元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
太陽光の検査を終えて一時保護用の個室へ戻った私は、ベッドに腰を下ろすなり、そのままマットレスへ倒れ込んだ。
ようやく肩の力が抜け、深い息が漏れた。太陽の光を浴びても無事だったという安心感は、まだ身体の奥に残っている。
(……ふぅ。なんだか今日は、朝からずいぶんいろんなことが進んだわね)
朝から慣れないことばかりだった。怪異使いの弦冬さんに一度も触れられずに壁へ突っ込みかけたかと思えば、昼には久しぶりの和定食を平らげ、最後には真昼の太陽を浴びて平気なことまで分かった。少なくとも、今の身体でも普通の生活ができそうだという希望は持てた。
弦冬さんは相変わらず胡散臭いし、これから覚えなければならないことも多い。それでも、昨日の午後三時に会社で倒れた頃からは、少しずつ前へ進めている気がする。
肌にはまだ、屋上で浴びた日差しの温もりが残っている。身体は元気なのに、頭だけが妙に疲れていた。
私は寝返りを打ち、ベッドの脇にあるサイドテーブルへと何気なく視線を向けた。
そこには、充電ケーブルにつながれた黒いスマートフォンがちょこんと置かれていた。会社で倒れて救急搬送された際に回収され、職員が保管してくれていた私物だ。検査に出ている間に、部屋へ届けてくれたらしい。
「……あっ」
私はガバッと身体を起こし、ケーブルを抜いてスマートフォンを手に取った。その瞬間、すっかり後回しになっていたことを思い出す。
(……ちょっと待って。昨日の午後三時に会社で倒れてから、一度もスマホを見てないじゃない!)
自分の身体のことで精いっぱいで、私的な連絡は放置していた。今朝、弦冬さんとの面談でギルドの話までしたのに、結局まだ連絡できていない。
(……あいつら、怒ってるかしら)
ロックを解除すると、待ってましたとばかりに大量の通知が画面を埋め尽くした。アプリのバッジが、見たこともない数字を表示している。
その大半は、毎晩遊んでいるオンラインゲームの仲間――ギルメンとの通話兼チャットアプリからだった。未読の数字が二桁になっている。
(……げっ、やっぱり!)
(そうだったわ! 昨日の夜十時から、レイドのフェーズ2練習だったじゃない! 無断欠席しちゃってる!)
慌ててアプリを開く。私たちは最高難易度のレイド攻略に挑む固定パーティで、急な残業による欠席自体は珍しくない。けれど、私は必ず事前に連絡していた。無断欠席なんて初めてだ。
昨夜二十二時前からのログへ遡る。最初は見慣れたアイコンと、いつもどおりの軽口が並んでいた。それが時間を追うごとに、少しずつ変わっていく。
『イオリ、もう集合時間過ぎてるけど大丈夫か?』
最初に書き込んでいたのは、パーティのまとめ役であり、いつも冷静に全体のスケジュールを管理してくれるレイドリーダーだった。ゲーム内での私のハンドルネームは、本名の伊織から取った「イオリ」である。
その下には、口の悪いタンク役の男からの書き込みがあった。
『どうせまた社畜残業だろw 昨日も遅くまでレイドやってたしな』
『いや、それにしても連絡がないのは珍しいな。イオリっていつもきっちり五分前にはスタンプ押すのに』
次の発言は、気配り上手な女性ヒーラーからだ。普段はタンクとよく言い合いをしているが、こういうときは誰より周囲を気にかけてくれる。
最初は残業を疑っていた三人も、二十三時を過ぎ、日付が変わっても既読がつかないことで、次第に心配し始めたらしい。
『おい、さすがに遅すぎないか? スマホの充電切れか?』
『いつも必ず連絡くれる人だから、帰りの電車で具合でも悪くなったんじゃないかと心配なんだけど……』
『今日はとりあえず野良で補充を入れて練習を切り上げよう。イオリ、もしこれを見たら、深夜でも明日の朝でもいいから、生きてるかどうかだけスタンプ一個でいいから返してくれ』
『イオリ、マジで生きてるよな? 落ち着いたら連絡くれよー!』
今朝の出勤時間帯まで続いていたそれらのメッセージを読み終えた私は、スマートフォンの画面を見つめたまま、ギュッと唇を噛み締めた。
(……うわぁ。めちゃくちゃ心配かけちゃってるじゃない、私……)
今朝、面談で弦冬さんに「ギルドのチャットで大騒ぎになってる」と話したときは、少し笑い話のつもりだった。でも、誰も私の顔も本名も知らないのに、こんなにも本気で心配してくれていた。
私はベッドに正座し、急いで返信欄を開いた。
*
ただ、指が一瞬止まる。無事だと伝えるにしても、理由はどこまで書いていいのだろう。
(……まさか『会社のデスクで倒れたら銀髪美少女の吸血鬼に変態してしまい、政府の秘密機関に保護されて拘束されたり検査されたりしていました』なんて書けるわけないしね)
八咫烏のことを口外するわけにはいかないし、信じてもらえるはずもない。
でも、職場で倒れて病院へ運ばれたのは事実だ。それだけ伝えればいい。
私は余計な事情を書きかけないよう気をつけながら、いつもの「イオリ」の文体で短く文章をまとめ、送信した。これだけでも、妙に緊張する。
『ごめん、連絡が遅くなった。昨日の午後、仕事中に倒れて救急車で病院に運ばれてた。今は無事。昨日のレイド、連絡なしで穴を空けて本当に悪かった』
メッセージを送り終えた瞬間、普通のサラリーマンだった頃の私と今の私が、細い一本の糸でつながったような気がした。
とはいえ平日の昼下がりだ。返事が来るのは夕方だろう。
そう思ってスマートフォンを置こうとした、その時だった。
ピロン! ピロン! ピロン!
私の送信から十秒も経たないうちに、画面の右下に次々と『既読』の文字がつき、嵐のような通知音とともに返信が雪崩れ込んできたのだ。
『は!? 会社で倒れた!?』
『おいイオリ、救急車ってマジかよ!? 大丈夫なのか!?』
『よかったぁぁ! 連絡ついた! でも救急車って、脳とか心臓とかじゃないよね!?』
『レイドに穴空けたことなんか一ミリも気にすんな馬鹿野郎! それより身体はどうなんだ!?』
画面を見て、私は目を丸くした。
(……ちょ、ちょっと待って! あんたたち、平日の昼間なのに反応早すぎない!? 仕事中じゃないの!?)
みんな仕事や用事があるだろうに、どれだけ通知を気にしていたのだろう。それほど私の連絡を待っていてくれたのかと思うと、胸が熱くなった。私は慌てて追加の説明を打ち込む。
『みんな仕事中にごめん。詳しい原因はまだ検査中なんだけど、命に別状はないし、今は専門の施設でちゃんと診てもらってる。身体ももうピンピンしてるから安心して。ただ、しばらくは安静にして様子を見ろって言われてる状態』
「専門の施設」が八咫烏の拠点だという説明は伏せた。すぐに、安堵のスタンプと返信が届く。
『そうか……命に別状がないなら本当によかった。過労か? 普段から遅くまで仕事したあとにフルタイムでレイドやってたもんな』
『ほんとだよ、イオリいつも無理しすぎなんだって。しばらく安静って言われてるなら、スマホなんか見てないでちゃんと休みなよ?』
『だな! 昨日の練習はリーダーが機転利かせて野良募集に切り替えたし、誰も怒ってねーから安心しろ。倒れた奴を無理やりレイドに引っ張り出すほど、俺らも鬼じゃねーよw』
タンク役の男が送ってきたその不器用な気遣いの文字を見た瞬間、私の視界が、ほんの少しだけ滲んだ気がした。
「……ほんと、悪かったわね。いい奴らばっかりなんだから」
昨日から、何もかもが変わってしまった。外見も声も、これからの生活も。
けれど、画面の向こうの三人は何も知らない。ただの「イオリ」を心配して、馬鹿野郎と叱ってくれる。
(……ああ、こいつらは変わらないのね)
ネットでしか会ったことのない仲間が、本気で私の無事を喜んでいる。そのことが、たまらなく嬉しかった。鼻の奥がつんとして、私はパーカーの袖で目元を擦り、小さく笑った。
やがてチャット欄は、いつもの騒がしい調子に戻り始めた。
『まあ、正直に言うと、昨日はイオリがいなかったおかげで「タンクのバフ合わせが遅い!」って怒鳴られずに済んだから、俺の鼓膜は平和だったけどなw』
『ちょっと、あれは毎回ギミック処理の誘導を間違えて被弾してるそっちが悪いでしょ! イオリがいない間、私がどれだけヒールで苦労したと思ってるの!』
『うっせー! あのボスの範囲攻撃、判定がおかしいんだよ!』
『自分のプレイヤースキルのなさをゲームのせいにしないの!』
見慣れた漫才に、私は思わず吹き出した。
(……あー、もう。本当にこいつら、昨日の今日で全然変わらないわね)
私も一言、「私のいないところでまた床を舐めてたの?」と軽口を混ぜてやろうと、入力欄に指を伸ばしかけた。
ちょうどその時、レイドリーダーからこんなメッセージがポンと飛び込んできたのだ。
『あ、そうだイオリ。もし病室じゃなくて個室にいるんなら、今、五分だけVC(ボイスチャット)繋げられるか? 昼休み中なんだけど、一言だけでもお前の元気な声を聞けたら、みんなもっと安心すると思うんだが』
『お、いいねそれ! テキストだけだと本当に元気なのか分かんねーしな!』
画面の上部に、グループ通話の着信を知らせる緑色の『参加する』というボタンが表示された。
*
(……ああ、そうね。文字でちまちま打つより、直接声を出して「もう平気だよ」って言ってあげた方が、みんなも安心するわよね)
いつもの習慣で『参加する』ボタンへ指を伸ばす。
顔写真も交換していないし、オフ会もしたことがない。でも何百時間もVCで話してきた仲だ。向こうは私の、くたびれた二十八歳男性の声をよく知っている。
だからこそ、本当に何の警戒もしていなかった。いつもならヘッドセットを着けて「お疲れー」と入る、ただそれだけの操作なのだから。
指先が、緑色の通話ボタンまであと一ミリに迫った、その瞬間。
ピタリ、と。
私の指が、まるで氷漬けにでもされたかのように空中で凍りついた。
(…………あれ?)
(……ちょっと待って、私)
一拍遅れて、脳内で派手な警報が鳴り響いた。さっき呟いた自分の声。昨日までの低くくたびれた男声とは似ても似つかない、あの甘ったるい少女の声だ。
私は指を引っ込めて、喉へ手を当て、そっと声を出してみた。
「……あー、あー。テステス。……もしもし?」
部屋の中に響いたのは、透き通るように高く、鈴を転がすような、どこに出しても恥ずかしくない可憐な美少女のソプラノボイスだった。
「…………」
「…………あ」
そして、次の瞬間。
「……あああああああっ!? あっぶなぁぁぁい!!」
私はスマートフォンをベッドの上に放り投げ、両手で自分の銀色の頭を抱え込んで、マットレスの上をゴロゴロと転がり回った。
(……そ、そうだったわよ!! なんで一番大事なことを忘れてたのよ、私の馬鹿ぁぁぁ!!)
心臓がバクバクしている。いつもの仲間と話していたせいで、意識が完全に男だった頃のイオリに戻り、声まで昔のままだと錯覚していた。たった数時間チャットしていただけで、ここまで油断するとは。
けれど今の私の喉から出るのは、どう聞いても若い女の子の声だ。
もし今、あと一ミリ指を動かしてあの通話ボタンを押していたら、どうなっていたか。
タンクの『おう、イオリ! 大丈夫かよー!』や、ヒーラーの『無理してない?』という呼びかけに対し、私のアカウントから『あ、うん! 私はもう元気よ、心配かけてごめんね!』などと、美少女ボイスが返答することになっていたのである。
(……し、死ぬところだったわ!! そんなの、絶対に大パニックになるに決まってるじゃない!!)
間違いなく、通話は一瞬で凍りつくだろう。『誰!?』『なんでイオリのスマホから女の子の声が!?』『お前、女の子に代わりに喋らせてるだろ!』と大騒ぎになるに決まっている。
「会社で倒れたら吸血鬼の美少女になった」なんて、誰が信じるというのよ。
通話の呼び出しはまだ続いている。私は平らになってしまった首筋を押さえた。
(……ま、待って。ちょっとくらいなら、喉の奥を広げて低い声を出せば、元の男声っぽく誤魔化せるんじゃない!?)
女性声優だって少年役を演じられるのだ。元男の私にも、少しくらい可能性があるかもしれない。
私は顎を引き、腹の底から無理やり低い声を絞り出した。
「……あー、お、俺だ。イオリだぞ。……みんな、心配かけて、す、すまなかったな……」
絞り出した声を聞き、私は動きを止めた。渋い二十八歳の男声どころか、男言葉を練習している芝居の下手な美少女の、なんとも痛々しくて可愛らしい裏返りボイスになってしまった。しかも、頑張るほどひどい。
「…………無理ね。どうあがいても絶対に無理だわ、これ」
私は白旗を揚げ、スマートフォンへ飛びつく。通話を拒否し、慌てて言い訳を打ち込んだ。
『ごめん! 今、病院の検査の関係で喉の調子がおかしくなってて、まともに声が出せないんだわ! だからしばらくVCは無理、テキストチャットだけにさせて!』
送信。
嘘ではない。「喉の調子(というか構造そのもの)がおかしくなっていて、元の声がまともに(どころか一生)出せない」のは、一点の曇りもない真実である。
固唾を呑んで画面を見つめていると、すぐにリーダーたちから返信が来た。
『あ、そうだったのか! 気づかなくて悪かった、倒れたときに気管か何か痛めたのか?』
『そりゃ無理だわな、お大事にしろよ!』
『声が出ないのに無理させるところだったね、ごめんねイオリ!』
「…………ふぅぅぅぅっ」
私はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドのシーツの上へと突っ伏した。
間一髪だった。長年付き合ってきたネトゲ仲間たちの前に、謎の美少女として登場するという最悪のイベントだけは回避できたのである。
*
心臓のドキドキがようやく収まり、私はシーツから顔を上げて大きく息をついた。
とりあえず、当面のボイスチャット拒否の理由は作れた。これでしばらくはテキストだけでやり取りしても怪しまれないはずだ。
すっかり安心した私は、気を取り直してお礼のメッセージを打ち込んだ。気が緩んでいたことには、まったく気づかないまま。
『ううん、気にしないで。私の方は喉以外はほんとに元気だから。しばらく大人しく休めば、またすぐ戻れると思うわ』
よし、これでバッチリだ。
そう思って画面を眺め、満足げに頷いていた、その数秒後だった。
ところが、既読は「3」なのに誰も返事をしてこない。
首を傾げていると、タンク役から一言だけ届いた。
『……ん?』
え? 何が『ん?』なの?
私がきょとんとしていると、続けてヒーラーとタンクから、立て続けにメッセージが飛び込んできた。
『ねえ、私も今ちょっと気になったんだけど』
『おいイオリ、お前いつから自分の一人称が「私」になったんだ?』
「…………え?」
私は瞬きをして、自分の送った直前のメッセージへと視線を戻した。
画面の吹き出しの中には、はっきりとしたゴシック体で、こう記されていた。
――『ううん、気にしないで。私の方は喉以外はほんとに元気だから。しばらく大人しく休めば、またすぐ戻れると思うわ』
「…………あ」
一秒、二秒。
私の白い頬から、再びサーッと血の気が引いていき、代わりに耳の先まで爆発的な熱が駆け上がった。
(……や、やっちゃったぁぁぁぁぁっ!!)
私は声にならない悲鳴を上げた。なんて初歩的なミスを犯したんだ。
会社のオフィスの床で目を覚ました直後は、頭の中でまだ「俺」と考えた覚えがある。なのに口から出るのは女の子じみた言葉で、病院や八咫烏の職員、弦冬さんと話しているうち、いつの間にか内心まで「私」に馴染んでしまっていたのだ。
最初の二通は気をつけていたのに、VCの危機を乗り越えて気が緩み、いつもの「私」が飛び出してしまった!
『そういえば、ただの「私」だけじゃなくて、「ううん」とか「思うわ」とか、なんか文章全体が妙にお上品っていうか、お姉さんっぽくなってない?w』
『ほんとだ! 昨日まで「俺がタンクのケツ拭いてやってんだろオラァ!」とか言ってた奴の文章じゃねーぞこれ! 誰だよお前!?』
タンクとヒーラーが盛り上がる中、リーダーだけが冷静だった。
『お前らな、病み上がりで寝てる奴がスマホでフリック入力してんだから、誤字や予測変換のミスくらいあるだろ。細かいこと突っ込むなよ』
(……り、リーダー!! ナイスフォロー!! 神様仏様リーダー様!!)
私は思わず画面に向かって拝み倒した。リーダー、ナイスフォロー! 頼むから、そのまま話を流してちょうだい!
しかしタンクは、こういうどうでもいい違和感に限って妙に鋭い。
『いやいや、予測変換ミスで「俺」が「私」になって、語尾まで「思うわ」にセットで変わるわけねーだろw なあイオリ、正直に白状しろよ、看護師さんにでも代筆してもらってんのか? それとも頭打ってキャラ変わった?』
(……うわあああん! なんでこういう時だけそんなに洞察力が鋭いのよ、あんたはーっ!!)
私はベッドの上で足をばたつかせた。
今さら「誤変換だった」と言い張るか? いや、これから先もチャットするたびに、「私」を「俺」に書き換え、語尾まで検閲し続けるなんて面倒すぎる。どうせまたボロが出る。だったら、いっそ今のまま押し通すしかない!
だったら――ここはもう、退くのではなく、前に出て強引に既成事実としてねじ伏せるしかない!
私は真っ赤になった顔で、ヤケクソの返信を叩きつけた。
『……うるさいわね! ちょっとしたイメチェンよ、イメチェン!!』
送信した直後、チャット欄の動きがピタリと止まった。
一拍置いて、画面が草(w)で埋め尽くされた。
『イメチェン!?wwwww』
『ぶっはwww なんだよその「うるさいわね!」ってキレ方! 完全にキャラ作りに入ってるじゃねーか!!』
『ちょっと待って、お腹痛いww 会社で倒れて病院に運ばれた人が、目覚めて最初にやることが一人称と口調のイメチェンってどういうことなの!?』
「う、うぐぐ……っ! 笑うなーーーっ!!」
私は誰にも聞こえないベッドの上で一人吠えながら、涙目で追加のメッセージを連投した。
『いいでしょ別に! 二十八歳にもなれば、そろそろ荒っぽい俺様口調を卒業して、知的で落ち着いた大人の言葉遣いにイメチェンしたくなる時期だってあるのよ! 文句ある!?』
『いや、知的で落ち着いた大人っていうか、完全に気の強いお嬢様言葉なんだよなぁ……w』
『まあまあ、イオリ本人がそのキャラを気に入ってるならいいじゃない。新鮮でちょっと可愛いよ?』
『可愛いとか言うな!! とにかく、しばらくはこの感じでいくから、いちいち突っ込むんじゃないわよ!』
『はいはい、了解いたしましたよ、イオリお嬢様w』
『お前ら、本当にそれくらいにしとけって。イオリ、変な連中に絡まれて疲れただろう、ゆっくり休めよ』
リーダーが場を収めてくれたが、「謎のイメチェン」はしばらくいじられそうだった。
私はスマートフォンを胸の上にパタリと伏せ、魂が抜けたような顔で天井を仰いだ。
「……はぁぁぁぁぁ。なんなのよ、イメチェンって……自分で打っておいて、意味が分からなさすぎるわ……」
顔から火が出そうだ。けれど、三人とも「急にお嬢様言葉にハマった二十八歳の男」くらいにしか思っていないらしい。まさか本当に身体が女性になっているとは、夢にも考えていないのだ。
変人扱いは不本意だけれど、正体がバレるよりずっとマシだった。
(……よし。こうなったらもう、ギルド内ではずっとこの『イメチェンしたイオリ』で押し通してやるわよ)
ただ、そこまで考えて、私はふと現実的な問題に突き当たった。
(……でも、テキストチャットはこれで誤魔化せたとしても、肝心の『声』はどうするのよ?)
今は喉の不調で逃げられても、帰宅してレイドに復帰するならVCは必須だ。戦闘中の指示を、いちいちテキストで打っている暇はない。
(……地声は完全に美少女。喉を潰しても美少女。でも、通話には男の声で出なきゃいけない……)
眉間を押さえたところで、元からのPC知識が役に立つことに気づいた。
(……あっ! そうか、なんでそんな簡単なことに気づかなかったのよ!)
(『ボイスチェンジャー』を使えばいいじゃない!!)
そう、ボイスチェンジャーだ。配信者やVTuberがリアルタイムで声を変換している、あのソフトを逆向きに使えばいい。今の女性声を、昔の自分に近い男性声へ変換するのだ。
幸い、自宅のゲーミングPCなら音声の処理能力は十分。以前の地声に近い音へ調整し、キーを押している間だけ音声が送られる「プッシュ・トゥ・トーク」にしておけば、咳やくしゃみ、独り言で素の美少女ボイスが漏れる危険も減らせる。
実際の音質は帰ってから試すとして、少なくとも解決の目処は立った。
「……それよ! 我ながら天才的な解決策じゃない!!」
私はベッドの上でガッツポーズを決めた。これなら、男声のイオリとしてVCに戻れるかもしれない。
*
少し気が楽になって画面を開き直すと、チャットは昨夜のレイド練習の話に戻っていた。
『そういやイオリに報告しとくと、昨日野良の人を入れてフェーズ1の突破までは安定するようになったぞ。ただ、やっぱりフェーズ2の最初のギミックで壊滅するな』
『あそこ、散開の指示出しをしてくれるイオリがいないと、どうしても動きがバラバラになっちゃうんだよね』
『今夜も一応二十二時から練習する予定だけど、イオリが戻ってくるまで本格的なクリアは無理そうだなー』
攻略の話を読んでいるだけで、指先がうずうずしてきた。
(……あー、もう! フェーズ2の最初のギミックは、ボスの詠唱バーを見てから外周へ走るだけなのに、またあいつら欲張ってギリギリまで殴ってるわね!)
(いいなぁ、私も早く混ざりたい……!)
仕事で疲れて帰ってきて、ヘッドセットを着け、あの連中とギミックに文句を言い合いながらボスへ挑む。昨日の午後までは当たり前だった、そんな夜の時間が今はたまらなく恋しい。
私は少しだけ迷ってから、画面の向こうの三人へ尋ねるようにメッセージを打ち込んだ。
『ねえ、今の調子なら来週には家に帰れそうなんだけど……私が戻ったら、また今までみたいに一緒にレイドやってくれる?』
思いがけず、少し弱気な質問になってしまった。
すると、一秒のラグもなく、三人から同時に返信が叩きつけられた。
『当たり前だろ、何言ってんだお前』
『イオリ抜きの固定なんてあり得ねーっての! お前が戻ってくるまで、特等席空けて待ってるに決まってんだろw』
『うん、イオリは私たちの大事な仲間なんだから、いつでも待ってるよ。だから今は焦らないで、しっかり治すことだけ考えてね』
私はスマートフォンを抱きしめるように持ち、目元を緩めた。
(……そうよね。こいつらなら、絶対にそう言ってくれるわよね)
嬉しくなって、つい調子に乗った。
『ありがとう! じゃあ、実は身体自体はすごく元気だし、施設の人に頼んで今日の夜ちょっとだけログインできないか交渉してみようかな!』
送信した瞬間、三人の反応は、先ほど以上の音速だった。
『駄目』
『寝ろ』
『病み上がりでゲームすんな馬鹿!! 救急車で運ばれた翌日にレイド来る奴があるか、おとなしくベッドに引っ込んでろw』
「…………っ、なによ、全員して息ぴったりに却下しなくてもいいじゃないのよ!」
私は唇を尖らせたけれど、頬は緩んだままだった。
『はいはい、分かりましたよ。帰れたら真っ先に連絡するわね』と送って、チャットを閉じる。
スマートフォンを胸に乗せて、ベッドに仰向けになった。
(……本当に、よかった)
今までは、ただ元の生活へ逃げ帰りたいと思っていた。けれど今は、帰ってやりたいことがはっきりしている。
あの連中とまた、一緒に遊びたい。姿が変わっても、画面の向こうでは私は「イオリ」のままだ。
(……早く、あの部屋に帰りたいわね)
自宅のゲーミングチェアに座って、また馬鹿みたいに騒ぎながら夜更かしする。そのためなら、残りの検査も訓練も頑張れる。
昨日は現実から逃げたくて家に帰りたかった。今は違う。あそこでまた笑いたいから、帰りたいのだ。
初めて「家に帰る」という目標が、楽しみなものになった気がした。
*
しばらくすると、扉を控えめにノックする音がした。
「伊織君、少しいいかい? 弦冬だけど」
「あ、はい! どうぞ、開いてますよ!」
私が起き上がって返事をすると、扉が静かに開き、長い黒髪を束ねた弦冬さんが顔を出した。彼は勝手に奥へ踏み込まず、入口に立ち止まったままこちらを見ている。
「屋上での検査のあと、少し疲れているようだったから様子を見に来たんだけど……おや、なんだかさっきまでより随分と晴れやかな顔をしているね」
「……え? そ、そうですか?」
「うん。部屋の空気がパッと明るくなったみたいだ。何かいいことでもあったのかな?」
スマートフォンの画面を覗こうともしない。私は少し照れくさくなって頬を掻いた。
「……まあ、ちょっとだけ。昨日からずっと連絡できてなかった、オンラインゲームの友達とチャットをしてたんです」
「ああ、今朝の面談で話していた、レイドを一緒に攻略しているという仲間たちだね。君が突然いなくなって、心配していたんじゃないかい?」
「ええ。なんか、私が思ってた以上に大騒ぎで心配してくれてて……怒られるかと思ったら、『生きててよかった、待ってるからゆっくり休め』って」
「ふふ、そうかい。それは本当によかったね、伊織君」
弦冬さんは嬉しそうに頷いた。私はスマートフォンを撫で、肩をすくめた。
「……弦冬さんみたいに現実の現場で命懸けの仕事をしてる人から見たら、顔も本名も知らないネットゲームの友達なんて、不思議に見えるかもしれませんけど」
「まさか。そんなことはないよ」
弦冬さんは緩やかに首を横に振り、真っ直ぐな声で言った。
「顔を合わせたことがなくても、毎日のように同じ場所へ集まって、同じ目標に向かって何時間も言葉を交わしてきたんだろう? 大切なのはどれだけ時間を共有して、相手を思いやれるかということさ。画面の向こうかこちら側かで、友人の価値が変わるわけじゃない。彼らは間違いなく君の大切な仲間だよ」
「……弦冬さん」
「君がそんなに優しい顔で笑える場所があるのなら、僕が君を無事に自宅へ送り届ける理由が、また一つ増えたというものだ。午後の残りの時間はゆっくり休んで、また明日の訓練から一緒に頑張ろうじゃないか」
こういうところがズルいと思う。普段は得体が知れず、こちらの都合などお構いなしに変なことを言うくせに、私が大切にしているものは決して茶化さないのだ。
「……はい。ありがとうございます、弦冬さん」
「どういたしまして。それじゃあ、夕食の時間までゆっくり休むといい」
弦冬さんは軽く手を振り、扉を閉めた。
一人になると、私はスマートフォンを点灯させた。ロック画面には「いつでも待ってるぞ」というメッセージが残っている。
(……よし! 落ち込んでる暇なんてないわね!)
(一秒でも早く訓練をクリアして、絶対にマンションへ帰ってやるんだから!)
私は拳を握りしめ、帰宅後の最優先事項を考える。荷解きでも、部屋の掃除でもない。
(……帰宅後の最優先ミッションは、ゲーミングPCを起動して、私のこの美少女ボイスを完璧な男声に変換できる『高性能ボイスチェンジャー』を探し出してインストールすることよ!!)
それさえできれば、またいつもの仲間とレイドに挑めるはず!
――そこでふと、手元のスマートフォンの画面を消した。真っ黒になったガラスに、銀髪紅眼の美少女がぼんやりと映り込む。
私はその顔を見て、ようやく我に返った。
(…………)
(……いや、ちょっと待ってよ、私)
(昨日突然、男のサラリーマンからTier2の美少女吸血鬼に変態させられて、今後の人生がどうなるかも分からないっていう大ピンチの真っ最中なのに……)
(私の当面の人生最大の目標が『ネトゲ用の男声ボイチェンの導入』って、客観的に見てどうなのよ!?)
静かな保護室の中で、私は自分のあまりにも小市民すぎる優先順位に、一人でツッコミを入れてしまった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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