元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
カチャカチャ、と小気味よいメカニカルキーボードの打鍵音が、静かなワンルームの部屋に響いていた。
私は愛用のゲーミングチェアの座面の上でジョガーパンツのまま胡座をかき、目の前に並ぶ二枚の二十七インチモニターを食い入るように見つめていた。
右手のひらに収まる軽量ゲーミングマウスの滑らかな感触。指先でキーを押し込むたびに返ってくる、適度な反発力。そして、画面がスクロールする際の引っかかり一つない高リフレッシュレートの描画。
(……ああ、やっぱり自分のパソコンは最高だわ)
八咫烏の施設にいたときに触っていたタブレット端末や、手の中のスマートフォンとは、作業の快適さが文字通り桁違いだった。三日間離れていただけで、まるで自分の手足の一部がようやく元の場所へ戻ってきたかのような一体感がある。
ただ、今の私がその自慢のハイスペックマシンを使って何をしているのかといえば、新作ゲームのインストールでもなければ、高難易度レイドの攻略動画のチェックでもなかった。
メインモニターの中央に開かれたブラウザの検索窓。そこには、先ほど私が打ち込んだ『ボイスチェンジャー 女声から男声 リアルタイム』という、なんとも奇妙な文字列が並んでいる。
「……男声ボイスチェンジャー、ねぇ」
私は頬杖をつき、検索結果を眺めた。
ボイスチェンジャーといえば、男性配信者やVTuberが声を女性に変えるもの、という印象が強い。私も動画で見かけるたび、最近の音声処理技術に感心していた。
けれど、今の私が求めているのは、その逆だった。
銀髪紅眼の美少女になったせいで、声まで十代後半の女の子になってしまった。それをソフトの力で、以前の二十八歳男性の声へ戻そうというのである。
「……なんか、世間の流行りとはものすごく逆行したことをやってるわね、私」
わざわざ美少女の声を男の声に加工するなんて、世の中のバ美肉配信者が聞いたら「なんて罰当たりなことを!」と怒り出しそうな話だ。
けれど、私には切実な事情がある。ギルメンは全員、私を男だと思っている。一昨日のチャットでは口調の変化を「大人のイメチェン」で押し通したが、VCでいきなり美少女の声を披露するわけにはいかない。
(……よし、やるわよ! 現役SEとしての意地に懸けて、男の声を取り戻してやるんだから!)
私はパーカーの袖をまくり、仕事モードで比較記事を読み始めた。
必要な条件は三つ。
一つ目は、女性声を不自然さのない男性声へ変換できること。
二つ目は、「ゲーム中のボイスチャットで違和感が生じないレベルまで、音声変換の遅延(レイテンシ)が極小であること」。コンマ数秒を争うレイド戦において、私が「避けて!」と叫んでから一秒後に声が届くようでは話にならない。
そして三つ目――これが何より重要なのだが、「変換後の音声だけを独立した仮想マイクとして出力でき、変換前の地声が絶対に混入しない仕組みを作れること」だ。
(……一番怖いのは地声の誤爆よ。声質より、まずは音声の経路を分けないとね)
仕様とレビューを比較し、AI声質変換とピッチ・フォルマント調整を併用できる定番ソフトを選ぶ。私のPCなら、ゲームと同時に動かしても負荷には余裕があるはずだ。
公式サイトからインストーラーを入手し、手早くセットアップを済ませる。
こういう時、普段からPCのシステム周りをいじる仕事をしていて本当によかったと思う。一般の人なら「仮想オーディオドライバの導入」だの「サンプリングレートの統一」だのといった専門用語の羅列で頭を抱えるところだろうが、私にとっては朝飯前のルーティン作業のようなものだ。
数分後、黒いコントロールパネルが立ち上がった。
「……よし、インストールは問題なし、と」
私はデスクのフックに掛けてあった愛用のヘッドセットを手に取り、長い銀髪がイヤーパッドに挟まらないよう耳の後ろへさらりと流してから、頭に装着した。
マイクのアームを口元へと下ろす。
まずは変換を切って、現在の地声を録音してみる。
私は録音ボタンを押してマイクへ話しかけた。
「……あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。本日は晴天なり。相沢伊織です、聞こえていますでしょうかー?」
録音を停止し、そのまま再生ボタンを押す。
一拍置いて、左右のイヤーパッドからクリアな声が流れた。
『……あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。本日は晴天なり。相沢伊織です、聞こえていますでしょうかー?』
「…………」
私はマウスを握ったまま、遠い目をしてモニターを見つめた。
普段、自分の頭の中で聞いている声とは違う。マイクを通して客観的に聞くと、余計に破壊力があった。
透明感があって、語尾がほんのりと柔らかく跳ねる、紛れもない十代後半の美少女の声。まるで、大人気アニメのヒロイン声優か、登録者数百万人の女性VTuberが自分の耳元で囁いているかのようである。
「……やっぱり、何度聞いても自分の声だなんて信じられないわね、これ」
ため息まで可愛らしく聞こえそうで、思わずマイクから顔を背ける。
もし男だった頃の私が、こんな声の女の子からゲーム内で「相沢さん、一緒に遊びましょ?」なんて話しかけられたら、鼻の下を伸ばして二つ返事でレアアイテムを貢いでいたかもしれない。それくらいには暴力的なまでの美少女ボイスなのだ。
「……ま、感心してる場合じゃないわね。さっさとこの声を、むさ苦しい男声に叩き直しましょうか!」
気を取り直し、変換をオンにして『男性・スタンダード』を選択する。
*
まずは標準プリセットのお手並み拝見だ。
私は再び録音ボタンを押した。
「……あー、あー。テスト、テスト。相沢伊織です。今夜のレイド、参加します」
録音を止め、再生をクリックする。
すると、ヘッドホンから地の底を揺らすような声が流れた。
『……あー、あー。テスト、テスト。相沢伊織です。今夜のレイド、参加します……』
「…………」
私は目を丸くした。
確かに男声だ。間違いなく男声なのだが。
しかし、そこにあったのは二十八歳の平凡なシステムエンジニアの声などではなく、葉巻をくゆらせながらブランデーグラスを傾けている、歴戦の六十代マフィアのボスのような『超・重低音ボイス』だったのである。
「……だ、誰よ、この渋すぎるおっさんは!?」
思わず画面にツッコミを入れる。
どうやら標準プリセットが、ピッチを極端に下げているらしい。
試しにもう一度、その重低音プリセットのまま「タンク、バフが薄いぞ」と吹き込んで再生してみたところ、まるでハリウッド映画の予告編で「この冬、世界は滅亡する――」と語っているベテラン声優のナレーションのような、とてつもない貫禄の声が返ってきた。
「……ぶふっ! あはははっ、なによこれ! ただゲームでタンクに文句言ってるだけなのに、なんか国家の命運でも背負ってる最終決戦みたいじゃない!」
私はゲーミングチェアの上で笑い転げた。
いや、笑っている場合ではない。こんな声でボイスチャットに現れたら、「イオリ、お前喉を痛めたんじゃなくて、声帯を悪魔に売り渡したのか!?」と総ツッコミを食らうに決まっている。私が欲しいのは、こんなダンディズムの塊のような五十年ものの美声ではなく、もっとこう、休日の昼過ぎにカップ麺をすすっていそうな普通の二十代後半の男声なのだ。
「……ピッチだけ下げるからこうなるのね。フォルマントとAIモデルの配合も調整しないと……」
私は笑い涙を拭い、詳細設定を開いた。
低すぎるピッチの値を少し上へと戻し、代わりに声の太さや共鳴を司るパラメーターを、若い成人男性の標準値へとスライドさせていく。さらに、変換の自然さを補うAIの音声モデルを『20代男性・クリア』というベースに切り替えた。
これなら、映画予告ナレーターからは脱出できたはずだ。
私は再びテスト音声を吹き込んだ。
「……あー、あー。どうかしら? 今度こそ、普通の男の声になってるといいんだけど」
録音を止め、再生。
『……あー、あー。どうかしら? 今度こそ、普通の男の声になってるといいんだけど』
「…………」
私は瞬きを繰り返し、ヘッドセットの両耳を手で押さえた。
今度は、機械っぽさのない自然な男性声だった。
若々しくて、明るくて、耳にスッと入ってくるような透明感がありながら、芯には男性特有の心地よい低音の響きが混じっている。
そう。一言でいうなら――。
「……え? ちょ、ちょっと待って」
私はモニター機能をオンにし、恐る恐る呟いた。
「……これ、本当に私の声?」
『……これ、本当に私の声?』
喋るのとほぼ同時に、耳元へ甘く爽やかな青年の声が返ってくる。
「……いやいやいや! なんでこんな超絶イケボになってるのよ!?」
『……いやいやいや! なんでこんな超絶イケボになってるのよ!?』
私は頭を抱えた。
渋すぎるマフィアのボスから脱出したと思ったら、今度は女性向け恋愛シミュレーションゲームのメイン攻略対象キャラクターか、あるいは朝の爽やか情報番組の若手イケメンアナウンサーみたいな、キラキラした美声が生まれてしまったではないか!
(……ちがーう!! 私の元の声は、こんなに爽やかでモテそうなイケボじゃなかったわよ!!)
元の声くらい、自分が一番よく知っている。
男だった頃の相沢伊織の声は、もっとこう、平日の疲れが滲み出たような、特徴のない平坦な声だったはずだ。こんな、マイク越しに一言「おはよう」と言っただけで黄色い悲鳴が上がりそうな王子様ボイスでは断じてない。
きっと、元の素材である「吸血鬼化した美少女の声」の作りがあまりにも良くて澄み切っているせいで、それをそのまま素直に男性方向へ変換すると、元の声の良さまで引き継いだ「美声の男」が出力されてしまうのだろう。
しかも、だ。
モニター機能をつけたまま、自分の喋り方と返ってくる声の組み合わせに気づいてしまった。
いつもの調子で、もう一度文句を吹き込む。
「……もう! なんでただ普通の私の声に戻すだけで、こんなに苦労しなきゃいけないのよ! いい加減にしてよね!」
録音を止め、再生する。
ヘッドホンから、爽やかで甘い王子様ボイスが、完璧な抑揚で返ってきた。
『……もう! なんでただ普通の私の声に戻すだけで、こんなに苦労しなきゃいけないのよ! いい加減にしてよね!』
「…………」
一秒。二秒。三秒。
私は両手で顔を覆い、声にならない悲鳴を上げた。
「……な、なによこのキャラの濃すぎる男はーーーっ!!」
声はどこに出しても恥ずかしくない爽やかイケメン。
なのに一人称は『私』、語尾は『〜のよ!』『〜してよね!』。完全に気の強いお嬢様口調だ。
その二つが合体した結果、スピーカーから生み出されたのは、少女漫画やアニメにたまに出てくる「容姿端麗で美声なのに、なぜかオネエ言葉かお嬢様言葉で喋る謎の上級生キャラ」そのものだったのである!
(……いやいやいや! なんなのよ、この新ジャンルすぎる組み合わせは!?)
(私の声と私の口調が、完全に別々の方向へ勝手に進化して大事故を起こしてるじゃない!!)
いっそ昔の「俺」や「〜だろ」に戻せばいいのでは、とも思った。
けれど一昨日、ギルドチャットで『私』と誤爆したとき、「大人のイメチェン」と宣言したばかりだ。
何より、この数日間ですっかり脳と舌に馴染んでしまったこの女性らしい話し方を、ゲームの最中だけ一語一句「男言葉」に脳内翻訳しながら喋るなんて、ボスのギミック処理をしながらやるにはあまりにも脳のリソースを食いすぎる。間違いなく戦闘中にボロが出てしまうだろう。
(……もう! 一昨日「イメチェンした」って宣言しちゃったんだし、口調はこのままでいいわよね!)
私は半ばヤケクソで腹を括った。
ただ、声まで王子様のままでは、さすがにギルメンにも不審がられる。
ここからは、SEとして培った経験の見せ所だった。
私はイコライザーの画面を開き、声の「キラキラした高音域の艶」を意図的に少し削り、中低音域にわずかなざらつきと落ち着きを持たせるように、ミリ単位でスライダーを調整していった。
思い出すのは、数日前までの自分の声。仕事帰りに缶コーヒーを飲み、ヘッドセット越しに「よし、じゃあ行くぞ」と仲間へ声をかけたときの、少し低くてくつろいだ響き。それをパズルのように、少しずつ組み直していく。
十数分後。
納得のいく設定ができたところで、私はマイクに向かった。
「……あー、あー。イオリです。みんな、聞こえてる?」
再生音に、じっと耳を澄ませた。
『……あー、あー。イオリです。みんな、聞こえてる?』
「……おおっ!」
思わず感嘆の声が漏れる。
マフィアのボスでも王子様でもない。私が二十八年間付き合ってきた「相沢伊織」の声に限りなく近い、落ち着いた男声だった。
もちろん、デジタル変換を通している分、以前の生声に比べるとノイズがなくて少しだけ声が通りやすく、心なしか「元の自分より二割増しでいい声(当社比)」に聞こえるような気もしなくはない。けれど、この程度の差であれば、「マイクの設定を変えた」「病み上がりで少し声の響きが違う」という言い訳で、長年のギルメンたちの耳も余裕で騙し通せるレベルだ。
(……よし! これならいける、完璧に『私』の声だわ!)
私はモニターの前で、力強くガッツポーズを握りしめた。
*
「……ふふん、どうよ! 私の技術力にかかれば、失われた男の声を取り戻すことくらい朝飯前なんだから!」
私はすぐに通話アプリを立ち上げようとした。
――が、そのアイコンをクリックする寸前で、私の頭の中の「冷静なシステムエンジニアの人格」が、ピシャリと私の手を止めさせた。
(……ちょっと待て、相沢伊織。テスト環境で動いたからといって、いきなり本番環境へ繋ぐやつがあるか)
そうだ。システム開発において、一番恐ろしいのは「機能が動くこと」を確認した直後の油断による設定ミスだ。
今回の場合、どんなにボイチェンソフト側で完璧な男声を作れていたとしても、肝心の通話アプリ側のマイク設定で「ヘッドセットの生マイク」が選ばれていたらどうなるか。あるいは、PCがスリープから復帰した拍子にボイチェンソフトが落ちて、自動的に生マイクへ切り替わってしまったらどうなるか。
それに。
マイクを常時オンのままレイドに突入し、咄嗟に驚いたら――。
『きゃあああっ!? ちょっと、今の判定おかしくない!?』
――なんて声を、変換前のまま送信してしまったら一発で終わりだ。
(……こ、怖すぎるわ! どんなホラーゲームの即死トラップより怖いわよ、それ!)
私は背筋を正し、音声経路と送信条件を分けて確認することにした。
まず、通話アプリの入力をボイチェンの『仮想マイク』へ固定する。生マイクをアプリが自動選択しないよう既定の入力先も確認し、変換ソフトを止めた状態では通話側が無音になることを試す。これなら地声の漏出事故を大きく減らせる。
さらに、通話アプリの音声入力方式を、声に反応して自動でマイクが開くモードから、マウスのサイドボタンを押しっぱなしにしている間だけ音声が送信される『プッシュ・トゥ・トーク(PTT)』へと変更した。
以前から雑音対策で使っていた機能だが、今度は正真正銘の命綱だ。
「……よし。設定はこれでよし、と。あとは結合テストね」
私は通話アプリ内のローカル録音テスト機能を起動し、まずはマウスのサイドボタンを押さないまま、ヘッドセットのマイクに向かってわざと大きな声で喋ってみた。
「あー、あー! 私は美少女吸血鬼の相沢伊織よ! 聞こえてるかしらー!?」
入力インジケーターは微動だにしない。送信は無音だ。
続いて、右手の親指でサイドボタンを押し、そのまま喋る。
「……こっちは通話テスト。私はイオリ。聞こえてる?」
インジケーターは緑色に光り、親指を離すと消えた。さらに「ハクション!」とくしゃみを真似ても、送信は始まらない。
録音を再生すると、ボタンを押していた間の男声だけが残っていた。
おまけに、サイドボタンを押す指先の力加減も問題ない。
数日前なら、戦闘中に興奮して親指に力を込めた瞬間、プラスチックのマウス本体をバキッと握り潰していたかもしれない。けれど、今の私は自分の指先の出力を完全に把握できている。
「……よしっ! 男声ボイスチェンジャーおよび誤爆防止システム、これにて構築完了よ!」
ヘッドセットを首にかけ、満足げに息を吐いた。
窓の外を見れば、傾き始めた夕日がカーテン越しにオレンジ色の光を落としている。帰宅してから夢中で設定をいじっていたせいで、いつの間にか数時間が経過していたらしい。
スマートフォンを手に取り、ギルドのグループチャットを開く。
一昨日は「喉の調子がおかしい」とVCを断った。そろそろ退院の報告を兼ねて、短時間なら話せそうだと伝えてもいいだろう。
私は文面を少し考えてから送信した。
『みんな、今日の昼に無事退院して、マンションに戻れたわ。喉も少しずつ話せそうになったから、今夜時間があればレイド前に五分だけVCで挨拶してもいいかしら?』
相変わらずの女性口調だが、もう今さら取り繕わない。
ほどなく、三人から返事が来た。
『おお、もう退院できたのか! よかったなイオリ!』
『今夜なら二十二時前にみんな集まるから、その時に少し話そうぜ。ただ、本当に無理はするなよ』
まずはリーダーからの、いつもどおりの返事。
続いてタンクとヒーラーからも届く。
『イオリお嬢様、ご退院ならびに喉のご快復、誠におめでとうございますww』
『ほんとにおめでとう! お嬢様の元気なお声が聞けるのを楽しみにしてるね! でも今日は本当に短い挨拶だけにしようね』
「…………」
私は画面を見つめ、目を細めた。
(……あいつら、一昨日からずっと『イオリお嬢様』って呼ぶ気なのね……!)
まあ、いい。どれだけお嬢様扱いされようと、今から数時間後、彼らの耳に届くのは「紛れもない成人男性のイオリの声」なのだ。ギャップで困惑するのはあっちの方である。
私はフフンと鼻を鳴らし、夕食の準備に立った。
*
時刻は二十一時五十分。
シャワーを浴びて支給された部屋着に着替えた私は、再びゲーミングチェアへ座った。
照明を少し落とし、ヘッドセットを装着する。
サブモニターに表示されている通話アプリの画面を見ると、いつもの固定パーティ用のボイスチャンネルには、すでにレイドリーダー、タンク、そして女性メンバーであるヒーラーの三人のアイコンが並んで入室していた。
私は胸に手を当て、深呼吸した。
(……大丈夫。ローカルテストは済ませたわ)
(……変換ソフトも仮想マイクも正常。PTTも問題なし)
どれだけ設定を完璧に固めても、いざ生身の人間――しかも、私の元の声を何百時間も聞いてきた仲間たちの前にお披露目するとなると、システムの本番リリース直前のような緊張感で心臓がトクトクと速く鳴る。
(……よし、行くわよ!)
私はマウスを握り直し、VCの接続ボタンを押した。
入室音がピロリン、と鳴る。
すると、そのコンマ数秒後には、私がここ数日間ずっと聞きたくてたまらなかった「聞き慣れた仲間たちの生の声」が、一斉に鼓膜へと飛び込んできた。
『おっ、イオリ来たぞ!』
『おうイオリ! お前マジで大丈夫なのかよ、もう退院したってほんとか!?』
『イオリ、おかえりー! よかったぁ、本当に戻ってきてくれた!』
少し低めで落ち着いたリーダーの声。騒がしくて元気いっぱいのタンクの男声。そして、明るく華やかなヒーラーの女性の声。
一昨日交わしたテキストの文字だけでも嬉しかったけれど、こうして肉声で「おかえり」と迎えられると、また違う。胸の奥がじわりと熱くなった。
私は笑顔でマウスのサイドボタンを押した。
設定を信じて、控えめに第一声を発する。
「……あー、あー。みんな、ただいま。私の声、ちゃんと聞こえてる?」
親指を離し、反応を待つ。
向こう側に、一瞬の間が空いた。
(……っ、どう!? 機械っぽく聞こえてない!? バレてない!?)
心臓が跳ね上がった、その直後。
『おお、聞こえる聞こえる! なんだ、普通に声出てるじゃねーか!』
『ほんとだ、よかったぁ! 喉痛めたって言ってたから、もっとガラガラ声になってるかと思ってたよ!』
タンクとヒーラーから、疑う様子のない返事が来た。
私は声を出さずに拳を握りしめる。……通った! 男性のイオリとして認識されている!
ただ、レイドリーダーだけは少しだけ引っかかったようだった。
『……しかし、なんだか前より少し声の感じが違わないか?』
ドキリ、と背筋が伸びる。
慌ててボタンを押し、平静を装う。
「……えっ、そう? なんか変に聞こえるかしら?」
『いや、変ってほどじゃない。前よりノイズがなくて、声がクリアになった気がするんだ。喉はもう痛くないのか?』
「あー……ええ、まあね。まだ本調子ってわけじゃないから大声は出せないけど、こうやって普通に喋る分にはもう全然平気よ」
『そうか、なら安心したよ』
リーダーが納得したところへ、タンクが口を挟んだ。
すると、そこへタンクの男が、ニヤニヤとした気配を隠そうともせずに口を挟んできた。
『……いや、でもさ。俺もちょっと思ったんだけどよ』
「……なによ、まだ何かあるの?」
『お前、前より声よくなってねーか? 前はもっと社畜の疲れが滲む声だったのに、何か妙に艶があるというか、ちょっとイケボになってない?w』
「…………っ!」
さすがは長年の付き合いというか、私が調整の最後に「元の自分より二割増しでいい声になっている気がする」と妥協したポイントを、こいつは一発で嗅ぎつけてきやがった!
しかし、私はすでにこのツッコミに対する完璧な回答を用意してある。私はサイドボタンを押し、わざと呆れたような溜息を混ぜて言い返した。
「……気のせいでしょ。久しぶりにヘッドセット繋いだから、ノイズキャンセリングとかイコライザーを見直しただけよ」
『あー、なるほど! 確かにPCのファン音も聞こえなくなってるし、マイクの設定か!』
『うんうん、すごくクリアでいい声に聞こえるよ、イオリ!』
ヒーラーも頷き、タンクもあっさり納得した。
(……よしっ!! 乗り切ったわ!!)
私は無音のまま勝利のガッツポーズを決める。
誰一人として、画面の向こうでヘッドセットをつけている私が、実は銀髪紅眼の美少女吸血鬼に変身しており、高度なAIボイスチェンジャーを介して男の声を錬成しているなどとは夢にも思っていない。
こうして、ネット上の「男性イオリ」は無事に守られた。
関門を抜けたあとは、いつもの時間だった。
私はサイドボタンを操作する指先にもすっかり慣れ、ここ数日間のレイドの進捗状況や、私がいない間に起きた珍プレーの数々について、三人と言葉を交わした。
『イオリがいない間、マジで大変だったんだぜ? 昨夜なんかフェーズ2の散開ギミックで俺と野良がぶつかって、三回もワイプしたんだ』
「……ちょっと、あんたたちまだあそこで事故ってるの? あそこはボスの腕が光った瞬間に、タンクが北側へ誘導するのが鉄則だって、あれほど言ったじゃない」
『病み上がりなのに第一声がダメ出しかよ! 相変わらず手厳しいな!』
『そうだよー。タンク君が変な位置にボスを引っ張るから、私のヒールが追いつかないんだから!』
『うっせー! 俺だって必死にバフ回して耐えてんだよ!』
聞き慣れた、やかましくて温かいやり取り。
それを聞いているうちに、私は自分がボイスチェンジャーを使っていることすら半分忘れて、心の底から楽しそうに声を上げて笑っていた。
「……ふふっ、あんたたち、私がいない間もちっとも成長してないわね。戻ったらみっちり叩き直してあげないと」
もちろん、私の口から出ている地声は美少女の笑い声だが、仮想マイクを通って彼らに届いているのは、少しイケボになった男性の爽やかな笑い声だ。
(……ああ、やっぱり、こうして馬鹿なことを言い合ってる時間は楽しいわね)
病院や施設で抱えていた不安は、今は少し遠く感じられた。
タンクが「でも俺の火力は上がってるから!」と自慢し始め、私はいつもの調子で言い返した。
「――だからあんたは、自分の火力を出すことばっかり考えてないで、ちゃんと私の指示を聞いてタンクの仕事に集中しなさいよ!」
サイドボタンから親指を離す。
すると、賑やかだったVCが不意に静まり返った。
*
『…………』
「……え? なによ、急に黙り込んで。私、なにか間違ったこと言ったかしら?」
私が首を傾げて再び問いかけると、通話の向こう側で、タンクの男が堪えきれないといった様子で「ぶっはははははっ!!」と大爆笑を始めた。
こちらは真剣なのに、二人とも笑いが止まらない。
「な、なによ二人して! 人が真面目にアドバイスしてるのに、なんでそんなに笑うのよ!」
『いや、だってよ! 一昨日のチャットでも笑ったけど、男の声で「私の指示を聞きなさいよ!」って言われると破壊力がすげえんだよ!!』
『うんうん! しかもさっき言った通り、イオリの声が前よりちょっと爽やかなイケボになってるせいで、耳に入ってくる情報量がすごいの! なんか、すっごく上品で美声の貴族のお兄さんが、優雅に紅茶を飲みながらお説教してるみたいに聞こえるんだもん!』
「…………っ!!」
私はハッとして口元を押さえる。
さっきボイチェンの調整をしていたときに私自身が一人で頭を抱えていた『爽やかイケボ×気の強いお嬢様口調』という、あの新ジャンルすぎる特濃キャラクターのコンボが、ついに本番環境で炸裂してしまったのである!
男だった頃なら、「てめー、俺の指示聞けや!」と唸っていた場面だ。
それが今では、爽やかな男性声で「私の指示を聞きなさいよ!」。笑われても仕方がない。
タンクは涙声のまま悪ノリを始めた。
『ひーっ、腹いてぇww いやー、恐れ入りましたイオリお嬢様! 本日はお声の方もたいそう麗しゅうございますなぁ! 俺ら庶民のプレイヤースキルが至らず、お嬢様のお手を煩わせてしまい誠に申し訳ございませんww』
「……っ、ちょっとあんた!! その『お嬢様』って呼び方、今すぐやめなさいよ!!」
『おおっと皆さん、お嬢様がお怒りあそばされておりますぞー!ww』
「うるさいわね!! 一昨日のチャットでも言ったでしょ、これは大人のイメチェンなのよ! 私がどう喋ろうと勝手じゃない!!」
怒れば怒るほどお嬢様口調が強くなり、それがイケボに変換されて彼らの耳へ届く。逃れようのない悪循環だった。
ヒーラーも笑いを堪えながら口を開く。
『でも、私はすごくいいと思うよ? 前みたいに怖い声で怒られるより、今のイオリの喋り方の方が、なんか華やかで聞いてて楽しいし、すごく似合ってるもん!』
「……っ、男の声でお嬢様言葉が似合ってるって、それ全然褒めてないからね!?」
『唯一無二のキャラができたじゃん! これから固定パーティの姫ポジは、ヒーラーじゃなくてイオリお嬢様で決まりだな!』
「誰が姫ポジよ! 私はメインアタッカー兼コーラー(指示役)だっての!」
ギャーギャーと騒ぐ私たちを、ここまで黙って聞いていたレイドリーダーが、ようやく「ふっ」と小さく息を漏らして仲裁に入った。
『おいおい、お前ら本当にそれくらいにしておけって。イオリは今日退院してきたばっかりなんだぞ、あんまりからかって疲れさせるな』
「……っ、リーダー! ほんとにあんただけが頼りよ、ありがとう!」
やっぱり常識人はリーダーだけだ、と感謝した直後。
リーダーは、真面目な声でさらりと付け足した。
『いいってことよ。あまり気にするな、イオリお嬢様』
「……あんたまで呼ぶんかい!?」
私のツッコミに、VCは今日一番の爆笑に包まれた。
ひとしきり笑い合って時計を見ると、約束していた五分を少し過ぎて、二十二時のレイド開始時刻が迫っていた。
リーダーが咳払いする。
『さて、そろそろ時間だな。イオリ、本当に元気そうな声が聞けて俺たちも安心したよ。ただ、今日は退院当日なんだから、このままレイドに参加するのは無しだ。本格的な攻略への復帰は、生活がもう少し落ち着いて、体調が完全に万全になってからにしよう』
「……えー、せっかくボイチェ……じゃなくて、マイクの設定もバッチリ直したし、今日からでも全然動けるんだけどなぁ」
私が唇を尖らせると、二人も釘を刺してきた。
『駄目だよー! また職場で倒れたりしたら大変だもん!』
『そうだぞお嬢様、今夜は大人しくおベッドでお休みあそばせ! 俺らの方は、お嬢様がいつ戻ってきてもいいように、フェーズ2の練習をきっちり仕上げとくからよ!』
これ以上無理を言うわけにもいかない。
明日は服の問題もあるし、会社からの連絡も確認しなければならない。
「……分かったわよ。じゃあ、今夜は素直に引っ込んでてあげる。……ただ、あんたたち、私が本格復帰する前に勝手にボスをクリアしたりしたら、絶対に許さないんだからね?」
『はは、安心しろって! お前の指示がなきゃ最終フェーズまで抜けられねーよ!』
『うん。イオリが戻るのを待ってるから、ゆっくり休んでね! おやすみ!』
『おう、また連絡しろよー!』
「……うん。みんな、本当にありがとう。おやすみなさい」
私は親指を離し、VCの切断ボタンを押した。
接続が切れ、ヘッドホンの中に静けさが戻る。
私はヘッドセットを外し、椅子の背もたれに身体を預けた。
「……ふぅぅぅぅっ」
口元には自然と笑みが浮かんでいた。
(……よかった。本当に、今まで通り普通に話せたわね)
女性になったことは誰にもバレなかった。
声が少し良くなったことには突っ込まれたけれど、怪しまれるどころか好評だったし、何より、こうして自分の部屋で、自分のPCを前にして、いつもの仲間たちと声を掛け合ってバカみたいに笑い合うことができた。
つながった回線の向こうに、いつもの仲間がいた。それで十分だった。
私はモニターの片隅に表示された変換ソフトを見て、苦笑する。
「……まったく。男の声を取り戻すだけで、こんなに大騒ぎになるなんてね」
私はもう一度ヘッドセットを装着し、マイクを口元へ寄せてモニター機能をオンにした。
「……さて、と。明日からは服の買い出しとか、現実の方のクエストも頑張りましょうか」
イヤーパッドから返ってきたのは、少しだけイケボな青年の声。口調はやっぱり「私」のままだ。
(……まあ、いいわ。とりあえず男の声には戻れたんだし、ミッションは百点満点でクリアよ!)
そう思ったところで。
スマートフォンがピロンと鳴った。
ギルドのグループチャットに、タンクから追伸が届いていた。
『追伸:イオリお嬢様、次回のレイドでの華麗なるご復帰を、執事一同心よりお待ち申し上げておりますww』
すぐ下には、リーダーとヒーラーの親指を立てたスタンプ。
「…………」
数秒間、無言で画面を見つめる。
次の瞬間、静かな夜のワンルームに、ボイチェンを通さない正真正銘の美少女ボイスが響き渡った。
「――だから、誰がお嬢様よーーーーっ!!」
私はスマートフォンをベッドの上へ放り投げたい衝動を必死に堪え、両手で真っ赤になった自分の頬を押さえて、デスクの上に突っ伏した。
(……はぁぁ。男の声は取り戻せたのに、なんでゲームの中の私は『お嬢様』で固定されちゃったのよ!!)
こうして、新米吸血鬼のVC復帰作戦は成功した。
もっとも、どんなに高性能な男声ボイスチェンジャーをもってしても、一度定着してしまった『イオリお嬢様』という不名誉な称号までは、綺麗に変換して消し去ることはできなかったらしい。
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再生リストから第1話から通して聞けるので、作業用・睡眠用にもどうぞ!
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