元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
目を覚まして最初に視界へ飛び込んできたのは、無機質な白い天井だった。
自宅の寝室の、少し黄ばんだクロスではない。かといって、昨日手足を縛り付けられていた病院の隔離室の天井とも違っていた。
ぼんやりとした頭で瞬きを繰り返していると、顔のすぐ横で、さらりとした冷たい感触が頬を撫でた。
枕の上に広がっている、月光を溶かしたような長い銀色の髪。
(……ああ、そうだったわね)
寝起きの曖昧な意識の中で、「もしかしたら全部、過労が見せたタチの悪い夢だったんじゃないか」という淡い期待が、音を立ててあっけなく霧散した。
掛け布団の下にある自分の身体は、相変わらず華奢で小さく、胸元には見慣れない柔らかなふくらみがある。試しに「あー、あー」と声を漏らしてみても、返ってくるのは聞き慣れた男の低い声ではなく、鈴を転がすような澄んだ女性の声だ。
昨日の午後三時までは、どこにでもいる二十八歳のシステムエンジニアだった。
それが今では、公式階位『Tier2』なんていう大層な肩書きがついた吸血鬼である。一晩眠ったくらいで、この荒唐無稽な現実が元に戻るはずもなかった。
「……ふぁぁ。よく寝たんだか、寝てないんだか……」
私は小さくあくびをしながら、宿泊区画のベッドからゆっくりと上半身を起こした。
ここは八咫烏の専門施設内にある、一時保護用の個室だ。ビジネスホテルのシングルルームを少し広くしたような清潔な部屋で、昨日の夜、長時間の検査を終えた私は、精神的な疲労から泥のように眠りについたのだった。
ベッドの縁に腰掛け、素足をそっと床のカーペットに下ろす。
手首にも足首にも、あの忌々しい革ベルトはない。自分の意思で立ち上がり、自分の意思で背伸びができる。ただそれだけの当たり前の動作が、今の私にはひどくありがたく感じられた。
ふと、サイドテーブルの上に置かれた備え付けのグラスと、ミネラルウォーターのピッチャーが目に入った。
私は立ち上がり、テーブルの前へと歩み寄る。
昨日の検査で、測定主任から教わった「力を出すのではなく、指先から少しずつ漏らすイメージ」を頭の中で反芻した。大きく息を吸い、肩の力を抜く。そして、薄っぺらいガラスのコップへ、白磁のような細い指をそっと添えた。
(……ゆっくり。リンゴを潰さないくらい、ほんの少しだけ……)
ピッチャーから水を注ぎ、グラスを持ち上げる。
パリンと割れることも、ミシリとひびが入ることもない。一口、二口と冷たい水を喉へ流し込み、再びグラスをテーブルの上へと静かに戻した。
コツン、とごく普通の、控えめな音が鳴った。
「……よしっ!」
私はその場で、小さくガッツポーズを作った。
昨日はペットボトルの蓋を開けるだけで爆弾処理並みの冷や汗をかいていたのに、今朝はガラスのコップを割らずに水を飲むことができたのだ。新米吸血鬼としては、歴史的な大進歩と言っても過言ではないだろう。
(……いや、コップで水を飲んだだけでこんなに喜ぶ二十八歳って、我ながらどうなのよ)
すぐに冷静な自分が頭の中でツッコミを入れ、私は苦笑いを浮かべながら洗面所へと向かった。
顔を洗い、備え付けのブラシで長い銀髪を四苦八苦しながら梳かしていると、昨日の別れ際に八咫烏の担当者が言っていた言葉が脳裏に蘇ってきた。
今日から、私の訓練や生活サポートを受け持つ「専任の担当者」がやってくるという話だ。
(……独特の考え方とペースをお持ちの方、ねぇ)
あの絵に描いたような模範的公務員だった男性職員が、一瞬だけ遠い目をして言葉を濁したのだ。社会人としての経験上、ああいう言い回しをされる人物は、十中八九「仕事はできるが性格に難がある」か「常人には理解できない変人」のどちらかである。
もし、竹刀を持ったスパルタ鬼教官みたいな人が来て、「今日から貴様を国家の兵器として鍛え直す!」なんて怒鳴られたらどうしよう。私が望んでいるのは、あくまで力の加減を覚えて、一日でも早く自分のマンションへ帰り、溜まっているゲームのデイリークエストを消化し、会社への復帰や今後のお給料について現実的な相談をすることなのだ。
(……どうか、話の通じるまともな人が来ますように)
着慣れないグレーのパーカーの裾を引っ張りながらそんな祈りを捧げていたところで、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
扉を開けると、そこには昨日から世話になっている八咫烏の男性職員が立っていた。
「おはようございます、相沢さん。昨夜はよく眠れましたか?」
「あ、おはようございます。おかげさまで、ぐっすりでした」
「それは何よりです。昨日お話ししていた専任の担当者が到着しましたので、面談室へご案内いたします。準備はよろしいでしょうか?」
「……はい、いつでも大丈夫です」
いよいよか、と私は小さく息を呑み、彼の後に続いて部屋を出た。
*
案内されたのは、宿泊区画と同じフロアにある小さな応接室だった。
昨日の検査施設のような仰々しい機材は何もなく、観葉植物とローテーブル、そして向かい合わせになった革張りのソファが置かれた、どこにでもある普通の会議室のような空間だ。
職員が開けてくれた扉から中へ足を踏み入れた私は、窓際に立っていた一人の男の姿を見て、思わず足を止めた。
年齢は、私と同じ二十代後半から三十歳前後といったところだろうか。
スラリとした長身の男だった。肩の下まで伸びた艶のある長い黒髪を、後ろで無造作に一つに束ねている。室内だというのに、落ち着いた色合いのシャツの上から、季節外れの長い薄手のコートを羽織っていた。
こちらを向いた顔立ちは、悔しいくらいに整っている。切れ長の目元は柔らかく、口元には最初から春風のような穏やかな笑みが浮かんでいた。
けれど、その姿を見た瞬間の私の率直な第一印象は――。
(……うわぁ。なんか、ものすごく胡散臭い人がいるわね)
これだった。
怖い鬼教官ではなさそうだ。筋骨隆々の軍人タイプでもない。
だが、全身から漂う「得体の知れなさ」が尋常ではないのだ。街中で「あなたの背後に悪霊が憑いていますよ」と微笑みながら壺を売りつけてきそうな、あるいは怪しげな新興宗教の若き幹部だと紹介されても一発で納得してしまいそうな、掴みどころのない空気が彼の周囲にだけ流れていた。
私が警戒心でわずかに頬を引きつらせていると、長髪の男はゆったりとした歩調でこちらへ歩み寄り、人懐っこい笑顔で口を開いた。
「やあ、初めまして。君が相沢伊織君だね?」
「……あ、はい。そうですけど」
「僕は弦冬律(げんとう・りつ)。今日から君の専任担当をすることになったんだ。よろしく頼むよ、伊織君」
よく通る、落ち着いた心地よいバリトンボイスだった。
しかし、そのあまりにも自然な呼び方に、私は思わず眉をひそめて聞き返してしまった。
「……あの、初対面ですよね? どうしていきなり下の名前で『君』付けなんですか?」
「おや、嫌だったかな?」
「いや、別に嫌ってわけじゃないですけど……普通、大人の初対面って、最初は苗字にさん付けじゃないですか?」
「ふむ、それもそうだね。じゃあ、これからは『相沢さん』とお呼びしようか?」
弦冬と名乗った男が、小首を傾げてニコニコと尋ねてくる。
昨日から病院のスタッフにも八咫烏の職員にも、ずっと「相沢さん、相沢さん」と腫れ物かVIPのように丁寧に扱われ続けてきたせいか、こうして変に距離感の近い呼ばれ方をされると、かえってペースが狂う。かといって、今さら改まって呼び直されるのもなんだか気恥ずかしい。
「……いえ、もう『伊織』でいいです。別に名前で呼ばれること自体が嫌なわけじゃないので」
「ふふ、そうかい? それはよかった。じゃあ遠慮なく、伊織君と呼ばせてもらうよ」
満足そうに目を細める弦冬さんを見て、私は胸の内で小さくため息をついた。
(……何なのよ、この人。最初から自分のペースに巻き込むのが上手いっていうか、掴みどころがないわね)
すると、入口近くに控えていた八咫烏の男性職員が、軽く咳払いをしてから補足の説明を入れてくれた。
「相沢さん。こちらの弦冬さんは、長年にわたって八咫烏の特殊事象や怪異案件に協力してくださっている、国内でも屈指の実力者です。今回のあなたの保護および能力制御の指導について、正式に一任することになりました」
「はぁ……よろしくお願いします、弦冬さん」
「こちらこそ。まあ、立ち話もなんだから、まずは座ろうか」
弦冬さんに促され、私はローテーブルを挟んで向かい側のソファに腰を下ろした。
向かいに座った弦冬さんは、長いコートの裾を綺麗に捌いて足を組み、私の顔を穏やかな目で見つめた。値踏みするような嫌な視線ではない。ただ純粋に、目の前の相手に興味を持っているような、静かで落ち着いた眼差しだった。
「それにしても、本当に大変だったようだね、伊織君。事前資料で読ませてもらったけれど、昨日の昼まではごく普通のシステム開発会社で働いていたそうじゃないか」
「……ええ、まあ。どこにでもいる平社員でしたよ」
「それが突然、職場で倒れて見知らぬ姿に変わり、病院では安全のためとはいえベッドに拘束までされてしまった。きっと、言葉にできないほど怖くて、心細い思いをしたんだろう?」
その言葉に、私の胸がチクリと疼いた。
昨日の地下隔離室での、冷たい革ベルトの感触と、医師たちの怯えた目が脳裏をよぎる。私は無意識に自分の細い手首をさすりながら、少しだけ視線を落とした。
「……まあ、そうですね。一時はどうなることかと思いました」
「そうだろうね。昨日まで当たり前だった日常や自分自身の身体が、何の前触れもなく変わってしまったんだ。混乱するのも、将来に不安を抱くのも、人として当然のことだよ」
弦冬さんは、私の傷口を無理に抉るようなことはしなかった。
ただ静かに頷き、私の感情を肯定するように、柔らかい声で言葉を続ける。
「だから、今日から僕が担当になったからといって、何も焦る必要はないよ。まずは君が、その新しい身体と力に少しずつ慣れて、安心して息ができるようになること。そこからゆっくり始めようじゃないか」
「……あ、はい」
私は少し拍子抜けして、彼の顔を見返した。
(……あれ? 意外とまともなことを言うのね)
もっとこう、奇妙な専門用語を振りかざして上から目線で説教されたり、有無を言わせず厳しい訓練メニューを突きつけられたりするのかと身構えていたのだが、拍子抜けするほど物腰が柔らかい。
私が少しだけ警戒を緩めたせいか、ソファに座る姿勢も自然と普段の癖が出てしまった。背もたれにだらしなく体重を預け、片足を軽く前に投げ出すような、お世辞にも「美少女」とは言えない座り方だ。
それでも、弦冬さんは私のそんな態度をとがめることなく、穏やかな笑みを浮かべたまま話題を変えた。
「そういえば、昨日の夜遅くまでかかった検査では、随分と珍しい権能まで確認されたそうだね」
「ああ、血液を動かすやつのことですか? なんか、ケースの中の血を見つめて念じたら、本当に勝手に浮いたり丸まったりしたんですよ」
「ふふ、報告書で読んだよ。初回の発現でそこまで精密に操作できるのは、本当に大したものだ。実際に自分で超常的な力を使ってみて、どうだったかい?」
「……どうって?」
「怖かったかな? それとも、別の感想を持ったかい?」
私は少しだけ考えてから、正直に肩をすくめて答えた。
「……最初は気味悪かったですけど、思った通りに動かせるようになったら、ちょっとだけ面白かったです。ゲームの新しいスキルを動かしてるみたいで」
「そうかい! それは本当によかった」
弦冬さんは、心から嬉しそうに顔をほころばせた。
その反応が、私には少し意外だった。
昨日の検査職員たちは、私の力が「どれほど高い数値か」「どれほど危険か」というデータばかりに注目していた。けれど、この人は真っ先に「私がそれを使ってどう感じたか」を聞いてくれたのだ。
(……見た目は胡散臭いけど、ちゃんと私自身のことを聞いてくれる人なのね)
*
少し場の空気が和んだところで、私はふと、最初から気になっていた疑問を口にした。
「……あの、弦冬さん。さっき八咫烏の方から『国内でも屈指の実力者』って紹介されましたけど、普段は具体的にどういうお仕事をされてるんですか? この組織の職員さんってわけじゃないんですよね?」
「うん、僕は八咫烏の常勤職員というわけではないよ。普段はね、街で起きる『怪異』に関わるトラブルを解決する仕事をしているんだ」
「……怪異?」
「そう。人間の常識や通常の警察力では対処できない、歪んだ因果や伝承から生まれた存在を相手にする仕事さ」
弦冬さんがさらりと言うと、入口近くに控えていた八咫烏の男性職員が、どこか畏敬の念を含んだ口調で補足した。
「弦冬さんは、国内で発生する難易度の高い怪異事案において、索敵から人命救助、対象物の制圧や封印に至るまで、あらゆる現場で八咫烏に協力してくださっている方です。実働部門の人間で、彼の名を知らない者はおりません」
「へぇ……そんなに凄いベテランの方なんですか」
「ええ。何しろ弦冬さんは、現在この日本国内に約二十人しか存在しない『Tier1』――国家戦略級の能力者のお一人ですから」
職員の口からごく自然に飛び出したその単語に、私の思考は一瞬ピタリと止まった。
「…………はい?」
「ですから、弦冬さんの公式階位は『Tier1』です」
「……ティ、Tier1ぁっ!?」
私はソファから跳ね起きんばかりの勢いで身を乗り出し、目の前の長髪の男を指差した。
「えっ、ちょっと待ってください! 昨日聞いた、国家戦略級の、あのTier1ですか!?」
「うん、そうだね。一応、そういう分類になっているよ」
私の大絶叫に対し、当の弦冬さんは、まるで「ええ、趣味で少し日曜大工をやっていましてね」くらいの軽いトーンで、あっさりと頷いてみせた。
「いやいやいや! なんでそんなに普通にしてるんですか!? そんな人が、なんで私と普通にお茶飲んでるんですか!?」
「はは、今さら自分の階位に驚いても仕方がないだろう? それに、Tier1だからといって四六時中、世界の滅亡と戦っているわけじゃない。こうして新しい仲間とおしゃべりをする時間くらいは十分にあるさ」
「……な、仲間って……」
私は開いた口が塞がらず、まじまじと弦冬さんの顔を眺め回した。
昨日、自分が「Tier2」だと判定されたときでさえ、周囲の職員があれだけ色めき立ち、「上から三番目のレアリティだ」と私自身も驚いたばかりだ。
それなのに、私よりさらに上の階位にいる男が、「休日に散歩へ出てきたお兄さん」みたいな顔で目の前に座っている。どうにも現実感がなかった。
「……あの、弦冬さんって、おいくつなんですか? いつからそんな、怪異とかいうのを扱ってるんです?」
「今は二十七歳で、今年二十八になるよ」
「えっ、私とほとんど変わらないじゃないですか!?」
「うん。そして怪異を扱い始めたのは、僕が十五歳の頃からかな」
「……じゅ、十五歳って、中学生じゃないですか……」
私は思わず絶句した。
私が十五歳の頃といえば、部活をサボって友達の家でゲーム機を囲み、高校受験の模試の判定に一喜一憂していた時期だ。
そんな年齢の頃から、この男は表社会の人間が知りもしない裏側の世界で、化け物じみた怪異と渡り合い、その力を集め続け、二十七歳の若さで国家戦略級という頂点にまで登り詰めたというのか。
「……じゃあ、もう十年以上も、ずっとそういう超常現象の世界で生きてきたんですね」
「そういうことになるね」
「……はぁ。昨日のお昼までエクセルの関数と格闘してた私とは、住んでる世界が違いすぎますよ」
なんだか急に、彼との間にとてつもなく遠い距離があるような気がして、私は少しだけ肩を落とした。
歳はほとんど変わらないのに、長年修羅場を潜り抜けてきたプロフェッショナルと、昨日突然美少女吸血鬼にされた素人では、背負っている経験値が違いすぎる。
すると弦冬さんは、私のそんな気後れを見透かしたように、優しく首を横に振った。
「気にする必要はないよ、伊織君。誰だって最初は初心者なんだ。僕も初めのうちは、右も左も分からず駆けずり回っていただけさ」
「……そんなもんですか?」
「そんなものさ。君が昨日まで一般社会で真面目に働いていたことは、誇るべきことではあっても、引け目に感じることじゃないよ」
さらりとそう言ってくれる言葉には、嫌味なところがまったくない。
ただ、そこまで聞いて、私の中にはもう一つの素朴な疑問が湧いてきた。
「……でも、そんなに凄い人が私の担当になって、ほかの仕事は大丈夫なんですか?」
「もちろん、ほかの怪異事件にも必要に応じて対応するよ。けれど、新しく力を得て戸惑っている人を支えることだって、僕には大切な仕事なんだ」
「……そうなんですね」
別の仕事と並行しながら私の面倒まで見るらしい。想像していたよりずっと忙しい人のようだった。
*
少しだけ弦冬さんという人間の輪郭が見えてきたところで、私の興味は自然と、さっきから何度も出てきている彼の「肩書き」の方へと向かった。
「……そういえば、さっきから『怪異を扱う』って言ってますけど、弦冬さんの異能って、具体的にはどういう能力なんですか? 私は自分の血を動かす能力でしたけど」
「ああ、僕の能力かい? 記録上の名称としては《怪異使役術》と呼ばれているよ」
「……怪異、使役術?」
「そう。文字通り、各地に存在する様々な怪異を収集し、自分の手足や協力者として使役する因果律改変能力さ」
「……なにそれ。名前だけでめちゃくちゃ強そうなんですけど」
思わずゲーマーとしての感想が漏れると、弦冬さんは「ふふ、使い方次第かな」と楽しそうに笑った。
「一口に怪異と言っても、凶暴で話の通じないものから、こちらの言葉を理解する知性を持ったものまで千差万別でね。力でねじ伏せて服従させることもあれば、相手の望みを叶える代わりに契約を結んで力を貸してもらうこともある。そうやって集めた子たちを、状況に合わせて使い分けているんだ」
「へぇ……倒したり交渉したりして仲間にするって、つまり、モンスターを集めて戦わせる育成ゲームみたいなものですか?」
「ああ、なるほど。イメージとしては近い部分があるかもしれないね。ただ、彼らにもそれぞれの機嫌やルール、固有の性質があるから、ゲームのコマンド選択のように何でも言うことを聞いてくれるわけじゃないけれど」
「……そりゃ、現実の怪異ですもんね」
私が納得して頷いていると、弦冬さんはふと悪戯っぽく目を細め、私に向かって軽く小首を傾げた。
「どうだい、伊織君。百聞は一見に如かずと言うし、実際に僕の連れている子を一人、見てみるかい?」
「……えっ!?」
その提案に、私は思わずビクッと肩を揺らし、ソファの背もたれに張り付いた。
怪異。つまり、お化けや妖怪、都市伝説の化け物の類だ。
自分自身が吸血鬼なんていう人外になってしまったとはいえ、昨日までホラー映画すらあまり得意ではなかった小市民である。いきなり目の前に血まみれの怨霊だの、巨大な蜘蛛の化け物だのを出されたら、悲鳴を上げて部屋から逃げ出す自信があった。
「あ、あの……それって、危なくないんですか!? 呪われたり、噛みつかれたりしません!?」
「まさか。君を怖がらせるような真似はしないよ。攻撃性のまったくない、一番おとなしくて安全な子を一人だけ呼ぶつもりさ。もちろん、君が見たくないなら無理には出さないけれど、どうする?」
そう言われると、怖いもの見たさの好奇心がムクムクと頭をもたげてくる。
これからこんな世界に関わっていく以上、怪異というものがどんな存在なのか、安全なうちに一度くらい見ておいた方がいいのかもしれない。何より、目の前のTier1の男が「絶対に安全だ」と保証しているのだ。
「……じゃあ、本当に危なくないやつなら、ちょっとだけ……」
「よし、決まりだ。じゃあ、そこを見てごらん」
弦冬さんが、ローテーブルの端の方へと右手を軽く差し出し、指先をトントンと鳴らした。
呪文を唱えるわけでもない。派手な魔方陣が光るわけでもない。
ただ、彼の指先のすぐ下にあるテーブルの「影」が、まるで水面に石を投げ込んだかのように、ゆらりと黒く波打ったのだ。
そして、次の瞬間。
スポッ、とでも言いそうな軽い気配とともに、その黒い影の中から「何か」がひょっこりと飛び出し、テーブルの上に着地した。
「…………」
私は息を呑み、目を皿のようにしてテーブルの上を凝視した。
そこにいたのは、おどろおどろしい怨霊でもなければ、牙を剥く怪物でもなかった。
大きさは、ちょうど大人の握り拳か、ソフトボールくらいだろうか。
習字の墨汁をそのまま固めて毛玉にしたような、真っ黒でふわふわとした球体。その真ん中に、白いボタンのような大きな丸い目が一つだけ、パチクリと瞬きをしている。下の方には、まるで小さな子供の落書きみたいな短い二本の脚がちょこんと生えていて、テーブルの上でトコトコと足踏みをしていた。
「…………」
「どうしたんだい、伊織君? 固まってしまって」
「……いや、なんか、黒いマリモみたいなのが出てきたんですけど!?」
「はは、マリモはひどいな。れっきとした怪異だよ」
「それは見れば分かりますけど! なんでそんな、ポケットから小銭でも出すみたいに普通に出すんですか!」
私がツッコミを入れると、テーブルの上の黒い毛玉――もとい小型の怪異が、一つだけの丸い目をくるりと動かして、私の方をじーっと見つめてきた。
私も思わず、その丸い目を見つめ返す。
不気味かと言われれば、単眼の謎生物なのだから不気味なはずだ。けれど、あまりにもちんまりとしたサイズ感と、首をかしげるような仕草のせいで、恐怖心よりも先に「なんだこれ、マスコットキャラか何かか?」という脱力感が湧いてくる。
「……これ、一体何をする怪異なんですか?」
「この子はね、狭い隙間に入り込んで探し物をしたり、ちょっとした小物を運んだりするのが得意な怪異なんだ。ほら、あそこにあるペンを持ってきてごらん」
弦冬さんがテーブルの向こう端に置かれていたボールペンを指差すと、黒い毛玉は「ピョコッ」と小さく跳ねて、短い脚でタタタッとテーブルの上を走っていった。
そして、毛玉の中から細い影のような短い手を出してボールペンをよいしょと持ち上げると、頭の上に掲げたまま、またタタタッと弦冬さんの手元まで運んできたのだ。
弦冬さんが「ありがとう」と言ってペンを受け取ると、毛玉は満足そうにその場でくるりと一回転した。
「……へぇ。なんか、ルンバみたいで結構便利そうですね」
「ルンバよりは段差にも強いし、鍵のかかった引き出しの中なんかも調べられる優秀な子さ」
「……それに、なんか見慣れてくると、ちょっと可愛いかも」
私がポロリと本音を漏らすと、黒い毛玉が反応したように、テーブルのこちら側――私の目の前までトコトコと歩いてきて、ちょこんと座り込んだ。
私は思わずソファから腰を浮かせ、テーブルに顔を近づけてその小さな怪異を覗き込んだ。
「……あの、これ、触ってみても大丈夫なんですか?」
「うん、その子が嫌がらなければ構わないよ。どうやら君に興味があるみたいだし、優しく撫でてあげるといい」
弦冬さんの許可を得て、私は恐る恐る右手を伸ばした。
もちろん、昨日の教訓は忘れていない。うっかり力を込めて、人の大切な使役怪異をプチッと握り潰すような惨事だけは絶対に避けなければならない。
力を極限まで抜いた人差し指の腹で、黒い毛玉の頭と思しき部分を、そっと撫でてみた。
フカッ、と。
指先に伝わってきたのは、冷たいスライムのような感触でも、ザラザラした埃の感触でもなく、高級な羽毛か子猫の産毛に触れたような、驚くほど温かくてふわふわとした感触だった。
毛玉は気持ちよさそうに一つ目を細め、私の指先にすりすりと身体を寄せてくる。
「……おおぉ。なにこれ、すっごくふわふわしてる……」
思わず頬が緩み、私の口から間の抜けた声が漏れた。
昨日の昼まで、超能力だの吸血鬼だのといったオカルトとは完全に無縁の世界で生きていたはずなのに、今の私は美少女の姿で、得体の知れない一つ目の怪異を撫でて癒やされている。
「……なんか、本当に、私の知ってた世界と全然違うんですね」
「ふふ、そうだね。君が知らなかっただけで、この世界はずっと昔から、君たちのすぐ隣に存在していたんだよ」
弦冬さんが穏やかに微笑み、再び指先を軽く鳴らす。
すると黒い毛玉は、私に向かって名残惜しそうに一度だけピョコッと跳ねて見せたあと、再びテーブルの影の中へと音もなく吸い込まれるように消えていった。
初めて触れた怪異は、拍子抜けするほどふわふわだった。こんなものまでいるのなら、知らなかった世界にも少しは面白いことがあるのかもしれない。
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