TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
この度農業改革の描写を書いていた際に、帝国側の暦の設定を見直し、
日本と時間の流れを整える事にしました。
その際現在の帝国と日本の時間の流れを、帝国の春の月の開始を、
日本の立春として計算した所、
13話及び17話で日本が秋だと辻褄が合わなくなりましたため修正しました。
つきましては13話で秋と表現していた箇所を8月15日と修正しております。
今後日本での季節描写が出た際に、上記の事をご了承いただければ幸いです。
「ごめんなひゃい、ごめんなひゃい、もうやめてぇぇ」
「ルミィ様、言葉遣いは皇女らしく、ですよ」
事の発端は、踏み台に上って扉を開けようとしたことだった。ようやくドアノブに手が届くと喜んだ途端、背後から伸びてきたリゼットの手に、両頬をむにっとつままれてしまったのだ。
「あの、リゼットさん、これは?」
今なら誰かが止めてくれるかもしれない。私は頬をつままれたまま、助けを求めるように視線を向けた。
「ルミィ様は、ときどき乱暴な言葉をお使いになるのです。皇女としての品位を疑われかねませんので、こうしてたしなめております」
「確かに、それは必要」
「ちなみに、先ほどの会議中だけで二回、見過ごせない言葉遣いをなさいましたね」
あっさり賛同する声に、助けを期待した私が馬鹿だったと悟る。しかも回数まで数えていたのか。そんなところだけ律儀でなくてもいいのに。
「なんでセリノアまで同調してるのさ」
せめて味方でいてほしくて抗議したのに、セリノアは少しも迷う様子を見せなかった。
「上に立つ者として、品位は大切。特に、さっきのように人が集まる場所では」
うぅ、正論だけに言い返せない。私は反論を諦め、ようやく解放された頬をさすりながら扉へ向き直った。せっかくの意気込みがすっかりしぼんでしまったが、いつまでも拗ねてはいられない。ひと呼吸置いて気を取り直し、ドアノブに手を掛ける。日本の玄関を思い浮かべながら引くと、扉がわずかに開いた。そこでリゼットが代わりにドアノブを握り、そのまま扉を開けてくれた。
開いた扉の向こうに、見慣れた宮殿の廊下はなかった。狭い土間と、そこから一段高くなった床。壁際には靴箱があり、男だった頃に履いていた靴が、揃えるでもなく置かれている。間違いない。さっきと同じ、アパートの玄関につながった。
私が先にくぐると、リゼットが続き、最後にセリノアが敷居の前で足を止めた。室内へ視線を巡らせ、それから背後の宮殿を振り返る。いつもの淡々とした表情のままなのに、その動きだけは妙に慎重だった。
「……本当に、別の場所につながっている」
「ようこそ、日本へ。まあ、今見えているのは私の家の玄関だけだけど」
少し得意になって胸を張る。扉を開けるところでは散々な目に遭ったが、ここから先なら私の領分だ。セリノアは壁へそっと手を触れたあと、ようやくこちら側へ一歩踏み込んだ。
「ここでは、靴を脱いでね」
「脱ぐの?」
「うん。靴はこの低いところまで。上の床には、脱いでから上がって」
説明しながら自分の靴を脱ぐと、セリノアは私の足元と床の段差を見比べた。戸惑いつつも素直に従ってくれる様子に、私は少しほっとする。初めての異世界で、いきなり知らない作法を求められる。私も宮殿へ来たばかりの頃は、こんな気分だったのかもしれない。
玄関からは、細い廊下がまっすぐ伸びていた。突き当たりに扉が一つ。その左側の壁には、手前から三つの扉が並んでいる。幼い身体で見上げても、宮殿の廊下とは比べものにならない狭さだ。
「全部、ルミナの部屋?」
「この家は全部、私が一人で使っていたの。順番に案内するね」
口にしてから、少しだけ気恥ずかしくなった。宮殿では持ち主の顔が見えないほど広い部屋を与えられているのに、こっちでは玄関から奥まで、ほとんど一目で見渡せてしまう。けれど、この狭さが今は妙に落ち着いた。
まず、玄関から見て左側の、一番手前の扉を開けた。中には洗面台と洗濯機があり、その奥が風呂場になっている。セリノアは白い洗面台よりも、隣の洗濯機に目を留めた。
「この箱は?」
「洗濯機。服を洗うための道具だよ」
「この中で?」
「そう。この中に服を入れて洗うの。実際に使うところは、また今度ね」
扉の隙間から覗き込んでいたリゼットまで、洗濯機へ視線を向けた。二人に左右から見つめられると、いつもは洗濯物を放り込むだけの箱が、何だか大した代物に思えてくる。実演したくなったが、今始めたら案内が終わらない。
名残惜しそうな二人を促し、次の扉へ移った。
「二つ目はトイレ。使いたくなったら、先に私へ声をかけて。使い方を説明するから」
「お風呂とは、別のお部屋なのですね」
「うん。そして三つ目が、食事を作ったり食べたりするところ」
左側の最後の扉を開けると、四・五畳のダイニングキッチンが現れた。小さな流し台と調理台、その脇には冷蔵庫。食事用のテーブルまであるせいで、三人で入るには少し窮屈だった。
セリノアは入口に立ったまま、流し台からテーブルへと視線を動かす。
「ここで料理して、ここで食べる」
「そのつもりで借りたんだけどね。実際は、奥の部屋に持っていって食べることのほうが多かったかな」
「ルミィ様……」
リゼットの声に、私はそっと目をそらした。さっき言葉遣いで叱られたばかりなのに、今度は生活態度まで追及されそうだ。ここは余計な説明をする前に、次へ進もう。
「それで、突き当たりが寝室。仕事もそこでしていたの」
私は二人の間を抜け、廊下の奥へ向かった。こうして玄関から順に歩くのは久しぶりだ。今まで扉をつなげていたのは、その先の部屋だけだった。自分の家なのに、今日は少しだけ、案内するための場所に見えた。
突き当たりの扉を開けると、七・五畳の寝室兼仕事場が姿を現した。パイプベッドに、ノートPCを置いた机。座卓やテレビまで押し込まれたその部屋は、私がこれまで直接戻ってきていた場所だ。
「リゼットとは、今までここへ直接来ていたの。今日は扉の向きの関係で、玄関につながったんだ」
「それで、玄関から案内してくれた」
「うん。せっかく玄関につながったから、初めて来るセリノアには、入口から順番に見てもらいたかったの」
セリノアは小さくうなずいたものの、もう私を見ていなかった。部屋の奥には大きめのガラス窓があり、その向こうにベランダが見える。彼女の視線は、窓を越えてさらに外へ向いていた。
私もつられて目を向ける。向かいの建物と、その隙間に見える空。窓のそばへ寄れば、下の道路も見えるはずだ。見慣れた景色なのに、セリノアの横顔を見ていると、私まで落ち着かなくなってきた。
「外を、見てもいい?」
「もちろん。窓の向こうはベランダになっているの。ただ、身を乗り出さないでね」
窓の鍵を外し、ゆっくりと開ける。流れ込んできた外気に混じって、車の走る音が聞こえた。セリノアがぴたりと足を止める。私は彼女の横へ並び、その視線の先を追った。
道路を一台の車が通り過ぎていく。セリノアはそれが建物の陰へ消えるまで目で追い、次に通りかかった一台へ、すぐさま視線を移した。
「……馬がいない」
「あれは車。馬に引いてもらわなくても走れる乗り物だよ」
「あれも、その後ろのも?」
「そう。ここから見えるのは、みんなそう」
セリノアは黙った。驚いた声も、大げさな身振りもない。ただ、窓枠に添えた指へ、少しだけ力が入ったのが分かった。
しばらくして、彼女は道路から顔を上げた。並ぶ建物を順に見渡し、その向こうまで確かめようとするように目を細める。
「……この部屋の中だけじゃ、なかった」
その呟きに、胸の奥が小さく熱くなった。私にとっては帰ってくる場所でも、セリノアにとっては、今初めて目にする別の世界なのだ。
何か気の利いたことを言いたくなったが、やめておいた。今は説明よりも、見る時間が必要なのだろう。私は彼女の隣に立ち、いつもなら気にも留めない車の音を、しばらく一緒に聞いていた。
「さて、ここからが本題ね。遠話魔法でも話したとおり、今お願いしているものは、基本的にこの世界で、魔法を使えない人に使ってもらいたいの。だから、セリノアにも実際に日本へ来て、こちらの世界を感じてほしかったんだ」
私の言葉に、セリノアが振り向いて静かにうなずく。その落ち着いた反応に、少し肩の力が抜けた。目新しいものを見せるだけでなく、何のために作るのかも共有しておきたかったのだ。
「それで、私がどんなものを考えているのかと、接続に使う媒体の候補を説明するね」
「ええ。それ、気になっていた」
待っていた返事に、自然と口元が緩んだ。頭の中だけにあった構想を、ようやく具体的に伝えられる。私はタブレットを取り出し、目当てのページを開いた。
「まず、媒体の候補はこれ。VR用のHMDなんだけど」
AMAGI LINK VERSEの商品説明からアクセサリーの項目を開き、LINK VERSE VRゴーグルを見せる。そこには、実際に装着している人の写真も載っていた。
「なるほど、この絵のように使うのですね。それで、これを使って、どうやってアバターに接続するのですか?」
もっともな質問だ。ゴーグルの写真だけで、私の考えている仕組みまで伝わるはずがない。言葉を重ねるより、イメージを見てもらったほうが早いだろう。私は契約している動画配信サイトを開き、目当ての作品を検索した。
「まずはこれ。私のイメージに一番近いのは、この作品かな。フルダイブVRゲームを題材にした、有名なアニメなの。自分の意識を別の体に移して操作するイメージがぴったりだと思うよ。それから、もう一つ」
続けて、別の作品を検索する。今度はアニメではなく、機械が作り出した仮想世界を人々が現実だと思い込み、その中で支配されているという、ディストピアを題材にした映画だ。
「もう一つはこれ。ゲームではないけれど、身体は現実に残したまま、意識が仮想世界につながる作品なの。その感覚の参考になるかもしれないよ」
「その仮想世界と、私たちの世界は違うの?」
そこは、混同してほしくないところだった。私は画面から顔を上げ、セリノアへうなずく。
「うん。仮想世界は作り物だけど、セリノアたちの世界は実際に存在しているでしょう。私が目指しているのは、その世界にあるアバターへ、こちらに身体を残したまま接続すること。参考にしてほしいのは、接続した先で自分が見たり動いたりする感覚のほうだよ」
「なるほど。世界を作るのではなく、そこにある身体へつなぐのね」
うなずきかけて、念のため一つ付け加える。この二作品を参考にしてもらう以上、そこだけは誤解されたくなかった。
「それと、向こうに閉じ込める仕組みを作りたいわけじゃないからね。自分の意思で接続して、戻りたいときには戻れるものにしたいの」
「ええ。接続だけでなく、戻るところまで考える」
タブレットをセリノアへ渡し、簡単に操作を説明する。二作品ともお気に入りに登録してあるので、その一覧の開き方も教えた。興味を持ってもらえたら嬉しいが、つい作品の魅力まで語り始めそうになるのを、どうにかこらえる。
これは技術開発のためであって、布教活動ではない。……うん、少なくとも今のところは。
「なるほど。操作は、大体分かりました」
ほっとしたところで、肝心なことを思い出した。操作だけ教えて満足するなんて、我ながら抜けている。
「あ、そうだ。日本語が分からないと、作品を見ても内容が伝わらないよね?」
「大丈夫です。姫様が日本へ連れていってくださると伺っていたので、翻訳魔法を作っておきました」
あっさり返され、私は言葉に詰まった。そこまで準備してくれていたのか。ありがたいのに、案内役の私より用意がいいのは、少しだけ悔しい。
「そ、そうなんだ……。でも、まだ領主館にはWi-Fiをつないでいないから、今はここでしか見られないの」
ひとまず、もう一つの問題を挙げてみる。ところがセリノアは、困った様子もなく部屋を見回した。
「問題ありません。しばらく、ここに滞在します。幸い、寝具もありますし、お風呂とトイレも先ほど案内していただきました。食事だけ運んでいただければ、大丈夫です」
え、今、ここに泊まるって言った? 私は思わずベッドへ目を向けた。男だった頃の生活がそのまま残る部屋に、見た目は十代の少女であるセリノアが泊まり込む。今の私も少女の姿なのだから、傍目には何もおかしくないのだろう。けれど、部屋の持ち主としては、何とも落ち着かない。せめて、散らかしたものくらい片づけておけばよかった。
「では、お風呂やトイレの使い方を教えてください」
もう泊まることは決定事項らしい。戸惑っているのは私だけなのだと悟り、ひとまず頬をかく。まあ、使い方も分からないまま放っておくわけにはいかない。
「分かった。じゃあ、まずはトイレからね。タブレットは机に置いてきて」
セリノアが端末を置くのを待ち、私は廊下へ出た。リゼットも後ろからついてくる。玄関側へ少し戻り、左側の三つの扉のうち、真ん中を開けた。
狭い室内に三人で入るのは無理なので、二人には入口から見てもらう。私は便器の蓋を上げ、脇の紙と、タンクのレバーを順に指さした。
「ここに座って使うの。終わったら、この紙を使って、こっちのレバーを動かして流してね」
「流す?」
「見ていて」
レバーを動かすと、水音が小さな室内に響いた。セリノアがわずかに身を乗り出し、渦を巻く水を見つめる。リゼットも隣から覗き込んでいた。
「使ったあとに、こうして水で流すのね」
「そう。この紙は一緒に流していいけど、布やほかのものは入れないで。詰まったら困るから」
「承知しました」
真剣にうなずかれると、こちらまで妙に改まった気分になる。異世界への接続を考えている相手に、今はトイレットペーパーの説明をしている。その落差がおかしくて、少しだけ口元が緩んだ。
次は、玄関に一番近い扉だ。洗面台の前へ二人を案内し、蛇口を開けて見せる。
「手はここで洗ってね。使い終わったら、水はちゃんと止めて。石鹸と、手を拭くタオルはここ」
「水を運んでくる必要はないのですね」
「うん。この部屋では、ここをひねれば出るの」
リゼットが蛇口を見つめる横で、セリノアは自分でも開け、すぐに閉めた。水音が止まるのを確かめると、満足したように小さくうなずく。説明したことをその場で確かめてくれるので、教える側としても気が楽だった。
洗濯機の脇を抜け、奥の風呂場の扉を開ける。浴槽と、その手前の洗い場。壁にはシャワーが掛かっている。セリノアは浴槽を見てから、手に持てるようになったシャワーの先へ視線を移した。
「お湯に浸かる前に、こちらで身体を洗ってね。髪を洗うものと、身体を洗うものは別だから、使うときに迷わないよう並べておくよ」
「この小さな容器に、入っているの?」
「そう。それから、ここで着替えて、服とタオルは濡れない場所に置いておいて」
洗面台のある側を示してから、シャワーを手に取る。今の私には少し高い位置に掛かっていたので、リゼットがさっと外して渡してくれた。案内役まで手伝われるのは少々悔しいが、ここで背伸びして格好をつけても仕方ない。
「これは、こうして持って使うの。お湯を出すところはここ。最初は熱さを確かめてから使ってね」
シャワーの先を床へ向け、水を出す。細かな水の筋が広がると、セリノアの目がわずかに見開かれた。私は流れに指先を触れ、温度を調整してから彼女へ渡した。
「……雨みたい」
「ああ、確かに。浴びたいところへ向けられるから、便利でしょ?」
セリノアは濡れないよう袖を押さえ、空いている手を水へ差し入れた。その慎重な仕草を見ていると、当たり前の道具を一つ紹介するだけでも、連れてきた意味はあった気がする。
「止めるときは、さっきと逆に動かせばいいのね」
「うん。出しっぱなしにしないでね。浴槽にお湯をためるときは、底の栓を閉めてから。ため終わったら、お湯も止めること」
「どのくらいまで?」
「入りすぎるとあふれるから、今日は私が用意するところを見てもらおうかな」
説明しながら浴槽の栓を見せると、セリノアはシャワーを止め、今度はそちらへ顔を向けた。一つ理解するたび、次の疑問が出てくるらしい。面倒というより、知らないものをきちんと使おうとしてくれていることが嬉しかった。
「それと、床が濡れるから気をつけて。分からなくなったら、適当に触らず聞いてね」
「分かった。最初は確認する」
「私も、お湯の用意を覚えておきますね」
リゼットの申し出にうなずきかけ、私はふと、二人を案内している自分の姿を意識した。この家に人を招いて、風呂の使い方まで説明する日が来るなんて、男だった頃には想像もしなかった。
妙な気恥ずかしさは残る。それでも、セリノアがここで困らず過ごせるなら、それでいい。私は空いていた棚から清潔なタオルを取り出し、彼女の手へ渡した。
「ひとまず、これを使って。ほかに必要なものがあったら言ってね」
「ありがとう。これで、落ち着いて見られる」
何を、と聞くまでもなかった。セリノアはもう寝室のほうへ目を向けている。生活の準備が整った途端、関心はタブレットへ戻ったらしい。
私は苦笑して風呂場の扉を閉めた。どうやら、こちらの説明はひとまず合格だったようだ。
寝室へ戻ると、セリノアはタオルを畳んで脇へ置き、机の上のタブレットを手に取った。さっき教えた操作を思い出しているのか、画面に触れる前に一度だけ指を止める。それから、お気に入りの一覧を開いた。
「先に、こっちを見ればいい?」
「うん。最初に見せたアニメからでいいと思う。座卓に置けば、持ち続けなくても見られるよ」
私は座卓の上に残っていたものを、慌てて端へ寄せた。セリノアがここで過ごすなら、せめて画面を置く場所くらいは空けなければ。リゼットが空のカップを持ち上げたのを見て、後で片づけるつもりだった、という言い訳を飲み込む。
セリノアは床に腰を下ろし、タブレットを自分の前へ置いた。私も隣へ座り、画面を覗き込む。作品を選ぶところまでは、もう手伝う必要がなさそうだった。
「始めるのは、ここ?」
「そう。見ている途中で止めたくなったら、画面を触って、この印を押してね」
「分かった」
彼女の指が画面に触れる。ほどなく映像が動き始め、音が静かな部屋へ広がった。セリノアは少し顎を引き、タブレットへ目を据える。隣の私など、もう視界に入っていないようだった。
その集中ぶりに、何となく嬉しくなる。私が面白いと思っていたものを、誰かが隣で見ている。ただそれだけなのに、いつもの部屋が少し違って感じられた。
つい、ここはよく見てほしい、と口を挟みたくなった。けれど、何か言うたびに彼女の集中を切ってしまう。私は膝の上で両手を組み、余計な解説を始めないよう口を閉じた。
しばらくすると、セリノアが画面に触れた。映像と音が止まり、私は思わず背筋を伸ばす。何か分からないところがあったのだろうか。
「ルミナ。見るのは、身体を残している側と、つながった先の身体。その両方でいい?」
「うん。向こうで何が見えて、どう動けるのか。それと、こっちに残した身体がどうなっているかも、見てもらえると嬉しい」
「戻るところも」
「そう。そこも大事」
楽しんでもらえるだろうか、なんて考えていた自分が、少し恥ずかしくなった。セリノアは最初から、私の依頼を確かめるために見てくれている。もちろん、作品そのものも気に入ってくれたら嬉しいのだけど。
「ただ、作品の中の仕組みを、そのまま作ってほしいわけじゃないからね」
「分かっている。まず、どんな体験なのかを見る」
短く答えて、セリノアは再び映像を動かした。迷いのない指の動きに、もう操作の心配はいらないと分かる。私はそっと立ち上がり、リゼットのそばへ移った。
「しばらく、集中してもらおうか」
「ルミィ様も、ご一緒にご覧になるのかと思っておりました」
「見たいけど、隣にいたら先のことまで話しちゃいそうだから」
小声で白状すると、リゼットは声を立てずに笑った。私は少しだけ頬を膨らませ、それからセリノアへ目を戻す。
彼女は画面を見つめたまま、こちらのやり取りには振り向かなかった。まずは任せよう。そう思いながらも、初めて見る場面にどんな顔をするのか気になって、私はつい、もう一度だけその横顔を覗いてしまった。
それからしばらく、私はリゼットと部屋を片づけながら、セリノアの様子をうかがった。彼女は何話か続けて見たところで、タブレットに触れて再生を止めた。窓から差し込む光は、いつの間にか夕方の色へ変わっている。
セリノアが両手を膝に置き、画面から顔を上げた。その仕草を見て、私は片づけていたものを脇へ置く。ようやく感想を聞けそうだと思うと、少しそわそわした。
「何話か見てみて、どう?」
「ええ。まだ途中だけど、少しイメージがつかめてきた」
「作品のほうは、楽しめそう?」
気づけば、隣へ座り込んでいた。何の参考になったかを聞くべきなのに、最初に口から出たのは、ただの感想を求める言葉だった。セリノアは少し考えてから、私を見る。
「……面白かった」
「そっか!」
声が弾みすぎた。慌てて口元を引き締めたが、セリノアの目がわずかに細まる。見られた。これでは、開発の相談より布教の成果を喜んでいるみたいではないか。
「ルミナも、最初は続きが気になった?」
「うん。もう一話だけ、って見始めて、なかなかやめられなくなったよ」
「分かる気がする。私も、続きが気になっている」
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。研究の資料としてだけではなく、物語にも興味を持ってくれたらしい。つい先の展開まで語りたくなったが、どうにかこらえる。今日はまず、彼女の話を聞く番だ。
「もちろん。……で、セリノアは、どんなところが気になった?」
「自分がそこにいる、と感じるところ。説明を聞いたときより、ルミナの言いたかったことが分かった気がする」
私は小さく息を吐いた。楽しんでもらえたのも嬉しい。けれど、構想を伝えるために見せたのだから、その言葉には別の安堵があった。
「ただ、見えたものを送るだけでは、足りないのね。こちらで身体を動かそうとしたとき、向こうの身体が動く。そして、その結果をこちらで感じる」
「うん。画面の向こうを眺めるんじゃなくて、自分で歩いて、触っていると思えるようにしたいの」
「なら、行きと帰りの両方を考えないと」
一瞬、元の身体へ戻る話かと思った。だが、セリノアが自分の手を開いて閉じるのを見て、今言っているのは、動かす意思と返ってくる感覚のことだと分かる。
私には、こういう体験がしたい、としか説明できなかった。その曖昧な願いを、彼女は考えられる形に分け始めている。少し身を乗り出したところで、セリノアが静かに首を横へ振った。
「まだ、作れると言っているわけではないよ」
「分かってる。……そんなに期待した顔をしていた?」
「少し」
少しで済ませてくれたのは、彼女の優しさだろう。私は座り直し、膝の上で手を組んだ。映像を見ただけで答えが出るなら、苦労はしない。
「それから、戻れなくなること。まだ途中だけど、そこは怖かった」
「うん。だから、そこは真似したくないんだ」
「戻る方法は、つなぐ方法ができてから考えるのでは遅いと思う」
声はいつもと変わらなかった。けれど、その言葉に浮ついていた気持ちが静まる。接続できた、と喜ぶ前に、切り離せるのかを確かめる必要がある。私が口にした願いを、セリノアは開発の条件として受け止めてくれていた。
「そうだね。つながることと、無事に戻れること。両方そろって、初めて使ってもらえる」
「ええ。まずは何を確かめるべきか、整理してみる」
私はうなずいた。まだ仕組みはできていないし、できる保証もない。それでも、頭の中だけで膨らませていた構想を、同じ方向から考えてくれる相手がいる。そのことが心強かった。
話が一区切りつくと、セリノアは座卓のタブレットへ手を伸ばした。
「それで、もう一度見たいところがあるのだけど」
「どこ? 接続するところ?」
「いいえ。さっきは仕組みが気になって、話を追いきれなかったところ」
私は一瞬ぽかんとして、それから笑ってしまった。観察するだけでなく、物語もちゃんと気になっていたらしい。
「じゃあ、今度は一緒に見てもいい?」
「ええ。ただ、先のことは言わないでね」
釘を刺され、私は開きかけた口を閉じた。もちろん、と神妙にうなずきながら、再び彼女の隣へ座る。今度こそ余計な解説はしない。そう決めた私の顔を、セリノアは少しだけ疑わしそうに見ていた。
気になった箇所を一緒に見直していると、リゼットがそっと声をかけてきた。
「お二人とも、そろそろお食事になさいませんか」
顔を上げると、窓の外はもう薄暗かった。続きが気になるのは私も同じだが、今日は初めて日本へ来たセリノアを案内し、構想まで説明したのだ。彼女も気づかないうちに疲れているかもしれない。
「そうだね。今日は、いったんここまでにしようか」
「……ええ。続きは、あとで見られるものね」
返事の前に、ほんの少し間があった。その名残惜しさが嬉しくて、私は笑みを隠しながら立ち上がる。セリノアは再生を止め、今度こそタブレットを脇へ置いた。
リゼットが領主館から食事を運んできてくれる間に、私たちはダイニングキッチンのテーブルを整えた。狭い場所で椅子を引くと、それだけで互いの動きを待たなければならない。けれど、向かい合って夕食を食べ始めるころには、朝からの慌ただしさも落ち着いていた。
食後には、約束どおり二人に見てもらいながら風呂の湯を用意した。栓を確かめ、お湯を止めるところまで説明すると、セリノアは一つずつうなずいた。あとは彼女に任せ、私は寝室で、ベッドの上に放り出していたものを片づける。
戻ってきたセリノアへ、ここで使ってよい寝具を伝えるころには、私のまぶたも重くなっていた。
「私たちは領主館へ戻るね。困ったことがあったら、遠話魔法で呼んで」
「ええ。今日は、ありがとう」
「こちらこそ。続きも、楽しんでね。でも、今夜はちゃんと休むこと」
自分で言ってから、先ほどの会話を思い出す。もう一話だけ、と見続けていた私が言っても、説得力はないかもしれない。セリノアも同じことを思ったのか、口元をわずかに緩めた。
「ルミナもね」
私は素直にうなずき、リゼットと玄関へ向かった。領主館へつながる扉をくぐる前に振り返ると、セリノアが廊下の奥から小さく手を振っている。誰かをこの部屋に残して帰るのは不思議な気分だったが、さっきまでの気まずさは、もう薄れていた。
戻ってからはリゼットに寝支度を手伝ってもらい、ベッドへ潜り込んだ。何かが完成した日ではない。それでも、頭の中にしかなかった願いを伝え、一緒に考えてくれる相手を得た。その手応えを思い返しているうちに、今日一日の疲れがゆっくりと眠気へ変わっていく。
「おやすみなさい、リゼット」
「おやすみなさいませ、ルミィ様」
灯りが落ち、部屋が静かになる。セリノアは、ちゃんとタブレットを置いただろうか。最後にそんなことが気になったものの、確かめに戻る元気はなかった。私は小さく笑い、今度こそ目を閉じた。
◇ ◇ ◇
一方、アパートの寝室では、セリノアが座卓の前でタブレットを見つめていた。一区切りついた映像を止めても、指はまだ画面の近くにある。続きが気になる。確かめたいところもある。だが、次へ進もうとしたところで、ルミナの言葉を思い出した。
「……今夜は、ちゃんと休む」
自分へ言い聞かせるように呟き、画面を消した。急に静かになった部屋へ、窓の外から車の音が届く。昼間ほど頻繁ではないその響きを聞きながら、セリノアは立ち上がり、用意してもらった寝具へ向かった。
灯りを消し、布団を引き寄せる。慣れない寝床に横になっても、目を閉じれば映像の続きが浮かんだ。その間に、感想を聞いて声を弾ませたルミナの顔まで思い出される。
次に話すときは、もう少し自分の感想を伝えてみよう。そんなことを考えながら、セリノアは寝返りを打った。見直すのも、仕組みを考えるのも、休んでからでいい。座卓へ戻りたくなる気持ちを抑え、今度こそ静かに目を閉じた。