元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
「はぁっ! そこ、タンクのヒール薄い! AoE避けてから即回復入れて!」
深夜のテンションで、私はヘッドセットのマイク越しに怒号を飛ばしていた。
薄暗い部屋を照らすのは、デュアルモニターから放たれる青白い光だけだ。画面の中では、派手なエフェクトと共に巨大なボスのHPゲージがミリ単位で削れていく。もう三十回は全滅を繰り返した最難関レイド。指先はキーボードとマウスの上を狂ったように走り、脳内にはアドレナリンがドバドバと分泌されている。
ふと、モニターの端に反射した自分の姿が目に入った。
透き通るような白磁の肌。腰まで届こうかという、月光を溶かしたような銀色の長い髪。色素の薄い、しかし鮮烈な意志を宿した紅い瞳。
着崩したダボダボのパーカーから覗く華奢な鎖骨や、細すぎる手首。
どう見ても、街を歩けば十人が十人とも振り返るであろう、人形のように整った美少女がそこにいた。
それが、今の私――相沢伊織(あいざわ・いおり)である。
ゲーミングチェアの上で胡座をかき、片膝を立てて貧乏ゆすりをしながら、口汚くギルドメンバーを叱咤する美少女。控えめに言って、ビジュアルと中身の乖離が著しい。上品さの欠片もない座り方だが、これが一番マウスを操作しやすいのだから仕方ない。
「よしよしよし、その調子! ラストフェーズ入るよ! バフ全部乗せて!」
画面のボスが最終フェーズに突入した。残りHPはわずかだが、ここからギミックを一つでも間違えれば全滅しかねない。
その時だった。
「伊織君。そろそろ、夜の散歩の時間じゃないかな」
背後から、ひどく間の抜けた、それでいてよく響く男の声がした。
振り返らなくても分かる。部屋の合鍵を勝手に複製し(どうやったのかは知らないが)、私がゲームに集中しているのをいいことに、勝手に上がり込んで我が物顔でくつろいでいる男。
私は通話の送信キーから指を離して、振り返りもせずに怒鳴った。ゲーム内にまでこの男の声を流してやる必要はない。
「ちょっと黙ってて! 今それどころじゃないの、見れば分かるでしょ!」
「いやいや。君のその集中力を、もう少し世の中の平和のために使えないものかと思ってね。ほら、今日は都内の西の方で少し厄介な気配が――」
「うるさいうるさいうるさい! ここでワイプしたら三日間の努力が水の泡なの! 話しかけないで!」
私が怒鳴り散らしても、弦冬律(げんとう・りつ)というこの男は、涼しい顔でソファに腰を下ろしていることだろう。
長い黒髪を後ろで一つにまとめ、季節外れのコートを羽織った怪しい男。彼は私を「伊織君」と呼び、何かにつけて外へ引っ張り出そうとする。
「やれやれ。ギルドの存亡でも懸かっているのかな?」
「そうよ! だから邪魔するなら帰って!」
律が肩をすくめる気配がする。私はそれ以上相手をせず、画面に集中した。
数分後。
画面に『CLEAR』の輝かしい文字が踊り、ボイスチャットに歓喜の叫びが響き渡った。
「っしゃあああああっ! 見たかオラァ!」
私は両手を突き上げ、ヘッドセットを外してデスクに放り投げた。
ちなみに、ギルメンに聞こえている私の声は、ボイスチェンジャーで加工した男声だ。ゲームの通話はキーを押している間だけ声が届く方式にしてある。男だった頃から付き合いのある連中は今も私を男だと思っているし、わざわざ事情を説明するつもりもない。
一人称が「俺」から「私」に変わったときは散々いじられたけれど、イメチェンだと言い張って押し通した。口調が変わった変人だと思われているかもしれないが、正体がバレるよりずっとマシである。
チェアをくるりと回転させると、私の家のコーヒーを勝手に淹れて、ソファで優雅にすすっている律の姿があった。
「おめでとう。無事に世界は救われたようだね」
「あんたの皮肉は本当にいちいち癪に障るわね……」
「皮肉じゃないさ。心からの祝福だよ。それにしても伊織君、もう少し女の子らしく振る舞ってみたらどうだい?」
「はあ? 何よ、いきなり」
「その座り方と、今の雄叫びのことさ」
「うるさいわね! 心は男なのよ! 好きでこんな姿になったわけじゃないんだから!」
「ふふ、そうだったね。失礼したよ。さて、ゲームの世界が救われたところで、現実の世界も少し手伝ってくれないかな? 力を持つ者には、持たざる者を守る義務がある。僕はそう信じているんだ」
またその話か。
私はため息をつきながら、パーカーのフードを頭から被った。
「……分かってるわよ。行くんでしょ、行けばいいんでしょ。ちょっと着替えるから、向こう向いてて」
「はいはい。おとなしく待たせてもらうよ」
律がわざとらしく両手で目を覆うのを確認し、私は立ち上がった。
彼の言う「力を持たない人々を守る義務」なんて、私にはこれっぽっちも理解できない。私はヒーローになりたいわけでも、正義の味方になりたいわけでもない。ただ、自分の自由な時間を、誰にも邪魔されずに平穏に過ごしたいだけだ。
そもそも。
クローゼットから黒いスキニーパンツと動きやすいジャケットを引っ張り出しながら、私は心の奥底で悪態をついた。
はぁ……。まったく。なんで私が、こんな得体の知れない男と一緒に、怪異だの何だのを退治して回らなきゃいけないのよ。
信じられないかもしれないが、数か月前まで、私はどこにでもいるごく普通の二十八歳のサラリーマンだったのだ。
そう、正確には「二十八歳の男」だった。
朝起きて満員電車に揺られ、上司の顔色を窺いながら仕事をして、夜遅くに帰宅して、残った気力でゲームをして眠る。
面倒なことは多かったし、給料は決して高くなかったけれど、それなりに平和で、平凡で、自分なりに納得のいく人生を送っていたはずなのだ。
それが今では、ご覧の通りの銀髪美少女(自称するのも腹立たしいが、客観的事実だ)であり、得体の知れない力を振るって夜の街を駆け回る羽目になっている。
……本当に、どうしてこうなった。
私の平凡な人生が、音を立てて崩れ去ったあの日のことを、私は一生忘れないだろう。
*
数か月前。東京都内にある、とある中規模のシステム開発会社。
午後三時。オフィスの空気は、PCの排熱と何人かの社員がすするコーヒーの匂い、そして独特の気怠さに満ちていた。
「――というわけで、このモジュールのテストは明日の午前中までに回しておいて」
「了解です。仕様書の変更点は共有フォルダの最新版でいいですよね?」
私はネイビーのスラックスと、少しくたびれたワイシャツ姿でモニターに向かい、キーボードを叩いていた。スーツの上着は椅子の背に掛けてある。
この時の私は二十八歳。
身長百七十三センチ、体重六十五キロ。どこにでもいる中肉中背。髪は少し長めの黒髪で、寝癖を直すのが面倒でワックスで適当にごまかしている。顔立ちは……まあ、不細工ではないと思いたいが、合コンで一番に声をかけられるようなタイプではない。
ごく普通の、本当にただの、量産型の社会人だった。
「相沢ー、お前昨日も遅くまでやってたろ。目の下にクマできてるぞ」
隣の席の先輩、高橋さんが椅子を転がしながら話しかけてきた。
「あー、バレました? ギルドの連中と新しいレイドの練習してたんですよ。ギミックが理不尽すぎて、三回全滅しましたけど」
「お前、本当にそればっかりだな。彼女とか作る気ないのかよ。今日はどうすんだ?」
「今日もログインしますよ。今夜こそフェーズ2までは進めたいんで」
「呆れた奴。たまにはパーッと飲みに行こうぜ。新橋にいい焼き鳥屋見つけたんだよ」
私は苦笑しながら、視線をモニターから高橋さんに移した。
「行きたいのは山々なんですけどね……給料日前なんで、今月はカツカツなんですよ。来週末ならお供しますよ」
「しょうがねえな。じゃあ来週空けとけよ。お前の分も少し多めに出してやるから」
「マジですか? 言質取りましたからね」
他愛のない、どこにでもある職場の日常。
ブラック企業というほど酷使されているわけでもなく、かといってやりがいに満ち溢れているわけでもない。ただ、日々の業務をこなし、週末の趣味のために生きる。そんな生活を、私はそれなりに気に入っていた。
「相沢、ちょっといいか」
背後から声をかけられ、私は慌てて姿勢を正した。開発チームのリーダーである課長だ。
少し神経質そうな顔つきだが、理不尽に怒鳴るようなことはしない、まともな上司だ。
「はい、なんでしょう」
「先週頼んでおいたC社向けのUI改修の資料、どこまで進んでる? 明日の定例で使いたいんだが」
「あ、すみません。今、最終のチェックと見栄えの調整をしています。今日中には確実にアップしておきます」
「分かった。焦らなくていいが、数字の抜けがないかだけはダブルチェックしておいてくれ。頼むぞ」
「はい、承知しました」
課長が自分の席へ戻っていくのを見送り、私は小さく息を吐いた。
よし、サクッと終わらせて、今日は定時ダッシュを決めてやる。
気合を入れ直し、マウスを握った。
その時だった。
――ズキッ。
頭の奥底、脳髄のど真ん中あたりに、針を突き立てられたような鋭い痛みが走った。
「……っ」
思わず動きが止まる。
なんだ、今の。
寝不足から来る偏頭痛だろうか。こめかみを指で強く押さえてみる。
しかし、痛みは引くどころか、波のように押し寄せてきた。
ズキッ、ズキキキッ。
痛い。ただの頭痛じゃない。頭蓋骨の内側から、得体の知れない何かが風船のように膨らみ、私の脳を押しつぶそうとしているような、異様な感覚。
キーボードを打とうとするが、指先がひどく冷たくなり、小刻みに震えている。
モニターの文字が、ぐにゃりと歪んで見えた。視界の端が白く明滅している。
それなのに、身体の奥底、心臓のあたりから、焼け焦げるような熱が全身の血管を駆け巡り始めた。
熱い。熱い。頭は割れるように痛いのに、身体は沸騰しそうだ。
「おい、相沢? 大丈夫か? 顔色、すげえ悪いぞ」
隣から高橋さんの声が聞こえた。しかし、水中にいるように音がくぐもって聞こえる。
「……ちょっと、頭が……」
答えようとした声は、自分でも驚くほど掠れていた。
立ち上がってトイレにでも行こうとした。しかし、膝に力が入らない。デスクに両手をついて、必死に身体を支えるのがやっとだった。
――バチンッ。
頭の中で、何かの線が切れたような音がした。
それを最後に、かつて経験したことのない激痛が脳を焼き切った。
「相沢!? おい、しっかりしろ!」
高橋さんが私の肩を掴む感覚。
課長が立ち上がる音。
それらが急速に遠ざかり、私の意識は真っ暗な深淵へと沈んでいった。
*
「……おい、気がついたぞ!」
「大丈夫か!? 相沢!」
「誰か! 救急車まだなのか!?」
騒々しい声で、意識が浮上した。
瞼の裏で、蛍光灯のチカチカとした光を感じる。
鼻を突くのは、オフィスのカーペットの埃っぽい匂い。背中には、硬い床の感触がある。
(……あれ? 私、倒れたんだっけ)
ぼんやりとした思考が、ゆっくりと状況を理解し始める。
そうだ。仕事中に酷い頭痛がして、立ち上がろうとしたところで意識が飛んだのだ。
ゆっくりと目を開ける。
視界には、オフィスの見慣れた天井があった。そして、私を見下ろすように囲んでいる同僚たちの顔、顔、顔。
……ん?
何かおかしい。
あの割れるような頭痛は嘘のように消え去っていた。それどころか、睡眠をたっぷり取った翌朝のように、全身に信じられないほどの活力が満ちている。身体の隅々まで酸素が行き渡り、羽が生えたように軽い。
しかし、違和感はその「軽さ」だけではなかった。
視界の端を、何かがチラチラと横切っている。
顔の横に垂れ下がる、銀色の……糸? いや、髪の毛だ。
光の加減でプラチナのように輝く、極めて細くしなやかな髪の毛が、私の頬に触れていた。
(……髪?)
自分の髪ではない。私の髪は黒で、こんなに長くないはずだ。誰かが私に覆い被さっているのか?
状況を確認しようと、身体を起こそうとした。
床についた自分の手に、視線が落ちる。
……嘘でしょ。
そこにあったのは、骨張った男の手ではなかった。
透き通るように白い肌。細く、しなやかな指。指先には、ほんのりと桜色に染まった爪。
信じられない思いで、自分の腕を見る。
着ているはずのワイシャツは、まるで父親の服を着た子供のようにダボダボで、袖が指先まですっぽりと隠れてしまっていた。
そして、胸元。
大きすぎるワイシャツの生地が、なだらかな膨らみに沿って落ちているのが見えた。
「……え?」
自分でも信じられないほど、高くて澄んだ声が出た。
鈴を転がすような、という表現がしっくりくる、聞き覚えのない若い女性の声。
「ちょっと……何よ、これ?」
再び声に出してみる。
やはり、同じだ。そして、どういうわけか、頭に浮かんだ言葉が、自然と女性らしい言い回しになって口から飛び出していた。
(……なんで私、こんな喋り方になってるのよ?)
混乱の極みだった。
頭を強く打って、幻覚でも見ているのか? それとも、倒れたショックで夢を見ている?
助けを求めようと、周囲の同僚たちを見回した。
しかし、彼らの様子が異常だった。
誰も私に手を差し伸べようとしない。それどころか、全員が信じられないものを見るような、怯えたような目で私を見つめ、少し距離を取って固まっていたのだ。
「……相沢、なのか?」
沈黙を破ったのは、課長だった。恐る恐る、まるで爆発物を扱うような声色で私に問いかけてくる。
「え? そうですけど……なんで皆さん、そんな顔してるんですか?」
答えた私自身、自分の声の違和感に鳥肌が立った。
「いやいや、待てよ。お前、本当に相沢なのか?」
高橋さんが、引きつった笑いを浮かべながら一歩後ずさった。
「だからそうだって言ってるでしょ! 何なのよ、さっきからみんなして!」
苛立ちが募り、声を荒らげる。自分の甲高い声が、静まり返ったオフィスに異様に響いた。
「その声……いや、姿が……」
「姿? 私の姿が何だって言うのよ」
同僚の一人、入社二年目の若手が、震える手で自分のスマートフォンを私の方へ向けた。インカメラの画面が、私の目の前に突きつけられる。
「これ、見てください……」
そこに映っていたのは。
銀色の長い髪。
人間離れしたほど白い肌。
宝石のように輝く、紅い瞳。
どんなアイドルの写真よりも整った、奇跡のような造形をした少女の顔。
「…………誰、これ?」
「お前だよ……相沢さんですよ」
「…………は?」
私は、スマートフォンの画面を凝視した。
画面の中の美少女も、目を丸くして私を見つめ返している。
私が右に首を傾げると、画面の美少女も右に傾ぐ。
私が震える唇を開くと、画面の美少女も同じように唇を開いた。
「……嘘でしょ?」
(これ、私なの?)
脳が状況の処理を拒絶していた。
男だった。ほんの数分前まで、私は平凡なサラリーマンだったはずだ。
それが、どうして。なんでこんな、アニメやゲームから飛び出してきたような姿になっているんだ。
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動が速くなるのが分かった。パニックになりそうだ。
「だ、大体なんだって言うんだよ。倒れたと思ったら、いきなり光に包まれて……気づいたら服の中身がこれだぜ……?」
高橋さんが、信じられないものを見たというように頭を抱えている。
意識を失っている間に、私はみんなの目の前で姿を変えたというのか。
とにかく、立たなければ。こんな地べたに座り込んでいる場合じゃない。
私は混乱する頭を無理やり動かし、立ち上がろうとした。
身体の感覚が、まるで違う。重力がないのではないかと錯覚するほど、身体が軽い。
バランスを崩しそうになり、私は咄嗟に近くにあった自分のデスクに手をついた。
本当に、ただ支えにするために、軽く手を置いただけだったのだ。
――メキョッ。バキィィン!!
オフィスに、凄惨な破壊音が響き渡った。
手に伝わる、硬いものを無理やりへし折ったような嫌な感触。
見れば、私が手をついたスチール製のデスクの天板が無惨にひしゃげ、支柱の金属部分が飴細工のようにぐにゃりと歪んでいた。上のPCモニターが傾き、床に落下して嫌な音を立てる。
「…………え?」
周囲の社員たちが、一斉に息を呑む音が聞こえた。
私自身も、自分の手がやったことだと理解できず、呆然と固まった。
「ちょ、ちょっと待って。私、こんなの……そんなに力を入れてないわよ!?」
慌てて手を離す。
残されたデスクの惨状は、どう好意的に解釈しても、華奢な少女が素手で生み出せるものではなかった。まるで重機が衝突したかのような壊れ方だ。
ジリッ。
同僚たちが、一斉に後ずさった。
彼らの目に浮かんでいたのは、混乱や戸惑いではない。
明確な『恐怖』だった。
その視線を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
女性の身体になってしまったことへの戸惑い。それはあった。
だが、今感じているのは、もっと根源的な恐ろしさだ。
私の身体は、女になっただけじゃない。
人間としての常識を超えた、何か別の『異常なもの』に作り替えられてしまったのだ。
「相沢……とりあえず、落ち着け」
課長が、震える声で言った。彼は私を怯えながらも、上司としての責任感から声をかけてくれているのが分かった。
高橋さんが、自分のスーツの上着を脱ぎ、遠巻きに私の方へ放り投げた。
「そ、それ羽織っとけ。服、はだけてるからよ」
「あ……ありがとう、ございます……」
私は震える手で、大きすぎる上着を肩にかけた。
皆、私を心配してくれている。善意がある。
それでも、誰も私に近づこうとはしなかった。どう扱っていいのか、何が安全なのか、誰にも分からないのだ。私自身でさえ。
遠くから、救急車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
*
「――というわけで、こちらが倒れた相沢伊織さんです」
「……はい?」
到着した救急隊員は、課長の説明を聞いて完全に思考停止に陥っていた。
無理もない。通報では「二十八歳の男性社員が仕事中に倒れた」と聞いて駆けつけたのだ。それが現場に着いてみれば、ダボダボの男物の服を着た、銀髪の超絶美少女が床に座り込んでいるのである。
「あの、状況がよく飲み込めないのですが。倒れた男性はどちらに?」
「ですから、それが彼女なんです。信じられないでしょうが、私たちの目の前で彼が……いや、彼女に変わったんです」
「……課長さん、冗談を言っている場合では……」
「だから本当だって言ってるでしょ! 私が相沢伊織なのよ!」
私は耐えきれずに叫んだ。
救急隊員はビクッと肩を揺らしたが、私の顔を見てさらに困惑を深めたようだった。
「えっと……とにかく、ご本人の意識はあるんですね。警察の方も今向かっていますが、まずは病院へ搬送して診察を受けましょう。ご自身で歩けますか?」
隊員に促され、私はゆっくりと立ち上がった。
ストレッチャーに乗せられ、エレベーターで下へ降りる。オフィスの入り口には、通報を受けて駆けつけた制服警官の姿もあった。彼らは私を見ると一様に目を丸くしたが、まずは搬送が優先ということで、課長や高橋さんが事情聴取のために残ることになった。
救急車の中に運び込まれ、ドアが閉まる。
ピーポー、ピーポーというサイレンの音が鳴り響く中、私はストレッチャーの上で自分の小さな手を見つめていた。
細い指。白磁のように滑らかな肌。
どう見ても、私の手ではない。
いや、今は私の手なのだが、どうしても現実感が伴わない。
「相沢さん……でよろしいですね。気分はどうですか? 吐き気などは?」
血圧計やモニターを取り付けながら、救急隊員が事務的な声で問いかけてくる。
「……頭痛はもうないです。吐き気もありません」
「どこか痛むところはありますか?」
「ないです。むしろ……すごく元気なんですけど」
これもまた、恐怖を煽る要因だった。
あんなに酷い頭痛で意識を失ったというのに、今の私には不調の欠片もなかった。内臓の働きから筋肉の微細な動きまで、すべてが完璧に調律されているような、恐ろしいほどの万能感。
自分が自分でないような感覚が、ずっと付きまとっている。
(……どうなってるのよ、私の身体)
病院で検査を受ければ、何かわかるだろうか。
薬を飲めば、元の男の身体に戻れるのだろうか。
明日は会社に行けるのか。もしこのままだったら、親になんて説明すればいいのよ。
そんな、まだどこか「普通の社会人」としての感覚が残る悩みが、頭の中をぐるぐると回っていた。
*
「……これは、一体どういうことだ」
救急搬送先の総合病院。その処置室で、担当の初老の医師は、タブレット端末の検査データを睨みつけながら呻いた。
病院に着いてから、私は一通りの検査を受けた。
バイタルサインの測定、CTスキャン、反射の確認。
最初は「原因不明の意識喪失」として一般的な救急対応が進められていたが、検査が進むにつれて、医師や看護師たちの表情が徐々に険しくなっていった。
「先生……私、何か悪い病気なんですか?」
診察台に座ったまま、私は不安に駆られて尋ねた。
「……現時点では、原因を特定できていません。ですが……」
医師は言い淀んだ。
「ですが?」
「いえ、健康状態そのものは、非常に良好なのです。良好すぎるというか……」
CT画像に映る骨や筋肉は、外見からは想像できない状態らしい。反射を確かめる検査でも医師が何度も首を傾げ、結果を見直していた。詳しい数値を教えられても分からなかっただろうけれど、誰一人として「正常です」と言ってくれないのが、何より不安だった。
「とりあえず、血液検査の結果を待ちましょう。看護師、採血を」
「はい」
看護師が注射器を持ち、私の腕にゴムバンドを巻いた。
チクッとした痛み。
試験管のような容器に、私の赤い血が吸い上げられていく。
「はい、終わりました。アルコール綿で押さえておいてくださいね」
看護師が針を抜き、綿を当てようとした、その瞬間だった。
血が滲むより先に、針の穴が映像を逆再生したように塞がってしまったのだ。
「え……?」
看護師が絶句する。
私も自分の腕を見た。
つい数秒前に針が刺さっていたはずの場所には、傷痕はおろか、赤みすら残っていなかった。新品の陶器のように滑らかな肌があるだけだ。
「……相沢さん、少し待ってください」
医師が慌てて近づき、私の腕を手に取ってまじまじと観察した。
「今の傷ですが……完全に消えている……?」
「えっと、その……」
私もどう答えていいか分からず、後ずさりしようとした。
その時、医師の手が私の腕を少し強く握った。
反射的に、私は腕を引き抜こうとした。本当に、少し力を入れただけだ。
「あっ――」
ドンッ! という鈍い音がした。
私が振り払った腕が、横にあった医療用の金属製カートに軽くぶつかったのだ。
それだけで、カートはまるで車に撥ねられたように吹き飛び、壁に激突してひしゃげた。上に乗っていた器具が床に散乱し、ガラスの割れる鋭い音が処置室に響き渡った。
「キャッ!?」
近くにいた看護師が悲鳴を上げ、危うく飛んできた破片に巻き込まれそうになる。
「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ……!」
私は慌てて立ち上がった。
しかし、医師も看護師も、私から大きく距離を取り、恐怖に引き攣った顔で私を見ていた。
会社での光景のフラッシュバック。
悪意なんてない。ただ、自分の身体が思い通りに動かせない。
「相沢さん……動かないでください」
医師の声は、患者を諭すものではなく、猛獣を警戒するような冷たさを帯びていた。
「先生、私……」
「今、専門の部署と連携を取ります。それまで……申し訳ありませんが、安全のために別室に移動していただきます」
それからの一連の流れは、事務的で、迅速で、そしてひどく冷酷だった。
私は一般病棟ではなく、地下にある窓のない隔離された個室へと案内された。
そして、そこで告げられたのは、私の尊厳を完全に打ち砕く言葉だった。
「相沢さん、非常に申し訳ないのですが、あなたの身体の状態が正確に把握できるまで、身体の動きを制限させていただく必要があります」
医師の後ろには、屈強な警備員のような男性が二人控えていた。
「……え?」
私は、着せられた薄い病衣の裾を握りしめた。
「ちょっと待ってください。私、別に暴れるつもりなんてありませんよ? さっきのは事故で……」
「それは分かっています。相沢さんに他意がないことは理解しています」
医師は表情を崩さずに言った。
「ですが、先ほどのように無意識に動かれた場合、周囲のスタッフだけでなく、相沢さんご自身にも危険が及ぶ可能性があります。これは、当院の安全規定に基づいた緊急措置です」
「……拘束、するってことですか?」
「……はい」
「……どのくらいですか?」
「専門の担当者と連絡を取っています。彼らが到着し、安全が確認でき次第、できるだけ早く解除できるように善処します」
断りたかった。でも、ここで拒否すれば、ただでさえ私を警戒している人たちをもっと怖がらせるかもしれない。
私は唇を噛み締め、静かに頷いた。
*
ガチャリ。ガチャリ。
無機質な金属音が、静かな個室に響く。
私は硬いベッドに仰向けに寝かされ、手首、足首、そして胸部と腰部を、太い革のベルトと頑丈な金具で固定されていた。
医療スタッフが慎重にベルトを固定し、私が不用意に動かないようにしていく。
「痛むところはありませんか? 呼吸は苦しくないですか?」
看護師が事務的に問いかけてくる。
「……大丈夫、です」
私は天井を見つめたまま答えた。
自分の姿を想像するだけで、頭がおかしくなりそうだった。
銀髪の少女が、手足も胴体もベッドへ固定され、身動きすらできずにいる。
「……これ、映画で見るやつじゃないの」
空気を変えたくて、無意識に軽い口調で冗談を言おうとした。
「相沢さん、必要な安全措置です。ご不安だと思いますが、しばらくご協力ください」
「いや、ホラー映画とかで、ほら……あはは」
乾いた笑い声が、虚しく響いた。
誰も笑わなかった。
医師も看護師も、ただ申し訳なさそうに、あるいはひどく緊張した面持ちで私を見下ろしているだけだった。
(……いや、全然笑えないんだけど)
私は、自分の手首を固定している革ベルトに少しだけ力を込めてみた。
ギリッ、と革が軋む音がする。
(……あれ?)
普通に考えれば、これは大の大人が暴れても外れないように作られた、頑丈な拘束具だ。
しかし、私の身体は、脳は、本能的に理解してしまっていた。
(これ、外せるんじゃない?)
どうすれば壊せるか。どの角度で力を入れ、どの程度の出力で引き千切ればいいか。
まるで、薄い紙を破るような感覚で、この金属と革の塊を破壊できる。
そんな確信が、私の中にあった。
私は拘束された自分の腕を見つめた。
(……おかしいでしょ)
(何でこんなことが分かるのよ)
会社で机を壊した時と同じだ。この細い腕に、人間離れした力が宿っている。
一瞬、本当にすべてを引き千切って逃げ出してしまおうかという衝動が湧き上がった。
こんな理不尽な扱いを受け続ける理由なんてない。私は被害者だ。
だが、次の瞬間、冷や水を浴びせられたように冷静になった。
(……待って)
(こんなのを引き千切ったら、どうなるの?)
医師たちは今でさえ私を恐れている。
目の前で、この厳重な拘束を力任せに破壊したら?
完全に『化け物』として認定される。警察も動いているはずだ。下手に出れば、取り返しのつかない事態になる。
もし、逃げる途中で無意識に誰かを傷つけてしまったら。殺してしまったら。
(……駄目)
(絶対に駄目よ)
(大人しくしてなきゃ)
私は、指先の力すら抜いて、ベッドに沈み込んだ。
私を縛り付けているのは、この物理的な拘束具ではない。
自分自身の得体の知れない力への恐怖と、二十八年間培ってきた「普通の人間」としての理性だった。
(……何なのよ、これ)
(私、ほんの数時間前まで普通の人間だったのに)
満員電車に揺られ、仕事の納期に追われ、休日のゲームを楽しみに生きてきた。
誰も傷つけるつもりなんてなかった。
こんな、恐ろしい力なんて欲しくなかった。
(……私、化け物になっちゃったんだ)
涙すら出なかった。ただ、感情が少しずつ麻痺していくのを感じた。
「……先生」
私は、消え入りそうな小さな声で呼んだ。
「どうしましたか?」
「私、ちゃんと大人しくしてるから……これ、外してもらえませんか?」
せめて、人間として扱ってほしかった。
医師は言いにくそうに口を開いた。
「申し訳ありません。もう少しだけ、安全の確認をさせてください」
「……そうですか」
私はそれ以上何も言えず、冷たい天井を見つめ続けた。
*
隔離室での時間は、永遠のように感じられた。
時計はない。窓もない。定期的に看護師がバイタルや拘束具の状態を確認しに来るが、誰もいなくなると、また静かな時間が戻ってくる。拘束を解除できないかも繰り返し確認されていたものの、今の私の身体では安全だという判断には至らないらしかった。
時間が経つにつれ、私の感覚はさらに異常な研ぎ澄まされ方を見せていた。
防音されているはずの個室なのに、遠く離れたナースステーションの会話が聞こえる。
ストレッチャーの車輪が転がる音。誰かの心臓の鼓動。微細な足音。
本来なら聞こえるはずのない音の奔流が、私の脳に直接流れ込んでくる。
(……何でこんなに聞こえるのよ)
(私の身体、どこまで変わっちゃったの?)
目を閉じても、情報が多すぎて休まらない。
思考は、自然と暗い未来へと向かっていく。
今日中に仕上げるはずだった資料。
高橋さんとの飲み会の約束。
ギルドのレイド戦。
あんなに大事に思っていた日常の欠片が、今はひどく遠い世界のものに思えた。
(……この格好で出社するの?)
(無理でしょ、そんなの)
戸籍上は男なのに、身体は女。しかも、無意識に物を破壊してしまうかもしれない怪力付き。
親に何と説明する? 会社にどう弁解する?
人間関係は? これからの人生は?
(……仕事、どうなるのかな)
(……家に帰れるのかな)
(……私、これからどうやって生きていけばいいんだろ)
分からない。何もかもが分からない。
ただ一つだけ確かなことは、あの日、私の平凡でささやかな社会人生活は、完全に崩壊したということだ。
「専門の担当者が向かっています」
医師はそう言っていた。
その専門家とは何者なのだろうか。私のような存在を隔離し、解剖し、研究するような組織だったらどうしよう。
恐怖と孤独に苛まれながら、私はただ、ベッドの上で時が過ぎるのを待つことしかできなかった。
*
不意に、重い扉が開く音がした。
足音が二つ。一つは担当の医師。もう一つは、聞き慣れない、落ち着いた革靴の音。
私の視界に、スーツ姿の男が入ってきた。
三十代半ばくらいだろうか。ごく普通の、どこにでもいそうな公務員や会社員といった風貌。だが、隣に立つ医師が彼に対して異様に畏まった態度を取っていることから、彼が只者ではないことが分かった。
(……来た。専門家)
私は全身を硬直させた。
何をされるのだろう。拘束具が増えるのか、それとも別の施設に連行されるのか。
男は私のベッドのそばに立ち、拘束状態を静かに見下ろした。
そして、ひどく穏やかな、安心させるような声色で口を開いた。
「相沢伊織さんですね?」
「……そうですけど」
警戒心を隠せずに答える。
男は小さく頷き、胸元から身分証を取り出して見せた。こんな状況では、本物かどうか判断する余裕もない。
「私は政府の特殊事象を扱う部署から来ました。私たちの組織は、関係者の間では『八咫烏(やたがらす)』と呼ばれています」
「……八咫烏?」
聞いたことがない。宗教団体か何かだろうか。
「ええ。あなたのように、通常の医学や科学では説明できない現象に遭遇した方の保護や支援を担当している機関です」
「……保護?」
保護。
その言葉が妙に耳に残った。病院に来てから、そんなことを言われたのは初めてだった。
男は医師に向かって短く頷き、医師は一礼して部屋から出て行った。
二人きりになった室内で、男は再び私に向き直る。
「突然のことで、大変だったと思います。まずは、あなたの身体に何が起きたのか、説明させてください」
「……分かるんですか? 私が、どうなっちゃったのか」
「ええ。少なくとも、これまでに確認されている事例から、あなたの現在の状態について、ある程度の説明は可能です」
(事例がある……?)
私以外にも、こんな目に遭った人間がいるということか。
少しだけ、ほんの少しだけ、暗闇に光が差したような気がした。
「……あの」
「はい」
「私、元に戻れるんでしょうか?」
一番聞きたかったこと。
男は、すぐには答えなかった。その沈黙が、私に嫌な予感を抱かせる。
「その点については、もう少し詳しく調べる必要があります。軽率なことは言えません」
「……そう、ですか」
私は再び、視線を天井に戻した。
「ですが、あなたの身体に起きた変化については、かなり絞り込めています」
「……何なんですか、これ。私、怪力になっちゃったし、傷も一瞬で治るし……男だったのに」
「相沢さん」
男の声が、一段と真剣みを帯びた。
「あなたは現在、人間とは異なる身体構造を持つ存在に変化しています」
「…………え?」
男は言葉を選ぶように少し間を置き、静かに告げた。
「私たちは、あなたのような存在を『吸血鬼』と呼んでいます」
吸血鬼。
ヴァンパイア。
映画やアニメで見る、あの架空の存在。
冗談だと思いたかった。頭のおかしい奴の戯言だと笑い飛ばしたかった。
しかし、この絶対に壊せると直感できる拘束具も、背中に感じる異常な身体の軽さも、銀色の髪も。
すべてが、彼の言葉を裏付けていた。
(……吸血鬼?)
(私が?)
(……嘘でしょ?)
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