四
部屋の中に煙草の臭いが満ちて少しずつ、その煙が壁や天井に付着し染みこんでいくような感覚は、煙草を吸わないという希有な存在である(少なくとも部屋に灰皿が置かれていないことは希有である)鷹沢切人を、何処か世間から乖離していた自室が世俗に馴染んでいくような気分にさせている。それでもその臭いに混ざって、楊貴から香水の匂いや、女性特有の体臭が漂ってくるのは、別の違和感、違う世間との乖離も発生させている。
楊貴という女性は長身に白いスーツを纏い、スーツの前には鮮やかな薔薇の刺繍を施し、それは前合わせを跨いでいる意匠のものだった。部屋の中でも外さない鍔広の、優雅さを持った歪みを描いた帽子もやはり白だった。その下から腰まで伸びる長髪は巻き毛のうねりを伴った、艶のある黒髪で、コントラストとしては非常に目立つ。膝まであるブーツも黒革だった。
しかしやはり、灰色の眉が、色合いとしては埋没しそうなくせに、やたらと鷹沢切人は目線を向けてしまう。
椅子は勧めなかった。そこまでする謂れはないし、そもそも一脚しかない。部屋の隅にある机に添えた、事務的な椅子だった。そこに鷹沢切人は座り、机しか向いたことのない椅子をくるりと半回転させ、立ったまま煙草を吸っている楊貴と向き合っていた。
ワンルームとは言え、ここは広く見える。本来なら形ばかりでも置くようなテーブルやソファもなく空間には余裕がある。壁一面を占める本棚には学術書や図鑑、辞典ばかりだった。ベッドはそれこそ形ばかり置いた、という簡素さで、なんならそこを椅子として勧めても良かったが、立っている方がいい、と意思が無言のまま伝わってくる。
「……怖がらないんだね」
面白そうに楊貴は話の最中に、何度か確認してきた。
「怖いですよ。帰ってきたら、知らない人がいたのですから」
「私が殺し屋かなんかで、殺される、という恐怖は?」
「根拠が見当たりません。私は殺されるような覚えはありませんし、楊貴さんが押し込み強盗の類いであったとしても、この部屋には何もありません。警察が、私の死体を発見したら、何故殺されたのかと首を捻るでしょう」
それはただの理屈であったが、理屈があれば落ち着いていられる。
死の恐怖は反射的なものだが、根拠を考え始めると、何一つ分からない。そして分からないから考え続けている時の鷹沢切人には、怖がっている暇などなくなってしまうのだった。
「この世には首を捻ったって分からないことだらけさ。天才科学者が何日も考え続けたって、机の上じゃ何一つ分からないってことがね。私は勿論、あんたよりゃ絶対に頭が悪い。だから机に向かっていたって何一つ分からない。けれど、あんたよりモノを知っている気がするね」
とりとめもない話題ばかりが続いていた。
誰ですか、警察を呼びますよ、などという形式張ったやりとりをしなかったからだ。結果として、世間話のようになっている。鷹沢切人はおそらく自分が、分からないことだらけになってしまったからまともな神経が麻痺しつつあるのだと自分を分析している。露口正義に引き回されて謎ばかり増えていくのが多分に影響している。
秘密結社や影の組織みたいなものはあると思うか? という話をされても、露口正義という人間が、ある、などというものだから、検討材料として当たり前になっていたから、あるらしいですね、などと暢気に答えてしまう。
実際の話、何を以て「秘密組織」と呼ぶのか、などと最近は考えてしまう。
隠れキリシタンや迫害下にあった初期キリスト教徒だってそう呼べる。耳目に晒されないように活動している組織は、みんなそう呼んでいい。
時代性もある。一九八七年という年はまだまだ、そういった組織が現実味を帯びるていどには実在できていた。戦後の残滓は濃く漂い、第二次大戦絡みで言うなら「ナチの残党」など寿命にはまだ余裕があった時期である。イタリアにはそれこそフリーメイソンのロッジ(と称した組織だが、フリーメイソンが陰謀論の中核に据えられる原因のひとつとなる)が主導する組織もあったと暴露されている。
政財界が戦後の混乱に飛びついて腹黒い野心を持ち、徒党を組み、また東西冷戦下の緊張もあり武器兵器の類いも横流しが珍しくなく、何より警察組織の捜査能力が現代と比べてしまえば話にならないほど貧弱そのものであった時代である。日本で事務所を構えている、ただの土建屋が装甲車と機関銃を「趣味と実用を兼ねて」所有していたことさえあったのだ。
「……ぶち壊された秘密組織の残党、ってのはなかなか大変でね。肩身が狭い」
楊貴は自分のことを言っているのだろう。残党、と言ってしまえば鷹沢切人もそんなものである。肩身も狭い。ただ勤めているだけでは出世の余地すらなさそうな気がした。
「水原とは楽しくやれていたんだけどね」
「内乱のお手伝いでも?」
「自衛隊の駐屯地をマトにかけて襲撃したりしていたね。水原が邪魔だって感じた相手をね。大忙しだったさ。水原に同意するやつの方が少ないんだから」
「あなたは同意していたんですか、楊貴さん」
「革命ゴッコは楽しかったね。徒党を組んで、完全装備の自衛隊を闇討ち、ってのも癖になる」
「妄想ではない、としておきましょう。つまりあなたは、水原英行事件に関してはかなり中核にいた、貴重な情報源ということになります。いいんですか、こんな部屋で暢気にして」
「とっくの昔に、全国指名手配をかけられているさ、何を今さら。極悪人って括りじゃそれなりって自負があるんだよ、私は。そろそろ外道ぐらいにゃなりたいね。私らの世界じゃ騎士の位を与えられたのと同じくらい価値のある呼び方でね、外道は」
楊貴の煙草を吸う速度は、味わうように、というゆったりしたものだった。念入りに部屋を、新品のエンジンをそうするように暖機している、鷹沢切人はそんな気がした。
「……手を組まないかい?」
不意にそう言われても、何故だろう? と考えてしまい、不思議がっている暇がない。大忙しなのは鷹沢切人の思考も似たようなものだった。
「どんな得が?」
「机の上じゃ分からないことを教えてやるよ。……例えば、あんた、自分に妹がいたって知ってたかい? 死んじまったけどね」
「そういうことを私に教えて、楊貴さんに何の得が?」
損得から探るのが一番早い。自分の得ではなく、相手の得を。
領収書と請求書である。損得の帳尻は数字で分かる。それが真っ当な取引で、双方に利益をもたらすための投資かどうか、という話であった。
何度も擦っているせいか、オイルライターの臭いまで濃くなってきている。
「……何か先に教えないと、考えのうちにも入れて貰えなさそうでね」
「考えのうちに入れる、というのでしたら、ご遠慮なさらず。何でも入れますよ」
「じゃあドストレートに行こうかい。……ブラックサタン開発計画を再駆動させてやる、と言ったらまともに考えて貰えるもんかい?」
さすがに鷹沢切人は動揺した。他の思考が全ていったん、停止してしまった。
入る余地を造ることに苦労するほどの申し出で、それは秘密組織やらなんやらよりも、よほど信用出来ない申し出であったから、楊貴は色々なことを世間話のように言ったのかも知れない。だがしかし何故だ、という思いは思考にはなかなか移動せず、根拠のない嘘、と断じてしまいたくなる申し出だった。
「……突然、何のお話ですか、それは」
「軍事開発とは言え、ただの再起動計画さ。私が並べ立てたことより全然不思議じゃあないと思ったんだが、こりゃ参ったね。もっと教えてやろうか? この国には明治時代から、時の首相に霊能力者が助言していたとか、漁村ひとつを、大量の毒蛇で皆殺しにした蛇使いがいたとか」
「そういった話なら、考えたくなりますからね。不思議なことを解明するのが科学者ですよ」
好奇心の方が先に出る。
「……たとえば、楊貴さんのそのライター」
ずっと楊貴が弄んでいるオイルライターを鷹沢切人は指さした。
「原始時代に持っていったら、擦っただけで火が出る、なんて驚くでしょうね、みんな」
「魔法でも使ったのかと思うだろうね」
「何故、火を着けられたのか、をみんな考えますよ。小さな道具なら、尚更。科学者というのは基本、人間の探究心を体現しているだけなんですよ」
原始人の方が純粋であろう。知識がないだけだからだ。そして人間は分からないことを「魔法」で片付けない生き物だ。錬金術の歴史は魔法の技術体系化を目論んだものであるし、結果として薬物の発展にも寄与した。多くは毒物しか生まなかったが。
「……ブラックサタン再開発は、そんなに不思議で驚きなもんかい?」
「非常に俗な理由で、不思議ですね。今の社会情勢を考えたら、尚のこと。極論を言ってしまえば、ブラックサタンなどというヘリは、今、必要ないんですよ。開発予算と計画を承認するような総理でもありませんし、板垣重政という人は」
「じゃあ以前は必要だった、という理由は言えるかい?」
「それも分かりませんが」
「教えてあげるよ。あれは水原の父親が開発を急がせた代物なのさ」
「……陸幕長が?」
そもそも自衛隊特殊科学班とは水原駿太郎、元・陸幕長が設置した機関である。ブラックサタンだけを開発目的に、というわけではないだろうが、一枚噛んでいても全くおかしくはない。
「……内乱なんてものを抑えたくなったのさ、あいつは」
「攻撃ヘリでですか?」
「この国に内乱が起きたとして、それがまだ小規模な軍事行動で留まっていたとして、先手を取って中心を一気に制圧する。……そんな使い方なら合点がいくことは多いんじゃないかい?」
「水原英行のやることを止めるのではなく、ことが起きてからの準備というのも、おかしな話ではありますけれど」
「水原が単独であんなことをしたとまだ思っているんなら、バカの範疇に入っちまうよ。要するに止められる自信がなかったのさ。だから、ことが起きてから、って考えたんだろうけど、結局、息子に先手を打たれて殺されて、ブラックサタンも掠め取られたんだから、まあ軍人としちゃろくなもんじゃなかったんだろうけどね、あの陸幕長は」
「……色々お話ししていただきましたが、まだ伺っていません」
「何をだい?」
「私が何をすれば、楊貴さんが得をするのか、ですよ」
楊貴は火を着けかけていた煙草を、指で挟んで口から離す。
「……開発経緯を私に流すこと。簡単だろ? そしてそれで何の得になるかと言うと、私が出世出来る糸口になって、肩身の狭さが解消する。分かりやすいだろう?」
分かりやすかった。
鷹沢切人が感じている肩身の狭さも、きっと再開発メンバーに入れば解消する。そんな欲はないが出世もするだろう。出世自体より、昇進すればするほどアクセス出来る情報も増えるのは魅力だった。
何より、分かりやすい。
軍事ヘリを造れ、その開発経緯を横流ししろ。そのお膳立てのために協力しよう。一点を除けばこれほど簡単な話もなかった。
ただ一点を除いては。
「……何故それを私に持ちかけるのです? 末端の研究員みたいなものですよ、私は。当時のこともそれほど、というかほぼしりません」
「熱心だからさ。みんなビビって考えずにいたことを、熱心に考えて調べている。しかも開発当時に関わっていて、まるで知らないわけじゃない。見込みがある、って私は踏んだんだ」
「……どうあれ、本当に開発が再開して進捗しなければ、渡せるものは何もありません」
「私の与太話なんて手付けにもなりゃしない。全部、嘘かもしれないし、嘘じゃない、って証明もしない。ただ、そんなことを言っていた女がいたな、ていどのもんでいい。あとあと話を続けやすい……それとまあ、こんな話は、ときどき、誰かに言いたくなるもんさ。あんただってモノを知らない相手に、くどくど言いたくなることがあるんじゃないかい?」
確かに与太話で片付けられる話ばかりだった。そしてブラックサタン再開発もそのうちに入る。
「そういうお話であれば、考えますよ、そりゃ」
「極悪人で外道寸前、って私は自分のことを言ったんだ。そういう相手に軍事機密を漏らすことに抵抗はない?」
「開発が出来るのなら。その結果、培われた技術をどう使うのかは、私は関与できません。アインシュタインやオッペンハイマーがどんなに長広舌で倫理の熱弁を奮ったところで、原子爆弾は開発されて使用されたのですし」
科学者にそこまでの権限はない。正義感や倫理観は、科学者ではなく使用者に求められる義務であって、科学者の負う責務ではないと鷹沢切人は本気で考えている。
楊貴はそんな話を一通りして、煙草の臭いを部屋中に、盛大に染みこませて帰っていった。窓から飛び降りて闇夜に消える、などが相応しいように思えて、普通に扉を開けて歩いて帰っていったのが、むしろ不思議だとさえ思った。
「ところでこいつも与太話だがね」
去り際に楊貴が言った。
「……ブラックサタンをサイコキネシスで飛ばして、テレパシーで生命体を探っていた、なんて話だったら、あんたどう思う?」
「有り難いです。考えるよすがになりますから」
「実は超能力で動いていた、なんて侮辱と受けとめられるかと思ったよ」
「さっきも言いましたが」
楊貴のポケットにあるオイルライターを意識して、そして楊貴の、灰色の眉を見た。目を合わせられないていどには、充分に怖かった。
「超能力でもなんでもいいんです。解析して再現するのが、科学者ですから」
そして分からない技術を「超能力」の棚に置いて放っておくほど、鷹沢切人は科学に対して不真面目な男では決してないのだった。