ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
一応ヒロインはありの方向で進めたいと思います!
今度はヒロインが一人か複数かのアンケートに回答お願いします!
治療室の扉の上で、赤いランプが灯っていた。
サトシは、その光を見つめたまま動かなかった。
服の裾から雨水が落ち、靴の周りに小さな染みを作っている。
腕には擦り傷があり、泥のついた指先が、何度も握られていた。
マサシは受付から借りてきたタオルを、その頭へ載せた。
「拭けよ。お前まで風邪ひくぞ」
「……うん」
返事はあった。
けれど、サトシの手は動かなかった。
マサシは少し待ってから、隣の椅子を指した。
「座ろう。そこに立ってても、早く治るわけじゃないし」
サトシがようやく振り向いた。
いつもなら何か言い返してくる顔が、今はひどく頼りなく見えた。
ゆっくり腰を下ろし、両手でタオルを握る。
マサシも隣へ座った。
ヒトカゲは足元へ戻り、ポッポは近くの椅子の背に止まった。
さっきまで食事をしていた二体も、今は静かだった。
時計の針が、小さな音を立てて進んでいた。
「何があった?」
マサシが尋ねると、サトシは膝を見つめたまま話し始めた。
ピカチュウが、最初は言うことを聞いてくれなかったこと。
自分でポケモンを捕まえようとして、オニスズメを怒らせてしまったこと。
群れに追いかけられ、その途中でピカチュウが傷ついたこと。
話は何度も途切れた。
マサシは口を挟まずに聞いていた。
「俺が、ちゃんとできてれば……」
サトシの指が、タオルへ食い込む。
「ピカチュウ、俺を守ってくれたんだ。あんなに傷ついてたのに」
マサシは治療室の扉を見た。
研究所で見たピカチュウは、サトシから距離を取っていた。
そのピカチュウが、彼を守った。
短い一日の間に、マサシの知らない出来事があったのだ。
「じゃあ、元気になったら言ってやれよ」
サトシが顔を上げる。
「ありがとうって」
「……うん」
「謝るのも、ちゃんと顔を見てからだろ」
サトシは頷き、ようやくタオルで髪を拭き始めた。
マサシも、足元のヒトカゲへ手を伸ばした。
温かな額が、手のひらへ触れる。
今日、初めてバトルをした。
勝ったのは嬉しかった。
ポッポが仲間になったのも嬉しかった。
けれど、自分の指示で前へ出るのは、この小さな仲間なのだ。
マサシはヒトカゲの肩に視線を落とした。
最初の体当たりを受けた場所を、指でそっと撫でた。
◇
「ちょっと! やっと見つけた!」
入り口から飛び込んできた声に、二人は顔を向けた。
オレンジ色の髪を横で結んだ少女が立っていた。
彼女が押しているものを見て、マサシは思わず目を細める。
車輪は曲がり、かごも歪んでいた。
「……それ、自転車?」
「そうよ!」
少女は強く答え、サトシを指差した。
「あんたが持っていった、あたしの自転車!」
「あ……」
サトシが立ち上がった。
「ごめん。でも、ピカチュウが――」
その名前を聞き、少女の視線が治療室へ動いた。
赤いランプを見てから、サトシの顔を見直す。
「……まだ治療中なの?」
「うん」
少女は口を閉じた。
言いたいことが残っているのは、その表情で分かった。
それでも彼女は自転車を壁際へ寄せ、濡れた前髪を払った。
「先に、ちゃんと治してもらいなさいよ」
サトシが、小さく礼を言った。
マサシは空いている椅子を少し引いた。
「座る?」
「……ありがと」
少女は腰を下ろしかけ、マサシを見る。
「あんた、この子の友達?」
「幼馴染。マサシ」
「あたしはカスミ」
カスミの目が、足元のヒトカゲへ向いた。
次に、椅子の背に止まるポッポを見る。
「あんたも旅してるの?」
「今日から。ヒトカゲと、ポッポが仲間」
紹介すると、ヒトカゲが小さく鳴いた。
ポッポも胸を膨らませた。
「ポッポ、もうゲットしたのか?」
サトシが尋ねる。
「おう。結構速いぞ」
「そっか……」
サトシはポッポを見たあと、また治療室へ目を戻した。
マサシはそれ以上、バトルの話をしなかった。
◇
赤いランプが消えた。
扉が開くより先に、サトシが立ち上がる。
出てきたジョーイが、穏やかに微笑んだ。
「もう大丈夫よ」
「本当ですか!?」
「ええ。ただ、今夜はゆっくり休ませてあげてね」
運ばれてきたベッドの上で、ピカチュウが目を開けていた。
サトシが駆け寄る。
「ピカチュウ……!」
「ピカ……」
小さな返事だった。
サトシはベッドの縁へ手を置いた。
触れていいか迷うように指を止め、それからそっと頭を撫でる。
「ごめんな。俺のせいで」
ピカチュウが彼を見上げた。
「それと、ありがとう。俺を守ってくれて」
黄色い耳が、わずかに動いた。
ピカチュウはサトシの手へ頬を寄せ、目を細めた。
マサシは離れた場所で息を吐いた。
隣ではカスミも、肩から力を抜いていた。
「よかったわね」
「うん!」
サトシの声に、ようやくいつもの明るさが戻った。
ヒトカゲがベッドへ近づき、背伸びをする。
ピカチュウが気づくと、二体は短く鳴き交わした。
「今度、元気なときに遊ぼうな!」
サトシが言う。
「バトルは、ちゃんと治ってからだぞ」
「分かってるって!」
マサシも笑った。
◇
夜が深くなると、センターは静かになった。
サトシがテレビ電話で家へ連絡している間に、マサシは宿泊の手続きを済ませた。
水筒へ水を足し、荷物をまとめる。
足元ではヒトカゲが大きなあくびをした。
「眠いよな。俺も」
ポッポはマサシの肩で、目を閉じかけていた。
眠る場所を探して何度か移動した末に、そこへ落ち着いたのだ。
「首、疲れるんだけど」
小声で言っても動かない。
「……部屋までだからな」
リュックを持ち上げたとき、照明がちらついた。
マサシは顔を上げた。
雨音に混じって、低い振動が伝わってくる。
窓の向こうを、大きな影が横切った。
「何だ?」
直後、鋭い音が響いた。
窓の近くで光が弾け、白い煙が広がる。
肩のポッポが飛び上がった。
マサシはとっさにヒトカゲを抱き寄せ、受付の陰へ身を屈めた。
「窓から離れて!」
ジョーイの声が響く。
焦げた匂いがした。
「サトシ!」
「こっち!」
待合室の向こうから返事があった。
サトシはピカチュウのベッドの前へ立ち、カスミもそのそばへ駆け寄っている。
煙の中で、足音がした。
現れたのは、胸に赤い「R」の文字が入った服を着た二人組と、一体のニャースだった。
女が長い髪を払う。
「おとなしくしていれば、乱暴にはしないわ」
男は袋を広げ、受付の奥へ目を向けた。
「ここには、いろんなポケモンが集まるんだろう?」
「まとめて頂いていくニャ!」
マサシは一瞬、ニャースを見た。
「……今、喋った?」
「そこに驚いてる場合!?」
カスミの声に、マサシは顔を上げた。
女がモンスターボールを開く。
「行きなさい、アーボ!」
床へ降りた長い体が、うねった。
男の隣にはドガースが浮かぶ。
マサシはヒトカゲを下ろした。
相手が何をするつもりなのかは分かった。
治療を受けに来たポケモンを、奪おうとしている。
「ここ、怪我してるやつもいるんだぞ」
「だから、邪魔しなければいいのよ」
女が言った。
マサシは目を細める。
「それで見てると思う?」
足元でヒトカゲが構えた。
◇
アーボが床を滑った。
ヒトカゲへ近づくと見せかけ、その脇を抜ける。
奥の通路へ向かう動きだった。
「ヒトカゲ、右へ! 通すな!」
ヒトカゲが駆け出す。
アーボの前へ入り、爪を振った。
「ひっかく!」
アーボが身をひねる。
爪をかわした直後、尻尾が飛んできた。
「下がれ!」
ヒトカゲは後ろへ跳んだ。
尻尾が鼻先をかすめる。
マサシは周囲を見た。
ベッド。
機械。
避難する人。
外で戦ったときのように、自由には動けない。
「ドガース、えんまく!」
黒い煙が吹き出した。
視界が狭まる。
マサシは袖で口元を覆い、頭上を見た。
ポッポが照明の近くを飛んでいる。
「ポッポ、かぜおこし! 煙を外へ押し出せ!」
翼が鳴った。
風が煙を押し、相手の姿が再び見える。
その間に、アーボがヒトカゲへ迫っていた。
「左!」
ヒトカゲが動く。
だが、体の端へ尻尾が当たった。
横へ転がり、小さな声が漏れる。
「ヒトカゲ!」
マサシは駆け寄りかけた。
ヒトカゲはすぐに起き上がった。
こちらを見る。
マサシは踏み出した足を止めた。
「こっちへ戻れ! 俺の前だ!」
ヒトカゲが小走りに戻る。
背後では、ジョーイとラッキーが治療中のポケモンを奥へ運んでいた。
カスミが扉を押さえ、サトシもベッドを動かしている。
「マサシ、もう少し!」
「分かってる!」
マサシはアーボを見た。
頭が高い。
飛びかかる前に、こちらを見定めている。
「ポッポ、上がれ!」
風が止まる。
アーボの目が、一瞬だけ上を追った。
「ヒトカゲ、ひのこ!」
小さな炎が正面へ散った。
アーボが顔を引く。
「もう一歩前! ひのこ!」
ヒトカゲが踏み込み、火の粉を飛ばす。
アーボが後退した。
少しでも、通路から遠ざける。
マサシの額を汗が伝った。
◇
「面倒ね……!」
女が苛立った声を上げる。
男は周囲を見回し、サトシのそばにいたピカチュウへ目を留めた。
「あのピカチュウを連れていこう。手ぶらじゃ帰れないからね」
サトシの顔つきが変わった。
「ピカチュウには触らせない!」
ドガースが近づく。
カスミがボールを構えた、そのときだった。
ピカチュウがベッドから降りた。
「ピカチュウ! まだ休んでろ!」
サトシが膝をつく。
ピカチュウはふらつきながらも、彼の前へ立った。
頬で、小さな火花が弾ける。
センターの奥から、鳴き声が重なった。
非常用の電力を支えていたピカチュウたちが、異変に気づいて集まってくる。
黄色い体が並んだ。
マサシはその向きと、相手の位置を見た。
「ヒトカゲ、戻れ! ポッポも!」
二体を呼び寄せ、机の陰へ身を引く。
カスミもラッキーを奥へ促した。
サトシがピカチュウと目を合わせる。
「頼む、ピカチュウ!」
眩しい光が広がった。
空気が震える。
マサシはヒトカゲを抱え、顔を伏せた。
鋭い音に、相手の悲鳴が重なった。
煙が光の中で揺れ、窓の向こうへ流れていく。
何かが床を滑った。
倒れる音がした。
それから、急に静かになった。
◇
顔を上げると、二人組は出口へよろめいていた。
服のあちこちが焦げ、ニャースも尻尾を膨らませている。
「今日は引き上げるわよ!」
「言われなくても分かってるよ!」
「待つニャ!」
その姿が、雨の向こうへ消えた。
サトシが一歩踏み出す。
「今はピカチュウを!」
ジョーイの声に、すぐ振り返った。
ピカチュウが床へ座り込んでいる。
サトシは駆け寄り、そっと抱き上げた。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
腕の中で、ピカチュウが小さく鳴いた。
マサシもヒトカゲを下ろす。
「どこか痛いか?」
ヒトカゲが脇腹へ触れた。
尻尾を受けた場所だった。
「もう一回、診てもらおう」
声をかけると、ヒトカゲは頷いた。
ポッポが肩へ降りようとして、少し位置を誤った。
マサシは両手を出し、その体を受け止める。
「お前も疲れたよな」
細い足が指を握った。
「二体とも、助かった。ありがとな」
ポッポが胸元へ体を寄せる。
その背を撫でようとして、マサシは自分の指先が少し震えていることに気づいた。
◇
駆けつけたジュンサーに、ジョーイが事情を説明した。
サトシたちも、見たことを話した。
あの二人組は、ポケモンを狙うロケット団だという。
マサシはその名前を聞き、床に残された袋へ目を向けた。
あの中へ、誰かの仲間が入れられるところだった。
「……嫌なやつらだな」
サトシが頷く。
「また来たら、絶対に追い払う」
「その前に、強くならないとな」
マサシはヒトカゲとポッポを見た。
二体とも、よく頑張ってくれた。
それでも、守りながら戦うのは難しかった。
相手だけを見ていても駄目だった。
仲間のいる場所も、逃げられる道も、考えなければならな
い。
サトシが腕の中を見下ろす。
「俺も、もっとピカチュウのこと分かりたい」
「……うん」
マサシは頷いた。
◇
翌朝、雨は上がっていた。
屋根から落ちる雫が、陽射しを受けて光っている。
再び診察を受けたヒトカゲとポッポは、どちらも旅を続けてよいと言われた。
ただし、今日は無理をさせないこと。
それがジョーイとの約束だった。
マサシは道具を補充し、リュックの中身を整えた。
入り口では、サトシがピカチュウへ話しかけていた。
カスミも隣にいる。
「一緒に行くの?」
マサシが尋ねると、カスミは腕を組んだ。
「自転車を弁償してもらうまでは、逃がさないの!」
「逃げないってば!」
昨日の重い空気が嘘のようなやり取りに、マサシは笑った。
「じゃあ、またな」
サトシが振り向く。
「本当に別々に行くんだな」
「おう。次に会うまで、ポッポにも負けないくらい強くなっとけよ」
「こっちの台詞だ!」
ピカチュウがサトシの肩で鳴いた。
ヒトカゲも負けじと声を上げる。
マサシは二人へ手を振り、道へ出た。
◇
町を離れると、正面に深い緑が広がっていた。
トキワの森。
近づくほどに木々は大きくなり、朝の空が枝葉で区切られていく。
「今日は急がないぞ」
マサシが言った。
「昨日、走りすぎたし」
ヒトカゲが頷く。
ポッポは低い枝へ移り、待ってくれた。
森へ足を踏み入れると、湿った土と若葉の匂いがした。
どこかで、葉が擦れる。
マサシは足を止めた。
目の前の枝で、緑色の体が動いている。
一体のキャタピーが、葉を食べるのをやめてこちらを見ていた。
マサシはしゃがんだ。
「……おはよう」
キャタピーの触角が、ゆっくり揺れた。
第3話終了
次回・第4話「トキワの森へ!小さなキャタピーとの出会い」