廊下の先から、一人の青年がこちらへ歩いてきた。
長い黒髪を後ろで束ねた、端正な顔立ちの青年。未成年にも成人男性にも見える不思議な印象のせいで、正確な年齢を判断しにくい雰囲気を
ふと、頭の中に『執事』という単語が浮かんできた。その単語が意味する役職など、今の地球に存在しない筈なのに、何故かはっきりと色濃く私の思考を埋め尽くしたのだ。
「君たちの事、さっきは食堂で見かけたんだ。改めて、ボクはヴィクトム・バズヴという者だ。今日配属されたばかりの新人さ。これから同じ支部でお世話になるから、どうぞよろしくお願いするよ」
彼は人懐っこい完璧な笑顔を浮かべ、丁寧に頭を下げた。
アイカが、まるで
……思い出した。
食堂で私の陰口を好き勝手に並べていた三人組。彼女たちの方を見て、口元を隠しながらも明確に
今目の前にいる彼は、あの瞬間と違って礼儀正しい。言葉遣いも柔らかい。初対面の相手に好印象を与える振る舞いとしては、申し分なかった。
――初対面の相手には、だが。
「あの時、私を嗤った三人を嗤っていた人だよね」
ヴィクトムが顔を上げ、少し目を丸くさせた表情を晒した。順調に組み立てていた計画の一部が崩されたような。しかしそれも一瞬の事、すぐににっこりとした笑顔で表情を塗りつぶし、彼は余計な感情を無理やり削ぎ落とした。
「……これは驚いた。君はあの時、珍妙な料理にばかり意識を向けていたから。まさかボクの存在を認識していたなんて」
「観察は、得意。そうじゃないと、聖従に殺されるだけだから」
「なるほど、勉強になるよ」
勉強になる、と言っているが、言葉通りの意味には聞こえなかった。
笑顔の奥にある彼の視線が、やけに気に掛かる。私の顔を見ているようで、私の顔だけを見ている訳ではない。何かを探り出そうとする――犯罪者の尋問を務める検察官のような眼差し。
「いやね、実に愚かだと思ったんだよ。……自分たちの
声の奥深く、注意して耳を澄ませていなければ分からないほどの深淵に、彼は紛れもない
言っている内容は納得できる。ただでさえ私たちの世界には滅びの時が迫っているのだ。いちいち他人に嫉妬を抱いている場合ではないだろう、という指摘は実にその通りとしか言いようがない。
「新しく配属されたんだっけ。私はレヴィア・アスタルテ。よろしく」
「……アイカです、よろしくお願いします」
私が短く挨拶を返すと、アイカは警戒を隠そうともせず無愛想に名乗った。私の二の腕はぎゅむっと掴まれたままだ。そろそろ痛くなってきた。
「二人の活躍は食堂でも話題になっていたね。特に君は、最近かなりの成果を上げているとか」
「……そう?」
「いや、素晴らしい事だよ。努力が実を結ぶというのは、見ている側も気持ちが良いものだからね」
ヴィクトムの笑顔は全く途切れない。褒められている筈なのに、どうにも落ち着かない。
私は他人から向けられる感情に敏感な方ではない。そもそも、他人が私をどう評価していようと、任務に支障がなければ気にする必要もないと思っている。
けれど、この青年の視線には妙な違和感があった。まるで、私という人間を評価しているのではなく、私の中の何かを引き摺り出そうとしているような違和感が。出会って間もないというのに、このような接し方をされなければいけない理由が分からなかった。
……もしかして、過去にどこかで出会っていたりするのだろうか。全然身に覚えが無いのだけれど。
「お前、何してる訳?」
背後から気怠げな声がした。アイカの肩越しに、もう一人の青年が姿を現す。
短い黒髪に、こちらも端正な顔立ちだ。ヴィクトムと違い、私たちとそれほど年齢が離れているようには見えない。背丈も長身のヴィクトムより低く、私よりは少し高いくらい。
……彼もやはり、食堂で見かけた。嫉妬に満ちていた三人組を、この世全ての不快を詰め込んだような視線で流し見していた隊員だ。あの時嗤っていたヴィクトムの、すぐ向かいに座っていた……。
彼は私たちに一瞥をくれたものの、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
「おや、ユウゴ。とっくにボクたちの部屋に戻っていたのかと思っていたよ」
「支部の構造を確認してただけだ。今日初めて来たんだから必要な事だよ。迷子にでもなってみろ、一生の恥さ」
「君らしいね」
ヴィクトムは困ったように笑った。その笑みは、私に向けていたものとはガラリと変わっている。計算された表情の動きではない。
ヴィクトムと同じく新入りなのだろうユウゴと呼ばれた青年は、私たちに挨拶する事もなくそのまま横を通り過ぎようとする。
「……あ、あの、ユウゴさん、でしたっけ?」
アイカが思わず声を掛けた。ヴィクトムの例があるので、新入りにはしっかり挨拶をせねばという義務感に突き動かされたのだろう。しかし、彼は足を止めなかった。スタスタと、それでいてどこか億劫そうな足取りで廊下の奥へ消えていく。
「なっ、何なんですかあの人! 難聴ですか? 難聴なんですか? よく訓練生を卒業できましたね!? とっても失礼ですね!?」
アイカはヴィクトムに怖気づいていた事すらすっぽ抜けたらしく、私の後ろから飛び出して大声を上げる。良かった、いつもの調子に戻ったみたいだ。
「すまない。あの子、少し人付き合いが苦手なんだ。代わりに非礼を詫びるよ」
ヴィクトムが心の底から申し訳なさそうに頭を下げた。
「後でよく言い聞かせておくから、容赦してくれないかな。折角戦闘員としての先輩に会えたのだから、もう少し話をしていたかったのだけど」
「……別に、気にしてない」
私がそう答えると、彼はほっとしたように笑った。
「ありがとう。じゃあ、またいずれ。これからよろしくお願いするよ、二人とも。……そうだ」
ヴィクトムはもう一度丁寧に頭を下げると、不意に私との距離をぐっと詰めてきた。「びゃっ!」とアイカが私から飛び退いて彼から物理的に遠ざかる。
彼は気にせず、自由だった私の右手をするりと取って、一方的な握手をしてきた。浴場でいつもの黒い手袋を外したせいで、温かくもあって、どこか冷たくもある不思議な感触が手の平から手首、腕へと駆け上ってくる。その握手は、鍛え上げられた堅い男の人の手というよりも、ほっそりとした女性の手を思わせた。彼はもしかして、女隊員だったりするのだろうか……?
私が突如として自分の手に襲来してきた感触に呆然としていると、ヴィクトムはにやりと笑った後、ぐいっと繋がれた手を引っ張ってきた。引き寄せられるままに前のめりになった私の額が、彼の肩にぽすんと埋まってしまう。耳元に唇が寄せられる気配がした。
「ボクは特に、君と仲良くなりたいんだ。任務以外でも交流を続けていきたいと思ってる。そっちでも、是非よろしく頼むよ……ミス・レヴィア」
瞬間、聖従に至近距離まで肉薄されたのかと錯覚した。
目の前の『生物』から何をしてでも逃れろ、という本能が血流に乗って私の全身を疾駆し、神経をざわざわと揺さぶる。
「……ッ!」
私は思わず握られた手を振り払った。次に目の前の存在を突き飛ばそうという考えが過ぎったが、これ以上接触するのも避けたくてそれを中断し後方へ跳んだ。
ヴィクトムは、握手をしていた自分の手の平を少しだけ名残惜しそうに見つめていた。五指をゆるりと開いたり閉じたりしている。彼の珍しい紫紺の瞳には、突然振り払われた無礼に対する憤りは微塵も無かった。その光景が、どうしてか余計に恐ろしかった。
「失礼。新入りとして、どうしても人間の『握手』という友好的なスキンシップを実践してみたくなって」
「…………」
ヴィクトムは切れ長の双眸で、動揺を押し殺すこちらをじろりと観察してくる。私が言葉を失っているのを良い事に、弾む声色で好き勝手な感想を並べた。
「君の手は、戦士としての道を強いられるには綺麗過ぎる。……もし此処に所属していなければ、きっと傷一つない素敵な女性になっていただろうに、惜しいね」
「余計な……お世話」
「それはそうだ、すまない。ではミス・レヴィア、ミス・アイカ。ボクはこれで。また色々話そう。次は、もっと親密な仲になれたらいいと願っているよ」
そう言い残して、彼はユウゴが去っていった方へと続いた。
さっき「ボクたちの部屋」、と言っていたので、あの二人はきっとペアなのだろう。部屋が同じなのだ。では、どちらが戦闘員で、どちらがオペレーターなのか。……任務で、顔を合わせる事が今後あるのだろうか。
彼の背中が廊下の角へ消えると、アイカは私に抱きついてきた。
「なっななな何ですかあの男! 私のレヴィアさんに! 私のレヴィアさんに触れやがりましたよ!? これはもう、喧嘩です! 喧嘩売られてます!」
「アイカ、静まって」
「あああああ私のレヴィアさんが穢されました! レヴィアさん駄目ですよ! 女の子は男の人に触られると子供ができるんだって昔兄が言ってたんです! 駄目ですよ! 子供なんて絶対駄目です!」
「それお兄さんに騙されてるよ。子供なんて人工子宮にしかできないでしょ?」
「そういう話じゃないですぅ! 旧人類はッ! 女の人が子供を産んでいたんですよ!? レヴィアさんも子供ができちゃう可能性がゼロとは言えないんですぅ!! 先祖返りですぅ!!」
「アイカ、ここ居住区。寝てる隊員を起こしそうな騒ぎはやめて」
「ごめんなさいっ!」
私はうっすら涙すら浮かべている彼女をよしよしと宥めつつ部屋へ向かった。
子供ができるなんて大袈裟だ。滅亡に抗う為、効率の為、月経と排卵を捨て去った人類の肉体にはまず形成されないものなのに、あり得ないぐらい迫真の勢いで心配された。
歩きながら、思い浮かべる。
ヴィクトム・バズヴという青年。
礼儀正しく、社交的で、誰とでも上手くやっていけそうな隊員。
それなのに、あの探るような視線だけが強く印象に残っていた。
私に対して、いったい何がしたいのか。……考えても分からない事を、今ここで考える意味はない。
私はその疑問を頭の片隅へ追いやり、アイカを引き摺って自室へと戻った。
ようやく部屋の中へ入ると、アイカはベッドに腰を下ろし、長い溜め息を吐いた。
「……はあ。本当に、明日からどうなっちゃうんでしょうね」
「さあ。詳しい話を聞いてみないと分からないよ」
「レヴィアさん、上級戦闘員になっちゃったりするんでしょうか」
「いきなりそこまで上がるとは限らないでしょ」
「そ、そうですよね。うう、でも、ドミニク上官って合理主義者で有名ですし……」
アイカは不安そうに頭を抱えた。私は寝間着に着替えて就寝準備を整える。
等級が上がる。任務の内容が変わる。今までとは違う敵と戦う事になるかもしれない。
言葉にしてみれば、確かに大きな変化なのだろう。
けれど、今の私にできる事は何もない。明日、話を聞く。それまでは休む。それで充分だ。
「アイカ。明日に備えてもう寝るよ」
「……はい。分かりましたよぅ」
部屋の照明を落とす。それぞれのベッドへ入り、毛布を被った。私を暖かく迎え入れた寝具は、心地よい感触を全身に提供してくれる。この至福は、民間人の居住区では味わえないだろう。
隣から、アイカの小さな声が暗闇を渡って飛んできた。
「……レヴィアさん」
「なに?」
「等級がどうなっても。これからも……よろしくお願いしますね」
「……うん。こちらこそ」
今まで何も変わらない日々を過ごしていた筈なのに、気が付けば私の周囲では、少しずつ何かが変わり始めている。揺らぎの一つもなかった湖面に、突如として波紋が広がるように。
新しい才能を知らされ、昇格の話まで持ち上がった。帰り道では、奇怪な新人に接触された。
明日からは、今までとは少し違う生活が幕を上げるのかもしれない。
……それでも、私の為すべき事は何一つ変わらない。起きて、任務をこなし、食べて、眠る。それだけの話なのだ。
「おやすみ、アイカ」
「……おやすみなさい、レヴィアさん」
目を閉じると、今日の出来事がゆっくりと意識の奥へ沈んでいった。
明日がどんな一日になるのか。
それを知るのは、まだ少し先の話だった。
* * *
居住区の別の一室。
扉が閉まると同時、入ってきた長身にユウゴは露骨に嫌そうな顔をした。
「……お前、何であいつらに声を掛けたんだ」
寝間着に着替えながら、ヴィクトムを睨む。時折見え隠れする瑞々しい肌には、幾つもの痛々しい切り傷がくっきりと刻まれていた。
その傷を目にした瞬間、ヴィクトムの眉間には注視しないと気付かないほどの皺が、ほんの薄ら浮かび上がった。彼は何事も起きなかったかのように、取り繕った明るい声で返す。
「おや、挨拶をしただけじゃないか。そう不機嫌にならないでおくれよ」
「必要無かっただろ。面倒事を増やすなよ」
「そうかな? 才能を掘り出されたばかりの戦闘員と友好的な関係を築いておくのは、将来の為になると思うけどね」
ヴィクトムは涼しい顔で答えた。ユウゴは納得がいっていない顔だ。
「特に、ミス・レヴィアはこれから立場が変わる可能性がある。今の内に知り合って損はないだろう?」
「僕はお前の人脈作りに付き合うつもりはない」
「人脈作りだなんて、大袈裟な。ちょっとしたご挨拶だよ」
「お前にとって『ちょっとした』事でも、僕にとっては死ぬほど面倒」
ユウゴはそれ以上話す気がないらしく、着替えを終えると早々にベッドへ入ろうとした。その背中にヴィクトムが声を掛ける。
「それに、あの少女には個人的な興味が湧いたんだ」
ユウゴは振り返らなかった。無機質な相槌だけが返される。
「……ふーん」
「それだけ?」
「僕はお前の興味なんてどうでもいいけど。変に関わるなよ。人付き合いなんて面倒なんだから」
ヴィクトムはしばらく、自身のペアとなる青年の背中を見つめていた。やがて、困ったように微笑む。
「本当に君という奴は……。その社交性のなさは、どうにかならないものかな。将来苦労するよ。人類は、自ら孤立に向かう者を切り捨てる醜い習性を持っているんだから」
「あー、うるさいうるさい。お前は僕の母親か何かか? 血も繋がってないんだから、口を出さないでくれるか?」
「血が繋がっている人間しか君に助言できないのかい? それはとても寂しい話だね」
「そういう話をしてるんじゃない!」
普段の調子で言い返したユウゴだったが、不意にヴィクトムが黙り込んだ事に気付いて振り返った。
笑みが消えている。
先程までの軽薄さが嘘のように、彼の表情は静かに凪いでいた。
「……この組織は、随分と腐った悪臭がする」
ヴィクトムは独り言のように呟いた。声に、二人の少女には見せなかったほんの僅かな憤りが含まれている。
嫉妬を曝け出していた女隊員を嘲笑った姿を知られても。強引なものとはいえ握手を乱暴に振り払われても。決して浮かばなかった憤りの色が、彼の瞳の中にちろちろと浮かんでいた。
「酷い悪臭だ。『上』の方から漂ってくる」
「……は?」
ユウゴは怪訝そうに眉を寄せ、天井を見上げた。しばらくしてもう一度ヴィクトムを見つめ返す。
「別に何も臭わないけど」
「……そうだろうね」
ヴィクトムはユウゴを真っ直ぐに見つめた。その表情には、今までのような愛想の良い笑みは浮かんでいなかった。
「……ボクは、君まで腐らせるつもりはないよ」
声量自体は、大きくない。しかしそれは確約を証明するかの如く、明白で力強い声だった。
「…………」
数秒ほど沈黙を保っていたが、ユウゴは興味を失ったのか先に顔を逸らしてしまう。
「ふーん、あっそ。どうでもいいから寝る」
そう言い捨て、彼はベッドへ潜り込んだ。布団を頭まで引き上げ、完全に会話を拒絶する体勢に移行する。
「……まったく」
ヴィクトムは小さく息を吐いた。その顔に怒りは見えない。むしろ、目を離せない雛鳥を見守るかのような、柔らかい表情だった。
「うん、おやすみ。良い夢を」
「……」
返事はなかった。すぐに狸寝入りではない本物の寝息が聞こえてくる。あまりにも迅速過ぎる寝付きだった。
ヴィクトムは寝息に耳を澄ませながら明かりを消し、自分のベッドへ向かい静かに横たわった。長身を受け止めた上質なスプリングが、ぎしりと控えめな音を一つ鳴らす。
暗闇の中で、彼はしばらく目を開けていた。やがてゆっくりと瞼を閉じる。
今夜はまだ、何も動かす必要はない。焦る理由もない。
時間をかけて、確実に己の目的を果たしていけばいい。
脳裏に浮かぶのは、食堂で初めて直視した一人の少女。
肩まで伸びた真っ直ぐな栗色の髪。右側頭部で結ばれていた純白のリボン。全身を真っ黒なフード付きのレインコートに身を包んだ、黒づくめの少女。
絶妙に心理を暴きづらい真っ黒で無感情なあの瞳には、こちらを聖従の如き『得体の知れない生物』か何かだと警戒する光が宿っていた。
……観察は得意だと、彼女は言った。考え無しに近付くのは一定のリスクが常時付き纏うだろう。
だが、それでも。
彼女――レヴィア・アスタルテについては、リスクを背負ってでも詳しく調べるに値する価値が秘められている。
それだけは、確かだった。
* * *
「あ~~~食べたい食べたい食べたい食べたい! 私も食べたいよぉ~~~!」
白い少女が、唐突に暴れ出した。
西洋のお姫様が住んでいてもおかしくないような、豪奢な天蓋付きのベッドの上で。みっともなく全身を大の字におっ広げながら、バタバタと四肢を振り回している。
「私も人間の食べ物、食べた~~~い! ねえねえねえ、アブド、『らーめん』って美味しいのかなっ?」
思い出したように動きを止め、ベッドから顔を上げた少女は傍らに突っ立っていた生物へ疑問を飛ばした。
アブド、と呼ばれたその生物は、人間と同じ造形をしていた。
額の中央から緩く反るような形で生えている一本角、頭上に浮かぶ三つの眩い光輪、両耳にあたる部分から白鳥のような翼が生えている事、皮膚の色が常人には有り得ないぐらい真っ白である事。それ以外は、殆ど人間のような姿だった。
癖毛のように上を向いて跳ねた銀髪は、人間と違って彫刻のような硬質感を醸し出している。両目は左右それぞれで色が異なっており、左が薄紅色、右が鼠色だった。
「……『らーめん』、それは食物の名称?」
その生物は、人類から
人語を理解し、命令を忠実にこなし、必要とあらば自ら判断して行動する事ができる。数多く存在する聖従の中でも、ひときわ知能が高く、優秀な個体であった。
「そうそう! なんかね、すっごく美味しいらしいって聞いた!」
「どこでそんな情報を」
「ん~……どこだったかな?」
少女は首を傾げた。頭上の光輪も一緒になって斜めに傾いた。
「まあ、どこだって良いじゃん! 味がね、なんかいっぱいあって、家畜の骨を煮たやつとか、お魚を煮たやつとかで、味が違うんだよ! すっごく気になるじゃん!」
「……イオ」
「なあに?」
イオと呼ばれた神を名乗っている少女は、にっこりと屈託のない笑顔を浮かべてアブドを見つめた。呼び捨てにされても、彼女は少しも不機嫌な様子を見せなかった。
「イオには、食物を摂取する為に欠かせない消化器官がない筈」
「うん、知ってるよ?」
「したがって、現状では何も口にする事はできない」
「う~ん……」
イオは考え込むように顎へ指を当てた。そして何でもない事のように言い放った。
「じゃあ、作っちゃおうかな。消化器官」
「は?」
「だってだって、食べてみたいんだもん。私も人間と同じ事してみた~い! そしたら、いつか人間とも良い『思い出話』ができると思うの!」
アブドは沈黙した。主人の思いつきに、いちいち驚くのはきりがないとでも言いたげな態度。
会話を振られる前後で、表情は全く動かない。否、表情を変えるという当たり前の機能など、人間ではない聖従には搭載されていないのかもしれない。
「勝手にすればいい。でも、不要な機能の追加は肉体の構造を複雑にするだけ。作り変えるエネルギーも勿体ないと思う」
「え~、いいじゃん。楽しそうだし」
イオは唇を尖らせた。その様子は、まるで新しい玩具を欲しがる子供のようだった。
「……ところで、イオ」
「ん?」
「前から言っているけど、地球を滅ぼすだけなら、これほど長い時間を掛ける必要はないと思う。イオの持つ力なら、今すぐにでもやり遂げられる筈。何故とっとと滅ぼさない?」
アブドの問いかけに、イオはすぐに答えなかった。代わりに、ふと思い出したように自分の首元へ指を伸ばす。
「あっ、そういえば!」
白い肌に、ごく浅い傷が残っていた。傷口は既に塞がりかけている。放っておいても、いずれ消える程度のものだった。
「この前のラナって子、面白かったねぇ! ほら見て、首と胸のところ、切り傷ができちゃった!」
イオは嬉しそうに斜め上へ頭を傾け、続いて白いワンピースの胸元を露わにし、アブドに傷を見せつけた。
首を中央から横へ真っ直ぐに斬り付けたような傷と、右肩から胸元へ斜線を走らせるような袈裟斬り状の傷が、彼女の美しい柔肌の上で存在を弱々しく主張していた。どの傷も、消しゴムを何度か擦られたように非常に薄くなっている。
「……イオ。地球上の人類において、女が不必要に肌を晒す事は、上品な振る舞いとは言えない。とっとと衣の位置を戻すべき」
「え~? これくらい別にいいじゃん」
「それに、その傷もとっとと治すべき」
「別にこんなのいつでも治せるけどさ~、面白いからまだ残してるの!」
イオはあっけらかんと答えた。アブドに言われた通り、着衣を整えながら。
「何故残す?」
「だって、私の事、あんなに一生懸命斬ろうとしてたんだよ? 面白いから記念に残してるの! 人間が会いに来たのも、すっごく久しぶりの事だったしね」
その声に、怒りも憎しみも込められてはいなかった。
ただ、珍しいものを見付けて上機嫌な子供のような、無邪気な感嘆がそこにあるだけだった。
アブドはそんな主の横顔を、どこか呆れたような鈍い動きで見つめた。
「そんなに面白い?」
「うん! 頑張ってる子を見るの、面白いよ! 人間はスゴイ生き物だなって思わせてくれるし」
満面の笑みで頷くイオだったが、それは突然止まる事になった。
「そういえば、あの子……。あの時の……」
呟いた言葉の意味は、アブドには完全に理解する事はできなかった。
イオはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思いついたようにがばっと顔を上げる。
「ねえ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「言えばいい」
「『原宿』って場所の様子を見てきてほしいんだ~。今、どうなってるのか確認してきて。必要なら、他の『お人形』たちも連れて行っていいから」
『お人形』。それは彼女が使う呼び名だった。自身が生み出した生物に対する呼称。『聖従』は、人類が勝手に定めた呼び方に過ぎない。
「……『原宿』、そこに行けと?」
「そう。お願いね?」
イオは再びにっこりと微笑んだ。アブドはもっともな疑問をぶつける。
「イオが自分で行けばいい。その方が確実だと思う」
「え~っ、私が?」
心底嫌そうな顔をして、彼女は拳を握り込んだ両手を振り上げた。
「私が直接行っちゃったら、
「……分かった。行ってくる」
アブドはそれ以上追求しなかった。
主人には主人の考えがある。それを理解し、汲み取り、必要な行動を取るのが自身の役目だからだ。
「よろしくね~!」
アブドが裸足のままペタペタと歩いていき、真紅の絨毯の上を横切って、豪奢な内装の部屋から出ていった。その背中へぶんぶんと片手を振っていたイオは、再び首元の傷を指先で弄った。
「……あの時、ちゃんと七人全員殺していたらなぁ。な~んにも問題無かったんだけどなぁ」
誰に聞かせるでもなく零された言葉が、静かな空間に溶け込んでいく。
神を名乗る少女は、部屋に一人残されたその時、初めて。
無邪気な笑みを完全に消し去り、果てのない谷底のような漆黒の瞳を、鋭く細めていた。
その瞬間は。
必要とあらば誰であろうとも容易く命を奪ってみせる、冷酷な殺人者の眼差しそのものだった。
新入り二人の名前があのヴィクトル・ユーゴーをもじったものみたいになってるのはマジの偶然です自分でもびっくり。
ちゃんとした由来がある名前をつけてたらなんかこうなってしまった