元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。~TSした私を怪異使いの男が放っておいてくれない~ 作:パラレル・ゲーマー
面談室を出た私たちは、エレベーターで再び地下の階層へと降りていった。
案内されたのは、昨夜私が握力や走力を測った測定区画の隣にある、実践用の訓練区画だった。広さは体育館ほどもあり、床一面には足首に負担がかからない滑り止めの特殊マットが敷き詰められ、周囲の壁も分厚い衝撃吸収パネルで覆われている。昨日のような大型の測定機器が置いていない分、がらんとした空間の広さが際立っていた。
区画の中央まで歩いていくと、先頭を歩いていた弦冬さんが足を止め、羽織っていた季節外れの長いコートをするりと脱いだ。
それを壁際のベンチへ無造作に置くと、シャツの袖口を軽くまくり上げ、首をコキコキと鳴らしながら肩を回し始めた。
(……あれ?)
てっきり、さっき面談室で見せてくれた黒い毛玉のような怪異か、訓練用の人形を相手にするものだと思っていた。
私は思わず足を止め、準備運動を始めた長身の背中を見上げて声をかけた。
「……あの、弦冬さん?」
「うん? どうしたんだい、伊織君」
「どうして弦冬さんまで、そんなにやる気満々でストレッチしてるんですか?」
「どうしてって、もちろんこれから君の訓練の相手をするからだよ」
「……え?」
私はきょとんとして首を傾げた。
「いやいや、弦冬さんって《怪異使役術》の能力者なんですよね? さっきみたいな怪異を呼び出して、それと追いかけっこでもするのかと思ってたんですけど」
「ふふ、今回は基礎的な身体制御の練習だからね。それに、なんでもかんでも怪異にばかり働いてもらうのも、使い手として少しばかり気が引けるだろう?」
「……そういう問題ですか?」
釈然としない私に、弦冬さんは肩を回しながら説明した。
「昨日の検査で、君の筋力や移動速度、それに反射神経が並外れて高いことはすでに分かっている。ただ、固定された測定器を相手に力を出すのと、実際に動いている相手を見ながら自分の身体をコントロールするのとでは、勝手がまったく違うんだ」
「……まあ、それはそうでしょうけど」
「君がこれから自分のマンションへ帰って普通に暮らすためには、街中で人とすれ違うときや、不意に誰かが飛び出してきたときに、相手の動きに合わせて自分の速度や力を咄嗟に調整できなければならない。だから最初は、生身の人間である僕が相手をするのが一番手っ取り早いと思ってね」
けれど、私は自分の白くて細い手を見下ろし、それから目の前の弦冬さんの細身の体躯を見て、思わず不安になった。
「……あの、理屈は分かりましたけど、本当に弦冬さんが相手で大丈夫なんですか? 私、昨日、鉄のグリップを素手でへこませちゃったんですよ? もし走り出した勢いで止まれなくなって、弦冬さんにぶつかったりしたら大怪我させちゃうんじゃ……」
「おや、僕の身体を心配してくれるのかい? 優しいね、伊織君」
「茶化さないでください! 本当に怪我したらどうするんですか!」
「はは、ありがとう。でも心配はいらないよ。これでも現場には長く出ているからね、君が心配しているほど僕は柔じゃないさ」
余裕の笑みを浮かべる律だが、私は半信半疑だった。
確かにTier1だとは聞いた。それでも《怪異使役術》は、ゲームでいえばサモナーやネクロマンサーの能力だ。強い怪異を前衛に置き、本体は後ろで守られるものだろう。優男にしか見えない律が、今の私とぶつかって平気なのだろうか。
そんな私の疑念を知ってか知らずか、弦冬さんは区画の中央に立ち、私に向かって手招きをした。
「さて、今回の訓練のルールは至ってシンプルだ。君はここから走ってきて、僕のシャツの『袖』に指先で触れてごらん」
「……袖に触る、ですか?」
「そう。殴る必要も血液操作もない。袖に触れたら君のクリアだ。僕は最小限の動きで避けるだけで、こちらからは攻撃しないよ」
弦冬さんは、自分の右腕の袖口を軽くつまんで見せた。
「最初はゆっくりした速度から始めて、慣れてきたら段階的にスピードを上げていこう。もし途中で危ないと感じたり、どちらかが『止めよう』と声をかけたりしたら、その瞬間に訓練は中断する。……どうだい、これなら安心だろう?」
「……なんだか、拍子抜けするくらい簡単そうですけど」
昨夜の検査で、自分がどれほど速く走れるかは体験済みだ。怪異を出さない相手の袖に触れるだけなら、少し踏み込めば済むだろう。
すると弦冬さんは、私の心の内を見透かしたように、少しだけ目元を細めて笑った。
「そう思うなら、まずは試しにやってみようか」
「……むっ。言いましたね?」
その余裕たっぷりの笑顔に、ゲーマーとしての負けず嫌いが刺激された。
私はパーカーの袖をまくり上げ、弦冬さんから五メートルほど離れた位置に立ち、軽く膝を曲げて構えを取った。
*
訓練区画の中央で向かい合うと、弦冬さんは構えも取らず、自然に両腕を下ろして立っていた。
「それじゃあ、始めようか。最初は無理をせず、ゆっくりでいいからね」
「……はい、いきますよ!」
私は声をかけると同時に、床のマットを軽く蹴った。
律の忠告どおりトップスピードは出さない。人間だった頃の全力疾走より速いとはいえ、今の私にとっては「小走り」程度の力加減だ。
(……よし、これなら止まれるし、そのまま触れる!)
あっという間に弦冬さんの懐へと入り込み、無防備に垂れ下がっている彼の右袖に向かって、私は真っ直ぐに右手を伸ばした。
白磁のような私の指先が、彼のシャツの布地をとらえる――そう確信した、まさにその直前だった。
フッ、と弦冬さんが柳の枝のように音もなく横へ流れ、私の指先は空を切った。
「……えっ?」
体勢を立て直して顔を上げると、弦冬さんは私が手を伸ばした位置からわずか一歩分だけ左へずれ、最初からそこに立っていたかのような涼しい顔で私を見ていた。
「おっと。惜しかったね、伊織君」
「……あれ? 今、どうやって避けました?」
自分の手と律を交互に見つめる。
今の私の目は、高速で点滅するレーザー光線すらスローモーションで追えるほど動体視力が上がっている。だから、弦冬さんが目にもとまらぬ超スピードで移動したわけではないことは分かった。
(……たまたまタイミングが合っただけよね? こっちも遠慮してゆっくり動いたわけだし)
私は気を取り直し、今度は足裏に込める力を少し強めた。
タンッ、とマットを蹴る。さっきよりも速く、あっという間に間合いが詰まった。
(……今度こそ、貰った!)
今度は左袖を狙い、下からすくい上げるように手を伸ばす。
しかし、律は半身になって腕をやり過ごし、くるりと向きを変えた。
「…………は?」
空振りの勢いで二、三歩つんのめりながら、私は振り返った。
弦冬さんは相変わらず呼吸一つ乱さず、穏やかな笑みを浮かべたままそこに立っている。
「……ちょ、ちょっと待ってください! 今、何したんですか!?」
「何って、見ての通り、半歩だけ後ろに下がって身体の向きを変えただけだよ」
「いや、それは見れば分かりますけど! なんで今のスピードで普通に避けられるんですか!?」
「ふふ、さあ、どうしてだろうね?」
小首を傾げてとぼける律に、だんだん腹が立ってきた。
こっちは結構なスピードを出したつもりなのに、向こうは散歩の途中で水たまりをよけるくらいの気軽さでかわしている。しかも、私の動体視力では彼の動きがはっきりと見えているのに、なぜか指先が絶対に届かないのだ。
(……なによ、その余裕は! だったら、もうちょっとだけスピードを上げてやろうじゃないの!)
自分でも大人気ないとは思ったが、ここまで綺麗にいなされると意地でも一泡吹かせたくなる。
「伊織君、あまりムキになって速度を上げすぎなくていいからね。これは動きながら自分の身体を制御する練習なんだから」
「……わ、分かってますってば! ちゃんと加減してます!」
口ではそう答えたものの、私はすっかり「袖を掴むこと」に意識を奪われていた。
低く腰を落とし、両足のふくらはぎにグッと力を溜める。
そして――ドンッ! 昨夜の五十メートル走に近い出力で、思い切りマットを蹴りつけた。
空気を押し分ける風圧が全身を叩き、景色が線になって後ろへ飛んでいく。
(……速い! これなら絶対に避けられないでしょ!)
迫る律の右腕めがけて、両手を伸ばした。
しかし彼は焦る様子もなく、大きく一歩横へ踏み出して突進をかわした。
「――えっ!?」
両手はまたしても空を切った。
問題は、その直後に起きた。
(……あっ、やばっ!?)
袖を掴むことばかりに気を取られ、全力に近い速度を出してしまった。空振りした身体の勢いがまったく殺せない。
急いで右方向へ身体をひねって弦冬さんを追おうとするが、猛烈な慣性が働いていて、思った通りに方向転換ができない。慌てて両足を前に突き出してブレーキをかけようとするものの、キュウウウッ! と靴底がマットの上を激しく滑るだけで、私の身体は制御を失った弾丸のように、前方の壁に向かって一直線に突っ込んでいった。
「ちょ、止まんない、止まらないってば――っ!!」
パニックになって手足をばたつかせた、そのとき。黒い影がすぐ横へ滑り込んできた。
今まさに私の横を通り過ぎたはずの弦冬さんが、信じられないことに、暴走して滑っていく私の斜め前方へと一瞬で回り込んでいたのである。
彼は決して、私の腕を乱暴に掴んでねじ伏せるような真似はしなかった。
私の進行方向に合わせて自分自身も後ろ向きにステップを踏みながら、私の速度にピタリと並走し、その大きな両手で私の華奢な両肩を、正面から優しく、しかし絶対にブレない強さで包み込むように支えたのだ。
「伊織君、落ち着いて。足の力を抜いて、僕に体重を預けるんだ。もう止まれるよ」
「――っ!」
耳元で響いたその低く落ち着いた声に、私はハッとして、無茶苦茶に踏ん張っていた足の力を抜いた。
弦冬さんの両腕が、まるで高性能なサスペンションのように私の突進の運動エネルギーを滑らかに吸収していく。
ズザザッ、と彼の靴音がマットを擦る音がして、それから一秒もしないうちに、私たちの身体は壁の数メートル手前で、誰一人転倒することなくピタリと安全に静止した。
「……ふぅ。大丈夫かい、伊織君?」
「……あ、はい。だ、大丈夫、です……」
私が呆然としたまま頷くと、弦冬さんはすぐに私の肩からスッと手を離し、一歩後ろへ下がって距離を取ってくれた。
「どこも痛めたところはないかな? 足首とか」
「……ないです。全然、平気ですけど……」
自分の足元を見つめ、それから目の前の律を見上げる。
壁に激突しそうになった恐怖以上に、この男がやってのけたことへの驚きが大きかった。
今、自分がどれほどのスピードで飛び出したかは、自分が一番よく分かっている。普通の人間なら目で追うことすら不可能な、人外としての暴力的なまでの突進速度だったはずだ。
「……あの、弦冬さん」
「うん? 何だい?」
「今……あの毛玉みたいな怪異とか、他の見えない怪異とか、何か呼び出してました?」
「いいや、何も呼んでいないよ。さっき言った通り、今は僕一人で君の相手をしている」
「じゃあ、どうやってあの速さの私に追いついて、いとも簡単に止めたんですか!?」
私が思わず声を裏返らせて叫ぶと、弦冬さんは「ああ、そのことかい」とでも言うように、なんでもない顔で微笑んだ。
「長年、現場で生き残るために僕自身も鍛えてきたからね」
「……『鍛えた』で済むレベルじゃないでしょ!?」
「鍛え方にもいろいろあるんだよ。怪異がいつも都合よく隣にいてくれるとは限らない。だから僕自身も、怪異を使わない近接戦闘で特殊作戦級の能力者と渡り合えるだけの身体能力と技術は備えているつもりさ」
さらりと告げられたその事実に、私は口を開けたまま完全にフリーズした。
「…………え?」
「どうしたんだい、また固まってしまって」
「だって弦冬さん、怪異使いなんでしょ!?」
「そうだよ」
「だったら、なんで使役する本人まで私の速さについてこられるんですか!? 後衛の召喚士だと思って心配してたのに!」
「はは、そうかい。僕がちょっと突けば倒れそうな後衛に見えていたのかな?」
「そ、そこまでは言ってませんけど……心配した私の気持ちを返してください!」
楽しそうに肩を揺らして笑う弦冬さんを前に、私は両手で自分の銀髪を抱え込んだ。
(……何なのよ、この人!)
(怪異を使うだけでも強いのに、本人まで前衛で戦えるって、どんなキャラビルドなのよ!)
ただ、呆れる一方で、胸の奥に安堵が広がっていたのも事実だ。
さっきの面談室で、彼は「君が力を暴発させても、僕なら安全に受け止めてあげられる」と言った。あれは決してハッタリでも気休めでもなく、文字通り、今の私を力ずくでも一切傷つけずに制御できるだけの圧倒的な実力に裏打ちされた言葉だったのだ。
「さて、伊織君。実際に一度動いてみて、どんな感触だったかな?」
「……全然、かすりもしませんでした。それに、最後は自分で止まれなくなっちゃいましたし」
「そうだね。でも、落ち込むことはないよ。君の身体能力そのものは、僕が想像していた以上に素晴らしいものだった」
律は真っ直ぐ私を見つめた。
「今の君はね、例えるなら『F1カーのエンジンを積んだ車』に、昨日初めて乗ったばかりの状態なんだ。アクセルを踏んで猛烈なスピードを出すことは簡単にできる。だけど、そのスピードのままカーブを曲がるハンドル操作と、狙った場所でピタリと止まるブレーキの技術が、まだエンジンの出力に追いついていないだけさ」
「……アクセルだけで、ハンドルとブレーキが追いついてない……」
F1の例えは、不思議なくらいすとんと腑に落ちた。
私は少しだけ悔しさを噛み締めながらも、先ほど自分を支えてくれた彼の両腕を思い出して、小さく頭を下げた。
「……さっきは、止めてくれてありがとうございました。弦冬さんがいなかったら、今頃あの壁に頭から突っ込んでたと思います」
「どういたしまして。君が安全に失敗できるようにするのが、今日の僕の仕事だからね」
そう言って微笑む彼の姿だけは、悔しいけれど、間違いなく本物のプロフェッショナルだった。
*
「少しだけ休憩しようか。身体は疲れていなくても、頭の方はかなり集中力を使っただろう?」
弦冬さんと壁際のベンチへ移り、並んで腰を下ろした。
彼の言う通りだった。あれだけ全力でダッシュして急ブレーキをかけたというのに、吸血鬼の肉体は息切れ一つしておらず、心拍数もすでに平常値に戻っている。それなのに、脳みその芯の方だけが、長時間のシステムトラブル対応を終えたあとのような独特の重だるさを感じていた。
「……なんだか変な感覚です。身体はいくらでも動けそうなのに、頭だけすごく疲れました」
「今まで無意識にやっていた動きを、全部考えながら行っているからね。慣れないうちは疲れるものさ」
弦冬さんはベンチの背もたれに軽く肘をかけ、横目で私を見ながら言葉を続けた。
「さっき君が袖に触れられなかった原因は、大きく二つあるよ」
「……二つ、ですか?」
「うん。まず一つ目は、君が『速く動くこと』そのものを目的にしてしまっていたことだ。君の今の身体能力なら、単にトップスピードを出すだけなら誰にでもできる。だけど、大切なのは最高速度を出すことじゃなくて、『自分が完全にコントロールして止まれる範囲の速度』を知ることなんだよ」
「……耳が痛いです」
「そして二つ目は、もっと単純な技術の話さ」
弦冬さんはそこで少しだけ悪戯っぽく笑い、自分の目元を指差した。
「伊織君。君はさっきからずっと、僕の『袖』ばかりを穴が空くほど見つめていただろう? それに、速く飛び出そうと意識するあまり、踏み込む直前に肩と腰にグッと力が入って、進行方向へ身体が傾いていた」
「……えっ?」
「僕からすれば、君の視線と肩の動きを見るだけで、『ああ、今からこのタイミングで、こっちの腕に向かって真っ直ぐ飛んでくるな』というのが、手に取るように分かってしまうんだ。行き先とタイミングが最初から分かっていれば、君より少し遅く動いても、半歩ずれるだけで簡単に避けられてしまうのさ」
その指摘に、私はハッとして目を見開いた。
「……そ、そんなわずかな動きで、私がどっちに飛ぶか全部バレてたんですか!?」
「うん。十年以上も実戦で怪異や能力者と向き合っていれば、相手の重心や視線の動きから次の行動を予測するのは、呼吸をするのと同じくらい当たり前の技術になるからね」
「……ちょっと、それ、初心者相手に反則じゃないですか!」
「ふふ、別に未来予知や読心術の異能を使っているわけじゃないよ。ほら、君はさっき、こんな風に構えていただろう?」
弦冬さんは立ち上がり、私の構えを再現してみせる。
袖を凝視し、肩を下げ、後ろ足へ体重を乗せる。これでは「今からそっちへ突っ込みます!」と全身で看板を掲げているようなものだ。
「……あー、なるほど。そんなに分かりやすかったんですね、私」
私は頬杖をついて考えた。相手の予備動作を読み、こちらの動きを悟らせないようにフェイントを入れる。それは――。
(……あれ? これって要するに、格闘ゲームやFPSの対人戦における『読み合い』とまったく同じことじゃない?)
ゲームなら相手のモーションを読んで回避するし、単調な突進が上級者に通じないことくらい分かっている。
ただ、今回は動かす対象がコントローラーではなく「自分自身の異常にハイスペックな肉体」だったせいで、すっかりその基本を忘れて、スピード任せのゴリ押しになっていただけなのだ。
「じゃあ、相手の動きを見ながら方向を変えたり、右に行くふりをして左へ動いたりしてもいいってことですよね?」
「おや、飲み込みが早いね。ゲームの経験も、こういう訓練に役立ちそうだ」
「ふふん、伊織さんを誰だと思ってるんですか。対人ゲームの駆け引きなら、何千時間とやってきてるんですからね」
いつもの読み合いだと思えば、さっきとは違う冷静なやる気が湧いてくる。
律は少し得意げな私を見て、人差し指を立てた。
「頼もしいね。ただし、伊織君。ゲームと違って現実の身体にはリセットボタンがない。どんなに上手く相手の裏をかいても、最後に自分の足で安全にブレーキを踏めなければ失敗だ。そこだけは絶対に忘れないようにね」
「……はい! 今度はちゃんと、止まれるスピードでやります!」
私はベンチから勢いよく立ち上がった。
さっきの最初の挑戦では、自分の力に振り回されて暴走しただけだった。けれど、やるべきことが明確になった今なら、もっと上手くこの身体を動かせる気がする。
「では二回目だ。確認だけれど、今回の目標は?」
「弦冬さんの袖に触って、自分の足でちゃんと止まることです!」
「よろしい。僕を吹き飛ばす必要はないからね」
「もう、分かってますってば!」
私は頬を膨らませながらも、静かに闘志を燃やしていた。
(……見てなさいよ、Tier1の怪異使いさん。今度こそ、その余裕の顔に一泡吹かせて、絶対に袖に触ってやるんだから!)
*
再び訓練区画の中央で向かい合う。
距離は最初と同じ五メートル。
私は深呼吸して、余計な力を抜いた。
(……落ち着け、私。速く動くだけなら、もうとっくにできるんだから)
足裏の感覚に意識を集中する。
昨夜、圧力ゲージを緑の枠に合わせたときのように、全身から力みを消していく。
そして、視線は弦冬さんの右袖ではなく、彼の胸元から首筋のあたり――全体をぼんやりと捉える位置に置いた。対人戦で相手の全体の動きを見る時の基本だ。
向かいに立つ弦冬さんが、私のその変化に気づいて、わずかに目元を細めたのが分かった。
「準備はいいかい、伊織君」
「……はい。いつでもどうぞ」
「それじゃあ――始めよう」
合図が落ちても、私は飛び出さなかった。
まずは出力を二割か三割程度に抑えたまま、すーっと滑るように、一定のペースで真っ直ぐ間合いを詰めていく。
(……まずは観察。この人がどう動くかを見る!)
距離が三メートル、二メートルと縮まる。
私がすぐには飛びかかってこないと見た弦冬さんが、私の正面からわずかに左へと重心を移し、いつでも受け流せるように足の位置を変えた。
私は左袖へ視線をやり、右肩を前に出して、そちらへ踏み込むような予備動作を見せた。
弦冬さんの身体が反応し、重心がわずかに外へ流れる。
しかし、私はそのまま全力で踏み込むことはせず、一歩手前でキュッと足裏にブレーキをかけ、フェイントだけで動きを止めた。
「おや。さっきとは随分と動きが違うね」
「……ふふん。私だって、同じ手に何度も引っかかるほどお馬鹿さんじゃありませんよ」
軽口を叩きつつ内心では舌を巻く。反応させることはできたが、律は崩れず、すぐ次の動きへ移れる余裕を残していた。
(……やっぱり、一筋縄じゃいかないわね。だったら、もう一段階!)
私は彼の周囲を回るようにステップを踏み、さらに距離を詰めた。
一メートル半。伸ばせば触れそうな間合いだ。
私はもう一度、今度は先ほどよりも少しだけ速く、彼の右袖を狙うように左足で強くマットを蹴った。
シュッ、と空気が鳴る。
弦冬さんが、それをかわすために半歩後ろへ下がりながら、身体を左へと開こうとする。
その「彼が今から移動しようとしている方向」が、今の私の研ぎ澄まされた紅い瞳には、驚くほどクリアに見えていた。
(……そこ! そっちに逃げるのよね!)
今回は無理に身体をねじ曲げる必要もない。
なぜなら、今の私はトップスピードを出していないからだ。全体の出力を五割以下に抑えているおかげで、足首にも膝にも、まだ十分に方向を切り返すだけの「余白」が残っている。
タンッ、と床が鳴った。
私は踏み込んだ左足を軸にして、最初からそちらが本命だったかのように、弦冬さんが逃げようとした先の空間へと、斜め前にステップを切り返した。
「――ほう!」
初めて律の口から、純粋な感嘆の声が漏れた。
彼は咄嗟に回避の軌道を修正し、さらに一歩後ろへと大きく身をかわそうとする。その反応速度は、やはり人間離れしていた。
でも今回は、私の読みがほんのわずかだけ早かった。
私は彼を追いかけ回して無茶な加速をするのではなく、すでに踏み込んだ位置から、ただ最短距離で、逃げる彼の右腕の先へと自分の右手をスッと差し出したのだ。
カサリ、と。
私の人差し指と中指が、弦冬さんのシャツの袖口に確かに触れた。
(……あっ、触った!!)
確かな布の感触が指先に残る。
嬉しくて、思わずもっとしっかり掴もうと腕に力が入りそうになった。
けれど、その瞬間、律の忠告が頭をよぎる。
『最後に自分の足で安全にブレーキを踏めなければ失敗だ』
(――っ、違う! もう触れたんだから、ここで止まるのよ、私!!)
私は律の袖を掴もうとする右手から力を抜いた。
同時に、前へ流れそうになる上半身の重心を後ろへと引き戻し、マットの上で両足を小さくダダッと踏みしめて、小刻みに運動エネルギーを逃がしていく。
キュッ、と靴底が短く鳴った。
身体が少しだけ前へ傾いたものの、私は誰の手を借りることもなく、マットの上を滑り落ちることもなく、弦冬さんのすぐ目の前――ぶつかる寸前の安全な距離で、ピタリと自分の二本の足で立ち止まってみせた。
訓練区画に、ふっと静寂が降りた。
私は荒い息を吐くこともなく、ただ自分の右手の指先を見つめ、それから目の前に立つ弦冬さんの右袖へと視線を移した。
「……あれ?」
「どうしたんだい、伊織君」
「……あの、今、私の指……袖に、触りましたよね?」
おそるおそる確認すると、弦冬さんは自分の右腕の袖口に視線を落とし、それから顔を上げて、花が咲くように柔らかな笑顔を浮かべた。
「うん。間違いなく、しっかりと触れていたよ」
「…………」
一拍置いて、猛烈な達成感が込み上げてくる。
「……やった! やりましたよ、弦冬さん! 私、ちゃんと触れました!!」
私はその場でぴょんと小さく跳ねて、両手を握りしめて声を上げた。
昨日、血液を思い通りに動かせたときとも違う。今回は自分の身体を自分で扱えたのだ。
「お見事だよ。フェイントで重心を誘い、逃げ先まで読んで切り返した。いい判断だったね」
「えへへ、どうですか! 私だって、コツさえ分かればできるんですよ!」
「そうだね。そして何より――」
弦冬さんは、私の足元を優しく指差して言った。
「最後に袖を無理に掴みに行かず、自分の意思でしっかりとブレーキをかけて止まれたこと。それが今回の訓練における、君の一番大きな成果だよ」
「……あっ」
言われて、私は自分の足元を見下ろした。
そうだ。さっきは自分のスピードに振り回されて、弦冬さんに抱き止められなければ壁に激突していた。
けれど今は、誰にもぶつからず、自分の思った通りの場所で、ちゃんと自分の足で立っている。この規格外の怪物の身体に、初めてちゃんとした「ブレーキ」が備わった瞬間だった。
私は自分の小さな手のひらを見つめ、それから少しだけ鼻を高くして、弦冬さんに胸を張ってみせた。
「……ふふん。ということは、今回の勝負は私の勝ちってことですね!」
「ふふ、今回の訓練の課題としては、文句なしに君の大成功だね」
「……あれ? なんでそこで『訓練の課題としては』って限定するんですか?」
「だって、僕も訓練のルールに合わせて、怪異を使わずにその場で回避していただけだからね。実戦での本気の勝負となれば、また別の話になるさ」
「……むっ」
さらりとかわされて、私は思わず唇を尖らせた。
まあ、それは私にだって分かっている。向こうは攻撃一切なし、移動範囲も最小限という圧倒的なハンデを背負ってくれていたのだ。その条件下で、私はようやく指先をミリ単位で袖にかすらせただけに過ぎない。
それでも、あの底知れないTier1の男が、私の工夫と読み合いに対して、最後の一歩でわずかに目を見張って本気で避けようとしたのも事実だ。わざと触らせてくれたのではなく、自分の力で掴み取った小さな一勝であることに変わりはなかった。
*
「さて、それじゃあ午前の基礎訓練は、このくらいにしておこうか」
弦冬さんが軽く手を叩き、訓練の終了を告げた。
時計を見れば、訓練区画に降りてきてからまだ一時間ほどしか経っていなかったが、密度の濃い試行錯誤を繰り返したおかげで、私の頭の中は心地よい達成感で満たされていた。
「さっきの感覚を忘れず、次からも安全に動けるようにしよう。今日は十分な成果だったよ」
「……ほんとですか? この調子なら、一週間もかからずにマンションへ帰れそうですかね?」
「うん、可能性はあるね。ただ、何度でも再現できるようになるまで、練習は続けていこう」
弦冬さんはベンチに置いてあった長いコートを手に取り、再び軽やかに羽織った。
その背中を眺めながら、私は今朝の第一印象を思い返した。
(……最初は、ただの胡散臭くて面倒くさい人だと思ってたけど)
強者には弱者を守る義務があるという信念には、今でも賛成できない。
それでも、私の力を怖がらずに受け止め、安全に失敗させてくれた。指導者としては、悔しいくらい頼りになる人だ。
「よし、まずは昼食をとって少し休もうか。午後からは、君の吸血鬼としての体質確認――食事のテストや、安全な環境での太陽光への耐性検査を進めていく予定になっているからね」
「あ、はい! 普通のご飯が食べられるかどうかのテストですね、それは楽しみです!」
私は元気よく頷き、彼の後に続いて出口の方へと歩き出した。
……と、出口へ向かったところで、言わずにいられないことを思い出した。
「……あ、ところで弦冬さん」
「うん? まだ何か気になることでもあったかい?」
「やっぱり一つだけ、納得いかないことがあるんです!」
私は振り返った弦冬さんの顔を、ジトッとした目で真っ直ぐに指差した。
「弦冬さん、怪異使いなんですよね!?」
「ふふ、なんだい急に。さっき面談室で、僕が黒い怪異を呼び出すのをその目で見たばかりじゃないか」
「怪異を使えるのは分かりましたよ! でも、それだけでも強いのに、なんで本人まで私の動きについてこられるんですか!?」
「怪異使いだから、使い手が弱くなきゃいけない決まりはないだろう?」
「それにね、伊織君。僕自身が前線で戦えるだけの力を持っていれば、それだけ僕の大切な怪異たちに無理をさせたり、危険な負担をかけたりせずに済むだろう?」
「……怪異に負担をかけないために、自分が強くなったんですか!?」
大真面目な顔で返されたその斜め上の理由に、私はあんぐりと口を開けた。
自分の身を守るためならまだしも、「召喚獣を労わるために召喚士本人が前衛職並みに肉体を鍛え上げた」なんて、どんなゲームの攻略サイトを探しても載っていない謎理論である。
「……駄目だわ、やっぱりこの人、根本的にどこかおかしい……」
「おや、失礼だな。僕はいたって合理的で優しい使い手だと思っているんだけどね」
「絶対、キャラクターの育成方針を間違えてますってば! 全部盛りじゃないですか!」
わあわあと文句を言う私の横で、弦冬さんは「キャラの育成方針、か。君の例えはいつも面白いな」と愉快そうに声を上げて笑っていた。
私は深々とため息をつき、自分の長い銀髪を揺らしながらエレベーターへと乗り込んだ。
(……怪異使いなのに本人までこんなに強いって、もし今後「人助けに行こう」って本気で誘われたら、力ずくでも逃げられないんじゃないの……?)
せっかく自分の力を扱えるようになり始めたのに、この専任担当者だけは、どうにも私の手に負えそうになかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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