元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
翌朝、保護室のベッドで目を覚ました私の頭の中は、昨日とは比べものにならないほどスッキリと冴え渡っていた。
昨日の昼過ぎ、ギルメンたちと連絡を取り、「いつでも待ってるぞ」と言ってもらえたおかげだろう。夕食のあとは久しぶりにぐっすり眠れた。
朝食を済ませて部屋へ戻り、洗面所の鏡を見ながら長い銀髪をブラシで整える。
鏡の中の美少女にも慣れたとは言えないが、もう悲鳴を上げることはない。
(……さて。今日の検査を片付けたら、そろそろ帰宅のスケジュールが見えてきたりしないかしら)
ギルメンたちを待たせているのだ。早くマンションへ帰り、愛用のPCに男声ボイスチェンジャーを入れたい。
現役システムエンジニアの感覚では、今はリリース前の最終テスト工程だ。残りのタスクを消化して、さっさと納品――もとい退所許可をもらうに限る。
そんなことを考えているとインターホンが鳴り、八咫烏の職員から三階の検査室へ来るよう案内された。
「……よし。これをクリアすれば、また一歩マイホームに近づくわね!」
私は気合を入れて部屋を出た。
案内された三階の検査室は、一昨日の夜に大掛かりな測定を行った地下の体育館のような場所とは違い、病院の清潔な診察室を一回り広くしたような落ち着きのある部屋だった。
白いテーブルと椅子、コンパクトな医療モニターが並んでいる。遮光ブラインドの下りた窓際には、黒髪を後ろで束ね、例の長いコートを羽織った弦冬律が待っていた。
「おはよう、伊織君。昨夜はよく眠れたかい?」
「おはようございます、弦冬さん。ええ、おかげさまでバッチリです。……それで、今日はどんな検査をするんですか?」
私が椅子へ腰を下ろすと、弦冬さんも向かいに座った。
「うん。今日は吸血鬼としての体質で、最後に残っている大切な項目を確認しようと思ってね」
「大切な項目、ですか?」
私は小さく首を傾げた。
身体能力に血液操作、食事、日光耐性。必要なことは、もう一通り調べた気がする。
(……あれ? まだ何を調べることが残ってるんだっけ?)
指を折って数えてみても、思いつかない。
すると弦冬さんが、人差し指を一本立てた。
「伊織君。吸血鬼という種族にとって、太陽の光と並んで最も象徴的な要素といえば、何だと思う?」
「…………」
ピタリ、と私の思考が止まった。
吸血鬼。ヴァンパイア。太陽とくれば、答えは一つだ。
病院で「今後の検査で確認する」と言われ、先送りになっていた項目。
「……えっと」
「そう、君の想像通り。人間の血液を摂取したとき、君の身体がどう反応するかを調べるんだ」
「……ちょ、ちょっと待ってください!!」
私は椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「け、血液の摂取って……もしかして私、今から他人の生血を飲まされるんですか!?」
「おっと、落ち着いて、伊織君。テーブルが壊れてしまうよ」
「血ですよ、人間の血! そんなの、普通に飲めるわけないでしょ!?」
私は勢いよく首を横に振った。
いくら身体が美少女の吸血鬼に書き換わってしまったとはいえ、私の中身はつい二日前までコンビニのコーヒーや缶ビールを飲んで暮らしていた二十八歳のサラリーマンである。怪我をしたときに指先の血を舐めたことくらいはあるかもしれないが、コップに入った他人の血液を「はい、どうぞ」と出されてゴクゴク飲むなんて、ホラー映画の悪役じゃあるまいし、精神的なハードルが高すぎるにも程がある。
隣で準備をしていた白衣の検査担当者が、慌てて説明を加えた。
「相沢さん、無理に飲んでいただく検査ではありませんよ」
「……え? 飲まなくていいんですか?」
「まずは見たときと匂いを嗅いだときの反応を確認します。そのうえで、ご本人が同意された場合にだけ少量を試飲していただきます」
弦冬さんも頷いた。
「昨日の日光検査と同じで、いつでも断って構わないよ。血液も八咫烏の正規ルートでドナーから提供され、検査と衛生管理を受けたものだ」
「……本当に、嫌だったら『飲みません』って言っていいんですね?」
「もちろん。君の意思を無視して飲ませたりはしないよ」
二人の説明を聞き、私は渋々椅子に座り直した。
匂いだけなら大丈夫だ。それが無理なら断ればいい。
(……見た目は吸血鬼でも、血をすする趣味なんてないんだから!)
私は気を取り直した。検査担当者の指示で、まず簡易グリップと因果反応センサーによる平常時の基準測定を済ませる。あくまで摂取前後の比較用で、限界まで力を出す試験ではない。
*
数分後、医療スタッフが保冷ケースから取り出したのは、手のひらに収まる小さなガラス容器だった。
密閉された蓋の向こう側で、とろりとした暗赤色の液体が静かに揺れている。
(……うわぁ。正真正銘、人間の血だわ……)
私は背もたれに身体を預けた。
一昨日の夜、地下の測定区画で『血液操作』のテストをしたときも、シャーレに入った血液は見た。けれど、あの時は「自分自身の身体から抜いた血」だったし、何より「念じて動かす」というゲームのギミックみたいな作業に夢中だったから、それを飲み物として意識することなどなかったのだ。
しかし、今ここにあるのは「他人の血」であり、しかも「味見をするかどうか」という前提で目の前に出されている。そう思うだけで、なんだか病院の採血室に閉じ込められたような生々しさがあって、気分が落ち着かなかった。
「まずは匂いへの反応を調べます。蓋を開けますので、普通に呼吸をしてください」
「……は、はい。分かりました」
私は容器を見つめ、身構えた。
鉄錆か生臭さが鼻を突くに違いない。そう覚悟して息を吸う。
検査担当者が、カチリと音を立ててガラス容器の蓋を開ける。
赤い液面から、ふわりと匂いが立った。その瞬間だった。
「…………ん?」
予想した鉄の臭いは、どこにもなかった。
鋭敏になった吸血鬼の嗅覚が捉えたのは、これまで二十八年間の人生で一度も嗅いだことがないはずなのに、脳の奥底を直接揺さぶるような、ひどく濃厚で、芳醇で、どこか甘い果実の蜜や極上のワインのブーケにも似た、抗いがたいほど魅力的な『香り』だったのだ。
(……え? なに、これ……)
生臭さなんて微塵もない。
それどころか、その香りをひとたび肺の奥へと吸い込んだ途端、私の身体の芯がポッと温かくなり、喉の奥がきゅうっと鳴って、口の中に自然と唾液がじわりと溢れ出してきたのである。
理屈や知識で考えるよりも先に、私の肉体そのものが、目の前にある赤い液体を『最高に美味しそうなごちそう』だと判断してしまっていた。
(……あれ? ちょっと待って、なんで……?)
私は自分の鼻先と容器を交互に見た。
検査担当者が声をかけてくる。
「相沢さん、吐き気や不快感はありますか?」
「…………」
「相沢さん?」
「……あ、いえ。気分が悪いとかは、全然ないんですけど……」
私は頬を掻き、消え入りそうな声で白状した。
「……なんか、その……すごく、いい匂いがするんですけど」
「ほう。いい匂い、かい?」
弦冬さんが身を乗り出す。
「具体的には、どんな風に感じるのかな?」
「どんなって言われても……鉄っぽい臭いが全然しなくて、なんていうか、高級なレストランの前を通ったときみたいな、すごく甘くて美味しそうな匂いに感じるんです……って、ちょっと待ってください!!」
自分で口に出してから、私はハッとして両手で自分の口元を押さえた。
「わ、私、今、人間の血の匂いを嗅いで『美味しそう』って言いましたよね!? おかしいじゃないですか、こんなの!」
「どうやら君の嗅覚は、血液を好ましいものと認識しているようだね」
「昨日は白いご飯とお味噌汁が美味しいって喜んでたのに、今日は血の匂いでよだれが出そうなんですよ!?」
「だって伊織君、君は吸血鬼だからね」
「……っ、それを言われるとぐうの音も出ないんですけど!!」
あまりに身も蓋もない答えに、私はテーブルに突っ伏しそうになった。
頭の中の理性は「あれは血液だ、飲み物じゃない」と警鐘を鳴らしている。
けれど、この銀髪美少女の肉体に備わった感覚器官は、そんな私の古い常識などどこ吹く風で、「なんて素晴らしい香りなんだ、早く口に入れてみたい」と無邪気に尻尾を振っているのだ。
自分の意識と、自分の身体の本能が、まったく別の方向を向いているかのような奇妙なチグハグ感。これまでは怪力やスピードといった「物理的なスペック」の違いにばかり目を向けていたけれど、こんな風に「感じ方」そのものが書き換わっていることを突きつけられると、改めて自分が人外になってしまったのだという事実が重くのしかかってくる。
それでも、理性が吹き飛んで容器に飛びかかりたいわけではない。
あくまで、お腹が空いているときに目の前で焼き鳥を焼かれて、「あ、いい匂いだな、一本食べたいな」と思うのと、感覚としてはまったく同じレベルなのだ。
私は容器を見つめ、小さく呟いた。
「……ねえ、弦冬さん。いくら理性がはっきりしてるとはいえ、人間の血を見て『美味しそう』だなんて思っちゃうのって……やっぱり、人間としてはもう完全にアウトですよね」
ちょっとだけ弱気になってそんな言葉を漏らすと、弦冬さんはすぐには茶化さず、少しだけ考えるように目を伏せてから、穏やかな声で答えた。
「そうだね。人間だった頃の君の感覚からすれば、自分の味覚や嗅覚が変わってしまったことに戸惑うのは、とても自然なことだと思うよ」
「……ですよね」
「だけどね、伊織君。『血液を美味しそうだと感じること』と、『そのために誰かを襲って傷つけること』の間には、天と地ほどの決定的な違いがあるんだ」
私は顔を上げ、弦冬さんの黒い瞳を見た。
「美味しいお肉や甘いお菓子が目の前にあったとして、それを『美味しそうだ』と思うだけで犯罪者扱いされる人間はどこにもいないだろう? 大切なのは、その欲求に対して君自身の理性がどう振る舞うかさ。今の君は、こうしてルールを守って椅子に座り、僕たちと冷静に会話をしている。誰かの首筋に噛みつこうなんて微塵も思っていない。味覚の好みが人間と少し違ったからといって、君という人間の倫理観や尊厳が損なわれるわけじゃないんだよ」
静かで、しかし確信に満ちた言葉だった。
病院で「二十八年間の人生は消えない」と言われたときのように、胸のつかえが少し緩む。
(……そうよね。美味しそうだと思ったからって、誰かを襲うわけじゃないもの)
血液を好ましく感じる。それは今の身体の性質であって、私が何をするかとは別だ。
重苦しい抵抗感が薄れると、代わりに好奇心が顔を出した。
これほどまでに芳醇で、私の本能が「絶対に美味しいぞ」と太鼓判を押しているこの赤い液体。実際に口に含んでみたら、一体どんな味がするのだろうか。
私はガラス容器と検査担当者の顔を交互に見てから、少しだけ頬を染めつつ、おそるおそる右手を挙げた。
「……あの。そこまで言ってもらえたら、なんだかちょっと気になってきたんですけど……」
「おや、気が変わったかい?」
「ええ。どうせ検査項目に入ってるんなら、ほんのちょっとだけ……味見、してみてもいいですか?」
私がそう告げると、弦冬さんは「ふふ、君ならそう言うと思ったよ」と嬉しそうに目を細め、検査担当者は「了解しました。では、試飲用の少量検体を準備します」とキビキビと動き出した。
*
検査担当者は小さな滅菌済みのショットグラスを取り出し、スポイトで数ミリリットルにも満たない血液を、ポタリと底へ落とした。
思ったより少ない量にほっとして、グラスを受け取る。
「相沢さん、まずはその量を舌の上に乗せて、味覚の反応と、嚥下した後の体調の変化を確認してください。もし口に入れた瞬間に拒絶反応が出た場合は、無理に飲み込まずにこちらのトレイへ吐き出していただいて構いません」
「……はい、分かりました」
私は指先で小さなグラスをつまみ、目の高さまで持ち上げた。
透明なガラスの底で、ルビーを溶かしたような鮮やかな赤い液体が、照明の光を反射して艶やかに揺れている。近づけたことで、さっきよりもさらに甘やかで濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、私の心臓がトクンと小さく跳ねた。
自分から「味見してみる」と言い出した手前、ここで怖気づいて引っ込めるのはなんだか癪に障る。
向かいの席では、弦冬さんが頬杖をつきながら、まるで珍しいスイーツの試食を見守るかのような穏やかな目でこちらを見つめている。
(……ええい、ままよ! 今さら血の味くらいでビビってられないわよ!)
私はギュッと目を閉じ、意を決して小さなグラスの縁を自分の唇へと当て、そのままクイッと傾けた。
トクン、と。
わずかにひんやりとした、それでいて滑らかなとろみを持った少量の液体が、私の舌の上へと流れ込んできた。
「…………っ!?」
舌に触れた瞬間。
閉じていた私の瞼がカッと見開かれ、紅い瞳が信じられないものを見るように大きく揺れた。
(……えっ!?)
口の中に広がったのは、鉄錆のえぐみでも、生臭い獣の臭いでもなかった。
最初に弾けたのは、熟れきったベリーの果実をぎゅっと凝縮したような、鮮烈で上品な『甘み』。そしてその直後に、高級なコンソメスープや熟成された赤ワインを思わせる、底知れないほど深く芳醇な『旨味』とコクが、波のように舌の上を駆け巡ったのである。
これまで二十八年間、人間として食べてきたどんな美食とも違う。
焼肉の脂の旨さとも、ラーメンのジャンキーな中毒性とも、パティスリーのケーキの甘さともまったく異なる、完全に未知のジャンル。だというのに、私の舌と脳は、それを「生まれてからずっと探し求めていた究極の雫」だとでも言うかのように、歓喜の震えをもって迎え入れていた。
舌の上で転がすだけで、乾いていた細胞の隅々にまで極上の蜜が染み渡っていくような、圧倒的な多幸感。
私は吐き出すどころか、その最後の一滴までが惜しいとばかりに、ゴクリと音を立てて喉の奥へと飲み干していた。
「…………」
空になったショットグラスを握りしめたまま、私は彫像のようにピタリと固まった。
食道を通り抜けたほんの数滴の血液が、胃の腑に落ちるよりも早く、胸の奥で温かい熱となってフワッと花開くような感覚がある。
あまりにも長い沈黙に、向かいの弦冬さんが少しだけ心配そうに眉を下げて声をかけてきた。
「……伊織君? どうしたんだい、固まってしまって。もしかして、気分でも悪くなったかな?」
「…………」
「伊織君?」
二度呼ばれて、私はようやくハッと我に返り、スローモーションのような動きで顔を上げた。
そして、心底困惑しきった、裏返るような声でぽつりと呟いた。
「……美味しい」
「え?」
「……めちゃくちゃ、美味しいです、これ……」
「ほう、そうかい。口に合ったようで何よりだね」
「いやいやいや! 何よりじゃないですよ!!」
私は空のグラスを掲げて抗議した。
「なんで人間の血がこんなに美味しいんですか!? おかしいでしょ、どう考えても! もっとこう、鉄の味がしてマズいけど我慢して飲む薬みたいなものだと思うじゃないですか!!」
「はは、どうしてわざわざマズいものだと決めつけていたんだい? 吸血鬼にとっての血液なんだから、美味しく感じるようにできているのは至極当然の摂理だと思うけれどね」
「頭では分かるけど感情が追いつかないんですよ! 二日前まで『来週は高橋さんと新橋で焼き鳥だ』って楽しみにしてた二十八歳のおっさんが、今は人の血を飲んで『フルーティーで絶品です!』って感動してるんですよ!?」
私は空のグラスをテーブルに置き、両手で自分の銀色の頭をガシガシと抱え込んだ。
「味覚と身体反応は良好ですね。拒絶反応もありません」
「これが正常なんですか!? やっぱりどこかバグってますってば!」
「ふふ。今の君の身体にとっては、正常な反応なのさ」
私は羞恥と混乱で真っ赤になり、天井を仰いだ。
(……こんなところで吸血鬼としての才能を発揮しなくていいのよ!)
人間のご飯が美味しく食べられたから「なんだ、中身は人間のままだな」と安心していたのに、蓋を開けてみれば、人間の食事もいける上に「血液は別腹の極上グルメ」として対応している、というとんでもないハイブリッド仕様だったのである。
しかも、そこで困ったことに気づいた。
視線が、検査担当者の手元にある血液の容器へ向いてしまう。
「…………」
私は唇を舐めた。
舌には、まだ甘い余韻が残っている。
(……いや。……ちょっと待って)
(……あれ、本当にちょっとしか飲んでないわよね)
(……もう少し、飲んでみたいかも……)
そんな自分に気づき、慌てて視線を逸らした。
(……何考えてるのよ! おかわりを期待してどうするの!)
とはいえ、容器を奪いたいわけじゃない。ただ、もう一口味わいたい。それだけだ。
検査担当者が質問する。
「相沢さん、摂取から数分が経過しましたが、現在の身体の具合はいかがでしょうか? 吐き気や、めまいなどは?」
「……体調は、全然平気です。どこも悪くありません」
「では、精神面についてお伺いします。一度血液を口にしたことで、さらに血液を摂取したいという欲求――いわゆる吸血衝動のような変化は感じられますか?」
心臓が跳ねた。
ここで「全然ありません!」と格好つけて嘘をつくのは簡単だ。
でも、帰宅できるかどうかにも関わる検査だ。エンジニアとしても、一番大事なデータを誤魔化すわけにはいかない。
私は数秒ほど激しく葛藤した末に、耳の先まで真っ赤に染めながら、消え入りそうな小さな声で正直に答えた。
「……その、暴れたくなるとか、そういう怖い衝動は全然ないですけど……あまりの美味しさに、もう一口か二口くらい飲みたいなー、っていう気持ちには、なってます……」
言った途端、私は顔を覆った。
「……ああもう! 自分で言ってて恥ずかしいんですけど!」
「ふふ、いやあ、素晴らしいね。変に取り繕わずに正確な自己申告をしてくれるのは、検査する側として本当に助かるよ、伊織君」
「ぜっっったいに面白がってるでしょ、弦冬さん!!」
テーブルに突っ伏したまま涙目で睨みつける私に、弦冬さんは「まさか、感心しているだけさ」と涼しい顔で微笑み返し、改めて確認するように問いかけてきた。
「つまり、今の君の感覚としては、そこにある容器の血を全部飲み干さないと気が狂いそうだ、というような強迫的な渇望ではないんだね?」
「違います! 美味しかったから、もう少し欲しいだけです。我慢しようと思えばできますから!」
「うん。落ち着いて話せているし、判断力も変わっていないようだね」
検査担当者も頷いた。「強い嗜好は確認されますが、自己制御には問題がありません」
私はようやく顔から手を離し、「……ふぅ」と大きく息を吐き出した。
美味しさは衝撃だった。でも、検査はきちんと受けられた。それでいい。
――と、そうやって胸を撫で下ろした、まさにその時だった。
私はふと、自分の身体の奥底で、先ほどまでとは明らかに違う「奇妙な感覚」が渦巻き始めていることに気がついたのだ。
(……ん? なにかしら、これ……)
昨日、日光を浴びたときは、身体の内側の力が静まる感覚があった。
今は、その逆だ。
ほんの数滴の血液を飲み込んでから数分が経ち、それが全身へと巡り始めたのか、心臓のあたりからポカポカと心地よい熱が溢れ出し、手足の指先に至るまで、普段以上に猛烈な活力がみなぎってきているのである。
(……あれ? なんか、さっきまでよりさらに身体が軽いっていうか……奥の方からパワーがモリモリ湧いてきてない?)
私は首を傾げ、自分の白くて細い右手を持ち上げてグーパーと開閉してみた。
今なら昨日の訓練よりも速く動けそうな、不思議な感覚があった。
「……あの、弦冬さん」
「うん? どうしたんだい、自分の手を見つめて」
「いえ、体調が悪いわけじゃないんですけど……なんか、さっき血を飲んでから、身体の中のパワーがいつも以上に増えてるような気がするんですけど」
私がそう口にした瞬間、隣のモニター画面を監視していた検査担当者の手がピタリと止まり、その表情がわずかに引き締まった。
「確かに、摂取後から因果反応の値が上がっていますね」
「……えっ?」
*
「血液の摂取が、君の能力を一時的に引き上げるきっかけになっているようだね」
弦冬さんの言葉を聞き、検査担当者が先ほどと同じ携帯型グリップを差し出した。因果反応は別のセンサーで継続して観測されている。
「摂取前と同じ方法で、もう一度このグリップを握ってください。限界まで力を出さなくて結構です」
「あ、はい。分かりました」
私はグリップを握った。
遮光ブラインドが下りた同じ部屋で、摂取前と条件は変わらない。日光の影響ではなさそうだ。
先ほどと同じ程度の力を出すつもりで、指先に圧力をかける。
電子音が鳴り、モニターの表示が跳ね上がった。
「……はい、結構です。やはり、明確な上昇が確認されました」
検査担当者が画面の数値を指差しながら、少し驚いたような声で報告する。
「摂取前に比べ、同じ手順で加えた圧力が増しています。因果反応の観測値にも上昇が見られます。最大出力や増強倍率までは測定していませんが、血液摂取による一時的な強化の兆候は明らかです」
私はグリップから手を離し、自分の小さな手のひらを見つめたまま固まった。
(……ちょっと待って。つまり、どういうこと?)
「……つまり、血を飲むと、ただでさえ強すぎる私がさらにパワーアップしちゃうんですか!?」
「うん、今回の測定結果からすれば、まさにそういうことになるね」
弦冬さんが、とても興味深そうに顎に手を当てて頷いた。
「吸血鬼の中には、血液で力が強まるタイプもいる。君もその一例のようだね」
「……いやいやいや! 感心してる場合じゃないですよ、弦冬さん!!」
私は再び自分の銀髪を両手で抱え込み、テーブルの上でジタバタと抗議の声を上げた。
「昨日の訓練でやっとブレーキを覚えたのに、ここからさらにパワーが上がるなんて、どういう仕様なんですか!?」
「ふふ、どうしてそんなに嘆くんだい? 能力者として見れば、いざという時に限界を超えられる切り札があるというのは、これ以上ないほど頼もしい特性だと思うけれどね」
「私はバトルゲームの主人公じゃなくて、家で静かに暮らしたいだけの小市民なんです! これ以上パワーが上がったら、またペットボトルの蓋を開けるときに指先がプルプルしちゃうじゃないですか! なんでこんな無駄に高性能な機能ばっかりついてくるのよ!」
「はは、それはやっぱり、君が吸血鬼だからじゃないかな」
「またそれですか!? 本日二回目の『吸血鬼だから』で全部片付けないでください!!」
あんまりな返しに私がぷりぷりと怒ってみせると、弦冬さんは楽しそうに笑ったあと、すっと優しい目になって私を諭すように言った。
「でも伊織君、今もグリップを壊さずに測れただろう? ちゃんと力は抑えられているよ」
「……あっ。そういえば、そうですね」
「昨日の訓練で覚えたブレーキは、エンジンの最大馬力が上がったからといって消えたりしないさ。強くなったことを自覚していればいい」
確かにそうだ。
身体の奥から普段以上の力が湧き上がってくる感覚はあるものの、一昨日の病院のときのように「勝手に腕が動いてカートを吹き飛ばしてしまう」ような危うさはまったくない。力を出そうと思えばいくらでも出せるが、出さないでおこうと思えば、ちゃんと指先で止められる感覚がある。
「……ほんとだ。ちょっと力が余ってる感じはしますけど、勝手に暴れたりしそうな感じはないです」
「だろう? それだけ君の自己制御が上達しているという証拠さ」
私は少しだけホッとして、胸を撫で下ろした。
私はもう一つ尋ねた。
「……ちなみに、血を飲んだらTierまで上がるんですか?」
「いいや。昨日の日光の話と同じで、一時的な出力変化と魂の定数は別だよ。君はTier2のままさ」
「……なるほど。あくまで一時的なバフアイテムってことですね」
私がゲームの用語に置き換えて納得していると、コンソールの前で波形を見守っていた検査担当者が、ふと「おや」と声を上げた。
「上がっていた因果反応の値が、ゆっくり下がり始めています。どうやら強化は一時的なもののようですね」
「……えっ、本当ですか!?」
私は自分の手を見つめ、胸の奥の感覚に意識を澄ませた。
確かに、さっきまで心臓のあたりでポカポカと渦巻いていた過剰な熱が、潮が引くようにすーっと穏やかになり、いつもの馴染み始めた身体の軽さへと戻っていくのが分かった。もちろん、正確な持続時間が摂取量によって何分になるのか、あるいは何時間になるのかまでは分からないが、少なくとも「一度血を飲んだら一生パワーアップしっぱなしで元に戻らない」という仕様ではないらしい。
「……よかったぁぁ……。ずっとこのままだったら、明日からまた力加減の練習をやり直すところでしたよ」
「おや、少しも残念がらないんだね。せっかくの強化状態が解けてしまったというのに」
「普段だって持て余すくらい強いんですから、これ以上は必要ないです!」
「ふふ、本当に君らしい答えだね」
こうして出力の変化も確認できた。
*
スタッフがテーブルの上の簡易測定器を片付け始める中、私は椅子に座り直して、今日ここへ来てからずっと心の底で一番気にかかっていた、最も重要な質問を検査担当者へとぶつけた。
「……あの、すみません。それで、結局のところなんですけど」
「はい、何でしょうか、相沢さん」
「結局、私って生きるために定期的に血を飲まなきゃいけないんでしょうか?」
私はゴクリと唾を飲み込み、検査担当者の口元を見つめた。
いくら味が美味しくて、八咫烏から安全に提供してもらえるのだとしても、「毎週必ず他人の血を飲まなければ体調が悪化して死んでしまう」のと、「飲まなくても普通のご飯だけで一生健康に生きていける」のとでは、これからの人生の自由度がまるで違ってくる。
私の真剣な問いかけに対し、検査担当者はタブレットに集計された昨日からの全データを一通り確認した上で、はっきりとした口調で告げた。
「現在の検査結果では、生命維持のために血液を摂取する必要性は認められません」
「……えっ」
「通常の食事を問題なく摂取できていますし、吸血しない状態でも身体機能は安定しています。過去の類例から見ても、相沢さんは普通の食事だけで生活できるタイプと判断しています。もちろん経過観察は続けます」
整然と告げられたその最終判定を聞いた瞬間、私の頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
「……と、いうことは……!」
「はい。今のところ、定期的な吸血は必要ないと考えられます」
「……やった……よかったぁぁぁぁ……!!」
私は椅子の背もたれに大きく身体を預け、天井を見上げて心の底からの安堵の息を吐き出した。
血を飲まなくても、死なない。
昨日食べたあの美味しいお味噌汁や焼き鮭、そしてこれから食べるであろう焼肉やラーメンやコンビニスイーツだけで、私はこの先もずっと、普通の人間と同じように生きていけるのだ。
「では、今回の検査結果を最終整理いたしますね」
検査担当者が、クリップボードの項目にチェックを入れながら読み上げる。
「嗜好性あり、摂取後も判断力は正常、出力増強は一時的、吸血の必要性なし。以上で、予定していた初期の主要体質検査は完了です」
さらりと添えられたその最後の一文に、私の耳がピクリと動いた。
「…………え?」
私は背もたれからガバッと身を起こし、検査担当者の顔を二度見した。
「……今、なんて言いました? すべて、完了……?」
「はい。経過観察や訓練は続きますが、当施設での必須検査は終了です」
「……ってことは……」
私が期待に胸を膨らませて隣の弦冬さんへと視線を向けると、弦冬さんは待っていましたとばかりに柔和な笑みを深め、大きく頷いてみせた。
「そうだね、伊織君。そろそろ自宅へ帰る準備を始めよう」
一秒間、私の思考がフリーズした。
「……え? じ、自分のマンションへ、帰る……?」
「うん。君の帰宅準備を進めよう、と言ったんだよ」
「……ほんとに、あの、私の部屋に帰っていいんですか!?」
「もちろんさ。昨日も約束しただろう? 君をいつまでもこんな施設の個室に閉じ込めておく理由は、もうどこにもないからね」
弦冬さんのその言葉を聞いた瞬間、私の全身から、昨日以上の歓喜のエネルギーが爆発した。
「……やったぁぁぁぁぁっ!! ついに、ついに家に帰れるぅぅぅ!!」
私は立ち上がり、両手を突き上げた。
帰れる! あの住み慣れた、ちょっと散らかったワンルームの私の城へ!
座り心地抜群のゲーミングチェアも、デュアルモニターが輝く愛用のデスクも、ふかふかの自分のベッドも、そして画面の向こうで私の帰りを待ってくれているギルメンたちも、もうすぐ目の前だ!
「あ、あの、弦冬さん! いつ帰れるんですか!? 今日ですか!? 今すぐ荷物まとめて出ていいんですか!?」
「はは、落ち着きなさい、伊織君。そんなに慌てなくても、君の部屋が逃げていったりはしないよ」
今にも廊下へ飛び出しそうな勢いの私を、弦冬さんが苦笑しながら手で制した。
「生活支援や勤務先との連絡、自宅の安全確認などは八咫烏の専門部署が進めるよ。手続きは今日から明日にかけて整う見込みだ。帰宅後は僕が定期的に通い、訓練を続けよう」
「……っ、今日か明日には帰れるんですね!? ありがとうございます、ありがとうございます!!」
私は嬉しさのあまり、弦冬さんに向かって何度もペコペコと頭を下げた。
家にさえ帰れれば、こっちのものだ。
「……よしっ! そうと決まれば、マンションに帰ったら一秒でも早くPCを立ち上げて、まずはネットの海から最強のボイチェンを探し出さないと……!」
「……ぼいちぇん?」
私が拳を握りしめてブツブツと独り言を呟いていると、弦冬さんが不思議そうに小首を傾げた。
「なんだい、その『ぼいちぇん』というのは? 新しい呪物か何かの名前かい?」
「っ、なんでもありません! こっちの極めて重大なプライバシーの話です!」
「ふふ、なんだかわからないけれど、君がそこまで楽しそうなら、僕としても鼻が高いよ」
帰宅という最大のゴールが目の前に見えたことで、私のテンションは最高潮に達していた。
――と、そこへ。
検査を終えたスタッフが、テーブルの上に残っていた器具と、あの「検査用の血液が入ったガラス容器」をトレイに乗せて片付けようと手を伸ばした。
カチャリ、とガラスが触れ合う小さな音がした瞬間。
私の紅い瞳が、完全に無意識のうちに、その赤い液体が入った容器の方へとピタリと吸い寄せられてしまった。
「…………」
スタッフの手によって保冷ケースの中へとしまわれていく、ルビー色の小さな瓶。
もう飲まなくてもいいと分かって、あれだけ大喜びしたばかりだというのに。
私の舌の上にはまだ、さっき味わったばかりの、あの芳醇で甘美な雫の記憶が生々しく残っていて、ケースの蓋が閉まる瞬間、なんとも言えない名残惜しさが胸をかすめたのだ。
(……もう飲まなくてもいいんだから、別にいいのよ)
(……でも、びっくりするくらい美味しかったわね……)
(……どんな高級ワインや特上カルビよりも、ぶっちぎりで美味しかったわよね……)
いやいやいや、何を未練がましいことを考えているんだ私は!
慌てて頭の中で邪念を振り払おうとした、その時だった。
「……おや、伊織君」
すぐ隣から、ひどく楽しそうな、ニヤニヤとした気配を含んだバリトンボイスが降ってきた。
「……な、なんですか、弦冬さん」
「いやね、もう血は飲まなくてもいいと聞いてあんなに喜んでいたわりには、さっきから随分と熱烈な視線で、あの片付けられていく血液のボトルを見送っているなと思ってね」
「――っ!? べ、別に見てませんけど!! たまたまそっちの方に目線が向いてただけですけど!!」
「そうかい? まるでショーウィンドウのケーキを見つめる子供のような目だったけれど」
「なっ……! 違いますったら! 別に『もうちょっとおかわりしたかったな』なんて、一ミリも思ってませんからね!!」
私が顔を真っ赤にして全力で否定すると、弦冬さんは口元に手を当てて、肩を震わせながらクスクスと笑った。
「ふふ、僕はまだ『おかわりしたいのかい?』なんて一言も聞いていないんだけどね」
「…………っ、う、うるさいわね!! 揚げ足取らないでください!!」
自爆して涙目になる私に、弦冬さんは優しく目を細めて、こんな言葉を付け加えた。
「希望があれば、八咫烏の正規の供給ルートで安全な血液を手配することもできるよ。今すぐ決める必要はないけれどね」
「……い、いりませんよ、そんなの! 私は普通のご飯だけで生きていくんですから、冷蔵庫に血液パックなんか並べたくありません!」
「そうかい? それは残念だな。せっかく君の口に合う銘柄が見つかったのにね」
「…………」
私はぷいっとそっぽを向き、腕を組んで黙り込んだ。
一秒、二秒、三秒。
室内に静かな間が流れたあと、私はチラリと横目で弦冬さんを窺いながら、誰にも聞こえないくらいの小さな声でボソリと付け加えた。
「……まあ、その……どーーーしても力が必要になったときは……ほんの少しなら、相談に乗ってもらっても、いいですけど……」
すると弦冬さんは、今日一番の愉快そうな笑顔を咲かせて、深々と頷いた。
「ふふ、了解したよ。必要になったら、いつでも相談してくれたまえ」
「……っ、ぜっっったいに今、心の中で馬鹿にして笑ったでしょ!!」
私の抗議の声が、明るい検査室に響き渡る。
(……はぁ、もう。二日前まで普通のサラリーマンだった私が、人間の血を飲んで『美味しかったからまた飲みたいな』なんて照れてるなんて……本当に、どこでどう間違えたらこんな人生になるのよ!)
自分の変わり果てた味覚に改めて呆れ返りつつも、私の足取りは、検査室へ入ってきたときよりもずっと軽やかだった。
だって、面倒な検査はこれで全部終わったのだ。
あとは事務手続きを済ませれば、待ちに待った私の部屋へ、そして私の愛すべき引きこもりライフへと帰還できるのである。
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