元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
地下の隔離室に、空調の低い稼働音だけが響いていた。
手首と足首、そして胴体を硬い革ベルトでベッドに縛り付けられたまま、私は瞬きをすることすら忘れて、目の前に立つスーツ姿の男を見つめていた。
数秒か、あるいは数分か。
思考が完全にフリーズしていた私の口から、ようやく掠れた声が漏れ出た。
「……きゅう、けつき?」
「はい。現在確認されている相沢さんの身体的な特徴は、私たちがそう呼称している存在の条件と合致しています」
「……ヴァンパイアの、ですか?」
「ええ。名称についてはご存じのようですね」
「いや、知ってるも何も、映画とかゲームの中に出てくるフィクションの生き物でしょ!?」
静まり返った個室に、私の甲高い叫び声が反響した。
喉がひりつく。まだ自分のものとして馴染んでいない、澄んだ少女の声だ。こんな緊迫した場面だというのに、まるで声優が演じるアニメキャラクターのような声しか出ないことが、余計に現実感を狂わせる。
だが、八咫烏から来たというその男は、私が声を荒らげても眉一つ動かさなかった。まるで窓口で書類の不備を説明する市役所職員のように、極めて事務的で穏やかな態度を崩さない。
「フィクションだと思われるのも無理はありません。表向きの社会では、そのように認識されるよう処理されていますから」
「そんなの、実在するわけないじゃないですか! どこかのドッキリですか!? それとも、新手のカルト宗教か何かの勧誘……!?」
「相沢さん、落ち着いて聞いてください」
男の静かな声が、パニックになりかけていた私の言葉を遮った。
そこには、有無を言わせぬ奇妙な説得力があった。狂人が妄想を語っているのとは明らかに違う。彼にとっては「太陽が東から昇る」のと同じくらい、それが当たり前の事実なのだという確信に満ちていた。
「相沢さんは職場で突然姿が変わり、わずかな力で金属製の家具や医療器具を破損させ、針を刺した傷も瞬く間に塞がった。いずれも通常の人体では説明のつかない現象です」
男が淡々と事実を並べ立てるたび、私の胸の奥が冷たくなっていく。
「これらは現代の医学や科学の枠組みでは説明がつきません。ですが、私たちが管理・記録している『人外』――とりわけ吸血鬼と呼ばれる種族の初期症状としては、決して珍しいものではないのです」
反論しようとして口を開きかけ、そのまま閉じた。
拘束された手首に視線を落とした。さっきまで男性だったはずの身体は、今や自分でも見慣れないものに変わっている。
(……吸血鬼。そんな馬鹿な話、あるわけない)
頭の中の理性が、必死にそう叫んでいる。
二十八年間、私はごく普通の現実世界で生きてきた。幽霊だって見たことがないし、超能力なんて信じたこともない。システムのバグなら毎日のように見てきたけれど、人間の肉体がバグを起こして美少女の怪物に書き換わるなんて、どんなプログラムミスでも起こり得ない。
(……でも、じゃあ、この身体は何なのよ)
胸元のふくらみも、顔の横に垂れ下がる銀色の髪も、そして今この瞬間も革ベルトをいつでも引き千切れると確信している異常な身体感覚も。すべてが紛れもない現実としてここにある。
理解なんて到底できない。納得もしたくない。
けれど、目の前の男が語る荒唐無稽な話を否定できる材料を、今の私は何一つ持っていなかった。
*
重苦しい沈黙のあと、私は乾いた唇を舐めて、恐る恐る口を開いた。
「……あの。仮に、百歩譲ってその話が本当だとして……他にもいるんですか?」
「吸血鬼、という意味でしょうか」
「それもそうですけど……その、こういう、普通じゃない人たちっていうか」
男は小さく頷いた。
「はい、存在します。一般のニュースや教科書には決して載りませんが、この世界には通常の物理法則を捻じ曲げる力――私たちが『因果律改変能力』と呼ぶ異能を持つ人間や、古来より伝わる『怪異』、そして相沢さんのように人間とは異なる生態を持つ『人外』が確かに実在しています」
「…………」
「もちろん、無秩序に放置されているわけではありません。各国にはそれらを専門に扱う機関が存在し、日本国内においては、私たち『八咫烏』が政府直属の行政機関として、保護や管理、秩序の維持を担当しています」
男の説明は、どこか会社のコンプライアンス研修を聞いているかのように整然としていた。
私たちの生きる表の社会のすぐ裏側に、そんなファンタジーじみた世界が並行して存在していたなんて。まるで、自分だけが知らなかった世界の裏設定をいきなり開示された気分だ。
「……つまり、吸血鬼とかお化けとか超能力者が、この令和の日本に普通にうろついてるってことですか?」
「映画や創作物の描写がすべて正しいわけではありませんし、誰も彼もが街中で暴れているわけではありません。多くは一般社会に溶け込み、普通の市民として暮らしていますよ」
「……マジで言ってます?」
「マジです」
「いや、そこはもうちょっと公務員らしく答えなさいよ!」
思わずツッコミが口をついて出た。
叫んだ直後、ハッとして口をつぐむ。こんな状況で何を言っているんだ、私は。
しかし、目の前の男は少しだけ目元を和らげ、ふっと息を漏らすように微笑んだ。
「失礼しました。少しは緊張が解けたかと思いまして」
「……別に、解けてなんかいませんけど」
ぶっきらぼうに言い返しながらも、ガチガチに強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたのを自覚した。
少なくとも、この男は私を「得体の知れない化け物」として怯えているわけではない。こうして普通に会話をし、冗談めいた相槌まで返してくれる。病院に運び込まれてから初めて、私は相手の顔色を窺わずに口を開けた気がした。
男は再び表情を戻し、説明を続けた。
「相沢さんのように、元々はごく普通の人間だった方が、ある日突然人外としての性質を発現させるケースは、私たちの業界では『変態』と呼ばれています」
「……変態?」
「はい。人間から別の存在へと形質が変化する、変態現象です」
「いや、言いたいことは分かりますけど、もうちょっと別の呼び方ないんですか!? すごく誤解を招く響きなんですけど!」
「生物学で、幼虫が成虫になる過程を変態と呼ぶのと同じ意味合いですね」
「私、別に変態なんかじゃありませんからね!? いたって健全な小市民ですからね!?」
「ええ、犯罪的な意味での変態ではないことは重々承知しています」
大真面目な顔で頷かれると、なんだかこちらが恥ずかしくなってくる。
私は大きくため息をつき、ベッドのシーツに後頭部を預けた。
「……とにかく、そういう現象が過去にもあったってことですか」
「はい。頻繁に起きることではありませんが、前例は複数確認されています。ある日突然、身体の構造が書き換わり、これまでの生活が一変してしまった方々が、あなた以外にもいるということです」
その言葉を聞いて、私は思わず顔を上げた。
「……私だけじゃ、ないんですね」
「ええ。あなたは決して、世界でたった一人の異常者などではありません」
さっきまで、自分だけがこんな理不尽な目に遭ったのだと思っていた。でも前例があるのなら、今の身体で生きている人だっているのだろう。
それを知れただけで、暗闇に小さな灯りがともったような気がした。
「……じゃあ、何で私がそんなことになったんですか? 誰かに噛まれた覚えなんてないし、怪しい薬を飲んだこともありませんよ?」
当然の疑問をぶつけると、男はわずかに眉をひそめ、慎重に言葉を選んだ。
「変態現象を引き起こす要因は多岐にわたります。遠い祖先の血統が隔世遺伝のように突然変異を起こすこともあれば、土地の因果や未知の怪異への接触が引き金になることもあり、現代でもすべてが解明されているわけではありません」
「……つまり?」
「現時点では、相沢さんがなぜ吸血鬼へ変態したのか、正確な原因は特定できていません。申し訳ありませんが、無責任な推測でお答えすることはできないのです」
「……そうですか」
期待していた答えではなかったが、不思議と腹は立たなかった。
この男は、分からないことを「分からない」と誠実に答えているだけだ。何か重大な秘密を隠して私を騙そうとしているような空気は、少なくとも今の彼からは感じられなかった。
*
私は再び視線を天井へ向けた。吸血鬼が実在し、人間が突然別の存在に変わることにも前例がある。なのに、私が変わった理由は分からない。
そういえば、この人が病室に来たとき、私は元の身体に戻れるのかと一度尋ねていた。あのときの返事は「もう少し詳しく調べる必要があります」だった。
でも、変態現象に前例があるというのなら、元に戻れた人だっているんじゃないだろうか。どうしても諦めきれず、私はもう一度口を開いた。
「……あの、さっきも聞いたんですけど」
「はい。元の身体に戻れるか、というお話ですね」
「そうです。過去に元に戻れた人もいるんじゃないですか? 私にも、可能性はあるんでしょうか?」
口に出した途端、声がわずかに震えた。男はすぐには答えず、真剣な眼差しで私を見つめている。その沈黙が怖くて、私は言葉を継ぐように早口でまくし立てた。
「治療法とか、元に戻す方法とか、何かあるんじゃないですか? 手術でも薬でも、その、お祓いみたいなやつでもいいですけど……! 今日の昼まで、私は普通の二十八歳の男だったんですよ!? それが急にこんな、見たこともない女の子の身体になって、しかも吸血鬼だなんて言われても……困るんです。こんなの、私の身体じゃないんです……!」
最初は冷静に聞くつもりだったのに、言葉にするうちに感情が溢れ出して、語尾が涙声のように掠れた。
これはゲームのキャラメイクじゃない。気まぐれに女性アバターを作って遊んでいるわけじゃないのだ。
二十八年間ずっと付き合ってきた、少し寝癖のつきやすい黒髪も、髭剃りでたまに傷を作る顎も、スーツが馴染んだ中肉中背の体躯も、全部どこにもない。自分のアイデンティティそのものが根こそぎ奪われてしまったような喪失感が、改めて私を襲っていた。
八咫烏の男は、私の訴えを遮ることなく、最後まで静かに聞いていた。
そして、ひとつ深く息を吐くと、決して目を逸らさずに口を開いた。
「相沢さん。あなたに嘘や気休めを言うつもりはありませんので、現在分かっている事実だけを正確にお伝えします」
「……はい」
「変態現象によって根本的に書き換わってしまった肉体を、現代の医療技術で元の人間に戻すことは不可能です」
胸の奥が、ズンと重く沈み込んだ。
「また、超常的な能力や特殊な呪物を用いた復元についても、過去に成功したという確実な事例は極めて少なく、相沢さんのケースに適用できるかどうかは、現時点ではまったく判断がつきません」
「……じゃあ、私は……」
「このままの身体で生きていくことになる可能性は、否定できません。むしろ、その可能性の方が高いと考えていただく必要があります」
明確な、しかし残酷な宣告だった。
絶対に戻れないと断言されたわけではない。けれど、「期待するな」と言われているのと同じだ。
私は言葉を失い、ただ自分の胸元を見つめた。長い銀色の髪が頬を撫で、薄い病衣の下には、今朝までなかった身体の輪郭がある。
もう、あの不格好で馴染み深かった男の身体には、二度と戻れないかもしれない。
これから先、何年も、何十年も、この見知らぬ美少女の皮を被ったまま、吸血鬼として生きていかなければならないのか。
(……このまま、ずっと女として生きていくの?)
(しかも、人間ですらない、吸血鬼として……?)
冗談じゃない。そんなの、あんまりだ。
どうして私がこんな目に遭わなければいけないのか。ただ真面目に働いて、たまにゲームで息抜きをして、平穏に暮らしていただけなのに。
目の前が真っ暗になるような絶望感に、私は奥歯を強く噛み締めた。
そんな私を見て、男は一歩だけベッドに歩み寄り、静かな声で語りかけてきた。
「相沢さん。外見や肉体の構造が変わってしまったことは、確かに受け入れがたい大きな変化です。その苦しみを私が完全に理解することはできないでしょう」
私は顔を上げず、黙ってその声を聞いていた。
「ですが、これだけは忘れないでください。あなたの肉体がどのように変化しようとも、あなたがこれまで相沢伊織として生きてきた二十八年間の人生そのものが、消えてなくなったわけではありません」
ピクリ、と私の肩が揺れた。
「あなたが学校で学び、会社で働き、ご家族やご友人と過ごしてきた時間。趣味に打ち込み、日々を積み重ねてきた記憶と人格。それらはすべて、今ここにいるあなた自身のものです。身体が変わったからといって、あなたという人間が別の何かにすり替わったわけではないのですよ」
そんな言葉一つで元の身体が戻ってくるわけじゃないし、理不尽な現実が解決するわけでもない。
それでも、目の前の男が「あなたは相沢伊織のままだ」と認めてくれたことは、どんな気休めよりも胸に残った。
「……そう、ですよね。中身は、私のままですもんね」
「ええ。そして私たち八咫烏は、今のあなたがこれまでと同じように、一人の人間として社会の中で暮らしていけるよう、全力でサポートいたします」
私はゆっくりと息を吐き出し、小さく頷いた。
まだ前向きになんてなれない。現実を受け入れるには時間がかかるだろう。
けれど、少なくとも「今すぐ人生を諦めなくてもいいのかもしれない」と、そう思えるだけの足場は、彼のおかげで取り戻すことができた。
*
少しだけ呼吸が落ち着いてくると、それまで恐怖と絶望で麻痺していた身体の感覚が、現実的な不快感として意識に上ってきた。
私はモゾモゾと肩を揺らし、視線を自分の手首へと向けた。
「……あの、ところで」
「はい、何でしょうか」
「その『一人の人間として扱う』っていうお話なんですけど……だったら、この拘束具、そろそろ外してもらえませんか?」
手首と足首、そして胸と腰をガッチリと固定している分厚い革ベルト。
数時間もの間、同じ姿勢で硬いベッドに縛り付けられているせいで、精神的な圧迫感が限界に達しつつあった。
男は私の全身を縛るベルトに視線を走らせ、少し考え込むように顎に手を当てた。
「……確かに、かなり厳重に固定されていますね」
「そうなんですよ! もうずっとこの体勢で、身動き一つ取れないんですから! 力加減が分からなくて事故を起こしたことは認めますけど、誰かに噛みついたり暴れたりするつもりなんて、これっぽっちもありませんってば!」
気づけば、私は少しムキになってまくし立てていた。
男は私の剣幕に気圧されることもなく、静かに頷く。
「ええ、病院側からの報告と、こうして実際にお話しした感触から、相沢さんに害意や攻撃性がないことは十分に理解しています」
「じゃあ、今すぐ外してくださいよ!」
「ですが、その前に一つだけ、相沢さんご自身に確認させていただきたいことがあります」
男の目が、すっと細められた。
穏やかだった空気がほんの少しだけ引き締まり、値踏みするような、それでいて真っ直ぐな視線が私を射抜く。
「相沢さん。現在あなたを固定しているその拘束具について、ご自身ではどう感じていらっしゃいますか?」
「……どうって、どういう意味ですか?」
「もしあなたが本気で身体を動かそうと思えば、そのベルトはどうなると思いますか?」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
とっさに「こんな頑丈なもの、動けるわけないじゃないですか」と誤魔化そうかと思った。その方が、無害な被害者として安全に見てもらえる気がしたからだ。
けれど、目の前の男は、先ほど私に対して誠実に事実を語り、人間として向き合ってくれた。ここで下手な嘘をつけば、せっかく芽生えた信頼関係を自分で壊してしまうことになる。
私は少しだけ迷った末に、観念して唇を開いた。
「……たぶん、壊せると思います」
「ほう。それは、どの程度に?」
「実際に試したわけじゃないから分かりませんけど……なんか、感覚として分かるんです。手首をこの角度に捻って、ちょっと力を込めれば、革も金具も紙切れみたいに引き千切れるだろうなって」
自分の口で説明しながら、改めてその異常さに背筋が寒くなる。
男は私の答えを聞いても驚いた様子は見せず、ただ深く納得したように頷いた。そして、さらに問いを重ねてくる。
「では、なぜそれを実行しなかったのですか? これほど長い時間、窮屈で不安な思いをされていたはずです。その気になれば、私たちが到着する前に抜け出すこともできたでしょうに」
なんで、そんな当たり前のことを聞くのだろう。
私はきょとんとして、それから少し気まずそうに視線を逸らした。
「……だって、そんなことしたら、もっと大騒ぎになるじゃないですか」
「大騒ぎ、ですか」
「お医者さんや看護師さんたち、ただでさえ私のことを怖がってたんです。そんな状況で、大人が暴れても外れないような拘束具を力任せにブチ破ったら、本物のモンスター扱いされるに決まってるでしょ。もしパニックになって、逃げる途中で誰かにぶつかって大怪我でもさせたら、それこそ取り返しがつかないし……」
そこで言葉を切って、私は小さく肩をすくめた。
「それに、私、別に犯罪を犯したわけじゃないですから。後ろめたいことがないのに脱走なんかしたら、余計にややこしいことになるのくらい、社会人なら誰だって分かりますよ」
ぶつぶつと呟く私の言葉を、男は一言も聞き漏らすまいとするかのように真剣な表情で聞いていた。
やがて、私の言葉が終わると、男の口元に、安堵したような笑みが浮かんだ。
「――なるほど。やはり、あなたにお会いできてよかったです、相沢さん」
「え?」
「突然、強大な力を手に入れた人間は、恐怖や混乱から自暴自棄になり、周囲に力を振るってしまうことが少なくありません。しかしあなたは、ご自身の力の危険性を正確に自覚し、他者を傷つけないために、自らその窮屈な拘束を受け入れ続けてくださった」
男はそう言うと、部屋の隅にあるインターホンへと歩み寄り、外で待機していた担当医を呼び出した。
すぐに扉が開き、初老の医師が緊張した面持ちで入ってくる。
男は医師に向き直ると、落ち着いた声で説明を始めた。
「先生。相沢さんの拘束について、改めてご相談させてください。これまでの事故の状況とご本人のお話からすると、この拘束具だけで身体を抑え込めるとは考えにくいのです」
「……ですが、これは当院で最も強度の高い拘束具なのですが」
「ええ。相沢さんご本人には、これを破壊できるという自覚があります。それでも大人しくしていたのは、ベルトの強度ではなく、周囲を傷つけたくないというご自身の判断によるものでしょう」
医師が息を呑み、信じられないという目で私を見た。
私はなんだか居心地が悪くなって、ベッドの上で小さく愛想笑いを浮かべてみせた。
「もちろん、ご本人がまだ力の加減に慣れていないという物理的なリスクは残っています」
男は言葉を続ける。
「ですが、彼女は現在、完全に意思疎通が可能であり、周囲への配慮と協力の意思を明確に示してくださっています。これ以上の過度な拘束は、かえって心身の負担を増大させるだけです。医療スタッフの皆様の安全を確保した上で、段階的に拘束を解除していただきたいのですが、いかがでしょうか」
一方的な命令ではなく、現場の医師の立場を尊重した丁寧な提案だった。
医師はしばらく私と男の顔を交互に見ていたが、やがて大きく息を吐き、覚悟を決めたように頷いた。
「……分かりました。専門機関であるあなたがそこまで仰るのでしたら、段階的に解除してみましょう。相沢さん、くれぐれも急な動作は控えてくださいね」
「は、はいっ! もちろんです!」
私は勢いよく頷いた。ようやく、この忌々しい革ベルトから解放されるのだ。
*
医師と、呼び出された看護師の立ち会いのもと、慎重な手つきで拘束具の金具が外されていく。
カチャリ、と重たい金属音がして、まずは右手のベルトが解かれた。
「相沢さん、まずは右手だけです。絶対に力を込めず、ゆっくりと指先から動かしてみてください」
「……はい」
医師の緊張した声に促され、私は息を止めて、自分の右手を数センチだけ持ち上げた。
怖い。
会社のデスクをひしゃげさせた時の、あの嫌な感触が脳裏に蘇る。もし今、無意識に腕を振って、すぐそばにいる看護師さんに当たってしまったら。そう考えるだけで、爆弾処理でもしているかのように冷や汗が滲んだ。
ゆっくりと、指を一本ずつ曲げて、開く。
空気を掴むだけの動作。何も壊れない。誰にもぶつからない。
「……大丈夫そうです。では、左手と足首も外しますね」
続けて左手、両足首、そして胸と腰を圧迫していた太いベルトが次々と取り払われていく。
すべての拘束が外された瞬間、全身の血流が一気に巡り始めるような解放感が駆け抜けた。
「……あ、ぁ……」
私はベッドの縁にそっと手をつき、自分の意思で、ゆっくりと上半身を起こした。
背中に張り付いていたシーツから身体が離れる。長い銀髪がさらさらと肩から滑り落ち、視界の高さがぐっと上がった。
ただ、ベッドの上に座っただけだ。
それだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。
「……やっと、自由になれた……」
私は両手を顔の前に掲げ、ゆっくり指を曲げてみた。手首には革ベルトの跡すら残っていない。
まだこの身体が自分のものだという実感は薄いけれど、今は誰にも縛られていない。自分の意思で手足を動かせる。それだけで十分だった。
私はベッドの脇に立つ八咫烏の男を見上げ、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に、助かりました」
「お礼を言われるようなことはしていませんよ。こちらこそ、私たちの判断を信じて協力してくださり、感謝しています」
「いや、私なんて、ただ怖くて固まってただけですけど……」
「パニックに陥ってもおかしくない極限状態で、他者を傷つけないために踏みとどまる。それは誰にでもできることではありません。誇っていいことですよ、相沢さん」
真っ直ぐに褒められて、私は返事に困り、むず痒いような気分で視線を逸らした。二十八歳のおっさん(元)に向かって、そんなキラキラした目で言われても困るのだ。
「……そう、なんですかね。まあ、とにかく助かりました」
そこへ、少し緊張が解けた様子の看護師が、未開封のペットボトルの水を差し出してくれた。
「相沢さん、喉が渇いたでしょう。どうぞ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
受け取ったペットボトルは、今の私の小さな手には少し大きく感じられた。
さて、水を飲もう。そう思ってキャップに左手の指をかけ、右手で胴体部分を握った瞬間、私はピタリと動きを止めた。
(……ちょっと待って)
掌のすぐ下にあるプラスチックの容器が、まるで薄いシャボン玉か何かのように頼りなく感じられる。
これまでの男の身体だった頃の感覚で、キュッと力を込めてキャップを捻ったらどうなるか。間違いなく、ペットボトルごと握り潰して、ベッドの上を水浸しにする未来しか見えない。
「…………」
私は呼吸を止め、額にうっすらと汗を浮かべながら、ミクロン単位で指先の出力を調整した。
赤ちゃんのおもちゃに触れるように、そっと、本当にそっと指を添える。そして、最小限の力でキャップを回す。
パキッ、とプラスチックのリングが切れる小さな音がして、無事に蓋が開いた。
「…………ふぅぅぅっ」
一口飲む前に、長いため息が漏れた。
その様子を見ていた八咫烏の男が、不思議そうに首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「……いや、ペットボトルの蓋を開けるだけで、こんなに命懸けで緊張する日が来るなんて思わなかったわ……」
「はは、なるほど。力加減の制御については、これから少しずつ慣れていきましょう」
「……本当に慣れるんですかね、この身体」
ぼやきながら、私は慎重にペットボトルを傾けて水を飲んだ。
冷たい水が喉を通り、胃の腑に落ちていく。人間だった頃と何ら変わらない感覚に、少しだけホッとした。
少なくとも、水は普通に飲めるらしい。
……でも、吸血鬼って、水以外に何を飲まなきゃいけないんだっけ?
私はペットボトルを見つめたまま、嫌な予感に口をつぐんだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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