二
「……このテーブルを、高層ビルの屋上だとしますよね?」
露口正義がそんなことを言う。
喫茶店のボックス席で、鷹沢切人は向かいに座っていた。
あれからぼちぼち、呼ばれれば会う、ような形で会っている。特に馬が合ったというよりも、露口正義が煙草を吸わない人間だったのが気に入った、と思っている。非喫煙者は何かと肩身が狭い。臭いや副流煙など当たり前のようになっていたから、吸わなくても気にならない。むしろ、どうですか一本? などと差し出されたときに「吸わないんです」と断るのが気まずかった。
煙草に限らず、鷹沢切人は刺激物のたぐいが余り好きではなかった。
喫茶店でもコーヒーやレモンスカッシュなどでも、飲めなくはないが好きではない。酒なども同様である。だから鷹沢切人の前にはオレンジジュースの入ったグラスが置いてあり、それもまた女学生のようで気まずいぐらいだ。考え過ぎかもしれないが。
露口正義は、テーブルの上に右手の人差し指と中指を開き、指先を動かして、人が歩いているような仕草をしてみせている。
その指人間はテーブルの端まで到達していた。
「……ここで、一緒に飛び降りましょう、って言われたらどうします、鷹沢さん」
「まだ死ぬ気はないよ」
喫茶店内の有線からは、折良くというか、愛崎純子の歌声が流れていた。飛び降り自殺で死んだのは、三~四年も前だろうか。いい曲には違いなく、自殺のほとぼりも冷めたようにこうして流れていたが、今の話題にはなんともそぐわない。
「でもですね、飛べるんだ、飛んでも落ちないんだ、と断言されたら?」
「根拠を訊きますよ」
「それっぽいことを言います。少なくとも矛盾はなさそうだ、ということを。その結果、どんなに素晴らしい体験が待っているかを語って、上の人間からも飛んだ方がいい、その人を信用していいと太鼓判を押されて、実際に飛べればな、と思っていたとしたら?」
「……最悪に備えて命綱は確保しますよ、そりゃ」
露口正義が言いたいことは分かっていた。水原英行事件の話である。
はっきりとは言っていない。誰が聞いているか分からないのだ。店内は閑散としていたが、マスターやウェイトレスが組織とやらの人間だったら、そこまで考えて鷹沢切人は、それこそ考えすぎだと自嘲した。なぜこんな喫茶店にまで網の目を張り巡らせるというのだ。
「個人がやれることなんて、首根っこ引っ捕まえて精々、二、三人道連れにするくらいでしょう? それが、あの騒ぎですからね。絶対に横、もしくは上、がいるに決まってます」
「そんな話も、よく聞きますがね」
実際、そういう話は露口正義だけの持論というわけではない。当然、誰かが背後に、という捜査も進められている。しかしそっちに関してはそれこそ霞を掴むような進捗だった。少なくとも水原英行は自衛隊の中で凶行に走ったのであって、その中から外には出ていない。
「そんなもの、アドルフ・ヒトラーだって説得できるもんですか」
「命綱が用意されていた、という線は?」
「それこそ、組織ですよ」
世間も捜査機関も、一応、背後関係に何かいる、というのを探っている。しかし可能性の一つとして、だ。露口正義はほぼ確信して、それを前提に取材を進めている。キメ打ちで立脚点を造るのも正しいのだが、飛躍がすぎて根拠がなさ過ぎる。
「……しかしまあ、取材なさったことを私などに話して良いんですか?」
「他人に話すと、考えが纏まったりするもんでして。それにその気になってくれれば、鷹沢さんに協力して頂けたらな、なんてのもありますし」
「協力、と言われましてもね」
本当に鷹沢切人には何の情報もないのだ。教えたくても、教えることがない。
「絶対に消しようがなくて、なくならないものがあるでしょう?」
「なんです?」
露口正義はテーブルの上にある小さなプレートを手に取った。
手書きで、注文したコーヒーとオレンジジュース、その値段が書いてある。
「……請求書と領収書ですよ」
ひらひらと遊ぶように、振ってみせた。
「例のアレ、国内開発でしょう? 海外の企業や工場に委託するはずがないんですよ。そして完成していた、ということは、既に発注済み、支払い済み、なわけで。その記録まで抹消できると思いますか?」
何が何処に発注されたか、を調べてくれ、と言っているらしい。
一定の根拠はあるが、無理だ。
やれば出来るのかもしれない、とは思うが、やる前から無理な気がしている。
「……私はそんなに口が巧い方ではありませんよ。仮にそういったものを調べられるとしても、話して貰える気がしません」
「鷹沢さんが俺とこうして話してくれているのは、なんでです? 気が向いたからですか?」
「それは、その」
水原英行の件に決まっている。新聞記者として調べたことを聞かせて貰えるというだけで、会う気になる。つまり好奇心を刺激される。
「……露口さんから伺ったことをチラつかせて、それとなく? ですか? それもどうなんでしょう。私じゃ生かしようがないと思います」
「それなりに調べが付いたら、俺も同行しますよ。何、そんなに難しいことじゃないです。コツを掴めば、すぐですよ」
そんなコツなど簡単に掴めていたら、もうちょっと出世している。
言いかけて、やめた。出世しなかったから生きている。
「……それにしても、ご熱心が過ぎます。私などに目を付けて。他の記者の方たちとご相談なされた方がいいでしょうに、関係者を虱潰しと伺ってますよ」
実際、露口正義の名前を知らない人間などいないのではないか、というぐらい、多人数に聞き取りを行っている。露口正義がやってこない人間の方が恥ずかしいとすら思われている気配だ。それほどの人間の中から、鷹沢切人は何故選ばれたものか。
自衛隊特殊科学班。
まがりなりにも、そこに所属していたからか。しかし解散させられたのちは、自分と似たような立場になった者が何人もいる。
「……鷹沢さんだけだったんですよ」
「何がです?」
「冷静にお話ししてくれたのが。他はもうビビっちまってて何も話してくれません。知らない、という根拠すら言ってくれなかった始末ですよ」
怖いと言えば、怖い。
茫洋としているかというとそうでもなく、やはり怖い。だが自分などを殺してどうなるのだ、と思っていたし、何より「ブラックサタン」つまりBS-00にはそれなりの愛着と好奇心があり、そちらの方が強いままでいたから恐怖などは霞んでいた。
他の面子は、そこまでBS-00に興味を持てなかったのだろう。
「……まあ、知的好奇心というか、科学者なりの探究心というか、そういうものの行き場がなくなってしまっていて、露口さんをはけ口にしている、という気はしますが」
「俺にとっちゃ好都合でしてね、それが」
「こうして世間話のタネにするぐらいなら、ちょうどいいと思いますが」
「実行してみましょうよ。何か分かったら儲けものでしょう?」
「ビルから飛び降りよう、と誘っていますか、もしかして?」
「死にゃしませんよ」
どうだか、とも思う。
水原英行に従った者たちも、そう言われていたかもしれない。命綱はあるのだと。
何らかの組織。
しかしそういうものも荒唐無稽とは言い切れない。水原英行は異常者だが、それなりの計算があって飛んだのかもしれない。
例えば、全てが上手く進んだとする。
その後、どうする気だったのか。政財界の要人を暗殺するなど、日本の血流を止めてしまうに等しく国としての体は(少なくとも一定期間は)死に体になってしまう。そこまで用意していた、という仮定であれば、水原英行は「実行部隊」「暴力装置」として解釈出来る。
それとも水原英行が新政府とやらの代表になる気だったのだろうか。
戦国時代ではあるまいに、今度は国民が納得しないに決まっている。政財界の「次の要人」も納得するとは思えない。だからそれなりに根回しをしているだろう。それが水原英行個人によるものか、組織とやらが主導していたのか、それを露口正義は調べに調べている。そして自分に目を付けた、という訳だった。
「……実のところ、俺にはそれなりの「真実」ってカードがあるんです。そうでなかったら、ここまでキメ打ちしてませんよ」
「それが何かは知りませんが、それこそ社内で共有なさっては?」
真実だというなら、尚更だ。
毎潮新聞社は「誰も知らなかった真実」を報ずるのが上手い。
「一度しましたけどね。もみ消されたんですよ」
「……噂には聞いてますが、そんな、もみ消すなんてこと、本当にあるんですね」
「俺も意外でしたし、失望しましたよ」
だからそのカードを共有するのは、二度、しないのだろう。一度そんな目に遭えば、尚更だったと想像は付く。
「しかも、俺の親父が殺されているんです。俺の気持ち、分かるでしょう?」
「……その、組織とやらに?」
「ええ。裏も取ってます。録音、証拠写真、俺の目と耳、そこまで揃えて提出して「押し込み強盗」なんて扱いされたんですよ、冗談じゃない」
真実があるというのに、紙面に反映されないのでは、その真実は文字通り握り潰されたようなもので、ましてや新聞記者を志し、実際に記者となった露口正義にとっては悔しいなどという言葉では言い表せないに決まっていた。
悔しいと言えば、鷹沢切人だって悔しい。
あんな馬鹿げた事件で、実験機体が、しかも全く未知の技術という、科学者がどれだけ食ってもまだ食わせろと言いたがるものを、目の前で皿ごと取り上げられたのだ。
「……私の父は」
「ほら、それ」
露口正義は面白そうに指さしてくる。失礼とは感じなかった。
「なんですか?」
「俺が親父の話をしたから、自分もしなきゃ。人間ってそんな心理になるんですよ。俺たちはそんな風にして取材することも多くてですね。有効ですよ」
「それは嘘でもいいわけですか、興味を惹けるのなら?」
「俺の親父の話なら、嘘じゃあないですけどね」
それはどうでもいい。
コツの一つを教えてもらった気がした。
そして父の話などしなくていい。露口正義が教えてくれることをひけらかせば、相手は食いついてくるだろうし、お返しに何を提供しても得をした、とみんな思うだろう。
それほどまでに「水原英行事件」は不可解で大規模な事件で、まだ興味をそそるのだ。
「……しかしまあ、皮肉な話だと思いませんか、鷹沢さん。あのバカたれがしくじったから、意外にこの国はよくなってる。治安も前よりよくなってます。あんなもの見せられた日にゃそんじょそこらの「犯罪」なんて恥ずかしくて出来ないでしょうし、それにホラ、例の板垣総理。あんな堅物が総理になれたのも、騒ぎのお陰ですよ」
そして板垣重政という男は「清廉潔白な総理」という、それこそ現実味のない存在であった。
派閥も利益も何もない、そんな人間は普通、総理どころか閣僚にも入れない。そう出来ていたのがこの国であり、そういうものを叩き壊したかった、というなら水原英行の手段はともかく、目的だけなら純粋な革命思想と評することさえ出来そうだった。
有線からは愛崎純子のメドレーがまだ流れている。
命綱など用意せずに、死にたくて飛び降りた歌手だった。才能も人気もあったというのに。きっと何かに絶望したのだろう。死んだ方がマシだというほどに。
「……私に出来ることでしたら、協力しますよ、露口さん」
愛崎純子の歌声に背中を押されるようにして、鷹沢切人はそう言っていた。
自分が死ぬほどに絶望するとしたら、ブラックサタンのことが葬られて二度と掘り出せないという現実を突きつけられたとき。益体もないが、鷹沢切人はこの時、本当にその益体もない思いに胸を滾らせていた。