TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します   作:F.F

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004_帝国再建より先に、ドアノブを攻略したい

「まるで薄氷の上に立っているようですね。私には、明日にでも破綻しておかしくないように思えます。レーヴェン卿は、あとどれほど持つとお考えですか?」

「殿下のご懸念はもっともです。しかし、帝国の国力は今なお周辺諸国を圧倒しております。その威勢が抑止力として働いているうちは、表立った反乱も容易には起こりますまい。大きな失策さえなければ、あと数年は持ちこたえるでしょう」

 

 あと数年。それは猶予と呼ぶには、あまりにも短い。何しろ今の私は三歳児だ。普通に成長するのを待っていては、政治に口を挟める年齢になる前に帝国が崩れかねない。

 

「レーヴェン卿。そうであれば、私は一刻も早く味方を増やさなければなりません。先ほど話に出た、私の魔法教師となる予定の方について教えていただけますか?」

「エサソン・ローレグ殿ですな。現在は財務省に勤めておられます」

「……はい?」

 

 財務省? エサソンという人物はエルフで、それも帝国に好意的とは思えない。そんな人物を、国の金を扱う部署に置いているというのか。

 

「少し待ってください。なぜ帝国に反感を抱いていてもおかしくないエルフを、財務省という重要な部署に置いているのですか?」

「理由は単純です。上層部が、財務省を重要な部署だと考えていないからでございます」

「……馬鹿なのか?」

 

 あまりの答えに、ルミナとしての言葉遣いというフィルターを突き破り、俺の本音がそのまま漏れた。案の定、レーヴェン卿から怪訝そうな視線を向けられる。

 

「殿下、皇族としての品位をお忘れなく。……もっとも、お気持ちは分かります。上級貴族たちにとって財務省は、自分たちの命じるまま税を集め、求めるだけ金を差し出す機関にすぎないのです」

「なるほど。体制だけでなく、上に立つ方々の頭の中まで、ずいぶん立派に腐っているのですね」

 

 にこやかに、今度こそ丁寧な言葉で感想を述べると、レーヴェン卿は先ほどよりも深く顔をしかめた。

 おかしい。敬語はきちんと使ったはずなのに。

 

「ルミナ皇女殿下」

 

 低い声で名前と身分をまとめて呼ばれた。どうやら、言葉を丁寧にすれば何を言ってもよい、というわけではないらしい。

 

「以後、気をつけます」

 

 ひとまず神妙な顔でうなずいておく。納得したわけではないが、ここで言葉遣いの講義まで始まっては困る。今は一刻も早く、エサソンという人物について知るほうが先だ。

 

「それで、そのエサソンという方は、財務省でどのような仕事をしているのですか?」

「各地から届く税収の報告を精査し、国庫の収支をまとめておられます。数字に明るく、帳簿の不正を見抜くことにも長けた方です。しかし、耳に痛い事実を隠さず報告するため、上官からは疎まれております」

 

 なるほど。財務省を軽んじているからこそ、上層部は彼を遠ざけずに済ませているのだろう。だが、そのおかげでエサソンは、帝国がどれほど危うい状態にあるのかを、誰より正確に把握している可能性が高い。

 

「財務省を重要ではないと思い込んでいる方々のおかげで、こちらには都合のよい人材が残されているわけですね」

「そのように前向きに捉えられるのは、殿下の美点でございましょうな」

 

 レーヴェン卿は苦笑を浮かべ、わずかに目を細めた。褒めているはずなのに、どこか呆れているようにも見える。私はその反応には触れず、話を進めるために身を乗り出した。

 

「レーヴェン卿。その方と、できるだけ早く話す機会を設けてください。正式な魔法の授業が始まるまで待っている余裕はありません」

 

 私の頼みに、レーヴェン卿は難しい表情を浮かべた。

 

「殿下、率直に申し上げれば、それは難しいでしょう。先ほどもお話ししたとおり、現在の殿下に与えられる情報も、接触できる相手も厳しく制限されております。クローヴェン卿の教育が終わる前に、既得権益を握る貴族たちの意向から外れた者と面会されるのは、彼らにとって都合が悪い。まして相手がエルフとなれば、なおさら警戒されます」

「事情は分かりました。ですが、それほど接触が制限されている中で、なぜレーヴェン卿は私との面会を望まれたのですか? ご自身まで疑いを招く危険は、承知のうえだったのでしょう?」

「私が宮廷で特定の主義主張を明らかにしていないからでございます。表向きにはクローヴェン卿の教育方針に賛同し、書物を通じて帝国史の知識を補う老学士で通す事ができます。殿下が私と歴史を学ぶだけなら、彼の教えを補強していると言い訳が立つのです」

 

 なるほど。もしヴァレリウスにこの面会を知られても、レーヴェン卿から帝国史への理解を深めているだけだと説明できる。ならば、その立場を利用しない手はない。

 

「では当面、私はこれまでどおり、レーヴェン卿から帝国史を学びます。その間に、卿からエサソン殿へ私の考えを伝えてください。ヴァレリウスには隠し立てせず、私が卿のもとで帝国への理解を深めていると思わせましょう。将来の教師へ教育の成果を報告していると知れても、それなら不自然には映らないはずです」

 

 レーヴェン卿は静かにうなずいた。とはいえ、いつまでも彼を介して言葉を交わすだけでは、できることに限界がある。帝国の実情を知り、将来の味方となり得る人物なのだから、いずれは私自身が直接会わなければならない。

 

「そして私は、ヴァレリウスの前では帝国の思想を受け入れたように振る舞います。十分に教育の成果が出たと思わせ、エサソン殿による魔法指導を前倒しさせるのです」

 

 演技とはいえ、あの選民思想に染まったふりをするのは精神的に堪える。だが、それもエサソンが正式な魔法教師となるまでの辛抱だ。目標は二年以内。ヴァレリウスに、私が望みどおりの皇女へ育ったと思い込ませてみせる。

 方針が決まれば、次に必要なのは具体的な手順だ。私はレーヴェン卿から一冊の入門書を借りることにした。表紙には『帝国諸侯の忠節』とある。見るからにヴァレリウスが喜びそうな題名だが、中身は帝国史の基礎をまとめただけの、ごく無難な本らしい。

 

「今後、私からの伝言はこの本に挟んでください。返却するときは、ヴァレリウスに見せても問題のない書物を上に重ねます」

「承知いたしました。書庫への出入りも、帝国史を熱心に学ぶためという形に整えておきましょう」

 

 連絡の頻度は月に二度。急ぎの知らせがある場合は、貸出記録の私の名に小さな丸を付ける。単純な合図だが、複雑にしすぎれば覚える者が増え、かえって漏れやすくなる。

 帝国史の授業ではヴァレリウスが望む答えを返し、書庫ではその答えがどこまで嘘なのかを確かめる。表と裏で二つの勉強を並行するわけだ。三歳児の学習計画としては、ずいぶん物騒である。

 

 改めて、秘匿された書架を見渡す。並んでいるのは、先ほど読んだ歴史書だけではない。背表紙の題名を見る限り、人々の暮らしや信仰、風習を記した本も多く、その国の文化そのものが保存されているようだった。帝国に消されたはずのものが、すべてではなくとも、確かにここに残っている。いつか、これらを再び日の下へ戻さなければならない。

 だが同時に、別の懸念も浮かんだ。今は帝国の力が反乱を抑えているという。けれど、文化や信仰まで奪われた人々が、いつまでも従い続けるだろうか。そうしたものは、ときに命よりも重くなる。元の世界で知った歴史でも、信仰を守るために命を投げ出した者は少なくなかった。

 帝国に残された時間は、レーヴェン卿の見立てよりも短いのかもしれない。

 

 話を終えて一般書架へ戻るころには、窓から差し込む光が赤みを帯びていた。封じられた書架の扉が再び閉ざされ、魔法陣が錠前へ浮かぶ。ほんの数歩隔てただけなのに、あの部屋で知った真実が夢だったようにも思えた。

 

「本日はここまでにいたしましょう。長く留まれば、かえって疑いを招きます」

「分かりました。次に来るまでに、教えられたとおりの皇女を演じておきます」

「どうか演じるだけに留めてくださいませ。本当に染まってしまわれては、我らの望みが一つ消えてしまいますので」

 

 冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。宮殿にいるエルフたちが私へ寄せる期待は、本人である私が思うよりも重いらしい。

 書庫を出ると、待ちくたびれた様子のリゼットがすぐに駆け寄ってきた。私の顔を上から下まで確かめ、怪我がないと分かってようやく肩の力を抜く。

 

「お話は、無事に済みましたか?」

「ええ。帰ったら、二人きりで話しましょう」

 

 廊下では、それ以上何も言わなかった。どこに耳があるか分からない。私は借りた本を胸に抱き、来たときと同じようにリゼットの袖をつまんで歩く。傍目には、初めての書庫で本を借りて満足した幼い皇女にしか見えないはずだ。

 部屋へ戻り、扉が閉じられると、私は声を潜めて今日知ったことをリゼットへ伝えた。帝国の命脈が長くても数年であること。お母さまが生きていること。財務省にいるエサソンへ、レーヴェン卿を通じて接触すること。

 母の名を出した瞬間、リゼットの瞳が揺れた。

 

「セレスティア様のことを、お知りになったのですね」

「リゼットも知っていたの?」

「はい。ですが、口にすることを禁じられておりました。ルミィ様をお苦しめするだけだと、自分に言い聞かせて……申し訳ございません」

 

 責める気にはなれなかった。何の権力もない侍女が、皇帝の命令に背いて真実を告げれば、どうなるかは想像に難くない。

 

「謝らなくていいわ。それより、これから手伝ってほしいことがあるの」

 

 私は二年間の計画を説明した。ヴァレリウスの授業では従順に振る舞うこと。書庫へ通う口実を作ること。彼の予定や、私の教育について交わされる侍従たちの噂を、危険のない範囲で集めること。

 

「そして、もし私の言動が本当に帝国の思想へ傾いているように見えたら、必ず止めて。演技と本心の境目を見失わないように」

 

 リゼットは一瞬だけ目を見開き、それから胸元へ手を当てて深く頭を下げた。

 

「かしこまりました。たとえルミィ様に嫌われることになっても、お止めいたします」

「そこまで覚悟を決めなくても、たぶん大丈夫よ」

 

 真剣すぎる返事に苦笑しながらも、その忠誠は心強かった。少なくとも、私が道を間違えたときに叱ってくれる相手はいる。

 翌朝、目を覚ました瞬間から、私の頭はヴァレリウスを欺くことでいっぱいだった。

 朝食を口へ運びながらも、頭の中では何度も受け答えを繰り返す。難しい言葉は一度で正しく言わない。ヴァレリウスの意見には、少し考えてからうなずく。褒められれば素直に喜び、分からないところでは首を傾げる。賢さを隠すのではない。彼の教えを受けたから賢くなったのだと、そう思わせることが肝心だった。

 ぶっつけ本番では顔に出る自信があったので、授業の前にはリゼットにヴァレリウス役を頼み、鏡の前で何度も練習した。

 

「帝国は、どうして偉いのですかな?」

「皇帝陛下が、みんなを正しく導いているからです」

「もう少し嬉しそうなお顔をなさったほうがよろしいかと」

 

 リゼットに指摘されて鏡を見ると、そこにはひどく不味い薬を飲まされた子供の顔が映っていた。笑っているつもりだったのに、口元は引きつり、目には露骨な嫌悪が浮かんでいる。どうやら私は、自分で思っている以上に嘘が顔へ出るらしい。

 やがて授業の席につくと、ヴァレリウスは机の上の『帝国諸侯の忠節』へすぐに目を留めた。題名を確かめるように視線を止めたあと、わずかに眉をひそめる。

 その本は、いつもの教材の横に、題名が彼の側から読めるよう少し傾けて置いてある。こちらから書庫の話を持ち出すより、ヴァレリウス自身に気づかせたほうが自然だと思ったのだが、反応を見る限り、素直に喜んではくれなかったらしい。

 問題はここからだ。怪しまれないよう、彼が望む従順な生徒を演じなければならない。

 

「殿下、その本はどうなさったのですかな?」

 

 来た。反射的に背筋を伸ばしかけ、慌てて肩の力を抜く。礼儀正しすぎても不自然だ。私は膝の上で両手を組み、褒められるのを待つ子供のように、ほんの少し身を乗り出した。

 

「先生に教えていただいたことを、もっと知りたくなったの。皇宮書庫へ行ったら、レーヴェン卿が薦めてくれたわ」

 

 ところが、ヴァレリウスは嬉しそうな顔をするどころか、露骨に眉間へしわを寄せた。

 

 まずい。書庫へ行ったことより、レーヴェン卿から別の教えを受けたと思われたのかもしれない。

 

「よろしいですか、殿下。今は、私がお教えすることを身につけていただければよいのです。むやみにほかの知識を求める必要はございません」

 

 ここで返し方を誤れば、計画そのものを疑われかねない。まずは素直に謝り、そのうえで、レーヴェン卿もヴァレリウスの教えを支持していると思わせる必要がある。

 

「ごめんなさい、先生。ただ、先生のお考えをもっと知りたかったの。書庫でレーヴェン卿に教わったことをお話ししたら、とても感心して、この本を貸してくださったのよ」

 

 しゅんと肩を落とし、叱られた子供らしく見えるよう声を弱める。するとヴァレリウスの眉間からしわが消え、代わりに満足げな笑みが浮かんだ。

 

「そうでしたか。では、その本にはどのようなことが書かれていましたかな?」

「帝国を支えた諸侯が、皇帝陛下へどれほど忠節を尽くしたのかが書かれていました」

「たとえば、どの諸侯の忠節に心を動かされましたかな?」

 

 予想していた質問だった。答えは決めてある。それでも私はすぐには口を開かず、本をめくって目当ての頁を探すふりをした。本当は挿絵の位置まで覚えているが、一度で当てれば出来すぎている。わざと二枚ほど行き過ぎてから戻り、ようやく見つけたように指を置いた。

 

「この人です。皇帝陛下に逆らった町を……ええと、せいあつ、した人」

 

 幼い舌では言い慣れないという体で、わざと途中でつかえる。胸の内では、こちらの芝居を見破られはしないかと心臓が速く打っていた。だが、ヴァレリウスの顔に浮かんだのは疑いではなく、出来のよい生徒を前にした教師の満足だった。

 

「鎮圧、でございます。よく覚えておられました。反逆者へ慈悲をかければ、帝国全体の秩序が損なわれます。あの諸侯は、私情より忠節を選んだのです」

「私情より、忠節……」

 

 言葉を確かめるように復唱しながら、私は挿絵へ視線を落とした。町の門前に跪く人々と、その周囲を囲む兵士たち。本文は秩序を取り戻した英雄譚として描いている。けれど、昨日本当の記録を読んだ私には、これから処刑が始まる光景にしか見えなかった。

 胸の奥から嫌悪がこみ上げる。けれど、ここで顔を歪めればすべてが終わる。笑え。昨日、鏡の前で練習したとおりに。

 私は頬の筋肉を意識し、ほんの少しだけ口角を上げた。うまく笑えているかは分からない。ただ、ヴァレリウスが満足げに見返してきたことで、少なくとも失敗はしていないと判断した。

 

「その人は、皇帝陛下に褒めてもらえたの?」

「ええ。領地と爵位を与えられ、その家は今も帝国を支える名門として続いております」

「じゃあ、正しく従えば、ちゃんと報われるのね」

 

 ヴァレリウスの目が細められた。その表情を見た瞬間、正解を引き当てたと分かった。私は胸の奥で、張り詰めていた息をそっと吐く。

 

「そのとおりでございます。殿下も皇族として、忠節ある者を正しく見分け、報いるお方にならねばなりません」

「はい、先生」

 

 素直に返事をしたあと、私は別の頁へ視線を移した。従順なだけでは、昨日までの私との違いが大きすぎる。そこで、子供らしい疑問を見つけたふりをして、挿絵の人物を指先でなぞった。

 

「でも、町の人たちは、どうして逆らったの?」

 

 その問いを口にした途端、空気がわずかに冷えたのを感じた。聞きすぎたか。喉の奥がひやりとする。それでも、ここで慌てて取り消せば、かえって不自然だ。私は何も知らない子供の顔を保ったまま、ヴァレリウスの答えを待った。

 

「無知ゆえでございます。正しい導きを知らぬ者は、目先の不満を国の秩序より重く考えてしまうもの。ゆえに、教える者と従わせる者が必要なのです」

「そうなのね。じゃあ、私ももっと勉強しないと」

 

 疑問の矛先を自分へ戻すと、ヴァレリウスの目元から警戒が薄れた。やはり、彼が恐れているのは質問そのものではない。私が教えを疑い、自分の答えへたどり着くことなのだ。その境界さえ越えなければ、好奇心の強い幼子として振る舞える。

 

 もっと勉強しなければ。そう口にした自分の舌が、今にも腐り落ちそうだった。

 けれど、ヴァレリウスは疑うどころか、これまで見たこともないほど上機嫌にうなずいた。その笑みを前にして、私は二つのことを思い知る。作戦の方向は間違っていない。そして私は、これから二年間、この胸焼けのする芝居を続けなければならない。

 

 その後も、私はヴァレリウスが望む答えを選びながら授業を受け続けた。終わりを告げられたころには、身体よりも先に頭が疲れ切っていた。

 ヴァレリウスを見送って扉が閉じると、私は椅子の背にもたれ、ようやく息を吐いた。傍らに控えていたリゼットも、張り詰めていた肩の力を抜く。

 

「ひとまず、信じてもらえたみたいね」

「はい。ですが、あまりご無理はなさいませんように。お顔は笑っていても、指先にずいぶん力が入っておりましたから」

 

 言われて手を見ると、掌には爪の跡がうっすらと残っていた。どうやら、自分で思っていた以上に緊張していたらしい。

 昼食のあとは、借りた本を読み返しながら、授業での受け答えを一つずつ振り返った。どの言葉にヴァレリウスが満足し、どの質問に警戒を示したのか。それを覚えておけば、次からはもう少し余裕を持って演じられるはずだ。

 そうしているうちに窓の外はゆっくりと茜色へ染まり、やがて夕食の時間になった。運ばれてきた料理を食べ終えるころには、朝から張り詰めていた緊張もようやく薄れていた。

 

 一日を無事に切り抜けたと実感した途端、張り詰めていたものが一気に緩んだ。気づけば私は、夕食の片づけをしていたリゼットの腰へ抱きついていた。

 

「あら。いかがなさいましたか、ルミィ様」

 

 リゼットの柔らかな声を聞くと、さらに力が抜けた。ルミナの記憶に残る嫌悪感と、男だった時から持ち続けている倫理観。その両方に逆らいながら、ヴァレリウスの望む皇女を演じ続けたせいで、思っていた以上に心がすり減っていたらしい。

 

「今日は本当によく頑張られました。今は、存分に甘えてくださいませ」

 

 優しく頭を撫でられる心地よさに、抱きつく腕へ思わず力がこもる。男だった頃の感覚からすれば、年下の少女に甘えるのは尊厳が削られる思いだ。けれど、それ以上に安心できたので、今だけは余計なことを考えないことにした。

 しばらくそうしているうちに、ささくれ立っていた気持ちも少しずつ落ち着いていった。私は名残惜しさを振り切るように、そっとリゼットから離れる。

 

「もう落ち着かれましたか?」

「うん……あとは、あのクソオヤジがハゲ散らかせば、もう少し落ち着けそう」

 

 気が緩んだせいか、つい本音が口からこぼれた。言ってしまってから恐る恐る顔を上げると、にこやかなのに少しも笑っていないリゼットと目が合った。

 

「ルミィ様。そのような言葉を、どこで覚えてこられたのですか?」

「ご、ごめんなひゃい……」

 

 両頬をつままれ、ゆっくりと左右へ引っ張られる。痛くはない。むしろ、言葉遣いを注意するふりをして遊ばれている気がする。

 そのままされるがままになっていると、やがて頬を解放された。ほっとしたのも束の間、今度は身体がふわりと宙へ浮く。リゼットが慣れた手つきで私を抱き上げたのだ。

 

「では、湯浴みにいたしましょうね」

 

 …………はい?

 

 唐突な言葉に理解が追いつかない。私が固まっている間にも、リゼットは手際よく私の服を脱がし、そのまま湯浴み場へ運んでいく。まるで風呂へ連れていかれる子猫のようだ。今さら抵抗する気力もなく、私はすべてを諦めて、なすがままになることにした。

 

 湯浴み場へ入った途端、白い湯気が頬を包んだ。磨かれた石造りの床には桶や布が整然と並び、広い浴槽には乳白色の湯が静かに揺れている。ほのかに草花の香りが漂い、それだけで一日の疲れが少し薄らぐようだった。

 

「お湯加減を確かめますね」

 

 リゼットは慣れた手つきで支度を進めながら、私が不安にならないよう一つずつ声をかけてくれる。その落ち着いた調子を聞いていると、身構えていることのほうが馬鹿らしく思えてきた。

 恐る恐る湯に触れると、熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどよい温かさだった。肩まで浸かった瞬間、朝から張りつめていたものが、湯の中へ溶け出していくように緩んでいく。

 思わず息を吐くと、リゼットが小さく笑った。

 

「少しはお疲れが取れそうですか?」

「うん。思っていたより、ずっと気持ちいい」

 

 正直に答えてから、あれほど抵抗していた自分が少しだけ恥ずかしくなる。けれど、リゼットは取り立ててからかうこともなく、濡れた髪を丁寧に整えてくれた。私は湯気の向こうへ視線を逃がし、その手に任せる。

 誰かに世話を任せることへの戸惑いは、まだ消えていない。それでも、相手がリゼットなら大丈夫だと思える程度には、この身体に残る信頼が私の中にも根づいていた。

 

「リゼット」

「はい、ルミィ様」

「今日も、ありがとう」

 

 リゼットの手が一瞬止まり、すぐにいつもの優しい調子で動き始める。

 

「こちらこそ、頼ってくださってありがとうございます」

 

 頼ることも、任せることも、私にはまだ難しい。だが、全部を一人で抱え込んでは、二年間もこの芝居を続けられない。湯の温かさに身を預けながら、私は少しだけ肩の力を抜くことを覚えようと思った。

 十分に身体が温まったところで、リゼットに促されて湯から上がった。厚手の布に包まれると、火照った頬へ浴室の涼しい空気が心地よく触れる。

 髪の水気を丁寧に拭われているうちに、急にまぶたが重くなってきた。温かい湯で緊張が解けたせいか、幼い身体はもう休む時間だと訴えているらしい。

 

「お眠くなりましたか?」

「まだ平気……たぶん」

 

 答えたそばから欠伸がこぼれた。リゼットは笑みを浮かべたが、何も言わずに寝間着を着せてくれる。柔らかな布に包まれるころには、立っているのも億劫になっていた。

 再び抱き上げられても、今度は抵抗する気にならなかった。リゼットの肩へ頬を預けると、一定の歩調に合わせて視界がゆるやかに揺れる。

 寝室へ戻ると、整えられたベッドへそっと下ろされた。眠気に重くなるまぶたをこすりながら、ぼんやりと部屋を見回す。ふと、大きな扉が目に留まり、私はそのままじっと見つめた。

 

「ルミィ様、どうかなさいましたか?」

 

 リゼットの問いには答えず、私は眠気をこらえてベッドから降りると、とことこと扉の前まで歩いていった。

 幼い私の前にそびえる、重く大きな扉。鍵が掛かっているわけではない。それでも、自分一人では開けられないというだけで、この扉が私を閉じ込めるためのものに思えた。

 そう考えると、男だった頃の反骨心がむくむくと湧いてくる。せめて一度くらい、自分の力で開けてみたい。私は扉を見上げ、ドアノブへ手を伸ばした。

 

「ルミィ様。寝間着のまま外へ出ようとなさるのは、感心いたしませんよ」

「違うの。ただ、自分の力で扉を開けてみたいだけ」

 

 リゼットは呆れたように息をついたが、私は構わず、その場で何度も飛び跳ねた。けれど、今の身体ではどれだけ腕を伸ばしても、指先すらドアノブに届かない。

 

「ぷっ……く、くく……」

 

 必死に挑戦している私の背後から、堪えきれない笑い声が聞こえた。振り返ると、リゼットが口元を押さえ、顔をそらしながら肩を震わせている。

 

「も、申し訳ございません。ただ、あまりにも愛らしくて……ふふ」

 

 私の恨めしげな視線に気づき、リゼットは慌てて謝ったものの、笑いはまだ収まっていなかった。

 思わず頬を膨らませたものの、冷静に考えてみれば、届かないドアノブを目がけて何度も跳ねる姿は、どう見ても幼い子供そのものだ。

 そう気づいた途端、急に恥ずかしさが込み上げてきた。私は逃げるようにベッドへ駆け戻り、そのまま飛び込んで顔をシーツへ埋めた。

 

「ふふ。もうお休みになりますか?」

 

 私は顔を上げないまま、こくりとうなずいた。リゼットは笑みを残したまま私の寝間着を整え、乱れたシーツを掛け直してくれた。

 

「明日も、ヴァレリウスの授業があるのよね」

「はい。ですが、今日のご様子なら、きっと大丈夫でございます」

 

 励ましにうなずき、私は枕へ頬を沈めた。明日からも演技は続く。書庫で調べたいことも、レーヴェン卿へ頼みたいことも山ほどある。それでも今夜だけは、何も考えずに休みたかった。

 

「おやすみなさい、リゼット」

「おやすみなさいませ、ルミィ様。どうか、よい夢を」

 

 灯りが落とされ、部屋が静かな闇に包まれる。今日は一日が長かった。けれど、味方はいる。その事実に背中を押されるように、私はほどなく穏やかな眠りへ落ちていった。

 

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