TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
陽が落ちたあとの財務省は、昼間よりも静かだった。
廊下を行き交っていた役人たちはとうに帰り、広い執務室に残っているのは、紙をめくる乾いた音と、時折鳴るペン先の鋭い音だけだ。壁際の燭台では魔石の灯りが青白く揺れ、机の上に積み上がった書類の山を照らしている。
エサソン・ローレグは眼鏡の位置を直し、地方税収報告書の末尾へ赤い線を引いた。
「……合わない」
記載された税収額と、添付された穀物の収穫量が噛み合っていない。報告どおりの税を納めたのなら、領内に残る食料は冬を越せる量を下回る。逆に民が生きているのなら、どこかで数字が水増しされていることになる。
どちらにせよ、まともな状態ではなかった。
エサソンは隣の束から前年の報告書を引き抜き、数字を照合した。収穫量は一割減。農家の戸数はさらに減少。それにもかかわらず、徴税目標だけは二割増えている。欄外には、担当貴族の筆で『皇室の威光を示すため、未達は認めず』と書き添えられていた。
思わず、ため息が漏れた。
「威光で小麦が実るのなら、財務省など必要ないでしょうに」
誰に聞かせるでもなく呟き、修正を求める付箋を貼る。だが、この報告を上へ戻したところで、返ってくる答えは分かっていた。数字の誤りを正せではない。足りない分をどこから取るか考えろ、と命じられるだけだ。
机の端には、同じ理由で突き返す予定の書類がすでに十数通積まれている。その向こうには、東方遠征の予算案が鎮座していた。兵糧、馬、武具、輸送費。どの欄も現実より少なく見積もられ、戦利品だけは希望的な数字で膨らまされている。
「このまま承認すれば、軍は国境へ届く前に干上がる。却下すれば、財務省が皇帝陛下の御威光を理解していない、と」
あまりの惨状に、エサソンは眩暈を覚えた。もはや財務省は、まともに機能しているとは言い難い。ほかの職員たちはとうに諦め、有力貴族の命令どおりに数字を整えるだけの存在となっている。それでも、エサソンだけは仕事を投げ出すわけにはいかなかった。
帝国が崩壊すれば、この宮殿に囚われているセレスティア女王と、その娘であるルミナ皇女の身にも危険が及ぶ。それだけは、何としても避けなければならない。
セレスティア女王を敬慕するエサソンにとって、二人を見捨てるという選択肢はなかった。現状を切り抜ける方法は、二人を連れてエルフィネへ逃れるか、帝国の崩壊を少しでも先延ばしにするか。そのどちらかしか思いつかない。
だが、宮廷で軽んじられている財務省の一役人、それもエルフである彼に、二人を連れ出す権力も、帝国を立て直す力もなかった。
エサソンはこめかみを押さえ、椅子の背へ身体を預けた。窓の外には灯りの落ちた中庭が広がり、その向こうに皇宮の塔が黒い影となって浮かんでいる。あの中では今ごろ、遠征の成功を前提にした祝宴の相談でもしているのだろう。
机へ向き直り、次の書類へ手を伸ばしかけたとき、執務室の扉が二度、控えめに叩かれた。
「入れ」
現れたのは、書庫付きの年若い書記官だった。財務省へ用があるようには見えず、手にした薄い本にも見覚えがない。
「レーヴェン卿より、お預かりしたものがございます」
差し出されたのは、『帝国諸侯の忠節』と題された入門書だった。
エサソンは題名を見て眉をひそめた。レーヴェンが、わざわざ自分へ薦める類の本ではない。書記官が退出するのを待ってから頁をめくると、中央付近に小さく折られた紙片が挟まっていた。
紙には、見慣れた老人の筆跡で、わずか数行だけが記されている。
『ルミナ皇女殿下が、帝国の残された時間を知りたがっておられる。私は大きな失策さえなければあと数年は持ちこたえるとお伝えしたが、財務の実情までは把握できていない。殿下は、あなたの助力を望んでいる』
エサソンはしばらく紙片を見つめた。
三歳の皇女が、帝国の残された時間を問う。
冗談にしては性質が悪く、レーヴェンの名を使った罠にしては回りくどい。何より、あの老人が意味のない言葉を寄越すはずがなかった。
エサソンは机上の書類へ視線を戻した。収穫量の減少、膨れ上がる徴税目標、成立しない遠征予算。今日一日だけでも、帝国の余命を示す数字はいくらでも見つかる。
「……なるほど。将来の教え子は、思っていたよりも厄介らしい」
口元に浮かんだのは笑みというより、久しく忘れていた興味の表れだった。彼は新しい紙を一枚取り出し、財務省の公式報告には決して書けない、帝国の本当の収支を書き始めた。
まず、帝都へ納められる税収から、実際には回収できない分を差し引いた。次に、倉庫の帳簿上は存在することになっている穀物のうち、横流しや腐敗で失われた分を見積もる。最後に、東方遠征へ投入される予定の費用を重ねると、紙の上ですら保たれていた均衡はあっけなく崩れた。
「遠征がなければ、二年。予定どおり強行すれば……一年も怪しいか」
もちろん、これは中央へ届いた数字だけで算出した結果にすぎない。地方役人が被害を軽く報告し、貴族が徴税額を多く見せているなら、実情はさらに悪い。
この数字を三歳の皇女へそのまま渡すわけにはいかない。紙片が一枚見つかるだけで、ルミナだけでなく、レーヴェンもエサソンも反逆の疑いをかけられる。だが、相手の力量を遠回しに確かめている余裕もなかった。遠征の決定が下れば、帝国に残された時間は一年を切るかもしれないのだ。
エサソンは試算を書いた紙を折り畳み、懐へ収めた。書面で返事を交わすより、レーヴェン本人から事情を聞くほうが早い。老学士が何を見て、何を根拠にルミナへ希望を託したのか。それを直接確かめる必要がある。
「明日の朝まで待つ余裕はありませんね」
机の上の書類を手早くまとめ、魔石の灯りを落とす。東方遠征の予算案だけは脇へ避け、レーヴェンに見せるための試算と一緒に持ち出すことにした。
呼び鈴を鳴らすと、ほどなく先ほどの書記官が戻ってきた。
「レーヴェン卿は、まだ書庫におられますか?」
「はい。今夜は遅くまで残られると伺っております」
「でしたら、先触れは不要です。私が直接伺います」
書記官は驚いたように目を見開いたが、すぐに一礼した。エサソンがこの時間に財務省を離れるのは珍しい。だが、説明している時間すら惜しかった。
外套を羽織り、試算を確かめるように懐へ手を当てる。三歳の皇女が帝国の破綻を知りたがっている。その事実が希望なのか、新たな災いの種なのかは、まだ分からない。
だが、レーヴェンが意味のない期待を抱く人物でないことも知っている。ならばルミナを遠くから値踏みするより、まずは彼が何を見たのかを聞くべきだった。
エサソンは書記官を伴い、静まり返った財務省をあとにした。向かう先は皇宮書庫。夜は深まりつつあったが、帝国のほうが先に夜明けを失うかもしれない。
皇宮書庫へ着くと、正面の扉にはまだ明かりが漏れていた。同行していた書記官が扉を開けようとするのを制し、エサソンは一人で中へ入る。
中央の大机では、レーヴェンが一冊の本を閉じたところだった。突然の訪問にも驚いた様子はなく、空いている椅子を目で示す。
「今夜のうちに来ると思っておりました」
「そう思うなら、最初から書記官ではなく私を呼んでください。時間がありません」
挨拶もそこそこに、エサソンは東方遠征の予算案と試算を机へ広げた。レーヴェンは数字へ目を落とし、表情を引き締める。
「遠征がなければ二年。強行されれば一年も持たない可能性があります。あなたが殿下へ伝えた『あと数年』より、状況は悪い」
「私が見られるのは、書庫へ届く過去の記録と宮廷の噂まで。財務の実数を握るあなたが必要だったのは、そのためです」
「本題へ入りましょう。殿下は何を知り、何を望んでいるのですか?」
レーヴェンはその日の面会を、余計な評価を交えず順に語った。ルミナが勝者の歴史だけを疑い、滅ぼされた三国の記録を比較したこと。征服地ごとの扱いの違いから、帝国が長期支配から略奪へ転じたと見抜いたこと。そして、残された時間を知り、崩壊後の主導権を握るために味方を求めていること。
「三歳の幼子が、そこまで?」
「私も、容易には信じられませんでした。ですが、殿下は私の誘導に乗ったのではございません。記録の差異を自ら見つけ、問いを重ねて結論へ至られた。何より、帝国を救いたいとは一度も仰らなかった」
「救いたくない、と?」
「今の思想と仕組みを残したまま延命しても、崩壊を先送りにするだけだと。必要なら帝国という形を終わらせ、混乱に呑まれる前に自ら主導権を握るおつもりです」
あまりに大胆な言葉だった。野心だけなら、皇族には珍しくもない。だが、自らが受け継ぐはずの帝国を、必要なら終わらせると言える者は少ない。まして、その理由が民と生産基盤を守るためだという。
「言葉だけなら、いくらでも立派に飾れます」
「ええ。ですから私は、殿下が何を守ろうとなさるのかを見ました。母君が生きていると知ったとき、殿下は涙を流された。けれど、すぐに母君だけを連れ出せとは仰らなかった。まず帝国と諸国の状況を知り、崩壊に備えると決められたのです」
エサソンは黙って試算へ視線を落とした。もしルミナが母親を救うことだけを望むなら、彼も迷わず力を貸す。だが、それだけでは帝国の崩壊に巻き込まれる民も、故国を失った同胞も救えない。
「殿下は、セレスティア様に似ておられますか?」
「慈悲深さは。ですが、物事を利用することへのためらいのなさは、どなたに似たのでしょうな」
皮肉めいた答えに、エサソンはわずかに口元を緩めた。少なくとも、レーヴェンが血筋や伝承だけで盲信しているわけではない。危うさも含めて見定めたうえで、それでも賭ける価値があると判断している。
そして財務省の数字は、ほかの選択肢が残されていないことを示していた。帝国上層部へ正論を訴える道は、何年も前に潰えている。セレスティアを連れて逃げる道にも、ルミナを置き去りにするという代償がある。二人を守り、その先の民まで救う可能性があるとすれば、幼い皇女の計画に乗るほかなかった。
「信じましょう」
レーヴェンが眉を上げる。
「殿下が必ず正しいと信じるわけではありません。あなたの見立てと、殿下が守ろうとしているものを信じます。それに、間違われたときは止める者が必要でしょう」
「それを聞いて安心いたしました。初めから何でも賛同する方では、殿下のお役には立ちますまい」
エサソンは懐から試算を取り出し、レーヴェンの前へ置いた。
「まずは、これを殿下へ伝えてください。東方遠征が決まれば、猶予は一年を切る可能性がある。正式な面会を待ってはいられません。次に殿下が書庫へ来られる日時を教えてください」
「直接お会いになるおつもりで?」
「ええ。信じると決めた以上、老人を伝書鳩にしている時間はありません。殿下ご自身の口から計画を聞き、財務省から何を持ち出せるかを決めます」
その夜、エサソンはルミナへ忠誠を誓ったわけではなかった。ただ、彼女の言葉を聞く価値と、その未来を支える責任を引き受けた。帝国の数字を見続けてきた彼にとって、それは盲信よりもはるかに重い決断だった。