ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
投げたモンスターボールが、ポッポに触れた。
赤い光が小さな体を包み込み、ボールの中へ吸い込んでいく。
草の上に落ちたボールは、一度、二度と揺れた。
マサシは息を止めていた。
さっきまで目の前にいたポッポが、自分の仲間になるかもしれない。
そう思うと、ただボールが揺れるだけの時間が、妙に長く感じられた。
三度目の揺れが止まる。
小さな音が鳴った。
「……捕まえた?」
「カゲ!」
ヒトカゲの声で、ようやく足が動いた。
マサシはボールを拾い上げ、手のひらに載せた。
研究所でもらったときにはどれも同じに見えたのに、今はこの一つを間違える気がしない。
「ポッポ、ゲットだ」
隣でヒトカゲが両腕を上げた。
マサシも笑ってしゃがみ、その前足に軽く手を合わせる。
「お前のおかげだな」
「カゲッ」
「でも、最初の体当たりは痛かっただろ。ちゃんと手当てしよう」
ヒトカゲは少しだけ肩を動かした。
バトルの興奮が落ち着くと、そこには擦れた跡が見えた。
大きな傷ではないが、見なかったことにはできない。
マサシは道の端にリュックを下ろした。
まずはヒトカゲと、捕まえたばかりのポッポを休ませる。
旅は、まだ始まったばかりだった。
「出てこい、ポッポ」
木陰でボールを開くと、白い光の中からポッポが現れた。
地面に降り立ったポッポは、すぐにマサシから距離を取った。
小さな翼を半分広げ、彼の手と顔を交互に見ている。
マサシは伸ばしかけた手を止めた。
「……そりゃ、いきなり仲良くはならないか」
ヒトカゲが近づこうとすると、ポッポはさらに一歩下がった。
「待て、ヒトカゲ。さっき戦ったばっかりだし」
「カゲ……」
ヒトカゲは足を止めた。
マサシはリュックから傷薬を取り出し、ポッポに見せた。
「これで傷を治したいんだけど。近づいてもいいか?」
ポッポは動かない。
目だけが、容器を追っていた。
マサシは無理に距離を詰めず、先にヒトカゲの肩へ薬を使った。
ヒトカゲが小さく身を縮める。
「ちょっと冷たいぞ」
柔らかな布で周囲の土を拭き、傷をもう一度確かめる。
「よし。大丈夫そうだな」
その様子を、ポッポがじっと見ていた。
マサシが顔を向けても、今度は下がらない。
「お前も、やっとくか」
しばらく待つと、ポッポが一歩だけ近づいた。
それで十分だった。
マサシは手を低く保ち、翼の付け根に触れないよう注意しながら、傷ついたところへ薬を使った。
ポッポの体が一瞬強張る。
「すぐ終わる。……はい、終わり」
手を引くと、ポッポは翼を広げたり閉じたりした。
そのあと、低い声で鳴いた。
「ポッ」
「どういたしまして、でいいのか?」
返事はなかった。
代わりにポッポは、マサシのすぐ前へ座り込んだ。
容器へ食事を分けると、ヒトカゲはすぐに食べ始めた。
ポッポは最初、遠くから眺めていた。
けれどヒトカゲが自分の分を食べ、マサシも水を飲んでいるうちに、少しずつ容器へ近づいてくる。
一粒つつく。
もう一粒。
やがて、さっきまでの警戒が嘘のように、くちばしが忙しく動き始めた。
「腹減ってたんだな」
マサシは膝を抱えて座った。
木陰は涼しかった。
葉の隙間から落ちる光が、地面の上でゆっくり揺れている。
食事を終えたヒトカゲが隣へ来て、足を投げ出した。
マサシも木の幹へ背中を預けた。
「ちょっとだけ休むか」
「カゲ」
「五分くらい」
目を閉じる。
風の音が気持ちよかった。
遠くでポッポが鳴き、道を歩く誰かの足音が近づいて、また遠ざかっていく。
眠りに落ちかけたところで、靴の先をつつかれた。
「……ん?」
目を開けると、ポッポが足元にいた。
首を傾け、もう一度靴をつつく。
「まだ五分経ってないだろ」
ポッポは道の方を見た。
それからマサシを見た。
ヒトカゲまで立ち上がり、腕を引いてくる。
「お前ら、もう行く気?」
「カゲッ!」
「ポッ!」
マサシは二人の顔を見比べ、ため息をついた。
「分かった、分かった。俺が一番休んでるな」
容器を片づけ、リュックを背負う。
さっきより少し軽いはずなのに、背中には荷物以上の重みがあった。
食事も、傷薬も、いつか足りなくなる。
次の町で補充しよう。
マサシは地図を出し、道の曲がる方向を確かめた。
「トキワシティへ行こう。まずはポケモンセンターだ」
マサラタウンの家々が見えなくなる頃、道の景色が変わり始めた。
背の低かった草が膝近くまで伸び、遠くの林が少しずつ大きくなる。
土の道には細かな石が混じり、ヒトカゲはときどき足元を見ながら歩いていた。
ポッポは低い枝へ飛び移っては、二人が近づくのを待った。
マサシはその姿を目で追った。
地面にいたときには小さく見えたポッポが、空へ上がると、ずっと自由に見えた。
「いいなあ、飛べるの」
ヒトカゲも上を見た。
「カゲ」
「いつかお前も飛べるんだよな」
マサシが言うと、ヒトカゲは自分の背中を振り返ろうとした。
体をひねりすぎて、足がもつれる。
「今はまだないって」
倒れかけた体を支えると、ヒトカゲは照れたように鳴いた。
その頭上で、ポッポが短く鳴く。
「笑っただろ、お前」
ポッポは何食わぬ顔で羽を整えた。
マサシが口元を緩めた、そのときだった。
道の脇から、人の声がした。
「君、ポケモントレーナー?」
草むらから出てきたのは、虫取り網を持った少年だった。
マサシより少し年上に見える。
腰にはモンスターボールが二つあり、足元にはキャタピーがいた。
「今日なったばっかり」
「じゃあ、初めてのトレーナー戦をしようよ。僕もトキワシティへ行くところなんだ」
少年は網を肩へ担いだ。
「使うポケモンは一人ずつ。どう?」
マサシはヒトカゲへ視線を落とした。
肩の傷は気になる。ポッポも、さっき戦ったばかりだ。
「強くぶつかりすぎるのはなしで。俺のポケモン、少し疲れてるから」
「分かった。危なくなったら止めよう」
その返事を聞いてから、マサシはポッポへ顔を向けた。
「やれるか?」
ポッポが枝から降りてくる。
地面に立ち、キャタピーへ向き直った。
「ポッ!」
「よし。じゃあ頼む」
「キャタピー、いとをはく!」
少年の声に合わせ、白い糸が飛んできた。
「ポッポ、上へ――」
指示を出し終える前に、ポッポが羽ばたいた。
けれど遅かった。
地面から離れた足に糸が絡み、飛ぶ向きがずれる。
ポッポは翼をばたつかせ、低いところで体勢を立て直した。
マサシは眉を寄せた。
相手が人なら、こちらの動きを見て指示を変えてくる。
さっきの野生のポッポとのバトルとは違った。
「続けて、たいあたり!」
キャタピーが走る。
「横へかわせ!」
ポッポは飛ぼうとして、絡まった糸を引っかけた。
キャタピーの体当たりが胸へ当たり、後ろへ押される。
「ポッ!」
「悪い。足、使いにくいよな」
マサシはすぐに言った。
ポッポは立っていた。
こちらを振り向く瞳には、まだ戦う気持ちが残っている。
マサシは糸の伸びている先を見た。
地面の小枝に絡まっている。
その向こうには、背の高い草。
「ポッポ、飛ばなくていい。そのまま右へ回れ」
ポッポが小さく跳ねながら動いた。
「また、いとをはく!」
キャタピーが向きを変える。
マサシは相手の顔が上がる瞬間を見ていた。
「草の後ろへ!」
ポッポが身を低くした。
飛んできた糸は、手前の草へ絡みつく。
少年が声を上げる前に、マサシが続けた。
「今だ、かぜおこし!」
ポッポが翼を振った。
草が大きく倒れ、風を受けたキャタピーが体を縮める。
さらに羽ばたくと、足に残っていた糸が引かれ、絡まっていた小枝が地面を滑った。
ポッポの片足が自由になる。
「もう一回、翼を広げろ!」
強い風が道へ吹き抜けた。
キャタピーは後ろへ転がり、少年の足元で止まった。
「キャタピー!」
少年がしゃがむ。
キャタピーは頭を持ち上げたが、すぐには前へ出なかった。
「……ここまでにしよう。僕の負けだ」
その言葉に、マサシもポッポへ近づいた。
「よくやった。足、見せて」
しゃがんで、残った糸を丁寧に外す。
ポッポは大人しくしていた。
「最初、俺の指示が遅かったな」
糸を取り除くと、ポッポが片足を上げて動かした。
マサシは傷がないことを確かめ、ようやく笑った。
「次はもっと早く言う」
ポッポが、彼の指先を軽くくちばしでつついた。
「本当に今日から旅してるの?」
キャタピーを休ませながら、少年が尋ねた。
「うん」
「途中から、すごく落ち着いてたよね」
「落ち着いてたっていうか……ポッポが動ける場所、探してただけ」
マサシは道沿いの草を見た。
「飛べないなら、地面で動けばいいかなって」
「普通は飛ばせようとしちゃうと思うけど」
「俺も最初はそうした」
マサシが答えると、少年は笑った。
二人で少しだけ話し、別れることになった。
少年はもう少しこの辺りで虫ポケモンを探すという。
「トキワの森にも行くの?」
「そのつもり」
「虫ポケモンがたくさんいるよ。キャタピーもビードルも」
「へえ」
マサシは少年の足元を見た。
休んでいたキャタピーが顔を上げる。
体は小さくても、さっきの糸は厄介だった。
あれがもう少し正確だったら、ポッポは動けなくなっていたかもしれない。
知らないポケモンと会うだけでは、分からないことがある。
戦って初めて、気づくこともある。
「会ってみたいな」
その言葉に、隣のヒトカゲが頷いた。
午後になると、空に雲が増えてきた。
マサシは何度か空を見上げた。
風が冷たくなり、遠くの木々がざわめいている。
「雨、来そうだな」
足を速めた。
ヒトカゲも小走りになり、ポッポは低く飛んでついてくる。
けれど町へ着くより早く、最初の雨粒が頬に当たった。
一滴、二滴。
あっという間に、土へ黒い点が増えていく。
「二人とも、いったんボールへ戻ろう」
マサシがボールを出すと、ポッポは素直に光へ包まれた。
ヒトカゲは空を見てから、マサシの足元へ寄った。
「心配すんな。着いたらすぐ出すから」
「カゲ」
ヒトカゲもボールへ戻る。
マサシは二つのボールをしっかりしまい、上着の襟を立てた。
走ると、リュックが背中で跳ねる。
靴が少しずつ重くなった。
「……今日、晴れてたのにな」
朝の青空を思い出しながら、坂道を駆け上がる。
その先に、建物の屋根が見えた。
トキワシティだった。
ポケモンセンターの扉が開くと、暖かな空気が顔に触れた。
雨音が背後で遠くなる。
マサシは入り口のマットで足を止め、息を整えた。
「いらっしゃい。ずいぶん濡れちゃったわね」
受付から声をかけたのは、ジョーイだった。
隣にはラッキーがいる。
「ポケモン、診てもらえますか。今日、バトルしたんで」
「もちろん。預かるわね」
マサシはボールを渡した。
手のひらが空になると、急に落ち着かなくなった。
「あの、ヒトカゲの肩と、ポッポの胸に攻撃が当たってます。傷薬は使ったんですけど」
「分かったわ。ちゃんと診ておくから、あなたも体を拭いて待っていてね」
ラッキーがタオルを差し出した。
「ラッキー」
「……ありがとう」
髪を拭きながら、マサシは待合室へ向かった。
椅子に座ると、足の疲れがまとめて押し寄せてきた。
朝から歩いて、バトルをして、最後には雨の中を走った。
まだ旅の一日目だというのに、家を出たのがずっと前のことのように思える。
壁際にはテレビ電話が並んでいた。
マサシは少し迷い、立ち上がった。
『マサシ? もう町に着いたの?』
画面に母親の顔が映った。
「うん。トキワシティのポケモンセンター」
『濡れてるじゃない。風邪ひかないように着替えなさいよ』
「分かってる」
母親の声を聞くと、肩の力が抜けた。
画面の向こうには、朝までいた家の壁が見える。
『最初のポケモンは、ヒトカゲだった?』
「そう。あと、ポッポも仲間になった」
『もう?』
「さっき捕まえた。今、二人とも診てもらってる」
母親が嬉しそうに笑った。
『じゃあ、にぎやかになるわね』
「もう昼寝させてもらえない」
『頼もしい子たちね』
「そっちの味方かよ」
話しているうちに、マサシも笑っていた。
最後に夕食を食べるよう念を押され、通話を終える。
振り返ると、ジョーイがこちらへ歩いてきた。
「二人とも元気よ。少し休めば大丈夫」
返されたボールを、マサシは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
今度は、迷わず頭を下げた。
ポケモンたちを出し、夕食を用意した頃には、窓の外が暗くなっていた。
雨はまだ降っている。
ヒトカゲはマサシの隣で食べ、ポッポは机の端から周囲を見回していた。
「そこだと落ちるぞ」
容器を近づけると、ポッポは少しだけ中央へ寄った。
マサシは自分の食事を口へ運びながら、二人を眺めた。
朝には、誰もいなかった。
今は、食事を分ける相手が二人いる。
「明日は、晴れるといいな」
ヒトカゲが顔を上げる。
「カゲ」
「トキワの森へ行こう。知らないやつ、いっぱい居るらしいぞ」
ポッポも短く鳴いた。
そのとき、センターの入り口が開いた。
マサシは何気なく顔を向けた。
入ってきた少年を見て、椅子から立ち上がる。
「……サトシ?」
サトシの服は濡れ、泥で汚れていた。
けれどマサシの視線は、すぐにその腕の中へ移った。
ピカチュウが、ぐったりしている。
さっき研究所で見たときとは、まるで違った。
「ジョーイさん!」
サトシの切迫した声に、受付の空気が変わる。
ジョーイとラッキーが駆け寄った。
マサシは道を空けた。
サトシは彼に気づいたが、言葉にならないまま、ピカチュウを抱き直した。
「マサシ……ピカチュウが――」
「今は、先に診てもらえ」
マサシは短く言った。
サトシが頷く。
ピカチュウが治療室へ運ばれていくのを、二人は並んで見送った。
扉が閉じた。
サトシの腕が、ゆっくり下がる。
マサシは何も尋ねず、その隣に立っていた。
足元ではヒトカゲが静かに顔を上げ、ポッポも鳴くのをやめていた。
旅立ったばかりの幼馴染との再会は、想像していたものとは違っていた。
窓の向こうで、雨が強くガラスを叩いた。
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第2話終了
次回・第3話「トキワの夜!サトシと傷ついたピカチュウ」