ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
マサラタウンの朝は、いつもと変わらず穏やかだった。
窓の外ではポッポが鳴き、畑へ向かう人の足音が道を通り過ぎていく。
風に揺れるカーテンの向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。
十歳になった子供が、初めてのポケモンを受け取る日。
マサシにとっては、ずっと待ち望んでいた朝だった。
ただし、待ち望んでいたからといって、眠くないわけではない。
「マサシ! いつまで寝てるの!」
「……起きてる」
布団の中から返事をすると、部屋の扉が開いた。
「それ、さっきも聞いたわよ」
「今度は本当に起きてる。目も開いてる」
「じゃあ、その目で時計を見なさい」
枕に頬を押しつけたまま、マサシは時計を見た。
約束の時間までは、まだ余裕がある。
「あと五分――」
「朝ご飯を食べなくていいなら、どうぞ」
マサシは起き上がった。
「それは食べる」
母親が呆れたように笑う。
ベッドの脇には、前の晩に何度も中身を確かめたリュックが置かれていた。
着替え、水筒、タオル、取り出しやすい場所には、ポケモンの体を拭くための柔らかな布も入っている。
マサシはそれを手に取り、縫い目を指でなぞった。
今日からは、自分だけの荷物ではなくなる。
隣で眠る誰かの分も、考えなければならない。
「……よし」
「何?」
「別に。着替えるから、先に行ってて」
母親が部屋を出ると、マサシは窓を開けた。
朝の空気が、まだ眠気の残る顔を冷やす。
遠くの丘に見えるオーキド研究所を眺めてから、彼は小さく笑った。
「今日からか」
朝食を済ませ、玄関で靴を履いていると、母親がリュックの肩ひもを直してくれた。
「ご飯はちゃんと食べること。疲れたら休むこと。それから――」
「ポケモンに無理させない。分かってるって」
「あなた自身もよ」
「俺は休むの得意だから」
「そこは心配してないわ」
二人で笑ったあと、少しだけ沈黙が落ちた。
これまでも、朝に家を出ることは何度もあった。
サトシと遊びに行く日も、シゲルと川へ出かける日も、母親は同じ場所で見送ってくれた。
けれど今日は、夕方になっても帰ってこない。
それが急に実感になって、マサシは靴のつま先を一度床に当てた。
「……電話するよ」
「ええ。待ってる」
母親はもう一度、肩ひもを軽く引いた。
「いってらっしゃい、マサシ」
「いってきます」
戸を開けると、陽射しが道の先まで続いていた。
「やあ、マサシ。君まで寝坊するんじゃないかと思っていたよ」
研究所へ向かう坂道の途中で、聞き慣れた声がした。
振り向くと、シゲルが腕を組んで立っていた。
服にも髪にも乱れがなく、いかにも準備は完璧だと言いたげな顔をしている。
「俺は間に合ってるだろ」
「ぎりぎりまで寝てた顔だけどね」
「ちゃんと朝飯も食った」
「それは立派だ」
「お前、褒める気ないだろ」
シゲルは楽しそうに笑った。
幼い頃から何度も交わしてきたやり取りだった。
三人で遊んでいても、シゲルとマサシが口で言い合い、途中からサトシが大声で割り込んでくることがよくあった。
今日は、その声が聞こえない。
「サトシは?」
「まだ見ていないよ」
「昨日、絶対一番に来るって言ってたのにな」
「張り切りすぎたんじゃないか?」
マサシはサトシの家がある方角を見た。
今から起こしに戻れば、自分まで遅れる。
少し考えて、坂道へ向き直った。
「あいつなら、起きた瞬間に走ってくるだろ」
「確かにね」
二人は並んで研究所へ向かった。
坂を登る足取りは、普段より少し速かった。
「おお、来たか!」
オーキド博士は、研究所の入り口で二人を迎えた。
中へ入ると、いつもの資料や機械の匂いに混じって、ポケモン用の食事の匂いがした。
マサシは何度もここを訪れている。
それでも今日は、部屋の中央に置かれたモンスターボールから目が離れなかった。
「まずはシゲル。こちらへ来なさい」
博士に呼ばれたシゲルが、一歩前へ出る。
最初のパートナーを受け取る横顔は、いつもより真剣だった。
マサシは口を挟まず、その様子を見守った。
やがてシゲルが振り向き、手の中のボールを軽く掲げる。
「次に会うときは、トレーナー同士だね」
「今、戦ってもいいぞ」
「君にはまだポケモンがいないだろ」
「ああ、そうだった」
シゲルが吹き出した。
それから入り口へ向かい、扉の前で足を止める。
「先に行っているよ、マサシ」
「おう。迷子になるなよ」
「それは君に言っておく」
扉が閉まったあとも、外から賑やかな声が聞こえてきた。
マサシは少し笑ってから、博士へ向き直る。
「さて、お前さんの番じゃ」
博士は、別の机に置かれていたモンスターボールを持ってきた。
「前からヒトカゲと旅がしたいと言っておったな。この子とは何度か会っているじゃろう?」
「庭で、落ち葉を追いかけてたやつ?」
「そうじゃ。お前さんのために用意しておいた」
博士がボールを開くと、光の中から小さなポケモンが現れた。
橙色の体。丸いお腹。尻尾の先で揺れる、明るい炎。
「カゲ!」
ヒトカゲは博士を見上げ、次にマサシを見た。
以前、研究所の庭で会ったときには、落ち葉を捕まえようとして転び、何もなかったふりで立ち上がっていた。
その姿を思い出し、マサシはしゃがんだ。
「覚えてるか、俺」
ヒトカゲが首を傾げる。
「お前が転んだの、笑わなかったやつ」
「カゲッ!」
「……いや、ちょっとは笑ったか」
ヒトカゲは短い腕を上げて抗議した。
博士が後ろで笑っている。
マサシは手のひらを差し出した。
すぐには触れず、ヒトカゲが近づいてくるのを待った。
「俺と旅、行かないか」
小さな瞳が、彼の顔を見つめた。
「知らない場所へ行って、いろんなポケモンと会って、バトルしてさ」
ヒトカゲの尻尾がゆっくり動く。
「俺、ポケモンマスターになるんだ」
口にすると、今まで何度も話してきた夢が、少し違って聞こえた。
これからは、それを一緒に目指す相手がいる。
「だから、お前に相棒になってほしい」
ヒトカゲは差し出された手を見た。
そして、小さな前足を重ねた。
「カゲ!」
温かかった。
マサシは口元を緩め、その手をそっと握った。
「よろしくな、ヒトカゲ」
博士からポケモン図鑑とモンスターボールを受け取り、使い方の説明を聞き終えた頃だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。
「オーキド博士ーっ!」
マサシが顔を向けると、サトシが勢いよく入ってきた。
息を切らし、寝間着のままで立っている。
マサシは一瞬黙ったあと、その格好を指差した。
「お前、その服で旅するの?」
「するわけないだろ! それより、マサシももうもらったのか!?」
「おう」
足元にいたヒトカゲが顔を出す。
サトシは目を輝かせた。
「ヒトカゲ! いいなあ!」
「カゲ!」
「サトシ。まずは落ち着きなさい」
博士が話し始めると、マサシはヒトカゲを連れて少し離れた。
サトシが遅れてくることは予想していた。
けれど、寝間着で研究所に駆け込んでくるところまでは予想していなかった。
「相変わらずだな、あいつ」
ヒトカゲは、サトシとマサシを交互に見ていた。
研究所を出る前に、マサシは庭の片隅でリュックを下ろした。
博士にもらったポケモン用の食事を容器へ移し、水を用意する。
「出発する前に食っとくか。次に休める場所、まだ分からないし」
ヒトカゲは嬉しそうに食べ始めた。
その隣に座り、マサシは地図を広げる。
最初の目的地はトキワシティ。
紙の上では近く見えるけれど、歩けばそれなりに時間がかかる。
「……結構あるな」
「カゲ?」
「いや。歩くの、ちょっと面倒だなって」
ヒトカゲが食べるのを止めた。
「行くよ。ちゃんと行くって」
その額を軽く撫でると、ヒトカゲは安心したように食事へ戻った。
やがて研究所の方から、サトシの声が聞こえた。
黄色いポケモンを連れている。
「ピカチュウになったんだ」
立ち上がったマサシに、サトシが頷いた。
「そう! こいつと一緒に旅するんだ!」
ただし、そのピカチュウはサトシから少し距離を取っていた。
ヒトカゲが挨拶するように鳴くと、ピカチュウは一度こちらを見て、耳を動かした。
「マサシもトキワシティへ行くんだろ? 一緒に行こうぜ!」
サトシの誘いに、マサシは地図を畳んだ。
「俺は俺で行くよ」
「えー、なんで?」
「最初くらい、こいつと二人で歩いてみたい」
足元のヒトカゲを見てから、サトシへ視線を戻す。
「どこで休むか、どんなポケモンに会うか。自分で決めてみたいんだ」
サトシは少し考え、やがて笑った。
「そっか! じゃあ、次に会ったらバトルな!」
「いいぞ。俺が勝つけど」
「まだ分かんないだろ!」
「じゃあ、楽しみにしとく」
いつものように言い合って、二人は笑った。
シゲルはもう出発している。
サトシも、もうすぐ自分の道へ歩き出す。
マサシはリュックを背負い直した。
「博士、いってきます」
「うむ。ヒトカゲのこと、頼んだぞ」
「任せて」
博士はヒトカゲにも声をかけた。
「マサシが昼寝ばかりしておったら、起こしてやってくれ」
「カゲ!」
「余計なこと教えないでよ」
笑い声を背中に受けながら、マサシは研究所の門をくぐった。
町外れへ続く道を、ヒトカゲと並んで歩く。
最初は何度も歩いたことのある場所だった。
古い柵も、曲がり角の大きな木も知っている。
それでも、隣に聞こえる小さな足音が、いつもと違う旅の始まりを教えていた。
マサシは歩く速さを少し落とした。
ヒトカゲが顔を上げる。
「疲れたら言えよ」
「カゲ」
「俺も言うから」
そのとき、道沿いの草むらが揺れた。
一羽のポッポが飛び出し、少し先の地面へ降り立つ。
マサシは足を止めた。
ポッポは土をつついていたが、こちらに気づくと体を起こした。
ヒトカゲも一歩前へ出る。
マサシはその動きを見て、しゃがんだ。
「バトル、してみたいか?」
「カゲッ!」
「分かった。じゃあ、初めての一戦だ」
ヒトカゲが構える。
ポッポは翼を広げた。逃げる様子はなく、近づくヒトカゲへ鋭く鳴いた。
風が吹いた。
道の表面を、細かな砂が流れていく。
マサシはポッポの足元を見た。
「ヒトカゲ、少し右へ寄れ」
ヒトカゲが動いた直後、ポッポが翼を強く振った。
巻き上げられた砂が、さっきまで立っていた場所を通り抜ける。
ヒトカゲが驚いて振り向きかけた。
「目を離すな! 来るぞ!」
砂の向こうから、ポッポが飛び込んできた。
低い体当たり。
ヒトカゲは避けようとしたが、間に合わず、肩にぶつかられてよろめいた。
「カゲッ……!」
マサシの足が半歩前へ出た。
すぐに駆け寄りたくなる。
けれどヒトカゲは踏ん張り、相手を見ていた。
「まだやれるか?」
短い鳴き声が返ってくる。
マサシは頷いた。
「よし。今度は、俺の声を聞いてから動け」
ポッポが向きを変える。
先ほどと同じように、低く飛んできた。
ヒトカゲの体に力が入る。
マサシはぎりぎりまで待った。
「今だ、左へかわせ!」
ヒトカゲが横へ跳ぶ。
ポッポの体が、そのすぐ脇を通過した。
「振り向け! ひっかく!」
「カゲッ!」
伸ばした爪が、ポッポを捉えた。
ポッポは地面へ降り、足を踏ん張る。
ヒトカゲも勢い余って転びそうになったが、尻尾で姿勢を整えた。
マサシは息を吐いた。
「いいぞ。そのまま相手を見ろ」
次の攻撃は風だった。
正面から吹きつけられ、ヒトカゲの足が地面を滑る。
「体を低くしろ! 無理に進むな!」
ヒトカゲは身を屈めた。
風が弱まる瞬間を、マサシは待った。
ポッポが翼を振り直そうとする。
「今! 前へ出ろ、ひっかく!」
ヒトカゲが地面を蹴った。
今度は迷わず、相手へ届いた。
攻撃を受けたポッポが後ろへ転がり、その場に座り込む。
マサシはすぐに声をかけた。
「そこまで。よくやった」
ヒトカゲが振り向く。
まだ息は荒かったが、その顔は得意げだった。
「カゲ!」
「おう。俺たちの初勝利だな」
差し出した手に、ヒトカゲが前足を合わせた。
研究所で握ったときより、少し熱く感じた。
マサシは肩の傷を確かめてから、リュックの脇に手を伸ばした。
モンスターボールを取り出す。
まだ座り込んでいるポッポが、彼を見上げた。
「お前、速いな。俺たちと来ないか?」
ポッポが小さく鳴いた。
マサシは一度ヒトカゲを見た。
ヒトカゲも、新しい仲間を待つように隣へ並ぶ。
「よし」
マサシはボールを構えた。
町の向こうに、知らない道が続いている。
今日の終わりにどこまで行けるかも、次に何が待っているかも、まだ分からない。
ただ、隣に相棒がいる。
それだけで、歩いてみたいと思えた。
「いけ!モンスターボール!」
第1話終了
次回・第2話「最初の仲間!ポッポとトキワへの道」