TS帝国幼姫、主権を簒奪するので日本と貿易します 作:F.F
アパートの一室にあるパイプベッドに腰掛け、私は手に取ったタブレットの画面を見つめる。
一時停止した画面の中で、銀髪の少女が満面の笑みを浮かべたまま固まっている。その横では、コメント欄の文字が流れかけの姿勢で止まっていた。
エサソンは眼鏡の位置を直し、身をかがめてタブレットを覗き込んだ。異世界の最先端技術を前にしているというのに、その表情は、帳簿の不審な一行を見つけた財務官のそれと変わらない。
「……姫様。この少女は、絵ですか?」
「そう。正確には、絵を動かしているの。中には本物の人間がいて、その人の声や表情に合わせて、この絵が喋ったり笑ったりする」
「中に人間が。つまり、仮面を被った語り部のようなものですか」
思わず感心してしまった。初見でそこまで本質を掴むあたり、さすが財務省で数字の嘘を見抜いてきた男だ。
「近いわね。違うのは、この仮面の向こうから、国中――いえ、世界中の人に向けて、同時に語りかけられること。今この瞬間も、何万人という人がこの子の話を聞いているわ」
「何万……」
エサソンの眉がわずかに跳ね上がった。帝都の大広場に民を集めても、せいぜい数百人がいいところだろう。それを、部屋から一歩も出ずにやってのける。彼の頭の中では、今ごろ驚きよりも先に、その影響力を数字へ換算する計算が始まっているはずだ。
私は再生ボタンを押した。少女が再び動き出し、ゲームで盛大に失敗して悲鳴を上げる。途端に、画面の右端を文字の濁流が駆け上がっていった。笑う者、からかう者、励ます者。その合間に、色付きの枠で囲まれたコメントがいくつも差し込まれる。
「この色の付いたものは?」
「投げ銭よ。応援したい人が、自分の意思でお金を贈っているの。誰に強いられたわけでもなく、ただ面白かった、楽しかったという理由だけでね」
エサソンが息を呑むのが分かった。徴税目標の未達を咎められ、民から一粒でも多く麦を搾り取れと命じられてきた男にとって、自ら進んで金を差し出す人々の光景は、魔法以上に理解しがたいものなのだろう。
「……なるほど。人を集め、心を掴み、富まで動かす仕組みであることは分かりました」
彼はゆっくりと身体を起こすと、腕を組んで私を見下ろした。皮肉げな目つきが戻っている。どうやら、感心する時間は終わりらしい。
「ですが、姫様。それはあくまで、この世界の民の娯楽でしょう。この少女のように語りかけたところで、日本という国が帝国の存在を認めるわけではありません。まして交易となれば、相手は民ではなく国です」
エサソンは画面を指さし、それから私へと視線を戻した。
「ぶいちゅうばあになったとして――それで、どうやって日本と交易なさるおつもりですか?」
「確かに、Vtuberになったからといって、すぐに国と交易できるわけじゃない。でもね、Vtuberには“企業案件”っていうものがあるの」
私の言葉に、エサソンは眉をひそめた。企業というものが何なのか分からないのだから、当然の反応だ。
「いい? 私たちの計画にまず必要なのは生産力。その立て直しを支援してくれる相手が欲しいの。企業っていうのは、こっちで例えるなら民間の商会ね。ただし、その規模は帝国の商会とは比べものにならないわ」
そう言って、私はタブレットで検索ページを開き、ある企業の名前を打ち込んだ。
『天城ホールディングス』。明治時代から続く大企業で、傘下には『天城電機』『天城エナジー』『天城エンタテインメント』『天城重工』『天城商事』と、多岐にわたるグループ会社を抱えている。中でも『天城重工』はインフラ開発や農業機械を手がけており、今の帝国が喉から手が出るほど欲しい技術を持っている。そして『天城エンタテインメント』。ゲーム開発を行っている会社なので、そこのハードであるAMAGI LINK VERSEを使った配信で注目を集めれば、企業案件をもらえるかもしれない。しかも天城エンタテインメントには、AMAGI LIVEというお抱えのVtuber事務所がある。私がVtuberとして話題になれば、向こうの目に留まる可能性は高い。
かいつまんでそう説明すると、エサソンは懸念をにじませて顔をしかめた。
「なるほど、姫様のお考えは分かりました。では伺いますが、その企業から案件とやらをいただけるまで、どの程度の時間がかかるのですか?」
問われて、私はしばし考え込んだ。正直なところ、Vtuber業界の実態には詳しくない。何せROM専門のにわかだったのだ。そんな私が、かなり希望的に見積もるなら……。
「一年くらい、かな?」
そう口にした瞬間、エサソンの目つきが変わった。
「姫様には今一度、帝国に残された時間というものをご理解いただく必要がありそうですね」
底冷えするような声に、思わず身震いする。私は慌ててタブレットを操作した。
「ちょ、ちょっと待って! 何も無計画ってわけじゃないから! ほら、これを見て。農業のやり方とか、ここにいろいろ載っているの。企業の支援を受けられるまでは、これで時間を稼げるわ」
慌てて差し出すと、エサソンはタブレットを受け取り、表示された画面へ目を落とした。
「書かれている文字は読めませんが、ここにこの世界の農業について記されているのですね?」
「え……あ、はい」
そうだった。エサソンに日本語が読めるはずがない。これは私が翻訳するしかなさそうだ。
「もう一つお伺いします。この国の農業技術は、帝国よりも優れているのですね?」
「ええ、それは間違いないわ。具体的に言うと、この国の総人口は約一億二千万人。そして主食の米という作物は、ほぼ百パーセント自給できているの。付け加えるなら、この国は山が多くて、田畑にできる土地は他国に比べて少ないのよ」
「一億二千万の民を、百パーセント……」
あまりの規模の違いに、エサソンは言葉を失った。それもそうだ。七百万の民すら飢えさせている帝国に対し、日本は一億二千万の民の食を満たしている。こちらの世界の価値観では、想像すらできないのだろう。
「なるほど。では姫様、私にこの国の言葉を教えてください。今後の授業は魔法だけでなく、私がこの国の言葉を習得するための時間も含めることにいたします」
エサソンはタブレットの画面から顔を上げ、きっぱりとそう言い切った。眼鏡の奥の目には、先ほどまでの呆れも苛立ちもない。帳簿の中に、ようやく使える数字を見つけた財務官の目だった。
「え、エサソンが日本語を覚えるの?」
「当然でしょう。姫様お一人に翻訳を任せていては、どれほど時間があっても足りません。それに――」
エサソンは言葉を切ると、ベッドの上に散らばったポテチの欠片へ、ちらりと冷ややかな視線を向けた。
「姫様が翻訳なさった内容が正しいのか、私自身で確かめられなければ、帝国へ持ち帰る報告として信用できませんので」
「ちょっと待って。それ、私の翻訳を最初から疑ってない?」
「疑っておりません。確認するだけです」
それを疑っていると言うのではないだろうか。
とはいえ、エサソンの言い分はもっともだった。ルミナとしての知識はあっても、私は農業の専門家ではない。俺だった頃に聞きかじった程度の知識で、一国の食料事情を左右する技術を正しく伝えられるとは思えなかった。翻訳を一人で抱え込めば、誤訳一つで帝国の畑が全滅しかねない。
「分かったわ。でも、日本語ってかなり難しいわよ。文字だけでも、ひらがな、カタカナ、漢字の三種類があるんだから」
「三種類、ですか」
「しかも漢字は数千字ある」
さすがのエサソンも、わずかに眉をひそめた。だが、それも一瞬のことだった。
「帝国の帳簿には、各領地ごとに異なる符丁や略字が使われております。地方役人が不正を隠すために勝手に作った記号まで含めれば、数千程度では済みません。それをすべて読み解いてきた身としては、さほど脅威とは思えませんね」
……この人、本当に頼もしいけど、本当に可愛げがない。
「それと、姫様」
「なに?」
「先ほど、企業からの案件をいただくまで一年ほどかかると仰いましたね」
ぎくり、と肩が跳ねた。その話はもう終わったと思っていたのに。
「その一年を、半年に縮めていただきます」
「は、半年!?」
「帝国に残された時間を考えれば、それでも遅いくらいです。こちらの農業の知識で多少の時間は稼げるとしても、それを帝国で根付かせるには、さらに年単位の時間が必要でしょう。悠長に構えている余裕はございません」
反論しようと口を開きかけて、私はそのまま閉じた。エサソンの言うとおりだ。日本の農業技術を知ったところで、翌日から収穫が増えるわけではない。土を作り、種を選び、農民に新しいやり方を覚えてもらう。どれだけ急いでも、成果が出るのは何度か季節を越えたあとだ。
「……分かった。半年で、天城の目に留まってみせる」
「よろしい。では、まずは姫様が何をすべきか、具体的にお聞かせください。ぶいちゅうばあとやらになるために、必要なものは何ですか?」
問われて、私は改めて部屋を見回した。ノートPCに、タブレット。それから、壁際の液晶テレビにつながれたままのゲーム機。
配信に必要な機材は、意外と揃っている。アバターについては、そもそも私自身が非現実的な存在なので、このままの姿をVtuberとして配信するつもりだから必要ない。足りないのは、マイクにオーディオミキサー、それからヘッドフォン。ノートPCのスペックが足りなければ、新しいものも欲しい。
私はおそるおそる、ノートPCで銀行口座の残高を確認した。
「…………」
「姫様?」
「エサソン。帝国の国庫を心配する前に、私の財布を心配したほうがいいかもしれない」
画面に表示された数字を見て、私は静かに天を仰いだ。在宅の細々とした仕事で食いつないでいた男の貯金など、たかが知れている。しかも、昨日の無断欠勤で、その細々とした収入すら危うい。
どうやら帝国より先に、私の財政のほうが破綻寸前らしい。
「姫様の資金ですか? でしたら、我々が持つ貴金属をこちらの世界で売ればよいのでは?」
「無理。身分証がないもの」
そう、現代社会では身分証がなければ、できることは限られる。
……いや、待てよ。今は仕事を病欠している最中だ。ならば、復帰は難しいとしてそのまま退職すればいい。残りの有休を消化すれば、そこそこの収入にはなるはずだ。あとは失業手当が出れば、ワンチャンなんとかなる……。その間に、貴金属を換金する方法を探せば、どうにか……。
「よし、なんとかなるかも」
「さようでございますか。では、次の問題です。姫様の能力を検証いたしましょう」
その言葉に、私はエサソンへ向き直り、小さくうなずいた。
今後の計画は、私の能力を前提にしている。能力の範囲によっては、計画そのものを見直す必要がある。特に重要なのは、どこと繋げられるかだ。もし私の部屋からしか繋げられないのなら、新しい都市へ移り住む計画自体が破綻する。だからこそ、今できることとできないことを、一つずつ確かめていく。
結論から言えば、どうにかなりそうだった。検証で分かったことは、以下のとおりだ。
一つ目。扉は私自身が開ける必要があり、その際につながる先を思い浮かべなければならない。
これは、なんとなく予想していた。部屋の扉を私以外が開けたときは、こちらの世界にはつながらなかった。試しに元の世界の部屋の扉を閉め、何も考えずに開けると、廊下の先に玄関の扉が見えた。一方、ルミナの部屋を思い浮かべながら開けると、きちんとルミナの部屋へつながった。
二つ目。つながる先の扉と、形状や開き方が同じでなければつながらない。
具体的には、こちらで扉を開く向きが、つながる先の扉の開く向きと一致していなければならない。たとえば、ルミナの部屋の扉は廊下側へ向かって開き、こちらの部屋の扉は廊下側から部屋の内側へ向かって開く。そのため、ルミナの部屋から扉を開けてこちらの部屋へ入ることはできるが、こちらの世界で廊下側から扉を開けても、ルミナの部屋には入れない。
それに気づいたとき、ルミナの部屋とこちらの部屋のクローゼットが同じ開き方をすることを思い出し、試してみた。すると、こちらの部屋のクローゼットを開けた先には、ルミナのクローゼットの中身が並んでいた。さらに、こちらのクローゼットへ入り、内側から扉を開けると、ルミナの部屋へ出ることができた。
そして最後に、これが一番重要なのだが、私が所有権を持っている扉同士しかつなげられない。
試しに、アパートの部屋から同じ間取りの隣の部屋へつなげようとしたが、うまくいかなかった。次に、実家の自分の部屋へつなげてみると、こちらは成功した。そこで皇宮書庫へ移動し、管理を任されているレーヴェン卿に、一時的に所有権を私へ譲ると宣言してもらった。すると、宣言前はつながらなかった書庫の扉が、宣言後にはつながるようになった。
つまり、実際に私が所有していなくても、所有者が私に貸し与えたと認識していれば、条件を満たすということだ。
ここまでの検証の結果、私の計画は問題なく実行できることが分かった。であるならば、最後で最高の演技をしましょうか。
翌日の午後、私はリゼットを伴い、ヴァレリウスの執務室がある西棟へ向かった。
こちらから彼を訪ねるのは、これが初めてだ。二年間、あの男はいつも勝手に私の部屋へ入ってきた。だからこそ、自ら足を運ぶという行為そのものに意味がある。教え子が師を慕い、自分の意思で教えを乞いに来た――ヴァレリウスにそう思わせることが、今日の最初の一手だった。
「ルミィ様、お顔が少し硬くなっておられます」
「分かってる。……ここからは、ルミナ殿下の出番ね」
小声で答え、私は一度だけ深く息を吸った。頬の力を抜き、目元をわずかに緩める。鏡の前で何百回と繰り返した、ヴァレリウスが最も好む笑顔だ。
執務室の前に立つ侍従が、私の姿を見て目を丸くした。末姫が先触れもなく西棟まで来るなど、前例がないのだろう。慌てて取り次ぎに入った侍従と入れ替わるように、扉の奥から聞き慣れた声が響いた。
「殿下が、私のもとへ? お通ししなさい」
声だけで分かる。喜んでいる。
通された執務室は、私の部屋よりもはるかに豪奢だった。壁には帝国の版図を描いた大地図が掲げられ、書棚には金箔押しの背表紙が整然と並んでいる。もっとも、そのどれもが読み込まれた形跡に乏しい。この部屋の主にとって、書物は知識ではなく飾りなのだろう。
ヴァレリウスは机から立ち上がり、両腕を広げんばかりの笑みで私を迎えた。
「これはこれは、殿下。わざわざお越しくださるとは。ローレグの授業で、何か不都合でもございましたかな?」
「いいえ、先生。ローレグ先生の授業はとても分かりやすいわ。でも――」
私はそこで言葉を切り、ためらうように視線を落とした。言いにくいことを打ち明ける子供の間合いだ。案の定、ヴァレリウスは膝を折り、私と目線を合わせてきた。その距離の近さに背筋が粟立つが、笑顔は崩さない。
「魔法を学ぶたびに思うの。私は先生から、帝国を正しく導く方法をたくさん教わったわ。でも、まだ一度も、それを自分で試したことがない」
「ほう」
「だから、お願いがあって来たの。私に、都市を一つ任せてほしいの」
ヴァレリウスの目が、わずかに見開かれた。驚きの奥に、すぐさま計算の光が灯る。
「都市を、でございますか。殿下はまだ五歳。いかに聡明であられても、陛下がお許しになるかどうか」
「だから、先生にお願いしに来たの。先生が育てた皇女がどれほどのものか、陛下にも、貴族の皆にも見せてあげたいの。先生の教えが正しいって、私が証明するわ」
自分の教育の成果を、帝国全体へ見せつける。その甘い響きに、ヴァレリウスの喉がわずかに動いたのが分かった。
だが、彼も宮廷を生き抜いてきた男だ。すぐには飛びつかず、探るような目で私を見る。
「して、殿下はその都市で何をなさるおつもりですかな?」
来た。ここからが本題だ。
「帝国に従わない人たちを集めるの。陛下に逆らった人、先生の教えを分からない人、帝都で秩序を乱す人。そういう人たちを一つの都市へ移して、農奴として畑を耕させるわ」
口にした瞬間、自分の言葉に吐き気がした。背後で控えるリゼットの気配が、ほんの一瞬だけ強張る。それでも私は、無邪気な笑みのまま続けた。
「帝都から邪魔な人がいなくなれば、秩序はもっと正しくなる。それに、働かせれば作物も増えるでしょう? 罰を与えながら、帝国の役にも立てる。先生が教えてくれたとおり、従えば報われて、逆らえば罰を受けるって、みんなに分かってもらえるわ」
長い沈黙が落ちた。
壁の大地図を背にしたヴァレリウスは、しばらく私の顔を見つめていた。疑われたか。爪が掌に食い込みそうになるのを、膝の上で両手を重ねてどうにか抑える。
やがて、彼の口元がゆっくりと吊り上がった。
「……素晴らしい」
低く、陶酔したような声だった。
「反逆の芽を一箇所へ集め、管理し、その労働を帝国の糧とする。処罰と生産を両立させる発想を、五歳の御身で導き出されるとは。殿下、これこそ私が二年をかけてお伝えしたかった統治の本質でございます」
「本当? 先生に褒めてもらえて嬉しいわ」
頬を染めてはにかんでみせる。この二年で最も上手くできた笑顔だったと思う。もっとも、頬が熱いのは嬉しさではなく、嫌悪を押し殺しているせいだ。
「陛下へは、私から奏上いたしましょう。殿下のご成長を示す何よりの証として、必ずやお許しをいただいてまいります」
「ありがとう、先生。それと、もう一つだけお願いがあるの」
「何なりと」
私は少しだけ身を乗り出し、内緒話をするように声を潜めた。
「私が移る前に、先生にその都市を整えてほしいの。皇女にふさわしい場所に。先生が考える、いちばん正しい帝国の形にしてほしい。だって私、先生が作った場所で、先生の教えを実践したいもの」
自分の理想を、自分の手で形にできる。その誘惑は、彼にとって都市を任されるより甘美なはずだ。案の定、ヴァレリウスは胸に手を当て、恭しく頭を垂れた。
「身に余る光栄。殿下がお移りになるその日までに、必ずや帝国の理想を体現した都市をご用意いたします。このヴァレリウス・クローヴェン、自ら現地へ赴き、すべてを差配いたしましょう」
「嬉しい。先生が一緒なら、きっと安心ね」
ええ、本当に。あなたが先に行ってくれるのなら、これほど安心なことはない。
執務室を辞し、西棟の長い廊下を戻る間、私もリゼットも一言も口を利かなかった。どこに耳があるか分からない。私はいつものようにリゼットの袖をつまみ、満足げな幼い皇女の顔で歩き続けた。
自室へ戻り、背後で重い扉が閉じる。その瞬間、膝から力が抜けた。
「ルミィ様!」
「……大丈夫。ちょっと、気持ち悪くなっただけ」
床へ座り込んだ私を、リゼットが慌てて支えてくれる。農奴として働かせる。邪魔な人間を集めて罰する。たとえ嘘でも、あれを笑顔で語った自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「リゼット。さっきの私、本当に演技に見えた?」
問いかけると、リゼットは私の手を両手で包み、静かに首を振った。
「いいえ。演技でなければ、ルミィ様はこのように震えてはおられません」
その言葉に、張り詰めていたものがようやくほどけた。私はリゼットの肩へ額を預け、しばらくそのまま呼吸を整える。
やがて顔を上げると、部屋の隅のクローゼットへ目を向けた。あの扉の先には、もう一つの世界がある。そして近いうちに、ヴァレリウスが整える都市の扉も、私のものになる。
「さあ、始めましょう。最後で最高の演技は、まだ幕が上がったばかりよ」
ヴァレリウスからの知らせが届いたのは、それから五日後のことだった。
「明日の午前、謁見の間にて、皇帝陛下が殿下にお会いになるそうでございます」
書状を読み上げたリゼットの声は、わずかに震えていた。無理もない。生まれてから五年、父である皇帝が私に会おうとしたことは、ただの一度もなかったのだから。
ヴァルディア帝国第十四代皇帝、ゼルギウス・ヴァルディア。お母さまの国を攻め滅ぼし、女王を戦利品のように宮殿へ連れ帰った男。そして、レーヴェン卿の言う「自ら考えることをやめた」皇帝の、その最たる者だ。
「怖い?」
「……正直に申し上げれば、はい。陛下はご機嫌ひとつで、臣下の首を刎ねさせる方ですから」
「なら大丈夫よ。機嫌を損ねなければいいんだもの」
軽く言ってみせたものの、胸の奥は冷たかった。ヴァレリウスなら、二年かけて癖を学んだ。だが皇帝については、噂と記録しか知らない。一度の失敗で、計画どころか命まで失いかねない相手だった。
その夜、書庫の本に挟まれて届いたエサソンの伝言は、いつもどおり簡潔だった。
『陛下は長い話を好まれません。数字も理屈も不要。陛下が欲しいのは、ご自身が称えられる言葉と、手間のかからない成果だけです。姫様が何を願うかより、陛下が何を得るかを語ってください』
まったく、可愛げはないが頼りになる教師だ。私は紙片を燭台の火で燃やし、灰になるまで見届けてから眠りについた。
翌朝。謁見の間へ続く扉は、私の部屋の扉など比べものにならないほど巨大だった。両脇に控える近衛兵が重々しく押し開けると、奥へ延びる深紅の絨毯の先、幾段も高い玉座に、一人の男が頬杖をついて座っていた。
金糸で縁取られた外套に、宝石を連ねた冠。四十半ばのはずだが、弛んだ頬と濁った目が、実際より十は老けて見せている。左右には着飾った有力貴族たちが並び、その末席にヴァレリウスの姿もあった。
私は教えられた作法どおりに絨毯の中ほどまで進み、深く膝を折った。
「ヴァルディア帝国第十四代皇帝、ゼルギウス陛下に、末娘ルミナがご挨拶申し上げます」
返事はすぐには来なかった。値踏みするような視線が、頭の上から降ってくる。
「……ほう。セレスティアに似てきたな」
その一言に、腹の底が煮え立った。お母さまの名を、この男が口にする。それだけで顔を上げてしまいそうになるのを、床を見つめたまま堪えた。
「クローヴェンから聞いたぞ。そなた、都市が欲しいそうだな」
「はい、陛下。陛下の帝国を乱す者たちを一つの都市へ集め、陛下のための畑を耕させたいのです」
「余のため、か」
「はい。逆らう者にも、陛下の御威光のもとで働く喜びを教えます。そうすれば帝都は静かになり、陛下の倉は豊かになります。陛下は何もなさらず、ただお喜びになっていればよいのです」
エサソンの助言どおり、数字も理屈も口にしない。陛下が何を得るか、それだけを語る。
玉座の周りで、貴族たちがひそひそと囁き合った。「五歳の子供が」「エルフの血の」「戯言を」――そんな言葉の切れ端が聞こえてくる。
そのとき、ヴァレリウスが一歩前へ進み出た。
「恐れながら陛下。殿下のお言葉は、私が二年をかけてお伝えした帝国の理そのものでございます。処罰と生産を兼ねる都市は、殿下の教育の成果を示すとともに、陛下の御代の新たな誉れとなりましょう。現地の差配は、この私が責任をもって務めます」
ゼルギウスは退屈そうに欠伸を一つ噛み殺し、傍らの宰相らしき老貴族へ目をやった。
「余っている土地はあるか」
「は。北東のロスヴァル地方に、昨年の不作で領主が逃げ出した小都市がございます。今は税も上がらず、捨て置いております」
「ならばくれてやれ。どうせ金にならぬ土地だ」
あまりにもあっけない一言だった。都市一つの行く末が、欠伸の合間に決まる。この国が傾いている理由を、私はこの瞬間、どの記録よりもはっきりと理解した。
「ルミナ」
「はい、陛下」
「余を失望させるなよ。成果を上げれば褒美をやる。しくじれば――そうだな、そなたもセレスティアと同じ塔で暮らすことになろう」
冗談とも脅しともつかない声に、貴族たちが追従の笑いを漏らす。私は顔を伏せたまま、唇の内側を強く噛んだ。お母さまは塔にいる。その一言だけは、決して聞き逃さなかった。
「陛下のご期待に、必ずお応えいたします」
こうして、皇帝の印章が押された勅書が、ヴァレリウスの手を経て私に下された。ロスヴァル地方の小都市を、末姫ルミナの直轄とする。現地の差配は教育係ヴァレリウス・クローヴェンに委ねる――と。
謁見の間を辞し、長い回廊を歩く間、私は一度も振り返らなかった。勅書を抱く腕に、思わず力がこもる。
「ルミィ様……」
「分かってる。部屋に戻るまで、何も言わないで」
隣を歩くリゼットに小声で返す。今、口を開けば、何を言ってしまうか自分でも分からなかった。
部屋へ戻り、重い扉が閉じた瞬間、私は勅書を机に置き、深く、長く息を吐いた。
「手に入れたわ、リゼット。私たちの都市を」
所有者が貸し与えたと認識していれば、扉はつながる。そしてこの勅書がある限り、ロスヴァルの扉はすべて、正式に私のものだ。
金にならない捨て地。皇帝はそう言った。ならば見せてあげる。その捨て地が、いずれこの帝国を終わらせる場所になることを。