TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します   作:F.F

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003_三歳児でも分かる、帝国が滅びかけている理由

 翌朝、身体を優しく揺すられる感覚に、私は重いまぶたを開いた。まだ眠気の残る視界に飛び込んできたのは、なぜか不機嫌そうなリゼットの顔だった。

 

「おはようございます、ルミィ様」

「ん……お、おはよう……」

 

 反射的に挨拶を返したものの、リゼットの険しい表情は少しも和らがない。寝起きの鈍い頭で、昨日の自分が何かまずいことをしただろうかと必死に記憶をたどる。けれど、思い当たることが多すぎるような、何もないような――どうにも落ち着かない。

 私が怯えるように首を傾げていると、リゼットは静かに口を開いた。

 

「ルミィ様。昨日は湯浴みもなさらずにお休みになりましたね?」

 

 言われた瞬間、胸の奥がひやりとした。

 確かに夕食のあと、幼い身体の眠気に耐えきれず、そのまま寝てしまった。そういえば、意識が途切れる直前、リゼットが何か準備をしていたような気もする。

 まさか、私のために湯浴みの支度をしてくれていたのだろうか。だとすれば、それを全部無駄にしたことになる。

 

「それだけではございません。昨日は一日中寝間着のまま過ごされ、あまつさえ、そのお姿で殿方と面会までなさいましたね?」

 

 さらに重ねられた指摘に、私は思わず視線をそらした。

 殿方というのは、ヴァレリウスのことだろう。けれど、あれは向こうが勝手に部屋へ入ってきたのだ。不可抗力ではないだろうか――そう言い訳したいのに、リゼットの顔を見ると、とても口には出せない。

 男だった時は、寝間着のまま一日を過ごすことなど珍しくもなかった。だが、今の私は皇女で、それも世話をしてくれる相手がいる。自分一人の問題ではないのだと、今さらながら気づかされる。

 申し訳なさと気恥ずかしさに肩を縮めていると、リゼットは逃げ道を塞ぐように、きっぱりと言い渡した。

 

「ですので、今すぐ湯浴みをしていただきます」

 

 その声音には、反論を許さない強さがあった。

 私は布団の端を握りしめ、せめてもの抵抗として口元まで引き上げる。

 湯浴みが嫌なわけではない。ただ、この幼い身体を誰かに洗ってもらうという状況に、男だった時の感覚がどうしても追いつかないのだ。

 けれど、そんな胸の内を説明できるはずもない。

 結局私は、処刑を言い渡された罪人のような気分で、小さくうなずくしかなかった。

 とはいえ、すべてを幼い身体の感覚に任せられるほど、割り切れてはいなかった。今の私はルミナであり、彼女の記憶も感情も確かに自分の中にある。それでも、かつて成人男性だった頃の意識まで消えたわけではない。自分自身の身体だと分かっていても、妙な気まずさと、後ろめたさにも似た感情が拭えなかった。

 そっとリゼットの様子をうかがうと、先ほどまでの険しさが嘘のように、上機嫌で湯浴みの支度を進めている。きっと、私の世話ができることを心から喜んでいるのだろう。そんな姿を見てしまえば、今さら嫌だとは言い出せない。私はせめて余計なことを意識せずに済むよう、なるべく視線をそらしていようと、ひそかに心を決めた。

 

 どうにか湯浴みという苦行を終え、私はほっと息をついた。だが、身構えていたほどの気まずさを覚えなかったことに気づき、別の意味で戸惑ってしまう。成人男性だった頃の感覚が薄れたのだろうか。いや、今の身体はまだ三歳なのだから、そもそも妙な意識を抱くほうがおかしい。そういうことにしておこう。

 

 私がそんな諦めにも似た境地に浸っている間にも、リゼットは手際よく着替えを用意し、慣れた様子で私に着せていく。

 下着はドロワーズだったため、男だった時に知っていた下着とはだいぶ印象が違い、その点だけは気が楽だった。柔らかな肌着の上から、私の感覚では普段着とは思えないほど華美なドレスを重ねられる。

 淡い青のドレスは、三歳児の普段着にしてはずいぶん仰々しい。胸元には銀糸で帝国の紋章が縫い取られ、腰には細い飾り帯まで巻かれている。書庫へ行くだけなのだから、もっと簡素な服で十分だと思うのだが、皇女が部屋の外へ出る以上、最低限の体裁は必要らしい。

 

「苦しくはございませんか、ルミィ様」

「大丈夫。それより、ヴァレリウスはいつ来るの?」

「朝食をお召し上がりになったあと、授業にいらっしゃる予定でございます」

 

 その言葉を聞き、私は小さく息を吐いた。書庫へ向かう前に、まずはヴァレリウスの授業を無事に切り抜けなければならない。朝食を終えるころには眠気もすっかり消え、私は書庫の件を悟られないよう、いつもの幼い皇女を演じきる覚悟を決めた。

 

約束どおり、朝食後には授業が始まった。私はヴァレリウスの問いに、昨日の本で覚えた言葉を交えながら素直に答え、ときおり子供らしい聞き間違いも装ってみせる。彼はそのたびに満足げにうなずき、幸い、私が書庫へ向かおうとしていることには気づかなかったようだ。

 

 授業を終えて昼食を済ませると、約束の時刻が近づいてきた。老司書官は味方になり得るのか、それとも別の思惑を抱えているのか。期待と警戒を胸に抱えながら、私はリゼットに書庫へ向かう支度を頼んだ。

 

「クローヴェン卿は授業のあと、西棟へ向かわれました。少なくとも、すぐにこちらへ戻られることはないかと存じます」

 

 リゼットの報告にうなずき、私は椅子から立ち上がった。昨日よりも身体は軽く、歩くたびに足元が頼りなくなる感覚も薄れている。これなら、書庫までの道のりも問題なく歩けそうだ。

 

 リゼットが部屋の扉を開け、私はそのあとに続いた。こうして間近で見ると、扉は幼い私の背丈をはるかに超えるほど大きく、ひどく重そうだ。今の身体では、あと数年たっても一人で開けられるか怪しい。豪華な調度で体裁こそ整えられているものの、やはりこの部屋は、私を外から遠ざけるための幽閉部屋なのだろう。

 

 考えてみれば、この身体になってから部屋の外へ出るのは、これが初めてだった。

 一歩外へ踏み出すと、磨き上げられた白い石床の廊下がまっすぐに延びていた。高窓から差し込む午後の日差しが、壁に並ぶ金縁の肖像画を照らしている。描かれているのは、歴代の皇帝や将軍たちだろう。誰も彼も威厳に満ちた表情を浮かべ、幼い私を高みから見下ろしているようだった。

 

 リゼットが半歩前を進み、私はそのすぐ後ろを歩く。彼女の歩幅は普段より明らかに小さい。私に合わせてくれているのだと分かると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 途中ですれ違った侍従や侍女たちは、私の姿を認めるたびに壁際へ寄り、深々と頭を下げた。礼儀としては申し分ない。だが、その顔に浮かぶのは敬意よりも、どう接すればよいのか分からない者の戸惑いだった。

 皇女でありながら、滅ぼされた国の血を引くハーフエルフ。近づけば皇族への無礼を疑われ、親しくすれば周囲から目をつけられる。私の存在そのものが、彼らにとって扱いづらいのだろう。

 

 こちらから声をかけることはせず、幼い皇女らしくリゼットの袖をつまんで歩いた。余計な印象を残す必要はない。今日はただ、勉強熱心な子供として書庫へ向かえばいい。

 幾つかの渡り廊下を抜けると、華美だった内宮の装飾は次第に少なくなっていった。絨毯は途切れ、窓も小さくなる。代わりに、壁際には古びた書棚や木箱が置かれ、空気には紙と埃の匂いが混じり始めた。

 

「書庫は、宮殿の端にあるのね」

「はい。三代前の皇帝陛下が増築された研究棟でございます。今では訪れる方も少なく、レーヴェン卿と数名の書記官だけが管理しております」

「ヴァレリウスも来る?」

「必要な書物を取り寄せることはあっても、ご自身で足を運ぶことはほとんどないと聞いております」

 

 それなら、少なくとも面会中に鉢合わせる可能性は低い。もっとも、彼が人を使って私の動きを見張っていない保証まではなかった。

 角を曲がったところで、向こうから二人の役人らしき男が歩いてきた。私に気づくと会話をやめ、揃って頭を下げる。通り過ぎた後、押し殺した声が背中へ届いた。

 

「……あれが、例の」

「目を合わせるな。面倒に巻き込まれるぞ」

 

 リゼットの肩が強張る。振り返って咎めようとしたのか、足がわずかに止まった。

 

「行きましょう、リゼット」

 

 小声で促すと、彼女は唇を結び、再び歩き出した。今ここで騒ぎを起こしても得るものはない。侮られているのなら、それを利用すればいい。警戒されないことは、情報を集めるうえではむしろ好都合だ。

 

 やがて廊下の突き当たりに、天井まで届く両開きの扉が現れた。黒ずんだ木材の表面には、蔦と羽根ペンを組み合わせた意匠が彫られている。上部には古い帝国文字で、簡潔に『皇宮書庫』と刻まれていた。

 扉の前には、白髪の書記官が一人立っていた。私たちを認めると、彼は無言で一礼し、リゼットへ手を差し出す。

 

「ここから先は、殿下お一人で。レーヴェン卿がお待ちです」

 

 リゼットが不安そうに私を見る。私は安心させるようにうなずき、つまんでいた袖から手を離した。

 

「約束どおり、何かあったらすぐ呼ぶわ」

「はい。こちらでお待ちしております、ルミィ様」

 

 書記官が重い扉へ手をかける。低い軋みとともに開いた隙間から、乾いた紙の匂いと、ひんやりとした空気が流れ出してきた。

 薄暗い室内の奥で、誰かが本を閉じる音が響く。

 

「お待ちしておりました、ルミナ殿下」

 

 声の主は、書庫の中央に置かれた大机の向こうに座っていた。白髪を後ろへ撫でつけ、同じく白い髭を胸元まで伸ばした老人だ。深緑の長衣にはところどころインクの染みがあり、宮廷人というより、研究室に籠もる学者といった風情だった。

 私は入口で立ち止まり、身体に染みついた作法に従って軽く膝を折る。

 

「お時間をいただき、ありがとうございます。レーヴェン卿」

「これはご丁寧に。もっとも、ここでは肩書よりも書物のほうが幅を利かせております。どうぞ、お近くへ」

 

 促されるまま机へ近づく。左右を見上げれば、壁一面を埋める書棚が幾列も奥へ続いていた。梯子がなければ届かない高さまで本が詰め込まれ、ところどころに巻物や木箱まで押し込まれている。これだけの資料があれば、探している情報にもきっとたどり着ける。胸が高鳴ったが、表には出さないよう努めた。

 レーヴェン卿は私を座らせると、細い指で眼鏡の位置を直した。その瞳は穏やかに見えて、こちらのわずかな反応も見逃すまいとしている。

 

「さて、殿下は帝国の歴史を、より深く学びたいと仰ったそうですな。どの時代にご興味がおありで?」

 

 いきなり試された。ここで「滅ぼされた国について知りたい」と答えれば、ヴァレリウスと同じ反応をされるかもしれない。私は少し考えるふりをして、机の端に積まれた本へ目を向けた。

 

「帝国ができる前のことを知りたいの。今の本には、帝国が勝ったあとのことしか書いていないから」

 

 一瞬、老人の目から穏やかさが消えた。だが、それは驚きというより、待っていた答えを確かめた者の反応に見えた。

 

「勝者が編む歴史だけでは不十分、と?」

「うん。比べなければ、何が本当なのか分からないでしょう?」

 

 ヴァレリウスに言ったのと同じ言葉だった。けれど今度は、幼い疑問を装うだけではなく、自分の意思としてまっすぐ老人を見る。

 長い沈黙のあと、レーヴェン卿は椅子から立ち上がった。杖も使わず書棚の間を進み、最も奥の一角で足を止める。そこだけは鉄格子の扉で仕切られ、錠前には薄く魔法陣のような光が浮かんでいた。

 

「でしたら、一般の書架では殿下のお望みは叶いますまい。帝国に滅ぼされた国々の記録は、表向きには失われたことになっております」

「表向きには?」

「書物を燃やせば、過去まで消し去れる。そう信じる者ばかりではなかった、ということです。これらの記録は、私と、私が信を置くごく一部の者たちだけで守ってまいりました」

 

 老人は懐から小さな銀の鍵を取り出した。だが、すぐに錠へ差し込むことはせず、掌の上で私に見せる。

 

「殿下。この先にある知識は、知っただけで身を危うくするものもございます。それでも扉を開けよと仰いますか?」

 

 ヴァレリウスの忠告が脳裏をよぎった。好奇心は、ときに身を滅ぼす。けれど、何も知らないまま待っていれば、帝国の崩壊とともに命を失うかもしれないのだ。

 私は銀の鍵を見つめ、迷わずうなずいた。

 

「開けてください。知らないままのほうが、きっと怖いから」

「かしこまりました。ですが、その前にもう一つだけ。この先の知識を得て、殿下は何をなさるおつもりですかな?」

 

 問いかけられた瞬間、思考が止まった。三歳児に向けるには、あまりにも踏み込んだ質問だ。いや、今さら気づくべきことではない。相手がただの幼児だと思っているなら、危険な知識に触れる覚悟など問わず、穏やかに追い返すのが普通だろう。

 話が順調に進んでいたせいで、疑うことを忘れていた。レーヴェン卿は私を怪しんでいるのではない。最初から、私が年相応の幼子ではないと見抜いたうえで話しているのだ。

 どうしてそう判断したのかは気になる。だが、それを問い返すのは後だ。今はまず、こちらの目的を示さなければ、この扉は開かない。

 

「私が知りたいのは、残された時間です」

「残された時間――何が起こるまでの、ですかな?」

「帝国が崩壊するまでの、です」

 

 私の答えを聞き、レーヴェン卿の目が鋭く細められた。

 

「これはまた、穏やかではありませんな。帝国は版図も軍事力も比類なき大国です。それが滅びると、本気でお考えなのですか?」

「ええ。ヴァレリウスの教えからうかがえる帝国の思想を考えれば、国が健全に動いているとは思えません。だから、併呑される前の諸国がどのような状態にあり、支配されたあとに何を失ったのかを知りたいのです。そこから、帝国がどれほど崩壊に近づいているのかを推し量れます」

「なるほど。では、その崩壊を食い止めるおつもりで?」

「いいえ。今の思想と仕組みを残したまま延命しても、崩壊を先送りにするだけです。ならば一度、帝国という形を終わらせる。そして混乱に呑まれる前に、私が主権を簒奪します」

 

 私の答えに、レーヴェン卿はわずかに目を見開いた。やがて何かを確かめるように目を閉じ、深くうなずく。その反応を見る限り、少なくとも彼の問いには及第点をもらえたらしい。

 

「では、今度はこちらから一つ伺ってもよろしいですか?」

「ええ。何なりと」

「レーヴェン卿は、初めから私を三歳の子供として扱っていませんでした。なぜですか?」

 

 問いかけると、レーヴェン卿は奇妙なほど穏やかな笑みを浮かべた。

 

「殿下が、エルフの伝承にいう『精霊に愛されし子』であると、確信しているからでございます」

 

 聞き覚えのない呼び名に、私は思わず目を瞬いた。身体に残るルミナの記憶を探ってみても、それらしい知識は浮かんでこない。

 

「『精霊に愛されし子』とは、エルフの間にごくまれに生まれる特別な者を指します。赤子のころはほかの子と変わりませんが、成長するにつれて、常人では考えられぬほどの速さで知識を身につけていくのだとか。そのため、精霊から知恵を授けられているのではないかと考えられております」

「それは、人間には見られないものなのですか?」

「はい。人間にも秀才や天才と呼ばれる者はおりますが、『精霊に愛されし子』の特異さは、単に物覚えがよいというだけではございません。知性だけでなく、思考や精神までもが年齢に似つかわしくないほど早く成熟すると伝えられております。現に殿下は、クローヴェン卿から一つの価値観しか教えられていないにもかかわらず、その教えに疑問を抱かれた。どれほど聡明であっても、与えられる知識が偏っていれば、考え方までその影響を免れることは難しいものです」

 

 確かに、教えられる価値観が一つしかなければ、それとは異なる考え方を身につけるのは難しい。それでも、俺の意識が宿る以前のルミナは、ヴァレリウスの教えに違和感を抱き、拒絶していた。もしそれが『精霊に愛されし子』の資質によるものだとすれば――俺がルミナとなったことにも、何か関係があるのだろうか。

 

「少し待ってください。『精霊に愛されし子』がエルフにしか現れないのなら、ハーフエルフの私にも当てはまるのですか?」

「不思議に思われるのも当然でしょう。伝承で確認されているのは純血のエルフばかりですが、ハーフエルフに決して現れないと証明されたわけではございません。殿下には外見だけでなく、魔力や精霊との親和性にもエルフの性質が色濃く現れているのでしょうな。現に宮殿に仕える同胞たちは、殿下の聡明さを知り、密かに希望を寄せております」

 

 思いがけない言葉に、私は息を呑んだ。

 

「同胞ということは、この宮殿にはほかにもエルフがいるのですか?」

「はい。クローヴェン卿による教育を終えられたのち、殿下に魔法をお教えする教師として控えている者もおります」

 

 ヴァレリウスの教育が終わってから――つまり、私が帝国の思想に十分染まったと判断されたあとでなければ、会わせるつもりはないのだ。帝国に従わない考えを持つかもしれないエルフと、今の私を接触させることは、それほど警戒されているのだろう。

 

「ほかには、殿下の母君――セレスティア・エルフィネ殿下のお世話をするため、宮殿へ入った者たちがおります」

 

 その名を聞いた瞬間、胸の奥を強く揺さぶられた。ルミナの母親。残された記憶をどれだけ探っても、母と過ごした思い出は一つもない。てっきり、すでに亡くなっているのだと思い込んでいた。

 

「お母さまが……生きているの?」

「はい。殿下はお生まれになって間もなく引き離されましたので、覚えておられないのも無理はございません。ですが、セレスティア殿下は今も、この宮殿で暮らしておられます」

 

 俺自身には会ったことすらない相手のはずなのに、その言葉を聞いた途端、胸の奥から抑えきれない感情がこみ上げた。ルミナの身体に残る想いなのか、それとも今の私自身のものなのかは分からない。気づけば涙が頬を伝い、私は声を漏らすまいと唇を噛みしめていた。

 

 私が落ち着きを取り戻すまで、レーヴェン卿は何も言わずに待っていてくれた。やがて涙を拭い、乱れた呼吸を整える。母が生きているのなら、いつか必ず会いに行く。そのためにも、まずは自分と帝国を取り巻く状況を知らなければならない。私は顔を上げ、レーヴェン卿をまっすぐ見つめた。

 

「どうやら、果たすべきことが一つ増えたようです。レーヴェン卿、その扉を開けてください」

 

 レーヴェン卿はしばらく私を見つめたあと、静かに頭を下げた。

 

「承知いたしました。そのお言葉が一時の感情によるものではないことは、しかと見届けました」

 

 そう言って、老人は掌に載せていた銀の鍵を錠前へ差し込む。小さく回すと、金属の触れ合う音に重なって、低い鈴のような響きが書庫に広がった。

 錠前に浮かんでいた魔法陣が一つずつほどけ、淡い光の粒となって消えていく。やがて鉄格子の奥で重い閂が外れ、長く閉ざされていた扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。

 その先には、一般の書架とは違う、古びた本や巻物ばかりを収めた狭い部屋があった。背表紙に刻まれているのは、帝国の歴史書では一度も目にしなかった国名ばかりだ。

 乾いた紙と古い革の匂いが流れ出し、わずかな埃が光の中を舞う。まるで、消されたはずの過去そのものが、扉の向こうで息を潜めていたかのようだった。

 

「ようこそ、殿下。ここが、帝国の忘れようとした歴史でございます」

 

 私は促されるまま、封じられていた部屋へ足を踏み入れた。外の書庫よりも空気は冷たく、積もった年月そのものが肌にまとわりつくようだった。

 書棚は国ごとに分けられているらしい。レーヴェン卿は迷いのない足取りで奥へ進むと、三冊の本と二本の巻物を選び、中央の閲覧台へ運んだ。

 

「まずは、帝国に併呑された年代の異なる三国を比べるのがよろしいでしょう。古くに滅びた北方のグラナード王国、先代皇帝の晩年――二十年前に滅ぼされた西方都市連盟、そして今代のエルフィネでございます」

 

 最後の名を聞いた瞬間、指先がわずかに震えた。エルフィネは、お母さまの故国だ。込み上げる感情をどうにか抑え、私はまず、最も古いグラナード王国の記録を開いた。

 そこに記されていた内容は、帝国の公式記録とはまるで異なっていた。帝国史では「圧政に苦しむ民を解放した」とされているが、実際には一方的に宣戦を布告し、国を滅ぼしたうえで、当時の指導者をことごとく処刑している。帝国へ編入された後には税も引き上げられていた。年代から考えれば、三代前の皇帝による征服だろう。

 次に、西方都市連盟の記録へ目を通す。交易によって豊かな富を築いていた都市国家群は、先代皇帝の軍によって一方的に攻め滅ぼされ、その財産や物資を徹底的に略奪されていた。

 そして最後は、エルフィネ。母の故国は自然との調和を重んじる小国で、帝国が欲しがるほどの富を蓄えていたわけではない。それでも今代の皇帝――私の父は、当時の女王であったお母さまを手に入れるために侵攻した。民が抗戦によって命を落とすことを望まなかったお母さまは、自ら帝国へ下る道を選んだのだ。

 

 どの記録も、読んでいて気分のよいものではなかった。だが三つの征服を比べるうちに、私は一つの違いに気づいた。グラナード王国では指導者が処刑され、税も引き上げられているものの、国そのものを支える財産や物資までは奪い尽くされていない。ところが西方都市連盟では、明らかに略奪そのものが目的となっている。

 

「レーヴェン卿。なぜ、グラナード王国と西方都市連盟で、これほど征服後の扱いが違うのですか?」

 

 問いかけると、レーヴェン卿は手応えのある生徒を見るように目を細めた。

 

「やはり、そこにお気づきになりましたか。帝国が計画的に版図を広げていたのは、三代前の皇帝までなのです。先々代のころには、それまでの征服で得た国力に驕り、蓄えた富を食いつぶすようになりました

 三代前の皇帝は苛烈な支配者ではありましたが、暗愚ではございませんでした。税を引き上げても、民が辛うじて暮らしを維持できる限界を見誤らなかったのです。

 反乱を招かぬぎりぎりのところまで富を吸い上げ、その財力を次の征服に注ぎ込む。残酷ではあっても、支配を長く続けるための計算はできていたのでしょう。

 民もまた、不満を抱きながらも、今日を生きられるうちは命を懸けて現状を変えようとはしない。三代前の皇帝は、その境目を見極めていたのです。

 あの皇帝が見ていたのは、税収の額だけではございません。各地の収穫量、穀物の価格、逃亡農民の数、徴兵後に残る働き手、領主への陳情の件数――そうした報告を照らし合わせ、民が耐えられる負担を地域ごとに変えていたのです」

 

 思っていた以上に現実的な統治だ。ただ税率を決めるのではなく、生活が破綻する兆候を数字で捉え、搾り取れる余地を測っていたらしい。

 

「では、民を豊かにしようとしたわけではないのですね」

「無論です。民の暮らしを守ったのは慈悲からではなく、田畑を耕す者も、税を納める商人も、兵となる若者も、帝国にとっては使い潰してはならぬ資源だったからです。飢えで村が消えれば翌年の税は入らず、徴兵しすぎれば収穫が減る。その損得を理解していたにすぎません。

それに、旧王家を滅ぼしたあとも、下級役人や村長までは一律に排除しませんでした。彼らに帝国の法を守らせる代わりに、土地の統治を続けさせたのです。支配者への忠誠と、実務を担う能力を分けて考えていたのでしょう」

 

 征服された側にとって、到底許せる支配ではない。それでも、統治機構まで壊して富を奪い尽くした先代皇帝より、三代前の皇帝のほうがはるかに厄介だったはずだ。民の生活が破綻しない程度に逃げ道を残し、抵抗によって失うもののほうを大きく見せる。そうして反乱の理由だけでなく、立ち上がる覚悟までも奪っていたのだ。

 

「ですが、その均衡は先々代のころから崩れ始めたのですね」

「はい。先ほど申し上げたとおり、先々代の皇帝は、歴代の治世で蓄えられた富に溺れ、次第に政務を顧みなくなりました。そして腐敗したのは皇帝だけではございません。その恩恵にあずかろうと、側近の有力貴族たちも競って甘言を献じ、自らの利益を求めるようになったのです」

 

 レーヴェン卿の説明を聞けば、衰退の道筋は容易に想像できた。むしろ驚くべきなのは、それほどの腐敗を抱えながら、先々代、先代、そして今代に至るまで帝国が持ちこたえていることだ。三代前の皇帝が築いた国力は、それほど強大だったのだろう。

 

「やがて皇帝は、膨大な財力と有力貴族たちの追従に溺れ、自ら考えることをやめました。蓄えが底を見せ始めると、責任を問われることを恐れた貴族たちは、新たな富を外から奪うよう進言した。その結果として起きたのが、先代による西方都市連盟への侵攻と略奪です」

 

 なるほど。三代前の皇帝が築いた蓄えを先々代が浪費し、尽きかけたところで先代が他国から奪って穴を埋めた。それが、腐敗した帝国をここまで延命させてきた仕組みなのだ。

 

「もちろん、外から奪うだけでは足りません。かつては民が破綻しない限界に抑えられていた税も引き上げられ、今では将来の収穫や商いを損なってでも、目先の財源を搾り取るようになっております」

 

 あまりの末期ぶりに、言葉を失う。国を支える土台を削りながら、その場しのぎで延命しているにすぎない。私が想像していた以上に、帝国は限界へ近づいていた。

 強大な権力を持ちながら政務を顧みない皇帝と、その寵愛を競って私腹を肥やす有力貴族たち。以前の世界の歴史に当てはめるなら、ソ連の末期というより、外戚や宦官の専横で衰えた後漢末期に近い。きっかけさえあれば、明日にでも各地で大規模な反乱が起きても不思議ではなかった。

 

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