早朝の澄んだ気配が漂う街路。
気持ちのいい空気だ。
ニートは朝の散歩が好きになるというが、気持ちがわかる気がするよ。
僕はもうニートじゃないけどね。作曲代で印税たくさん貰えるみたいだから違うよね。たぶん。
駅へと続く道並みは穏やかで、歩く僕の足取りは驚くほど軽やかだった。
頭の中で新曲の展開を反芻し、『透明なシンフォニア』の完璧な仕上がりを再確認していた、その時。
「……秋彦くん?」
背後から、透き通るような声で呼びかけがあった。
げ。
めちゃくちゃ聞き覚えのある声。
振り返って目にしたのは、上質なネイビーのタイトスカートに、上質な白のブラウス。隙のない女性用スーツを着こなした姿。
よれよれの服を着た僕とは、実に対照的だ。
名門大をストレートで卒業し、大手コンサルティングファームで働く彼女は、同い年とは思えない隙のないオーラを纏っている。
凛だった。
「やっぱり……秋彦くん。こんな朝から、どこに行くの?」
整った顔立ちのまま、凛はほとんど表情を変えずに僕を見つめてくる。
涼しげで知的な目元。
あんまり顔に出ない無表情だが、僕にはわかるぞ。その瞳には明らかな呆れの色が浮かんでいた。
「り、凛……。なんでこんなところに? 出社は逆方向じゃなかったっけ?」
「今日は直行でクライアント訪問よ。
何やら死相が出ている誰かさんが歩いていると思ったら……案の定」
「死相はひどくないっすかね?」
「事実でしょう。目の下にひどいクマができているわ」
凛はカツカツとヒールを響かせて歩み寄ると、僕の顔を至近距離から覗き込んできた。
漂うシャンプー。なんかめっちゃいい香りがする。
同時に、目の前に迫る胸元の迫力に、僕は思わず視線を泳がせた。
相変わらず……すごい存在感。
小中学校の頃から成長期が暴走していたが、スーツを着るとその立体感が余計に強調されて毒性が増している。
凛は僕の視線に気づいた風もなく、はぁ、と小さく溜息をついた。
「また徹夜で……『おさくひん』とやらを作っていたの?」
「失礼だな、作曲だよ。あと『お作品』って言い方にトゲない?」
「似たようなものよ」
凛は腕を組み、冷ややかな視線を僕に向けた。
腕を組んだことで、その豊満な胸元がさらに強調され、ブラウスのボタンが悲鳴を上げている。
サイズ間違えてない?
「……ねぇ、秋彦くん。私、ずっと心配しているのよ」
「え? 何を?」
思わず目を逸らしてしまった僕に、凜はやや声色を柔らかく変えて話しかけてきた。
何か心配してくれてるらしい。
――まぁそれもそうか。
ふっ。
凜は……何を隠そう、僕の彼女なのだ!
5年間も無職ニートな僕。
一向に評価されないポップス。
生きづらい世の中だよね。
でも、大丈夫。
そんな僕にも、理解のある巨乳彼女ちゃんがいたのでした!
「何をって、あなたのことに決まってるじゃない。
大学を中退してまで『作曲家になる』なんて言い出した時も止めたけれど……
もうあれから5年でしょう? そろそろ現実を見たらどうなの?」
理解のある……
「ただの幼馴染とはいえ、ずっとそんな様子見てたら心配にもなるわ」
彼女ちゃん……
巨乳なのは本当です。
信じてくれ。
「そこまで考えてくれてありがとう。
でもまぁ、元気でやってるからさ! なんなら今日も納品しに行くところだし」
「納品? ホントかしら……?」
とにかくこの場をやり過ごそうとする僕を、ジト目で見つめてくる凜。
今までの体たらくを知っているだけあって、納品に向かうという発言を、相当疑っているらしい。
「はぁ……。あなたの作る音楽がダメだとは言わないわ。
昔、ピアノで弾いてくれた曲は綺麗だったし……でも、世の中は甘くないの。
需要のないものにどれだけ時間をかけても、それは自己満足でしかないわ」
深いため息をつくと、凜は説教を始めた。
疑ってるっていうか、完全に嘘だと思われてるね、これ。
「5年やって結果が出ないなら、それは才能がないの。
自分の置かれている惨状、少しは客観的に分析したらどうかしら?
需要がないものを作り続けて、実家に寄生して……あなたのお母さんも心配してたわよ」
何と正論百裂拳。
世紀末なら死んでたね。
でも今は令和だから、世紀末にはまだ早い。
その程度の説教で歩みを止めることはないよ!
「まぁ、見てなよ。いつか絶対ビッグになるからさ!」
話をさっさと切り上げたくて、適当なことをいう僕。
自分で言っててなんだが、やばいなこいつ。
案の定、とてつもなく呆れたといった表情になった凜だが、そんなとき丁度彼女のスマートフォンが震えた。
画面を確認し、小さく息を吐く。
「……時間ね。クライアントとの打ち合わせがあるから、もう行くわ」
凛はスマホをバッグに仕舞うと、僕をまっすぐ見つめた。
「あっく……秋彦くん。夢を見るのは悪くないけれど、現実から逃げるための手段にしないで。
……じゃあ、また」
それだけ言い残すと、凛はカツカツと颯爽と歩き出し、駅の改札へと消えていった。
なんか言いたいことだけ言って去ってったな。
丁度いいタイミングで時間が来てくれたようで助かったよ。
前なんか半日地獄の説教コースだったもん。
彼女は何が楽しくて、ただの幼馴染を詰めるのか。
凜とは小学校からの結構な付き合いだけど、どういう行動原理で生きているのか、未だに謎だ。
にしても、現実から逃げるな、かぁ。
……逃げたのは凜の方じゃないか。
まぁいいや。
今更僕はそんなこと気にしてないしな!
「さて……行くか」
僕は胸ポケットのUSBにそっと手を触れ、シェイキング・プロのあるビルへと足を進めた。
★
「アキヒコ先生! 待ってましたよ!」
事務所のドアを開けた瞬間、坂本さんが子供のように飛び出してきた。
先日話した時の号泣が嘘のように満面の笑みで、僕をソファへと案内する。
テーブルの上には高級そうな缶コーヒーと、すでに印税契約の書類が用意されていた。
「いやあ、取材もCDの受注も止まらないよ!
レコード会社も、アキヒコ先生の次のロック曲を喉から手が出るほど欲しがってるんです!
……で、電話で言ってたことはマジかな? 早速作ってくれたって?? 伝説の第二弾を!!」
残像が出そうなくらい高速で、もみ手をする坂本さん。
今までとは全然違った対応すぎる。
でもそこまで言ってくれると、僕も悪い気はしない。
「……ええ、持ってきましたよ。
今の僕の、すべての情熱を注ぎ込んだ最高傑作です」
僕は胸を張って、大切に温めて持ってきたUSBメモリを取り出した。
――そう納品すべきはこの曲『透明なシンフォニア』
凜は僕を無職と呼んだが、今の僕はただ寝転ぶ無職ニートではない。
作曲し納品した今、有職ニートだ!!
『Aaaaaaaっ!』が大ヒットしたおかげで、僕の自信は爆上がりした。
今の僕ならいける――今の僕なら、本当の音楽を世界に届けることができるはずだ!
あの程度の曲で感動するようなレベルの低い社会なら、僕のポップスなら簡単に上を飛びえられる。
今度こそ完璧な音楽理論と、副交感神経を優しく包み込むこのメロディを、人々の脳に叩きつけてやるのだ。
これを聞けば、坂本さんも、街の人々も、妹も、全員が涙を流して本当のポップス――真の音楽に開眼するはずだ。
「「「今まで狂っててごめんね!」」」
ああ、謝罪の斉唱が聞こえる。
イかれたこの世界を、僕が再構成するのだっ!!
「これこそが、次なる曲、僕の魂……『透明なシンフォニア』です!」
「おおっ……! これが……!」
坂本は聖遺物でも扱うかのように恭しくUSBを受け取ると、PCに接続し、スピーカーの位置を丁寧に整えた。
「それでは聴かせていただきます、アキヒコ先生の新たなる衝動を……!」
坂本さんは固く目を閉じ、再生ボタンを押した。
~~♪
イントロが始まる。
計算し尽くされたストリングスの旋律。
優しく寄り添うピアノのコード。
大衆の心を掴んで離さない、完璧なBPMとAメロの展開——。
僕はソファで腕を組み、心の中で満面のドヤ顔を浮かべていた。
(どうだい坂本さん……!
これが本物の音楽だ。あの暴力的な雑音とは違う、洗練された芸術だろ……!
音大中退を舐めるなっ)
最初の10秒。
坂本さんの表情は、神曲を聴く準備で満ち満ちていた。
……20秒。
坂本さんの眉間が、かすかにピクリと動く。
……30秒。
閉じられていた目がゆっくりと開いた。
その瞳には溢れんばかりの期待……ではなく、明らかな困惑が浮かんでいた。
(……ん? どうしたんだろう? Bメロの転調に驚いているのかな?)
……40秒。
坂本さんの顔から笑みが消えた。代わりに唇を噛みしめ、何とも言えない苦痛と、気まずそうな苦笑いが浮かび上がる。
しきりに首をかしげ、覗き込んだモニターで、何度も画面の波形を確認している。
そして、サビに入る直前――
ポチッ。
坂本さんは静かに再生を止めた。
完全に無表情。
え、なんで?
部屋の中に、気まずい沈黙が流れた。
「……あの、坂本さん? 最後のサビ前で、すごくドラマチックなストリングスが――」
「あー……うん。アキヒコ先生」
坂本さんは顔を引きつらせ、頭をポリポリと掻きながら言った。
「えーっと……なんて言うのかな。綺麗だね。
すごく……うん、丁寧に作られてると思うよ」
「で、ですよね! 音楽理論の限界まで――」
「いや、あのさ」
坂本さんは苦笑いを深め、手をひらひらと振って僕の言葉を遮った。
「こういうのは、いいから」
「……え?」
「こういう普通のやつは、他のそこらへんの作曲家に頼めばいくらでも上がってくるからさ。というか、今うちが求めてるのはこういうのじゃないんだよ」
坂本さんは慈愛に満ちた表情で、僕の肩をポンポンと優しく叩いた。
その謎の優しさが、ナイフのように僕の胸に突き刺さる。
「もっとさ! あの『あああああああ』みたいな奴ちょうだいよ!
あの、聞いてる側の脳みそを直接殴りつけてくるような狂気!
世界をバカにして書いて打ったみたいな、あの最悪で最高なロック!
あれが欲しいんだよ!」
「……っ!」
「頼むよアキヒコ先生! こんなお行儀のいいポップス書いてる場合じゃないって!
次もあの『あああああああ』みたいな神曲で、世界をブッ壊してくれよ!」
坂本さ――坂本の野郎は無邪気な笑顔で、僕が魂を削って作ったUSBを「はい」と手に戻してきた。
――
帰り道。
トボトボと歩を進める夕暮れ時の商店街には、相変わらず僕の作った『Aaaaaaaっ!』が爆音で流れていた。
ガギィィィィィィィィン!!!!!!
人々がその音に合わせてノリノリで歩いている。
誰もがあの10分の雑音を愛し、僕が命を懸けたポップスなど誰も求めていないんだ。
手に握りしめたUSBが、あまりにも重かった。
「……なんでだよ」
ゾンビのように歩く影が、夕日に長く伸びていく。
大ヒット作曲家として持て囃されながら、僕は世界で一番惨めな気持ちで、ただ静かに家に帰るのだった。
★
家に帰り、なんかムカついてきた。
渾身のポップスが貶され、あのゴミみたいなロックが持て囃される。
なんか間違ってなぁい?
「……絶対に、何かかがおかしい」
自分の部屋に入り、バンッと乱暴にドアを閉めた。
鞄を床に放り投げ、デスクの前にどっかりと腰を下ろす。
胸の奥から、ドロドロとした熱い「ムカつき」が込み上げてきていた。
これは電撃イライラ棒。
印税100万もらっても許せない。
僕が何年も勉強し、緻密に計算し、丹精を込めて作り上げたポップスが苦笑いひとつで却下され、10分チャージの雑音が街中で持て囃されている。
世界が狂っているのだ。
絶対に間違っているのだ。
「いいだろう……そこまでロックがいいって言うなら、作ってやろうじゃないか」
僕はパソコンの電源を叩きつけるように入れた。
だが、あの『あああああああ』みたいな、ただ歪んだギターを暴走させただけの悪意の塊。もう一度作る気にはなれなかった。
あんな品のない暴力を、また作ってたまるか。そもそもあんな不快な音、家で妹に聞かせられたもんじゃない。
「どうせロックを作るなら、せめて趣向を変えてやる」
僕は不敵な笑みを浮かべた。
狙うは、日本ナイズされた綺麗な青春ロックだ。
イメージするのは夏の日差し。
キラキラとした放課後の夕道、青空、汗、甘酸っぱい甘酸っぱい青春の1ページ。
ロックという荒削りなジャンルの中に、僕が得意とするキャッチーな旋律と綺麗なコード理論をこれでもかと注入してやる。
「これなら文句はあるまい。暴力的で下品なロックに毒された連中の頭を、爽やかな青春の風で冷やしてやる」
怒りに任せてキーボードを叩く。
カチ、カチ、カチ――
ギターの音色は歪みを極限まで抑え、透明感のあるクリーンで爽やかなカッティングに設定。
ドラムはあんな狂ったBPM190の連打ではなく、跳ねるような心地よい8ビート。
ベースもルート音放置ではなく、メロディアスに動き回るラインを組み立てる。
「Bメロからサビへの接続は、王道のIV→V→IIIm→VIm……!
イントロには爽やかなピアノのオブリガートを添えて……」
……怒りに任せて作業を進めていたはずだった。
だが、打ち込みを開始して15分。
綺麗な青春ロックの骨組みが出来上がっていくにつれ、僕の心の中に冷ややかな感情が広がっていった。
「…………」
画面上の波形を見つめ、僕はぽつりと呟いた。
「……やっぱロックって、アホだな」
つくづく馬鹿らしくなってきた。
こういった爽やかな青春を表現したいのなら、絶対にストリングスと管楽器をふんだんに使った、透明感あふれる王道ポップスでやった方が100倍表現力が高いはずなのだ。
なぜわざわざバンドサウンドという限定された楽器構成で、縛りプレイ劣化品を作らなければならないのか。
ケッ。
青春を描くならポップス一択だろうが。
「アホくさ。何が青春ロックだ」
自分の中で一気に熱が冷めていくのがわかった。
そのままの感情で完成した綺麗な青春ロックは、僕から見ればポップスになりきれなかった中途半端な曲にしか思えなかった。
それからやる気を完全に失った僕は、残りを適当にジャカジャカ肉付けして終わった。
随分長いこと作ってた気がしたけど、たったの20分でできてしまった。
ははっ。20分でできる曲が、まともな音楽なわけがない。
「まあいいや。坂本さんもこれを聞けば、自分の頼んでいたロックってのがいかにアホらしくて、僕のポップスの方が優れているかに気づくだろう」
相変わらずタイトルを入力するのも面倒くさい。
ファイル名:『青.wav』
青春になりきれなかった半端ものという意味である。
僕は深い溜め息をつきながらファイルを添付し、坂本のメールアドレスへ送信ボタンを押した。
「どうぞ、お望みのロックですよ」
画面を閉じ、僕はPCの電源を落とした。
これで坂本も目を覚ますはずだ。「私の耳が腐っておりましたぁ! やっぱりアキヒコ先生のポップスが一番です!!」と平謝りしてくる未来を思い浮かべながら、僕はベッドへ投げ出すように体を横たえた。
★
「坂本さん、これ……何すか?」
スピーカーから流れてくるのは、やけに綺麗なストリングスとピアノの調べ。
デスクで音源を整理していた若手スタッフが、心底から拍子抜けしたような顔で尋ねてきた。
「ああ……アキヒコくんが、今朝くらいに持ってきたポップスだよ」
坂本は缶コーヒーをすすり、苦笑い。
やけに自信満々に持ってくるから、あの『あああああああ』を超える暴力的で狂気的なロックが聴けるのかと興奮して再生したものだ。
しかし、スピーカーから流れてきたのは、丁寧で、綺麗で、どこまでも無難な優等生のポップスだった。
「……あー、やっぱり。彼のポップスはダメっすねー」
若手スタッフは肩をすくめ、あからさまに落胆した溜め息をつく。
「綺麗なんですけど、なんかこう……心に引っかからないというか、味のしないガムというか。
で、本命のロックはまだなんですか? レコード会社からも『次の曲の予定は?』って催促の電話が鳴り止まないんですよ」
「そろそろ届いてもおかしくないんだが……」
坂本はスマホの画面に目をやった。
事務所に来たアキヒコには「こういう綺麗なのじゃなくて、あの狂ったロックを頼む」と、はっきり伝えて送り返した。
不貞腐れた表情だったが、はいはい分かりましたよと、確かにそう言って帰っていった。
心がロックなあいつのことだ。
きっとプライドを傷つけられながらも、部屋に閉じこもって新しい衝動を練り上げていることだろう。
その時。
――ピコン
メールの受信音がオフィスに響いた。
差出人:アキヒコ
件名:空欄。
添付ファイル:『青.wav』
「来たぞ……!」
背を起こす坂本。
その声に、事務所内にいた3人のスタッフが一斉に弾かれたように振り向いた。
「マジですか!? もう出来たんですか!?」
「今度はどんな狂気がっ……! 早く再生してください!」
オフィスの中に、サッとした緊張が走る。
スタッフたちがゾロゾロと坂本のパソコンの周りに集まり、息をのんでモニターを凝視した。
「あれ? 意外に普通……ですね?」
波形が読み込まれる。前回の『あああああああ』のような極悪な黒帯(矩形波)ではない。
代わりにしっかりと芯のある、瑞々しい波形が描かれていた。
「バカ。簡単に判断できるものかよ。いくぞ……」
坂本はマウスを握る手に力を込め、再生ボタンをクリックした。
――シャリーン……♪
静寂を破ったのは、あまりにも透明感のある、煌びやかなギターのカッティングだった。
「……え?」
スタッフの誰かが声を漏らした。
前回の耳を劈くノイズではない。だが、次の瞬間――
ドコドンッ!!
疾走感あふれる軽快なドラムが跳ね、メロディアスなベースラインが駆け抜ける。
歪みを抑えた、しかしどこまでも青く、突き抜けるように爽やかなバンドサウンドがオフィスを満たした。
「な……んだ、これ……!?」
イントロからAメロへと繋がるメロディライン。
それは、誰もが胸の奥に閉じ込めていた
放課後の校舎。
夕日に染まるグラウンド。
自転車のペダルを全力で漕いだ帰り道。
汗ばんだシャツと、言えなかった好きの一言――
聴いているだけで、胸の奥がギュッと締め付けられるような、圧倒的な青春の風が吹き抜けていく。
「……っ」
坂本は目を見開いたまま、動けなくなった。
隣にいた若手スタッフの手から、抱えていたバインダーがハラハラと床に落ちた。誰もそれを拾おうとしない。
全員が、食い入るようにスピーカーを見つめ、息をするのも忘れて音の波に呑み込まれていた。
そしてサビに入った瞬間、爽快感は頂点に達する――
くどい装飾は一切削ぎ落とされ、まっすぐストレートに耳へ飛び込んでくる、奇跡のようなメロディ。
「……すごい」
女性スタッフのひとりが、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「なんなんですかこれ……!
私、高校の時の夏休みを思い出して……すごく胸が苦しいです……!」
「バカ言え……俺なんて、30年前の部活の引退試合の日の夕空が見えたぞ……!」
別のスタッフが鼻を啜りながら声を震わせる。
「僕なんか――」
「私には――」
Bメロからサビへ向かうコード進行は、ドラムの疾走感とギターの美しさが奇跡的なバランスで融合していた。
アキヒコ本人が「アホくさ」「ポップスになりきれなかった中途半端な曲」と吐き捨てて作ったはずのその曲は、聴く者全員の
曲が爽やかなフィードバックノイズと共に、余韻を残して終わる。
静寂。
誰も言葉を発せなかった。
前回の『あああああああ』が脳みそを殴りつけられるような衝撃だとしたら、今回の『青』は心を鷲掴みにされて涙があふれ出すような感動だった。
「……坂本さん」
若手スタッフが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を坂本に向けた。
「あの人……化け物ですか……?
狂気的なパンクだけじゃなくて……何でこんな、全人類の胸を打つような綺麗な青春ロックまで作れるんですか……!?」
坂本ですらこみ上げるものを、抑えることができない。
震える手で顔を覆った。
目頭から熱いものが溢れ出てくる。
「あいつは……アキヒコくんは……アキヒコ先生は俺たちの想像を遥かに超えてる……!」
坂本はデスクをドンッと叩いて立ち上がった。
「『あああああああ』が黒の衝撃なら、この『青』は蒼穹の奇跡だ!!
ビビッド・ルージュの第二弾はこれで行く!! これで全世代の心を撃ち抜いて、天下を獲るぞ!!!!」
「「「おーっ!!!!」」」
深夜の事務所に、スタッフたちの歓声とすすり泣く声が響き渡るのだった。