TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光に、私はゆっくりと目を開けた。見上げた天井は、領主館の寝室のものだった。昨日は日本へ行ったり戻ったりしたせいか、一瞬だけ、どちらの部屋で眠ったのか分からなくなる。
布団の中で手足を伸ばすと、まだ眠っていたい気持ちがむくむくと湧いてきた。けれど今日は、エサソンと畑へ行く約束がある。頭では分かっている。問題は、この身体がちっとも起きる気になってくれないことだ。
「……あと、ちょっとだけ」
誰にともなく交渉していると、扉が控えめに叩かれた。
「ルミィ様、失礼いたします。朝のお支度に参りました」
「起きてるわ……一応」
入ってきたリゼットは、布団から顔だけ出した私を見て、楽しそうに目を細めた。その笑顔を見る限り、一応では足りないらしい。私は観念して上体を起こす。
用意してもらった水で顔を洗うと、ようやく眠気が薄れてきた。リゼットは私の髪を丁寧に梳き、邪魔にならないようまとめてくれる。今日は畑へ出るので、服も動きやすいものを選んでもらった。
「本日は、土で汚れてもよいお召し物にしております」
「ありがとう。これなら、ちゃんと働けそうね」
「張り切りすぎて、お怪我をなさいませんように」
先回りした注意に、私は小さくうなずいた。役に立ちたいのは本当だが、幼い身体でできることには限りがある。少なくとも、昨日の扉の前のように、私を手伝うほうが大変なことにはしたくなかった。
支度を終えると、朝食にはパンと温かなスープが用意されていた。ちぎったパンを口へ運び、スープをひと匙飲む。空腹だったせいか、素朴な味がいつもよりおいしく感じられた。
食べ終えて席を立つころには、身体もすっかり目を覚ましていた。エサソンに会いに行く前に、私はリゼットと一緒に、セリノアへ朝食を届けることにした。昨夜はちゃんと休んだだろうか。それも少し気になっていた。
アパートへつながる扉を開け、声をかけてから奥の寝室を覗くと、セリノアはもう座卓の前にいた。タブレットから流れる音を聞きながら、じっと画面を見つめている。
「セリノア、おはよう。朝ご飯を持ってきたよ」
返事がない。少し待ってもう一度名前を呼ぶと、ようやく彼女の指が画面へ伸びた。
「……おはよう。ごめんなさい、ちょうど気になるところだったから」
「続きが気になるのは分かるけど、ご飯は食べてね。昨夜は眠れた?」
「ええ。起きてから、続きを見ていたの」
それなら、ひとまず安心だ。画面から目を離すのに少し時間がかかったあたり、ずいぶん夢中になってくれているらしい。嬉しくなった私は、にやけそうな口元をどうにか引き締めた。
「今日はエサソンと畑へ行ってくるね。何かあったら呼んで」
「分かった。気をつけて」
リゼットが朝食を並べ終えるのを待ち、私たちは領主館へ戻った。今ごろ、セリノアは食事を前に、再生してよいか迷っているかもしれない。そんな姿を想像すると笑えてきたが、こちらも今日の仕事に向かわなければならない。
今日は、収穫の月十八日。芋を掘りそうな名前の月だが、今回行うのは、日本でいう秋植えに当たる。ネルカ芋の収穫は霜の月になると聞いている。霧の月からは冬に入り、収穫を終えた畑で次の芋を植えられるのは、春の芽吹の月を迎えてからだ。
紅葉の月へ進めば、秋はさらに深まる。植え付けの時期を逃したら、次は春まで待たなければならない。荒れた畑を少しずつ戻していくにしても、今回の植え付けをいつまでも先延ばしにはできなかった。
エサソンは倉庫の前にいた。傍らの荷車には、日本から購入して運び込んだ苦土石灰や腐葉土、肥料の袋が積まれている。見慣れた日本語の印刷が、この世界の木造の倉庫を背景に並んでいるのは、やはり妙な眺めだった。
「おはよう、エサソン。もう準備はできているの?」
「おはようございます、姫様。畑へ運ぶ分は、揃えてあります。測定器もこちらに」
差し出された小さな包みを受け取り、中を確かめる。土の状態を調べるために買った測定器だった。袋の山を見上げていた私には、自分にも運べる荷物があるだけで、少し気が楽になった。
「これは私が持つわ」
「ええ。ですが、袋を運ぼうとはなさらないでください」
「まだ何も言ってないでしょう」
「言われる前に申し上げておくほうが、確実ですので」
今朝のリゼットといい、どうして皆、私が無茶をする前提なのか。そう思ったものの、目の前の袋を今の私が持ち上げられるはずもない。私は反論の代わりに、包みをしっかり抱え直した。
荷車の積み荷を確かめ終えると、エサソンが出発を促した。手伝いの者たちが荷車を動かし、私はリゼットとその横を歩く。袋がずれないか見守っていたエサソンも、すぐに隣へ並んだ。
「今日は、ネルカ芋の畑だったわね」
「はい。まずは現地の土を確かめ、住民の皆さんとも話をする予定です」
「分かった。私にもできることがあったら、教えて」
エサソンはうなずいた。昨日は、まだ形のない構想をセリノアへ伝えた。今日は、買い揃えたものを実際の畑へ持っていく。どちらも、それだけで問題が解決するわけではない。けれど、考えているだけでは始まらないのだ。
道の凹凸を越え、荷車の車輪がごとりと鳴った。私は腕の中の包みを抱え直し、畑へ続く道へ目を向けた。
建物の並びを抜けると、視界が開けた。道の先には、畑として使われてきた土地が広がっている。近づくにつれ、畦のそばに集まった人々の姿が見えてきた。鍬を手にした者もいれば、隣の者と小声で話している者もいる。私たちに気づくと、その会話が順に途切れていった。
荷車が畑の手前で止まる。車輪の音が消えた途端、こちらへ向けられる視線が、急に近く感じられた。昨日まで何度も説明を聞いていたのに、いざ住民を前にすると、何から話せばよいのか分からなくなる。
私は包みを抱える腕へ、少し力を込めた。エサソンが半歩前へ出る。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。本日は畑の状態を確かめ、これまでの栽培についてお話を伺います。姫様も、ご一緒に作業をご覧になります」
姫様、という呼びかけに、人々の目が私へ移った。前に立っていた年配の男が帽子を取り、深く頭を下げる。それにつられるように、周囲の人々も姿勢を正した。
「おはようございます、殿下。このような場所まで、お越しいただきまして……」
「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」
私はできるだけはっきりと返した。声が高いのは仕方ないが、せめて皆に届いてほしい。ところが男は、まだ頭を下げたままだった。後ろの人々も、こちらの様子をうかがっている。
「どうぞ、顔を上げてください。畑のことを教えていただきに来たのですから」
男が恐る恐る顔を上げる。その目に残る戸惑いを見て、胸の奥が少し重くなった。笑って挨拶をしただけで、警戒が解けるはずもない。私が皇族であることは、この人たちにとって、安心できる理由とは限らないのだ。
気の利いた言葉を探しかけ、やめる。ここで必要なのは、立派な演説ではないだろう。
「私は、畑仕事には詳しくありません。分からないことをたくさん聞くと思いますが、普段どのように作っていたのか、教えていただけますか?」
「は、はい。私どもに分かることでよろしければ」
ぎこちない返事ではあったが、男の肩がわずかに下がった。それを見て、私も少しだけ息をつく。すぐに打ち解けなくてもいい。まずは、話してもよい相手だと思ってもらえれば。
そのとき、後ろにいた女性が、私の腕の中へちらりと目を向けた。視線を追って、抱えたままの包みに気づく。挨拶の間も、妙に大事そうに持ち続けてしまっていた。
「これは、土の状態を調べるために持ってきた道具です。……私が運べる荷物は、このくらいなので」
最後の一言は、言わなくてもよかったかもしれない。だが、女性の口元がふっと緩んだ。すぐに笑みを引っ込めようとするのを見て、私はこちらから小さく笑ってみせる。
「袋のほうは、エサソンに止められてしまいました」
「止めなければ、お持ちになるつもりだったように聞こえますが」
「持てるかどうか、考えただけよ」
横から返された言葉に、私は思わずエサソンを見上げた。彼はいつもの顔で、荷車の袋へ目を向ける。住民たちの間から、短い笑いが漏れた。
笑っても大丈夫なのか、まだこちらの反応を確かめているような笑いだった。それでも、先ほどの張り詰めた静けさより、ずっと話しやすい。
「何かお手伝いできることがありましたら、仰ってください」
「ありがとうございます。重いものを運ぶときは、お願いすると思います。ただ、無理はしないでくださいね」
年配の男の申し出に礼を返すと、彼は荷車のそばへ寄った。エサソンが手伝いの者たちと荷物を下ろす場所を相談し始め、ほかの住民もその話へ加わっていく。
私はリゼットに包みをいったん預け、畦の手前へ進んだ。目の前にあるのは、帳簿の数字でも、画面の中の写真でもない。この人たちが耕し、暮らしを支えてきた土地だ。足元を確かめて立ち止まると、先ほどの男が隣へ来てくれた。
「こちらが、ネルカ芋を作っていた畑でございます」
「ここなのですね。これまでのことを聞かせてください」
男がうなずき、畑へ手を差し向ける。私はその指先を追い、気持ちを引き締めた。
男が指した先には、畦に沿って草の伸びた区画があった。その隣は、ところどころ土が掘り返されている。どこまでが使える畑で、どこから手を入れる必要があるのか、眺めただけでは私には分からなかった。
「以前は、この辺りも全部使っていたのですか?」
「はい。こちらから奥の畦まで、ネルカ芋を作っておりました。ただ、今は手を入れられておらん場所も多くて……」
「人手が足りないのでしょうか」
「それもございます。まず食べるものを探さねばならんので、畑だけに掛かりきりにはなれませんでした」
男は手にした帽子の縁を撫でた。言い訳をしていると思われないか、気にしているようにも見える。私はうなずき、続きを待った。
「草を取って、土を起こして、植えても、すぐに食べられるわけではございませんから。やらねばならんとは分かっていても、どうしても、その日の食い扶持が先になりまして」
胸の奥がちくりとした。昨日の私は、明日は畑へ行くのだと楽しみにしていた。この人たちは、その畑へ出る時間さえ、その日の食い扶持を得るために使わなければならなかったのだ。
働けば食べられる。そんな簡単な話ではない。食べなければ、働き続けることもできないのだから。
「今は配給があります。その間に、少しずつでも畑へ戻れそうですか?」
「はい。それで、昨日からこちらの草を取っておりました。皆で相談して、まずは道に近い場所からと」
荷下ろしの相談を終えたエサソンが、私の隣へ戻ってきた。男の指した区画を確かめ、畦の向こうへ視線を移す。
「すべてを一度に戻すのではなく、手を入れられる場所から始めたわけですね」
「ええ。広げるだけ広げて、面倒を見切れんようになっても困りますので」
私は草を取り除かれた土へ目を落とした。荒れた畑だと思って見ていたが、ここにはすでに、栽培を再開しようと働いた跡がある。私たちを待つばかりではなく、住民たちは自分たちにできることを始めてくれていたのだ。
「植えるための芋は、用意できていますか?」
エサソンの問いに、男は集まった人々のほうを振り返った。先ほど私の包みを見ていた女性が、一歩前へ出る。
「各家に残っている分を、持ち寄る相談はしております。ただ、どれだけ集まるかは、まだ……」
「食べる分とは、別にしてあるのでしょうか」
「残しておけた家もございます。ですが、食べてしまった家も。子供が腹を空かせていれば、次に植えるためだからと取っておくのは、なかなか」
女性はそこで言葉を切り、目を伏せた。私は慌てて首を横に振る。
「責めているのではありません。足りないものを知りたいのです。今ある分を確かめて、足りなければ、どう用意するか考えましょう」
女性が顔を上げる。安心させたくて口にしたものの、何でも用意できると約束したわけではない。日本から物を運び込めば解決する、と考えるのは早すぎる。ネルカ芋まで、向こうの店で売っているわけではないのだから。
異世界の主食、お取り寄せできますか。……できたら、私もこんなに悩んでいない。
「道具のほうはいかがですか。今日お持ちになったもの以外にも、使えるものはありますか?」
「ございますが、傷んだものもあります。皆で貸し合えば何とか。ただ、同じときに使いたいとなると、足りんこともあるでしょうな」
男の答えを聞き、エサソンは持参した紙へ書き留めた。植えられる量は、畑の広さだけでは決まらない。人手も道具も、植える芋も確かめる必要がある。
「まず、使える道具と持ち寄れる芋を確認しましょう。作業に出られる方についても、皆さんでご相談いただけますか。無理のない時間で構いませんので」
「それなら、私が聞いてまいります」
女性がそう申し出ると、そばにいた住民も、道具なら見てこられると声を上げた。一人で受け答えをしていた男が、そのやり取りにほっとしたように息をつく。
私は畑と、荷車から下ろされた袋を交互に見た。買い物は済んだ。だから今日は植えるだけ。頭のどこかにあったそんな気軽さが、少しずつ剥がれていく。
それでも、やるべきことが見えてきたのは確かだった。エサソンの紙に並ぶ項目を背伸びして覗くと、彼が黙って少し下げてくれる。
ありがたい。ありがたいけど、今は住民の前なので、その気遣いがちょっとだけ悔しい。
「それから、これまでの植え方も教えてください。持ってきたものを使う前に、皆さんのやり方を知っておきたいのです」
「はい。でしたら、こちらをご覧ください」
男が鍬を手に、草を取り終えた区画へ向かった。私はリゼットに見守られながら、畦を進んであとを追う。教える前に、まずは教わるところからだ。
男は私たちが離れたのを確かめ、鍬を土へ入れた。固まった土を何度か起こし、こちらを向く。
「草を抜いて、芋を埋められるくらいに土を掘ります。大きな石は邪魔になりますので、見つけたら退けておきます」
男が小石を拾い、畑の外へ置く。簡単そうに見えるが、これを畑一面で繰り返すのだ。私は鍬を持つ腕へ目をやった。
「次に、植える場所を決めるのですか?」
「はい。穴を掘って、芋を入れて、土を戻します。昔から、そうして作っております」
男は鍬の先で穴を作り、少し離れた場所をもう一度掘った。深さも間隔も、見たところ揃ってはいない。
「間隔は、何かで測るのでしょうか」
「いえ、その辺りは適当に。隣の芋と重ならんくらいに離しておけばよいかと」
「うちも同じです。父が掘った穴の横を、真似して掘っておりました」
後ろから女性が補足すると、男が小さく笑った。
「親のやることを見て覚えるものですからな。家ごとに、多少は違うでしょう」
見よう見まねで受け継いできたやり方らしい。私も真似できるだろうか。……その前に、鍬を持てるかが問題だった。
覗き込んでいると、リゼットに袖を引かれた。近づきすぎたらしい。一歩下がり、両手を背中へ回す。触りませんよ。見ているだけですよ。
「植える芋は、どのようなものを選ぶのですか?」
「食べずに残しておいた芋を使います。腐っておるものは避けますが、ほかは手元にあるものを。芽が出ていれば、折らんように埋めます」
実物がないので、男は穴へ芋を置く仕草をし、脇の土を戻した。穴が隠れ、植え終わりの形になる。
「かぶせる土の量も、いつも同じくらいですか?」
「芋が隠れるくらいでございます。深さまでは気にしたことがありません。父も、その父も、こうしておりましたので」
男が困ったように自分の手へ目を落としたので、私は首を横に振った。
「見せていただければ助かります。私には、その『いつもどおり』が分かりませんから」
何を目安に、どこまで掘るのか。尋ねても、返ってくるのは「昔からこうしている」という答えだった。暮らしを支える仕事でも、その理由まで確かめる機会はなかったらしい。
エサソンが土をかぶせる動きをもう一度見せてもらい、書き留める。続いて、周囲へ尋ねた。
「この場所には、以前からネルカ芋を植えていたのですか?」
「はい。毎年ここへ。掘った芋を少し残して、また同じ畑へ埋めます」
「うちもそうです。ネルカ芋の畑ですから、ほかのものを植えようとは思いませんでした」
別の男も、当然のことのようにうなずいた。エサソンが紙から顔を上げ、私と目を合わせる。
「年によって、別の作物に替えることはないのですね?」
「替える、のでございますか? 芋が欲しいのに、なぜ別のものを……」
男は本気で不思議そうだった。どうやら、作物を順に替えて育てるという発想自体がないらしい。日本で調べたやり方を、知っていて当然のように話してはいけない。私は説明を急がず、その答えをエサソンに控えてもらった。
「植えたあとは、どのような世話をしていたのですか?」
「草がひどくなれば抜きます。あとは雨が降って、育ってくれれば。芽が出んこともございますが、掘って確かめて、駄目なら残りの芋を埋め直します」
「様子がおかしかった場所も、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。奥のほうは、あまり芋が取れません。雨のあとに水も残りますが、土が悪いのか、何なのか……私どもには分かりませんで」
男の話へ、ほかの住民も経験を付け足していく。育ちにくい場所は知っていても、なぜそうなるかは分からない。取れなければ、次は取れてほしいと願い、また同じように植える。その繰り返しだったらしい。
それでも、何も知らない人たちだとは思わなかった。厳しい暮らしの中で、親から教わったやり方を頼りに食べ物を作ってきたのだ。足りない知識を補うのが、こちらの仕事だろう。
買ってきた袋へ目をやる。道具や資材を渡すだけでは足りない。私は男の掘った穴を指した。
「ありがとうございます。まず、今のやり方と、困っていたことを書き残しましょう。そのうえで、少しずつ確かめていきたいのです」
エサソンが紙を持ち直す。男が鍬を置いてしゃがんだので、私も隣で膝を折った。どこでよく育ち、どこで育たなかったのか。長く耕してきた人の経験を、もう少し聞かせてもらおう。
話を詳しく聞くと、同じ畑でも困り方は違っていた。奥の区画では雨のあとに芋が腐りやすく、道に近い場所では、芽が出ても小さな芋しか取れなくなっているという。
「昔から、同じくらいしか取れなかったのですか?」
「いえ。私が父と耕しておったころは、もう少し取れました。食べる分も、次に植える分も残せたものですが」
男の答えに、隣の女性もうなずいた。
「少なくなったから、翌年は穴を増やしたんです。でも、植える芋が足りなくて。小さいものまで使いましたが、思ったほどには……」
取れないから多く植える。多く植えたいから、残せるものは何でも埋める。それでも取れず、次に残せる芋がさらに減る。話を聞くほど、困り事が一つずつつながっていく。
「草取りも、皆で同じ日にするのですか?」
「手の空いた者が、その都度です。誰かが済ませたと思って、行き違いになることもございます」
エサソンは最後の答えを書き留めると、紙を皆のほうへ向けた。文字を読めない者にも分かるよう、項目を指しながら声に出す。
「整理しましょう。まず、植える芋と、作業に使える道具が足りない。次に、水の残る場所がある。植える深さや間隔は人によって違い、同じ場所で作り続けています。そして、どこを誰が世話したのか、皆で確かめる仕組みがない」
並べられると、ずいぶん多い。私は紙を見上げ、思わず眉を寄せた。
「全部、今日中に直すのは難しそうね」
「ええ。ただし、今日は収穫の月十八日です。秋植えに適した時期は、日ごとに過ぎていきます。収穫が減った原因をすべて解明するまで待たず、今植えられる土と、使える芋を先に確かめましょう」
エサソンがそう言うと、住民たちの表情がわずかに緩んだ。畑の問題を並べられ、叱られると思っていたのかもしれない。
「皆さんの経験をもとに、まず小さな区画でやり方を確かめましょう。これまでの仕事を、すべて間違いだったと申し上げているのではありません」
年配の男が、自分の鍬へ目を落としてからうなずいた。私はその隣で、ようやく膝を伸ばす。聞くためにしゃがんでいただけなのに、もう足が疲れていた。畑仕事、本番前から手強い。
エサソンは鍬を借りると、まず水の残る区画を指した。
「まず、雨水がどちらへ流れるかを確かめます。日本の芋では、水はけの悪さが腐敗につながることがあります。ネルカ芋でも、それが原因になっていないか見ておきましょう」
「溝を掘ればよいのでしょうか?」
「水の行き先があれば。ただ掘るだけでは、溝に水が溜まるだけです。隣の畑へ流し込んでしまっても困りますからね」
男が畦の外にある古い排水溝を教えてくれた。草と土で埋まりかけているが、以前はそこへ水を逃がしていたらしい。知らなければ、新しい溝を掘るところだった。
「そちらを先に確かめましょう。それから、植える場所の土を少し高く盛り、水の残り方を見ます」
次にエサソンは、男が先ほど掘った穴のそばへ棒を置いた。
「ネルカ芋は日本のジャガイモに性質が近いと考えています。まずは、その秋植えを手本にしてみましょう。ただし同じ作物ではありませんので、皆さんの経験も参考にします。深さと間隔は日本の資料を目安に、棒と紐へ印を付けて揃え、育ちを記録します」
「穴を増やせば、取れる芋も増えると思っておりましたが……」
「近づけすぎれば、育つ場所を取り合うこともあります。数を増やすことと、収穫を増やすことは、必ずしも同じではありません」
なるほど。私も、たくさん埋めればたくさん取れる、くらいに考えていた。住民たちと一緒にうなずいていると、エサソンと目が合う。はい、聞いています。私も受講者です。
「また、日本では同じ種類の作物を作り続けることで、病気が増えたり、収穫が減ったりする場合があります。そのため、違う作物を順番に育てるやり方があります」
「では、ここにも違うものを?」
「候補は考えます。ただ、ネルカ芋について、どの作物との組み合わせがよいのかは、まだ分かりません。すぐに畑全体を変えず、どこへ何を植えたかを残すところから始めましょう」
エサソンは指先で紙に区画を描き、そこへ小さな印を付けた。文字を読めなくても、畑の形と印なら照らし合わせられる。
「腐った芋や、傷みのひどい芋は分けましょう。日本の秋植えでは、切った種芋が傷みやすいため、小ぶりなものを丸ごと植えます。今回はそれにならい、芽を傷つけずに植えられる芋を選びましょう。足りないからと、傷んだものまで混ぜないでください」
芋についての説明を終えると、エサソンは荷車から下ろした袋を示した。
「土づくりも、日本のジャガイモを手本にします。まずpHを測り、石灰が必要か確かめましょう。買ってきた資材を全部、同じように撒くわけではありません」
私は包みを開き、測定器をエサソンへ渡した。彼は使い方を確かめ、植え付けを考えている場所から土を採る。測定器についた土を落としては場所を変え、表示されたpHを区画の図へ書き込んでいった。同じ畑でも、結果は一様ではなかった。
「日本のジャガイモなら、弱酸性、pH五から六ほどを目安にします。こちらはその範囲に収まっていますが、向こうの小区画は、それより酸性が強いようです」
「なら、そちらへ石灰を入れるのね?」
「必要な分だけです。石灰を入れすぎてpHを上げすぎると、日本のジャガイモでは、そうか病が出やすくなります。ネルカ芋にも同じ危険があるかもしれませんので、慎重に扱いましょう」
エサソンは酸性の強かった小区画に印を立て、苦土石灰を量って薄く撒く手順を見せた。住民が鍬で土へ混ぜ込み、私は使用量を控える。その場所では今日は植えず、土が落ち着いてから測り直すことになった。秋植えに間に合わなければ、春に向けて整えておく。
「急ぐなら、石灰を入れてすぐ植えればよいのでは?」
「急ぐからこそ、今日植えられる場所を選ぶのです。土の準備に時間が要る場所まで無理に使って、芋を失っては困ります」
今日植えるのは、酸度と水はけを確かめた区画だ。十分に腐熟した腐葉土を少量混ぜ込み、固まった土をほぐす。芋向けの肥料も袋の説明に沿って量り、種芋へ直接触れないよう土と混ぜた。住民にも量り方を見てもらい、袋からむやみに撒くことはしなかった。
「腐葉土は土の状態を整えるため、肥料は養分を補うために使います。どちらも多ければよいわけではありません。今回は試す区画を限り、使ったものと量を残しましょう」
私は記録の紙へ、酸度、腐葉土、肥料と書き足した。石灰を使った場所には別の印を付ける。袋の名前だけは知っていたが、どれも畑に撒けばよい魔法の粉ではないらしい。
「では、この手順で、植え付けまで一緒に進めましょう」
実演を見ていた住民たちも、それぞれの持ち場へ向かった。道具と芋を運ぶ者、排水溝の草と土を取り除く者、畝を作る者に分かれ、エサソンも鍬を手に作業へ加わる。無理に全員を揃えず、手の空く時間に交代することになった。
水の逃げ道を整えたあとは、準備のできた区画に畝を作り、目安を付けた紐に沿って、小ぶりなネルカ芋を丸ごと植えた。石灰を使った場所は植えずに残し、腐葉土や肥料を使った試験区には印を立てる。作業は広げすぎず、今日植えられるところを確実に仕上げた。
私の仕事は、小石を拾うことと、区画の印をエサソンの紙へ書き写すことだった。鍬の出番は、ない。残念だが、リゼットが安心した顔をしているので、今日はその役割で我慢する。
ひと区切りつくころには、荒れた畑の一角に畝が並び、次に世話をする人と日も決まっていた。畑全体から見れば、ほんの一部だ。それでも、年配の男が紐の印の使い方を隣の者へ教えている姿に、少し嬉しくなった。私たちが帰ったあとも、作業を続けられそうだった。
道具を片づけ、住民たちに礼を伝えてから、私は畦の端で手についた土を払った。エサソンは紙を畳みかけ、何か思い出したようにこちらを見る。
「姫様。次の作付けについて、一つご相談があります」
「ネルカ芋を収穫したあとに植えるもの?」
「いえ、芋の畑とは別の区画で、紅葉の月に合わせて麦を植えたいと思っております。今日の芋は霜の月の収穫を見込みますので、同じ畑では間に合いません。ただ、帝国で使われている麦では、陽光の月の収穫量に不安が残ります」
植えたばかりの芋が、まだ芽を出してもいないうちから、もう別の作物の話だ。けれど、収穫を見てから準備を始めていては遅いのだろう。私はうなずき、先を促した。
「それなら、日本の種を使ってみるの?」
「はい。こちらで育つかは確かめる必要がありますが、候補を調べるつもりです。ただ、日本の種について読むと、F1種と固定種という区別が出てきまして。どちらを選ぶべきか迷っております。麦でどのような種が手に入るかも、これから確認しなければなりませんが」
「……エフワン?」
私は手についた土を払うのをやめた。
エフワン。F1。フォーミュラー1。頭の中で、その三つが滑らかにつながる。いや、滑らかにつながってはいけない。今、麦の話をしていたよね?
畑を見渡す。広い土地。道づくり。日本の技術。まさか、この男――。
「エサソン。ちょっと待って。ここにサーキット場を作るつもりなの?」
エサソンの手が止まった。
「……何を作ると仰いました?」
「サーキット。F1を走らせるところ。麦を植えたいんだよね? どうして急にフォーミュラー1? 収穫量に不安があるからって、観光収入で補う方向へ行くのは、さすがに早すぎない?」
リゼットが私とエサソンを交互に見た。彼女も理解できていないらしい。大丈夫、私もだ。
つい先ほどまで、畑の一角を整えるので精いっぱいだった。なのに今、私の頭の中では、麦畑の横を猛スピードの車が駆け抜けている。
帝国の再建、いつからモータースポーツ事業になったの?
「姫様。その、ふぉーみゅら何某とは、何でしょうか」
エサソンは眼鏡の奥で目を細めた。呆れているというより、本当に知らない言葉を聞いた顔だった。
「え? だから、F1のこと。車で速さを競う……」
「車ですか。私は先ほどから、畑へ植える種子の話をしておりますが」
車と種子。頭の中へ並べてみても、どう頑張ったところでつながらない。いや、そもそも、つなげる必要がないのでは?
「……同じ名前の、別のもの?」
「姫様がお考えのものは存じませんので、同じ名前なのかまでは分かりません。ただ、私の申し上げたF1種に、走るための場所は必要ありません」
きっぱりと言い切られ、頭の中を走っていた車がようやく止まった。なるほど。サーキットは建設されない。私の脳内以外では。
「じゃあ、その種のF1って、何なの?」
「異なる親の系統を掛け合わせて得られる、一代目の種子です。日本の説明では、一代交配種とも呼ばれています」
エサソンは畳みかけていた紙を開き直し、余白へ丸を二つ描いた。その下へ線を引き、もう一つ丸を描く。
「この二つが親で、下がその子です。親の組み合わせによって、望ましい性質を併せ持つ品種を作るわけですね。生育や収穫物の揃いがよいものもあります」
「なるほど……それなら、そっちを植えればいいんじゃないの?」
分かった途端に話を進めたくなった私を、エサソンが静かな視線で止めた。どうやら、まだ授業は終わっていないらしい。
「ただし、そこで育てた作物から種を採っても、次の代で同じ性質が揃うとは限りません」
「種は採れるけど、同じものになるとは限らない?」
「ええ。一方、固定種は、世代を重ねて性質が安定したものです。ほかの品種との交雑などに気をつけて種を採れば、特徴を受け継ぎやすい。こちらで種を残して栽培を続けるなら、その点は考えておく必要があります」
ようやく、エサソンが迷う理由が見えてきた。目の前の収穫だけでなく、次に植える種まで考えているのだ。私は車のことしか考えていなかった。差がひどい。
「日本から買い続けられるかも、分からないものね」
「はい。ただ、固定種なら必ずよく育つ、という話でもありません。F1かどうかだけでなく、候補の麦がこの土地と季節に合うか、手に入るかを調べる必要があります。まずは少量で試すつもりです」
「分かった。収穫と、次に残せる種。その両方を考えるのね」
エサソンがうなずいた。私も神妙な顔でうなずき返す。ついさっきサーキットを持ち出した者としては、せめて最後くらい、理解のある顔をしておきたかった。
だが、隣で聞いていたリゼットが、不思議そうに首を傾げる。
「では、ルミィ様のお考えになったF1は、畑には植えられないものなのですね?」
「うん。そっちは植えない。走るだけ」
「……何が走るのかは、またの機会に伺いましょう。今は麦へ戻っていただけますか」
エサソンはまだ、私の知っているF1が何なのか、さっぱり分かっていないらしい。それでも、農業の相談に必要ないことだけは、正確に理解したようだった。
「戻るわよ。もう畑から出ないから」
そう答えると、リゼットが口元を押さえた。エサソンは何も言わず、紙を畳む。
知識を持ち込む側のつもりで来たのに、今日はずいぶん教わってしまった。私は土のついた指先を見つめ、次に日本へ戻ったら、種の袋もちゃんと読もうと心に決めた。
少なくとも、そこにサーキットの建設予定は書いていないはずだ。
畑を離れるころには、足を持ち上げるのが少し億劫になっていた。帰り道は来たときと同じはずなのに、領主館がずいぶん遠い。私は荷車の横を歩きながら、せめて歩幅だけは落とすまいと努めた。
「ルミィ様。お疲れでしたら、抱き上げましょうか?」
「まだ歩けるわ。今日は小石を拾ったくらいだもの」
そう答えると、リゼットはそれ以上勧めず、私の歩調に合わせてくれた。実際には、しゃがんで話を聞くのも立派な重労働だった。少なくとも、今の私には。
領主館へ戻り、手と靴の土を落としたあと、私はエサソン、リゼットと評議室へ向かった。セリノアは日本に残って動画を見続けているので、こちらへ戻すには、私が扉をつなぎ直す必要がある。今は三人で、今日の成果をまとめることにした。リゼットが水の入った杯を置き、私の隣へ控える。
「ルミィ様。今日の作業は、予定どおり進んだのでしょうか?」
「植え付けを始められたわ。ただし、全部ではなくて、皆で世話を続けられる広さだけ」
私はひと口水を飲み、エサソンの広げた紙へ目を向けた。畑では簡単な図に見えたものも、卓へ置かれると、ちゃんとした報告資料に見える。
「pHを測り、今日植えられる区画を選びました。酸性の強い場所には苦土石灰を入れ、植えずに測り直しを待ちます。別の試験区では腐葉土と肥料を量って使い、秋植えの方法を手本に芋を丸ごと植えました。使った資材と量、作業の担当も記録しています」
エサソンの説明を聞き、私は図の端を指した。
「ここが、まだ手を入れていない場所ね?」
「はい。ただ、植えた芋の育ちを見てから区画を増やすのでは、秋植えの時期を逃しかねません。今回は、残りの期間で土と芋と人手を揃えられる範囲に限りましょう。それ以外は、芽吹の月の春植えへ向けて準備します」
朝は、資材を運べばもっと簡単に始められると思っていた。今は、空いた土地を無理に全部使おうとしなくてよかったと思える。たった一日で、私の見方もずいぶん変わったものだ。
「では、取れる芋は増えそうですか?」
「まだ分からないわ」
答えてから、少しそっけなかったかと思った。けれど、ここで期待だけを膨らませるのは違う。私は図へ指を置き、言葉を継いだ。
「今日は、収穫を増やせるか確かめるための準備をしたところなの。よく育った場所と、そうでない場所を比べて、次に変えることを決めたいわ」
「それなら、今日の成果は、収穫の見込みではなく、確かめ方ができたことになりますね」
「ええ。それと、住民の皆さんが知っていることを聞けたことね。奥で水が残る場所も、昔はもっと取れていたことも、こちらからは分からなかったから」
リゼットはうなずいた。私たちが何かを持ち込んで教えるばかりではない。住民から教わることもある。そのことを、二人とも共有しておきたかった。
「今後は芽の出方や水の残り方、資材を使った区画の育ちを記録します。収穫は霜の月を見込んでいますが、霜の時期と芋の状態を見て、掘る日を判断しましょう。そのあとは冬の間、芋の作付けを休み、春の芽吹の月まで待つことになります」
「記録は、エサソン一人で全部するの?」
「当面は私がまとめます。ただ、私が行けない日にも記録を残せるよう、一緒に作業した方へ、図に印を付ける方法を伝えておきたいですね」
私は別の紙を引き寄せた。何でもエサソンに任せていては、頼るつもりが、仕事を押し付けるだけになってしまう。
「使った資材と、次に必要になるものは私も整理するわ。日本で調べることと、こちらで確かめることを分けておきましょう。道具は、買う前に、修理や貸し合いで補えるかも聞いておきたい」
「では、館にある道具と、修理を頼める相手については、私から館の者へ尋ねてみます。畑で使う順番の相談は、エサソン殿にお願いしてもよろしいでしょうか」
「ええ、お願い。ありがとう、リゼット。作業へ出るために配給が必要な家がないかも、担当の者に確認してもらえる?」
食べ物を探すために、畑へ行けなかったという男の言葉が、まだ耳に残っていた。
「芋が取れる霜の月まで食事は必要だし、そのあとも春まで次の芋は植えられないわ。今日植えられたからといって、配給を減らせる話にはしたくない。冬を越す分と、次の種芋を残すことも考えましょう」
「かしこまりました。在庫と配る予定についても、担当の者へ確認し、必要な分に足りるかご報告いたします」
「その確認が済むまでは、新しく大勢を作業へ呼ぶことも控えましょう。人を集めれば、それだけ働けるとは限りませんから」
エサソンが紙へ書き足した。畑の話をしていたはずなのに、道具、食料、記録と、次々に仕事が増える。けれど、ばらばらだった問題が、少しずつ同じ卓の上へ並び始めていた。
「それから、紅葉の月に植える麦についても、準備を始めたいと思っています」
エサソンと、畑で話した麦の計画を改めて確認する。日本の種も候補に加えるが、何が手に入り、この土地でどう育つのかは、まだ分からない。私は話を聞いていたリゼットにも伝わるよう、図へ指を置いた。
「その麦を植える場所も、決めておかないとね」
「芋の畑では収穫が霜の月になるため、紅葉の月に播く麦は別の区画を使います。芋は春まで次の植え付けを待ちますが、麦は冬を越して育てる計画です。この土地に合う候補と、播く時期を確かめましょう」
「では、今は種を大量に買うのではなく、候補と、試す場所を決めるところまでね」
「はい。日本の種が使えれば心強いですが、それを前提に食料の見通しを立てるのは、まだ早いでしょう」
季節に合わせて植える。その話に、今日の畑を渡っていた風の温かさがよみがえった。土に触れ、住民から雨や作付けの時期を聞くうちに、帝国の気候が、私の知っている日本に近いことを改めて実感していた。少なくともこの辺りでは、季節の感覚まで別世界というわけではなさそうだ。
「それにしても、不思議ね。今日、植え付けの話を聞いて、日本と気候が似ているんだなって実感したの」
「日本の栽培資料を参考にするうえでも、手がかりになりますね。ただ、同じと決めてしまうのは早いでしょうが」
「うん。それは分かっている。でも、セレンディアは世界地図の一番北にあるでしょう? その最北の土地で、私が暮らしていた日本に近い季節を感じるのが、少し引っかかって」
地図で見た北の端と、今日歩いた畑の眺めが、頭の中で重なる。あの地図だけを見ていると、ここより北には、もう何もないような気がしてしまう。だが、それは本当に、世界の端なのだろうか。
「エサソン。あの地図に載っているのは、本当に世界の全部なの?」
問いかけると、エサソンは手を止め、少し考え込んだ。
「セレンディアが地図上の最北にあることと、世界そのものの最北にあることは、別でしょうね。地図に描かれていないからといって、その先に何もないとは言い切れません」
私は窓の外へ目を向けた。地図の余白は、単にまだ知られていない場所なのかもしれない。日本に近い気候だけで証明できる話ではない。それでも、地図に載っている範囲が世界のすべてだと、いつの間にか思い込んでいたことには気づいた。
「じゃあ、もっと北にも、地図にない区域があるかもしれない。海の向こうに、別の大陸があったりして」
「可能性はあります。ただ、今ある地図だけでは、どこに何があるかを確かめることはできません」
知らない大陸。そこに暮らす人々。帝国もエルフィネも知らない国。思い浮かべた途端、目の前の畑の図が、急にひどく小さく見えた。
だが、その小さな畑に植える芋さえ、十分には揃っていないのだ。まだ見ぬ大陸に助けを求めるどころか、どちらへ進めばたどり着くのかも分からない。
「……本当にあったとしても、今の私たちには、どうにもできないわね」
「ええ。存在を確かめる手立ても、そこまで出向く余裕もありません。まず、ここで暮らす方々の食料を確保するほうが先でしょう」
エサソンは卓の図へ目を戻した。つられて私も、今日手を入れた区画の印を見る。そこなら場所も分かる。困っている人たちの顔も、聞いた言葉も覚えている。
「地図の外のことは、疑問として残しておくわ。今は、この畑と、次に植える麦の話を進めましょう」
遠くへ広がりかけた考えを、手元へ引き戻す。世界が思っていたより広くても、明日の仕事は変わらない。まずは目の前の問題だ。
私は紙へ「麦」と書き、その下に種、時期、場所と並べた。空欄は多い。だが、分からないところを空けておけば、分かったつもりで進まずに済む。
「エサソンは畑の記録と麦の候補、道具を使う順番の相談を。リゼットは館の者に道具と修理先、配給の見通しを確認してもらう。私は日本で調べることと、資材の手配を整理する。それぞれ分かったところから持ち寄りましょう」
「承知しました。秋植えの追加は、植え付けに間に合うかを先に確認します。間に合わない区画は無理に植えず、冬の間に土と道具を整え、芽吹の月へ備えましょう」
「かしこまりました、ルミィ様。館の者への確認は、私から伝えてまいります」
二人の返事を聞き、私はようやく背もたれへ身体を預けた。立派な農業政策が完成したわけではない。今日できたことを確かめ、次に誰が何をするかを決めた。それだけでも、朝よりは先が見える。
リゼットが空になった杯へ水を注ぎながら、そっと声をかけた。
「では、ルミィ様も、本日のお仕事はひと区切りですね」
「ええ。あとは部屋で、この紙をまとめて……」
「お休みになるところまで、予定に入れてくださいませ」
逃げ道を塞ぐような優しい言葉に、私は口を閉じた。エサソンまで小さくうなずく。どうして休憩の話だけ、こんなに素早く合意が取れるのか。
「……分かったわ。少し休んでからにする」
そう答えると、リゼットは満足そうに微笑んだ。私は紙を揃え、卓の上に残った畑の図をもう一度見る。
あの小さな区画が、明日には食べ物でいっぱいになるわけではない。それでも、次の作業を担う人は決まった。私が走り回らなくても、誰かが続きを始められる。それも、今日芋を植えられたことと同じくらい、大事な成果なのだと思った。
だから今日は、素直に休もう。明日も小石を拾う仕事なら、きっと私にも残っている。