変だけど」
ようやくノブから手を離して踵を下ろすと、リゼットの視線も、扉の向こうから私の足元へ移った。その口元に、見覚えのある笑みが浮かぶ。
「踏み台をご用意いたしましょうか?」
「……お願いするわ」
日本への通路は確保できた。だが、その通路を開けるには踏み台が要る。壮大な力と、あまりにも地道な対策の組み合わせに、何とも言えない気持ちになった。
リゼットは小さく笑ったあと、玄関の上がり框へ目を留めた。私が渡ろうとしているわけでもないのに、自然と半歩近くへ寄ってくる。
「こちらは床の高さが違うのですね。お通りになるときは、お足元にお気をつけくださいませ」
「うん。今日はつながるか確かめるだけ。向こうへは行かないわ。一刻後には評議室へ行かないといけないもの」
「それでしたら安心いたしました。荷物の整理も、まだ終わっておりませんから」
そう言って、リゼットは扉へ手を添えた。私がうなずくのを待ってから静かに押し戻す。日本の玄関は少しずつ細くなり、やがて扉の向こうへ隠れた。
そのまま彼女はベッドへ戻り、先ほど置いた服を取り上げる。異世界への入口を見たあとでも、畳みかけの服は畳みかけの服らしい。
驚いてはいた。それでも最後に気にするのは、私が転ばないことと、荷解きが済んでいないことだ。その変わらなさが何だか嬉しくて、私は少し笑ってから机へ戻った。
机へ戻った私は、評議室へ持っていく書類をもう一度確かめた。研究の相談事項はすぐに取り出せるよう上へ重ね、設定資料は書面と一緒に鞄へ収める。話し始めてから紙を探す羽目になるのは避けたい。せめて準備くらいは、領主らしくしておこう。
リゼットの荷解きがひと段落し、約束の一刻が近づいたところで、私は椅子から降りた。
「そろそろ行きましょう。リゼットも、一緒に話を聞いてほしいの」
「かしこまりました。お鞄をお持ちいたしますね」
差し出された手へ鞄を預け、私はタブレットを抱えた。扉を開けてもらうと、その先にはちゃんと領主館の廊下がある。先ほどまで日本の玄関が見えていた場所を通り抜けるのは、使った本人でも少し妙な気分だった。
評議室までの道を確かめながら、リゼットと廊下を進む。これから何度も行き来するのだから、自分でも覚えておかなければならない。部屋へ戻るたび道に迷う領主では、あまりに締まらない。
目当ての扉へ着くと、中から低い話し声と、紙を動かす音が聞こえた。リゼットが控えめに扉を叩く。すぐに返事があり、彼女が扉を開けてくれた。
評議室の中央には、セリノアの言ったとおり、大きな卓が置かれていた。その周りに、エサソンとセリノア、それから先にこの地へ来ていたエルフたちが集まっている。卓上には書類がまとめられ、中央には地図を広げるためらしい空きが残されていた。
私が入ると、話し声が止み、座っていた者たちも椅子を引いて立ち上がった。一斉にこちらへ向けられた視線に、思わず足が止まりかける。私が呼んだのだから、私を見るのは当然だ。分かっているけれど、この出迎え方にはまだ慣れない。
「お集まりいただき、ありがとうございます。どうぞ、座ってください」
そう言ったのに、誰もすぐには腰を下ろさなかった。エサソンが卓の端に用意された椅子へ目を向ける。その意味を察し、私は何事もなかった顔でそちらへ歩いた。
ああ、私が先に座るのね。会議を始める前から、進行につまずいてどうする。
リゼットが椅子を引き、私を座らせてくれた。座面には厚めのクッションが用意されていて、卓の上を無理なく見渡せる。誰かが私の背丈を考えて、先に整えてくれたのだろう。足は相変わらず床へ届かないが、書類を見るのに背伸びをしなくて済むだけありがたい。
タブレットを卓へ置くと、皆も順に着席した。エサソンは私の近くへ座り、セリノアは向かい側で手元の紙を揃える。ほかのエルフたちも、それぞれ持ってきた書類を前へ置いた。
鞄から資料を取り出したリゼットが、私の傍らへ控えようとする。私は隣の空いた椅子へ手を向けた。
「リゼットも座って。今日は、あなたにも一緒に聞いてもらいたいから」
「……はい、ルミィ様」
リゼットは小さく一礼し、隣へ腰を下ろした。いつもなら私の後ろに立っている彼女が、同じ卓についている。それを確かめると、背筋を伸ばしていた肩から、ほんの少し力が抜けた。
手元には持ってきた資料。向かいには、ここで先に動いてくれていた人々。そして隣には、私の言葉をずっと聞いてきたリゼットがいる。
私は卓を囲む顔を一人ずつ見渡した。ようやく、直接話せる。紙と遠話でつないできたことを、今度はこの場で確かめていく番だった。
「まず、この会議の目的をお伝えします」
口を開くと、卓を囲む人々の視線が私へ集まった。背筋を伸ばし、手元の紙へ目を落とす。話したいことは多いが、今日は順番に確かめるだけでいい。そう自分へ言い聞かせ、一拍置いて続けた。
「今日は私たちが到着したばかりで、皆さんもやることが多いと思います。ですから、この場では課題と、それぞれの現在の状況、今後の計画を共有するところまでにしましょう。詳しい相談は、後日改めてミーティ……こほん。話し合う時間を設けたいと思います」
危ない。また同じ失敗をするところだった。咳払い一つで誤魔化せたはずだ。うん、きっと。私は何事もなかった顔で、手元の紙を一枚めくった。
「では、まず取り上げたい課題を確認します。天城案件では、技術提供に向けた研究と試作について。セレンディア案件では、領内の現状と、現在行っている対応、これからの復興についてです。このほかに、早急に対処すべきことはありますか?」
卓を囲む顔を見渡し、返事を待つ。今のところ追加の申し出はないようだ。ひとまず議題を増やさずに済んだことへ少し安堵し、私は次へ進むことにした。
「では、それぞれの進捗状況……こほん。今どこまで進んでいるかを確認しましょう。まずは天城案件から、よろしいでしょうか?」
まずい。「進捗状況」まで日本語で言ってしまった。日本で当たり前に使っていた言葉でも、ルミナの知識にある言葉とすぐ結びつかないと、つい向こうの言葉が口を突いて出る。横文字だけ気をつければいいと思っていた私、警戒する場所を間違えていませんか。
そっと周囲をうかがう。皆は続きを待っているようだが、エサソンだけは、何か言いたげにこちらを見ていた。……その視線は、今は見なかったことにしよう。
「では、天城への技術提供に向けた試作について、私からご説明します」
セリノアがそう言って立ち上がった。私は紙の端を押さえ、彼女へ顔を向ける。遠話で相談したことが、この数日でどこまで形になったのか。聞きたい気持ちが先走りそうになるのを抑え、報告を待った。
「まず、一セルほどのホムンクルスを作りました。それを使い、意識を移すために試作した魔法を試してみました」
思わず目を見開いた。もう試作した魔法を実際に使っているのか。理論の話を聞くつもりでいたのに、いつの間にか、結果の報告を受けるところまで進んでいた。
「意識を移し、身体を動かすことはできました。ただ、動かそうと意識してから、実際に動くまで一拍ほど間が空きます。感覚も全体に鈍く、触覚と痛覚は、かなり強い衝撃でなければ感じません。味覚は味が非常に薄く感じられ、視覚は少しぼんやりします。嗅覚は、まったく感じられませんでした。聴覚については、接続距離の問題と併せてご説明します」
動かせたという喜びが、報告を聞くうちに少し落ち着いた。反応が遅く、感覚も鈍いのでは、まだ自然に使えるとは言えない。それでも、この短期間でそこまで確かめられたのだ。前へ進んだことは素直に喜びたい。私は紙へ要点を書き留め、続きの報告を待った。
「ある程度離れると、接続は自然に切れてしまいました。そのため、聴覚を確かめられたのは、自分の身体でも音が聞こえる距離までです。聞こえた音がホムンクルスを通じて届いたものなのか、自分の耳で直接聞いたものなのか、まだ区別できておりません。試作についての報告は以上です」
なるほど。音が聞こえたからといって、聴覚の共有に成功したとは限らないのか。期待だけで答えを決めず、分からないことを分からないまま報告してくれる。その慎重さに、少し安心した。私は接続距離と聴覚の確認を紙へ書き添える。どこまで離れられるのか、切れたときに問題はないのか。確かめたいことは増えたが、次に調べるべきことも見えてきた。そして、天城の資料を使うとなると、もう一つ先に片づけるべき問題があった。
「ありがとう、セリノア。この短期間で、よくそこまで進めてくれたわね。正直、驚いているわ」
「ありがとうございます。ただ、私としては予定どおりです」
予定どおり。そうですか。思わず感心した私の驚きを、あっさり追い越していくのね。このチート一族め……。頼もしいのは間違いないので、文句は胸の内だけに留めておく。
「では、今挙がった問題を解消できたら、天城から届いた資料をもとに、アバターの身体を作ってほしいのだけど、お願いできる?」
「はい。ただ、その前に呼び方を確認させてください。これまでは姫様に合わせてホムンクルスと呼んでおりましたが、今後はアバターで統一してよろしいですか?」
私は一瞬、返事を忘れた。合わせていた? こちらの魔法で作る身体だから、てっきりホムンクルスという名前なのだと思っていたのに。
いや、だって、エサソンも普通にホムンクルスと言っていたでしょう? 私だけが勝手に名づけて、二人とも話を合わせてくれていたの?
説明を求めるつもりでエサソンへ目を向けると、彼は落ち着いた様子で眼鏡を直した。
「姫様のお話から、ホムンクルスとは、人の意識を移して動かす身体を指すのだと察しました。セリノアにも、そのように説明しております」
ええ、はい。私が言葉でつまずいている間に、こちらは意味を汲んで先へ進んでいたわけですね。ありがたい。ありがたいけれど、今だけは少し恥ずかしい。呼び方の話は、もうそれでいいことにしよう。
「ええ。今後はアバターで統一しましょう。それから、天城の資料を使う前に、もう一つ。まずはメートル法を覚えてもらいたいの」
「メートル法ですか?」
素直に尋ね返され、私は少しほっとした。今度はうっかり口にした言葉ではない。資料を正しく読んでもらうために、きちんと説明するつもりで出した言葉だ。ようやく、言葉に振り回される側から教える側へ戻れそうだった。
「日本で使っている、長さを表す単位の仕組みよ。さっき、試作したアバターは一セルほどと言ったでしょう? それが三十センチに当たるの。そして、一メートルは百センチ。天城の資料には、この単位で寸法が書かれているから、先に対応を覚えておいてほしいの」
「承知しました」
短い返事にうなずき、私は手元の紙を次の項目へ移した。研究の話はまだ聞きたいが、ここで夢中になっては会議が終わらない。今度は、この土地で暮らす人たちの話を聞く番だ。
「では続いて、セレンディアの状況を聞かせてください」
「はっ。僭越ながら、私からご報告いたします」
そう言って立ち上がったのは、エルフの青年だった。きびきびとした動きに、私は手元の紙から顔を上げる。先にこの地で動いてくれていた人の話だ。聞き漏らさないよう、姿勢を正した。
「お名前と、お役目を伺ってもいいですか?」
「はい。現在、エルフィネ魔導部隊の隊長を務めております、セリオス・アルヴェインと申します」
セリオスさんは軍人らしく、堂々と名乗った。頼もしい人が来てくれているのだと安心しかけたが、なぜかエサソンは胡散臭いものを見るような目を向けている。……何かあるの? 気にはなるけれど、今は報告を先に聞こう。
「では、セリオスさん。お願いします」
「どうぞ、セリオスとお呼びください、姫様。まず、エルフィネから食料を運び、住民へ配っております。備蓄はまだ多く、森の恵みも豊富ですので、エルフとこの町の者だけであれば、今年の冬は何とか越せる見込みです。また、配給の際には姫様のことを住民へお話しし、今回の食料も姫様からのものだと伝えております」
ひとまず食べるものはある。そのことに胸を撫で下ろした直後、続く言葉に頬が熱くなった。おおう、私からということになっているのか。実際に用意して運んでくれた人たちを前にすると、何だか申し訳ないような、気恥ずかしいような気分になる。
「では、食料については、ひとまず大きな問題はないと考えてよいのでしょうか?」
「いえ。冬を越せる見込みはありますが、楽観できるほどの余裕があるわけではございません」
なるほど。何とか越せる、という言葉を、心配ないと受け取ってはいけないのだ。予想外のことが一つ起きれば、見込みは崩れるかもしれない。私は食料の項目へ目を落とし、気を引き締めた。
「飲み水はどうですか? 井戸は無事でしょうか?」
「はい。井戸は使えます。川からも水を汲み、対応しております」
ああ、そうか。この町は大河に面しているのだった。水を得られる場所が残っていることに、少し肩の力が抜ける。その川を思い浮かべたところで、もう一つ気になった。
「漁のほうはどうですか? 船を私物化していた領主は、もういないのでしょう? それなら、住民が自由に船を出せるようになったのでは?」
「いえ、それが……。前の領主が逃げる際に、すべての船を燃やしてしまいまして」
「はぁ⁉ 何をしているの、そいつ⁉」
思わず声が跳ね上がった。ようやく漁を再開できると思ったのに、そのための船まで奪っていったのか。腹の底から怒りが湧く。視界の端でリゼットの目が光った気がしたけれど、今は気づかなかったことにしたい。
「どうやら、前の領主は人を支配すること自体に喜びを感じていたようです。町民が豊かになることも、快く思っていなかったのでしょう」
「……分かりました。それなら、船を造り直すことも課題の一つですね。……野垂れ死んでいろ、くそ領主め」
前半はどうにか落ち着いて言えた。後半は、胸の内に留めるつもりだったのに、口から漏れた。隣を見ると、リゼットの視線が先ほどより鋭くなっている。聞こえていましたか。ですよね。私はそっと紙へ目を戻した。
「では、当面の課題は、配給だけに頼らない食料の調達手段を確保することですね」
船のことを書き留めてから、エサソンへ目を向ける。失われたものに腹を立てていても、食料は増えない。今あるものを使って何ができるのか、そちらを確かめるほうが先だ。
「はい。ここからは私がご説明します。本日運んできた石灰、腐葉土、肥料などは、すべて倉庫へ移してあります。明日はそれらを畑へ運び、ネルカ芋の栽培に取りかかりたいと考えております。住民にも集まってもらい、調べてきた日本の農業について教えながら進める予定です」
そう、その作業には私も同行することになっている。紙の上で考えてきたことを、ようやく実際の畑で確かめられるのだ。楽しみではあるけれど、住民の食べるものにつながると思えば、浮かれてばかりもいられない。私は小さくうなずき、明日の予定を書き添えた。
「分かりました。当面の課題は共有できたと思います。ここからは、今後の計画について話しましょう。最終目標は、今の帝国の制度を壊し、新たな体制のもとで国を再建することです。その前段階として、帝国で疎まれている人々をこちらへ受け入れる方針は、すでにお伝えしたとおりです」
私は一度言葉を切り、皆の顔を見渡した。口にすれば簡単だが、人を受け入れる以上、その暮らしを支える責任も負う。理想だけで終わらせるわけにはいかなかった。
「ただし、そのためには、まずこちらの基盤を固めなければなりません。生産力を高めるとともに、隣国との和平を進め、交易を通じて足りないものを補うつもりです」
そこで一呼吸置いた。ここから先は、まだ誰にも話していない。目の前の課題だけでも手いっぱいなのに、その先まで見据えるのは贅沢かもしれない。それでも、再建した国で同じことを繰り返したくはなかった。
「その一方で、今の帝都――ヴァルディオンには、腐敗した貴族たちが集まるようにしたいと考えています」
言い切ると、エサソンがわずかに眉を寄せ、すっと手を上げた。疑問が出るのは当然だ。私は胸の内のためらいを押し隠し、続きを促すようにうなずいた。
「具体的な方法は後ほど伺うとして、なぜ、そのようなことをする必要があるのですか?」
答えようとして、わずかに口ごもった。理由を説明することは、これから自分が何を選ぼうとしているのかを、皆の前で認めることでもあった。
「そうね……日本にいた頃、私は世界史にも偉人にも、特別詳しかったわけではないの。でも、サブカルチャーを通じて覚えた考え方があるのよ。マキャヴェリの『君主論』に出てくる、残虐さの適切な使い方と、不適切な使い方……だったかしら」
「それは、どういう考え方なのですか?」
私は記憶をたぐりながら、言葉を選んだ。借り物の知識を口にすれば、自分の決断まで正しくなるわけではない。そのことだけは、忘れたくなかった。
「記憶は断片的だけれど、苛烈な処置は一度で終わらせて繰り返さず、民への恩恵は少しずつ与える、という話よ。たとえば、国を立て直すために粛清を行ったとしても、その後、邪魔な者が現れるたびに同じことを繰り返せば、人々はいつまでも安心して暮らせないでしょう? それでは、秩序を取り戻すどころか、かえって国を乱してしまう。私は、そういう意味だと受け取っているわ」
エサソンは眼鏡の位置を直し、私へまっすぐ視線を戻した。
「なるほど。つまり姫様は、帝国にはびこる腐敗貴族を一度に粛清するため、今のうちに一か所へ集めておきたい、ということですか?」
粛清。その言葉を他人の口から聞くと、胸の奥が冷えた。曖昧な説明で済ませたかったのかもしれない。けれど、ここで目をそらすわけにはいかなかった。
「ええ。私の統治が始まってから、粛清を繰り返したくはないの。だから、一か所に集めて、戦争の中で死んでもらうつもりよ」
自分の声が、思った以上に冷たく響いた。膝の上で指を握り込む。誰かの死を望む決断を、国のためという言葉だけで軽くするつもりはなかった。 エサソンは唇を引き結び、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「であれば、騎士たちも見極める必要がありますね。帝国が繰り返してきた侵略を見て、自分も略奪に加わりたいと望む者がいます。一方で、ただ自国を守るために戦いたいと考えている者もおります」
私は眉をひそめた。貴族だけの問題ではない。それでも、すべての騎士が略奪を望んでいるわけではないと聞いて、張り詰めていた胸にわずかな救いが生まれた。
「……騎士の中にまで、腐敗が広がっていたのね。分かったわ。国を守ろうとする騎士たちも、こちらへ迎えられるようにしましょう。具体的な方法は、改めて相談させてください」
エサソンは小さくうなずいたが、すぐには視線を外さなかった。
「ただ、姫様。腐敗した者を排除しても、それを生む仕組みが残れば、次の者が同じことをするだけです。誰を退けるかとは別に、権力や財源をどう管理するかも決めなければなりません」
私は膝の上で握っていた手をほどいた。人を入れ替えるだけでは足りない。その指摘から、目をそらすつもりはなかった。
「ええ。その仕組みも変えなければ、再建したとは言えないわね。そこは後日の話し合いで詰めるつもりよ。今日はまず方針を共有して、制度をどう改めるかは、改めて皆の意見を聞きながら決めたいの」
私は手元の紙を見直した。書き留めたことは、持ってきたときより増えている。会議を開けば課題が片づくわけではない。分かってはいたけれど、こうして並ぶと、なかなか容赦がない。
「では最後に、今回の課題を整理します」
紙の端を揃え、まずセリノアへ顔を向ける。
「技術開発では、アバターの反応の遅れと、感覚の鈍さを改善すること。それから、接続できる距離と、聴覚が本当に共有されているのかを確かめることです。接続が切れたときのことも、併せて調べたいと思います。天城の資料を使った身体の製作へ進む前に、寸法を読み違えないよう、メートル法も共有しましょう」
セリノアがうなずくのを確かめ、次に、食料について書いた箇所へ指を移した。
「セレンディアでは、配給を続けながら、自分たちで食料を得られるようにすること。明日は畑でネルカ芋の栽培に取りかかります。漁を再開するための船も必要ですから、造り直す方法を相談しなければなりません。井戸は使えるとのことですが、食料も水も、今の対応で足りているかは引き続き確かめてください」
食べることと、暮らすこと。その土台がなければ、どんな計画も紙の上だけで終わってしまう。私は一度、卓を囲む皆の顔を見渡した。
「その先に、人々の受け入れと、隣国との和平や交易があります。そして帝国をどう変えるか。誰をこちらへ迎えるのかだけでなく、同じ腐敗を繰り返さない制度も考えなければなりません。これらの具体策は、後日の話し合いで詰めましょう。今日は、取り組むべきことを共有するところまでです」
口にし終えて、ようやく息をついた。国を再建する。その言葉を、明日の畑や、失われた船や、試作した身体の不具合へと分けていく。今の私たちが進められるのは、そういう小さな一歩なのだろう。
「では、本日の会議はここまでにします。皆さん、ありがとうございました。それぞれの仕事へ戻ってください」
今度は私が先に椅子を降りる。リゼットが手を添えてくれたあと、皆も立ち上がり、卓の上の書類をまとめ始めた。椅子を引く音と、短く言葉を交わす声が、静かだった評議室へ戻ってくる。
私も紙を重ねかけたが、その前に、向かい側へ声をかけた。
「セリノア。このあと、少し時間はあるかしら? 技術開発について、もう少し話したいことがあるの」
書類を揃えていたセリノアの手が止まった。彼女はすぐに顔を上げ、うなずく。
「はい。大丈夫です。こちらで続きを伺いましょうか?」
「いいえ、私の部屋へ来てほしいの。話す前に、一度、日本への移動を体験してもらいたくて」
セリノアがぱちりと瞬きをした。次いで、その視線が手元の書類から、評議室の扉へ移る。
「日本へ、実際に行けるのですか?」
「ええ。さっき、私の部屋からもつながることを確かめたわ。向こうを見てもらってからのほうが、相談もしやすいと思うの」
「ぜひ、お願いいたします」
返事は早かった。先ほどまで落ち着いて報告していた彼女が、今は書類を抱え直し、私が歩き出すのを待っている。その様子を見ると、こちらまで少し嬉しくなった。
リゼットへ鞄を預け、私はタブレットを抱え直した。評議室を出ると、セリノアもすぐ後ろへ続いてくる。行きには道を覚えることで精いっぱいだった廊下を、今度は彼女と並んで歩いた。
「扉を通るだけで、向こうへ行けるのですよね?」
「そうよ。開いている間は、そのまま行き来できるわ」
答えると、セリノアは少し考えるように視線を落とした。その歩調が速くなりかけ、私へ目を向けた途端、元に戻る。気を遣わせているのは申し訳ないが、その分かりやすい期待に、思わず口元が緩んだ。
今日、彼女が話してくれたのは、こちらの魔法でできたことと、まだできないことだった。今度は私が、向こう側にあるものを見せる番だ。紙の寸法や言葉だけでは伝わらないことも、実際に目にすれば、きっと話しやすくなる。
やがて、自室の扉が見えてきた。リゼットに開けてもらい、セリノアを伴って中へ入る。彼女は室内を見回したあと、今通ってきた、ごく普通の扉へ目を向けた。先ほどは、この向こうに日本の玄関があったのだ。
帝国を変える話は、まだ始まったばかりだ。食料も、船も、制度も、今日の会議だけで答えが出たわけではない。それでも、同じ課題を前に話せる人たちがいる。そして今、この扉の向こうを見てもらいたい相手が、隣にいる。
「では、続きは向こうを見てからね」
私はそう言って、自室の扉を見上げた。世界をつなぐ準備はできている。あとは、まず――リゼットに頼んだ踏み台の出番だった。