ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
木々の間を抜けると、潮風が吹きつけてきた。
マサシは片手で前髪を押さえ、岬の先を見上げた。
青い海のそばに、大きな灯台が立っている。その根元には、家がつながっていた。
「……研究家の家って、灯台なのか」
隣のヒトカゲも、首を反らして上を見る。
バタフリーは風に乗ってひと回りすると、マサシの近くまで下りてきた。
「勝手に遠く行くなよ。海の上までは迎えに行けないからな」
「フリィ」
明るい返事を聞き、マサシは玄関へ向かった。
表札には、案内板と同じ名前がある。
呼び鈴を押すと、少し間を置いて声が返ってきた。
『開いてるよ! 悪いけど、そのまま入ってきてくれないか』
「お邪魔しまーす」
扉を開ける。
廊下の奥から、何かを引きずる音がした。
丸い、茶色の殻。
その下で、細い脚が動いている。
マサシは足を止めた。
「……カブト?」
『そう見えるなら、なかなかの出来だな』
殻から、人の声がした。
ヒトカゲが身構える。
マサシはその肩へ手を置いた。
「待って。中に誰か入ってるんだろ?」
『正解! 背中の留め具を外してくれる?』
「何やってんの……」
裏へ回り、言われた場所を引く。
殻が開き、中から青年が顔を出した。
「助かった!」
額の汗を拭い、青年は大きく息をついた。
「僕がマサキ。ポケモンの研究をしている」
「俺はマサシ。こっちはヒトカゲとバタフリー」
挨拶を済ませてから、マサシは床に置かれた殻を見た。
「それも研究?」
「ポケモンと同じ姿になれば、世界がどう見えるのか、少しわかるかと思ってね」
「何かわかった?」
「床に落ちているものが、よく見える」
マサシは殻とマサキを交互に見た。
「……次は、一人で脱げるようにしたほうがいいと思う」
マサキが声を上げて笑った。
*
研究室には、機械と本が所狭しと並んでいた。
壁には海図。
机の上には、細かな文字の書かれたノート。
マサシは勧められた椅子へ座り、窓の外を見た。
遠くまで、海が続いている。
「こんな場所で、何を調べてるの?」
「いろいろだよ。ポケモンの暮らし方や、進化。それに、鳴き声も」
「鳴き声?」
「今、待っている相手がいるんだ」
マサキは机の機械へ手を伸ばした。
「聞いてみる?」
マサシが頷く。
小さな雑音のあと、低く長い声が流れた。
ヒトカゲが顔を上げる。
窓辺に止まっていたバタフリーも、こちらを向いた。
声は、波のように強くなり、また遠ざかる。
マサシはしばらく黙って聞いていた。
「……これ、誰?」
「まだわからない」
マサキは再生を止めた。
「海から聞こえてきた声なんだ。僕がここから声を流すと、ときどき返事がある」
「ポケモンなの?」
「そのはずだ。でも、姿はまだ、はっきり見えていない」
マサシは窓の向こうへ目を戻した。
船が一隻、遠くを通っている。
そのさらに向こうから、さっきの声が届いたのだろうか。
「会って、どうするの?」
「話してみたい」
マサキは、迷わず答えた。
「どこから来たのか。どんな場所で暮らしているのか。聞いてみたいことは、たくさんあるよ」
マサシは少し笑った。
「俺も、聞いてみたい」
「だったら、今夜は泊まっていかないか。今日も、呼びかけるつもりなんだ」
足元で、ヒトカゲがマサシを見上げる。
バタフリーも、椅子の背へ飛んできた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
*
夕方、マサシは灯台のそばで仲間たちをボールから出した。
ポッポが手すりへ舞い上がる。
ニドランたちは岩場の手前で立ち止まり、初めて見る海へ耳を向けた。
波が砕ける。
ニドラン♂が、一歩跳ねた。
その隣で、ニドラン♀は慎重に足元の匂いを嗅いでいる。
「そこから先は駄目だぞ。滑るから」
声をかけると、二体は戻ってきた。
トランセルとコクーンは、風の弱い壁際へ。
マサシが隣へ座ると、バタフリーが二体の前へ下りてきた。
「今日は、みんな初めて見るものばっかりだな」
マサシは海を見渡した。
ヒトカゲが、その横へ腰を下ろす。
しばらくして、灯台からあの声が流れ始めた。
低く、長く。
海へ向かって伸びていく。
ポッポが羽づくろいをやめた。
ニドランたちも、耳をそろえて海へ向ける。
マサキが外へ出てきた。
「今日は風も穏やかだ。遠くまで届くと思う」
マサシは頷き、水平線を見つめた。
*
日が沈むと、海から霧が流れてきた。
灯台の光が、白い霧をゆっくり横切る。
返事が聞こえたのは、その直後だった。
低い声が足元まで響き、窓ガラスがかすかに震えた。
マサシは立ち上がった。
「今の……」
マサキはすでに、手すりの先を見ていた。
「来た」
霧の奥で、何かが動いた。
最初は、沖に大きな岩があるのかと思った。
けれど、その影は近づいてくる。
海面よりはるかに高いところで、長い首のようなものが動いた。
その後ろには、大きな体。
背中に、翼らしき影がある。
「……でかすぎるだろ」
マサシの声が、かすれた。
ヒトカゲが足元へ寄る。
ポッポも手すりを離れ、マサシの肩へ止まった。
ニドラン♂は相方の前へ出ていたが、その角は上がっていなかった。
ただ、目の前の影を見上げている。
マサシは図鑑を取り出した。
霧へ向ける。
けれど、姿ははっきり映らなかった。
「……わかんないか」
図鑑を下ろす。
それよりも、自分の目で見ていたかった。
巨大な影が、灯台へ顔を近づける。
声が響いた。
今度は、すぐ目の前からだった。
*
マサキが研究室へ戻り、機械を操作した。
録音された声が流れる。
海のポケモンが、返事をした。
少し短い声。
首のような影が、灯台の周りをゆっくり動く。
何かを探しているようだった。
マサシは手すりから離れず、その動きを追った。
機械が、また同じ声を流す。
海からの返事は、さっきとは違った。
低いところから始まり、長く伸びる。
それでも、灯台から聞こえるのは同じ録音だった。
影の動きが、止まった。
「……マサキさん」
マサシは振り返った。
「さっきから、向こうの鳴き方、変わってない?」
研究室の入り口へ、マサキが顔を出す。
「ああ。聞こえてる」
「でも、こっちは同じ声だ」
マサキが機械へ目を向けた。
その間に、巨大な影がわずかに離れる。
マサシは思わず手すりを握った。
ヒトカゲが、海へ向かって鳴いた。
「カゲー!」
小さな声だった。
機械の音に重なり、霧へ消える。
けれど、影の動きが止まった。
長い首が、こちらへ向き直る。
マサシは目を見開いた。
「……聞いてる」
マサキも、その様子を見ていた。
すぐに室内へ戻る。
録音の声が、途切れた。
波の音だけが残る。
ヒトカゲが、もう一度鳴いた。
ポッポも続く。
バタフリーが低く飛び、マサシのそばで声を上げた。
海の影は、動かなかった。
やがて、低い声が返ってきた。
ヒトカゲが顔を上げる。
マサシの肩で、ポッポが身を乗り出した。
「……返してくれたのか?」
確かめる言葉は、誰にもわからない。
それでも、ヒトカゲは嬉しそうにもう一度鳴いた。
*
マサキが、マサシの隣へ並んだ。
海を見上げ、息を吸う。
「僕は、ここにいる!」
風に負けない声で呼びかけた。
「君と同じ声では話せないけど、会えて嬉しいよ!」
巨大な影が、少しだけ首を傾けた。
マサシも手を上げた。
「俺も!」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
聞きたいことは、昼間にはたくさんあったはずなのに。
今はただ、その姿から目が離せなかった。
もう一度、声が響く。
長い、穏やかな声だった。
やがて影が向きを変える。
霧の奥へ、ゆっくり遠ざかっていった。
マサキは追いかけなかった。
「また、来てくれ」
手を上げたまま、見送る。
大きな姿が見えなくなっても、マサシたちはしばらく海を眺めていた。
足元で、ヒトカゲが小さく鳴いた。
マサシはしゃがみ、その背中を撫でる。
「お前の声、聞こえたな」
「カゲ」
ヒトカゲは、まだ海を見ていた。
*
翌朝、霧はすっかり晴れていた。
昨日と同じ、青い海。
けれどマサシには、少し違って見えた。
あの向こうのどこかに、灯台ほどもあるポケモンがいる。
そう思うだけで、つい遠くまで目を凝らしてしまう。
「また来るの、待つんだな」
玄関でリュックを背負いながら言うと、マサキは頷いた。
「ああ。でも、次は録音を流すだけじゃない。もっと相手の声を聞いてみるよ」
「話、できるといいな」
「できたら、君にも聞かせたい」
差し出された手を、マサシは握った。
「泊めてくれてありがとう」
「こちらこそ。楽しかったよ」
マサシが門を出る。
ヒトカゲが隣へ並び、バタフリーが朝の空へ飛び立った。
坂道の途中で、一度だけ振り返る。
灯台は、変わらず海のそばに立っていた。
「……いろんなポケモンがいるんだな」
マサシが呟く。
ヒトカゲが頷くように鳴いた。
バッジは、まだ二つ。
行ったことのない街も、会ったことのないポケモンも、山ほどある。
マサシはリュックの肩紐を引いた。
「ハナダへ戻ったら、次はクチバだ」
ヒトカゲが元気よく声を上げる。
白い羽が、その頭上を横切った。
第27話終了
次回・第28話「クチバへの道!小さな殻の大きな一撃」