通帳画面を開いたまま、僕はカップ麺の前で完全に固まっていた。
表示された桁数が、明らかにおかしい。
一、十、百、千、万、十万、百万……千万。
「……ほへ?」
二度、三度と目を擦り、目を擦ってもう一度見直してみる。しかし、ネットバンクの数字が減ることはなかった。それどころか、再確認した桁の多さに、今度は目が眩みそうになる。
無職ニートの通帳に、あってはならない数値の加算。
もはやカップ麺が伸びていることも気にならず、僕はしばらく放心していた。
Q:この金額はなんなのか?
A:僕の印税収入です。
そう。
あの『青』は、前作の『Aaaaaaaっ!』を遥かに超える爆発的な大ヒットを記録したのだ。
耳を塞ぎたくなるようなノイズと怒号の旋風だった『Aaaaaaaっ!』とは違い、爽やかで清涼感に満ち溢れたメロディアスな『青』は、地上波のテレビやラジオでも圧倒的に流しやすかったようだ。
大手飲料メーカーによる清涼飲料水のテレビCMタイアップ。
SNSで爆発的な話題を呼んだヒットWebドラマの挿入歌。
さらには夕方の茶の間を彩る情報番組のエンディングテーマ。
メディアというメディア、あらゆるシーンに縦横無尽に活用された『青』は、瞬く間に日本中の世の中を完全に席捲していたのだ。
ビビッド・ルージュも晴れてトップアイドルの仲間入り。
今や『青』を耳にしない日はない。
街を歩けば、コンビニに入ろうが、服屋に入ろうが、どこに行っても『青』の清涼感あふれるメロディがスピーカーから流れだしている。
果ては道端で、通ぶった玄人っぽい人たちが、染み入るような表情でこんな会話すら交わしていた。
「青…いいよね」
「いい」
よくないよ!!!
ともかく、「今年の初夏を代表する
――そしてその輝かしいフィーバーの結果が、この通帳に記録された怒涛の印税収入だった。
ふふ。
普通の人間なら、リビングでサンバでも踊って狂喜乱舞するほどの金額だ。
しばらく遊んで暮らせるかもしれないレベルの金が、一気に銀行口座になだれ込んできたのだから。
だが、僕は違った。
なんだこれ!!
頭を抱え、深々と溜め息をつく。
「はぁ……世の中、絶対に間違ってる」
悲痛な叫びが、ぽつりと漏らした声として出た。
「僕が……僕が何時間も睡眠時間を削って、副交感神経へのアプローチを極限まで計算して、愛を込めて作ったポップスは、カスのように扱われたのに……」
僕は震えながら手を握りしめた。
「やっぱロックってアホだなって呆れながら、でっち上げた『青』が……
なんでこんなに持て囃されて、こんな大金を生み出してるんだよ……っ!? 家が買えるよ」
僕が望んだ音楽理論の勝利ではない。
信念と情熱の結実でもない。
ただの投げやりと適当が世界を感動させ、巨大な札束となって返ってきているのだ。
その時、1階のリビングから、能天気な妹の歌声が階段を伝って聞こえてきた。
掃除機をかけながらルンルン気分で口ずさむのは、やはりあの絶望の歌。
『あふれ出る青春の輝き~~♪』
お前もかいなっ!!
僕は心の中で激しく突っ込んだ。
あーんなに丹精を込めた僕のポップスを「ぬめぬめして気持ち悪い」と蔑んでいた妹が、僕がアホくさと思って作った曲をノリノリで歌っている。
世界のバグは修正されるどころか、際限なく肥大化し、僕のささやかな日常を容赦なく侵食していた。
――ピコン
スマホが鳴る。坂本からのLuinだった。
『アキヒコ先生! 入金は確認してくれたかな!?
というわけで何卒、次の曲も頼むよ! 今度はどんな ♪神ロック♪ で世界を震わせてくれるのかな? みんな待ってるからね!!』
画面を埋め尽くすように連打される「神」「天才」「尊い」「拝む」のウザいスタンプ。
僕はウェブサイトを閉じ、頭をデスクに叩きつけた。
「こんなの絶対おかしいよ……」
僕は莫大な資産を手に入れたが、同時に世界で一番理不尽な絶望をも手に入れてしまったのだった。
★
ポポポポ〜ン♪
連日、インターホンが鳴り止まない。
広告機構みたいな音しやがって。
曲の無心をするのは、ハイテンションな坂本さんだけじゃない。
一体どこから住所を聞きつけたのか、大手メジャーレーベルの有名プロデューサーや、歴史ある音楽出版社のコワモテな重役たちまでが、僕の住む狭く古い賃貸住宅の玄関前に次々と押しかけてくる。
手には高級そうな菓子折りの紙袋。
玄関先には、金銀の包装紙が積みあがっていく。
「アキヒコ先生! ぜひ我が社の看板アーティストにも楽曲の提供を!」
「ジャンルは問いません、あの圧倒的でプログレッシブなセンスを我が社に!」
と、誰も彼もが目を血走らせ、ギラギラした欲望を隠しもせずにペコペコと頭を下げてくるのだ。
――そして、その中には奴がいた。
あの音楽プロデューサー!
僕がかつてデモを持ち込んだ際、鼻で笑って事務所から叩き出した、あの忌々しい大物プロデューサーの姿も混ざっていたのだ。
けっ!
今更、曲を下さいと言ってももう遅い!(※ラノベのタイトル風)。
見たまえ!
あれだけ僕を邪険にしていた偉そうな人たちが、稲穂みたいにこうべを垂れているよ!
……とはいえ、まあ、僕も作曲家の一人だからね。
これだけの大人たちから頭を下げられ、自分の作る音を渇望されているのだから、正直悪い気はしない。
評価されているのがロックとはいえ、クリエイターとしての自尊心が満たされる部分はあるよ。
だから表面上は和やかに答えるし、
「皆さんのお気持ちは大変うれしいです。前向きに検討しておきますね!」
そして前向きに検討する。
奥ゆかしい日本人の言い回しです。
――彼らの持ってきた菓子折りだけをありがたく受け取り、僕は満面の笑顔で、かつ丁重に帰ってもらった。
彼らは誤解しているよね。
そう、僕を神曲を生み出す天才ロッククリエイターだと、勘違いしているのだ。
こんな勘違いを野放しにしておいていいのかな?
否っ!!!
だからこそ、僕は彼らに聴かせなければならない。
僕が本当に愛し、魂を注ぎ込んでいる真の音楽……そう、僕の渾身のポップスミュージックを!
世間は勘違いしているが、ロックみたいな音楽……というか雑音(僕は今でも、あんな音の塊を音楽とは断じて認めていない!)なら、あくびしながらでも秒で作れる。
あんなのコードを3つ並べてギターを歪ませ、ドラムをドカドカ叩かせれば完成だからね。
だけどポップスは違うよ――
ポップスは至高の芸術なんだ。
メロディの美しさ、コード進行のミリ単位の計算、聴き手の副交感神経にじわじわと届くストリングスの対旋律、サビで感情を爆発させるための綿密な構成――
ああ、これこそが王道にして最強の音楽っ!
ポップスには、膨大な時間と、繊細な美学と、命を削るような執着が必要なのだ!
「待っていてくれ、世界のプロデューサーたち……
僕の『本物』を届けてあげるからね」
ふへへ。
シャフ度で彼らが去った玄関を見下し、僕は部屋に籠もり、PCに向かい合った。
――
それからの1週間、僕は文字通り寝食を忘れて没頭した。
精神を集中し、ここにポップスの神を召喚するのだ。
来たれ最強ポップスゴッド。
睡眠時間、1日2時間。気絶のみ。
飲食兼用、ゼリー飲料。
穴が開くほどモニターにかじりつき、頭蓋骨がヘッドホンのカタチに変形するんじゃないかと思えるほど強く押し当て、1音1音の残響(リバーブ)の深さや定位(パン)の角度に至るまで、徹底的にこだわり抜いた。
Aメロのコード進行には、あえてバッハを思わせるクラシックの厳格な対位法をロジカルに取り入れた。
Bメロでは、聴く者の胸をキュッと締め付けるようなマイナーセブンスコードへの、あまりにも切なく甘美なアプローチ。
そして、運命のサビ――!!
ここで音楽理論のすべてを駆使し、自分の残りの寿命と生命力を対価に捧げて、ポップスの神を召喚!!
僕の脳内に、後光とともに輝く化身が現れた!
ポップス
そして僕は聞いた。
……よ。君に奇跡の旋律を授ける――
世界中の誰もが抱く「哀愁」と「希望」を、完璧なメロディラインで表現し、洗練されたオーケストレーションがそれを優しく包み込む。
――168時間後
ついに、最後の1音となるシンバルの余韻の打ち込みが完了した。
「できた……っ!」
神は去り、されど成果は残った。
遮光カーテンの隙間から、眩しい朝日が部屋の散らかった床に差し込む中、僕はカタカタと震える指先で、完成した音源の再生ボタンを押した。
ヘッドホンから溢れ出す、究極のメロディ――
完璧すぎるコード進行。計算し尽くされた音と音の緻密な配置――
どこをとっても1ミリの隙もない。
どこをとってもあまりにも美しすぎる。
イントロの繊細なストリングスが響いた瞬間、僕の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ……美しい……! これだ……僕が作りたかったのは、これなんだ……!!」
サビの感動的な盛り上がりに差し掛かる頃には、僕は人目もはばからず大声をあげて号泣していた。
1週間の不眠不休による激しい疲労も吹き飛ぶほどの、圧倒的な達成感、そして全能感と感動。
あの10分で作った『あああああああ』や、20分で作った『青』なんて比じゃない。
次元が違う。
神はいる。
これは音楽史に残る、正真正銘の神曲だよ!
僕はこの絶対的最高傑作を大事にUSBに保存すると、涙を拭い、確信に満ちた笑みを浮かべた。
「待たせたね、世界のみんな。今度こそ、本物の音楽を届けてあげよう」
不眠不休で作り上げた奇跡のポップスを手に、僕は待ちわびるプロデューサーたちの元へ乗り込む決意を固めるのだった。
ちょっと短いですがキリがいいので
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