ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
葉の端が、小さく欠けた。
キャタピーは口を動かしたまま、枝の下へしゃがんだマサシを見ていた。
赤い触角が、ゆっくり揺れている。
隣ではヒトカゲも顔を上げていた。
ポッポは少し離れた枝に止まり、羽を整えている。
「食ってるところ、邪魔したな」
マサシが立ち上がろうとすると、キャタピーの体が縮んだ。
彼は動きを止めた。
キャタピーが見ているのは、自分ではない。
その後ろにいるポッポだった。
「ああ……怖いか」
キャタピーにとっては、知らない人間と鳥ポケモンが突然近づいてきたのだ。
落ち着いて食事を続けられるはずもない。
マサシはポッポへ腕を差し出した。
「ちょっと、こっち」
ポッポが飛んでくる。
腕へ止まった体を支え、胸を指で軽く撫でた。
「少し休んでてくれ。あとでまた出すから」
ボールへ戻すと、キャタピーの体から少し力が抜けた。
それでも、葉を食べ直そうとはしない。
マサシは枝から離れ、道の端へ腰を下ろした。
「じゃあ、俺たちも休憩するか」
「カゲ?」
ヒトカゲが振り返った。
木々の間には、まだ森の入り口の明るさが見えている。
「入ったばっかりだろって顔するなよ」
ヒトカゲはマサシを見つめたあと、仕方なさそうに隣へ座った。
◇
森の中は、町よりひんやりしていた。
昨夜の雨を吸った土は柔らかく、頭上では葉から葉へ雫が落ちている。
遠くの羽音。
木の幹を何かが登る音。
姿は見えなくても、あちこちにポケモンがいる。
マサシは図鑑を開いた。
画面へキャタピーの姿が映り、説明が流れる。
足の吸盤を使い、木や葉にしっかりつかまるポケモン。
成長すると脱皮を重ね、やがて姿を変える。
マサシは枝を見上げた。
キャタピーは細い枝の裏側へ回り込んでいた。
それでも、落ちそうな様子はない。
「便利だな、その足」
ヒトカゲが自分の足を持ち上げた。
裏を見る。
マサシは笑った。
「お前にはついてないだろ」
「カゲ」
ヒトカゲが足を下ろす。
そのやり取りを見ていたキャタピーが、少しだけ体を伸ばした。
マサシはリュックから食事の袋を取り出した。
朝食は済ませていたが、途中で休むときのために少量を分けてある。
「これ、食う?」
一粒を手のひらへ載せ、枝の近くに差し出した。
キャタピーは動かなかった。
顔がわずかに近づき、また引っ込む。
「葉っぱの方が好きか」
マサシは無理に近づけず、手を引いた。
隣でヒトカゲが、自分の分を一粒食べる。
嬉しそうに口を動かす姿を、キャタピーがじっと見ていた。
「……気になる?」
もう一度、手を差し出す。
今度は、キャタピーも下がらなかった。
ゆっくり枝の先まで進み、匂いを確かめる。
それから小さな口で、一粒を受け取った。
マサシは手を動かさずに待った。
食べ終えたキャタピーが、空になった手のひらを見下ろす。
「どうだった?」
キャタピーは、もう少しだけ前へ進んだ。
「気に入ったらしいな」
マサシが笑うと、ヒトカゲも隣で鳴いた。
◇
休憩を終えて歩き出すと、森の道は思ったより複雑だった。
木の根を避けて曲がり、大きな水たまりを回り込む。
そのうちに、さっきまで進んでいた方向が分かりにくくなった。
マサシは地図を開いた。
紙の上では、道は一本。
目の前には、踏み跡が二つあった。
「どっちも道に見えるんだけど」
ヒトカゲが右を覗き、左を覗く。
「お前も初めてだもんな」
マサシは周囲を見回した。
幹に取りつけられた小さな案内板を見つけ、手前の葉を避ける。
「こっちか」
一歩踏み出したところで、肩が軽く引かれた。
振り返る。
リュックの肩ひもへ、細い白い糸がついていた。
糸の先を目で追うと、低い枝にキャタピーがいる。
「……お前、ついてきたの?」
さっきのキャタピーだった。
マサシが近づくと、枝の先へ進んでくる。
それから、リュックをじっと見た。
「まだ欲しいのか?」
赤い触角が揺れた。
マサシは吹き出した。
「俺じゃなくて、飯についてきたんだな」
「カゲ!」
ヒトカゲまで、どこか得意げに頷く。
「お前も飯、好きだろ」
マサシは肩ひもについた糸をそっと外した。
その指先を追って、キャタピーが身を乗り出す。
「落ちるぞ」
手を添える。
するとキャタピーは、自分から手のひらへ移ってきた。
細かな足が、指へしっかり吸いつく。
マサシは思わず動きを止めた。
「……ほんとにくっつくんだな」
ゆっくり持ち上げると、キャタピーは落ち着いた様子で体を伸ばした。
近くで見る目には、マサシの顔が小さく映っていた。
「一緒に来たいのか?」
キャタピーは返事をするように鳴き、手首の方へ進んだ。
袖を登り、肘のあたりで止まる。
マサシはヒトカゲを見た。
「どうする?」
「カゲッ」
ヒトカゲが前足を上げる。
キャタピーがそちらへ顔を向け、二体が短く鳴き交わした。
何を話したのか、正確には分からない。
けれど、ヒトカゲが嫌がっていないことは伝わった。
「じゃあ、もうちょっと一緒に歩くか」
マサシはキャタピーを腕へ載せたまま、道へ戻った。
◇
日が高くなるにつれ、森の中にも細い光が差し込んできた。
キャタピーは腕から肩へ移り、初めて見る景色のように周囲を眺めていた。
リュックの上へ進もうとするたび、マサシが手を添える。
「そっちは段差あるから、ゆっくりな」
キャタピーは止まった。
少し待つと、また進む。
「結構、行きたいところ行くんだな、お前」
ヒトカゲが隣から見上げた。
そのときだった。
道の脇から、葉を擦る音がした。
マサシは顔を向けた。
茂みの中で、一体のビードルが体をよじっている。
頭の針が細い枝の間へ入り、抜けなくなっていた。
後ろへ下がろうとするたび、濡れた枝が曲がり、体を押し戻していた。
「引っかかったのか」
マサシはキャタピーを近くの葉へ移した。
「ちょっと待ってて」
しゃがみ、茂みを覗く。
ビードルは彼に気づくと、激しく体を動かした。
頭を振ろうとして、枝が大きく揺れる。
「待て。暴れると、もっと抜けなくなる」
声をかけても止まらない。
マサシは伸ばしかけた手を引いた。
知らない人間が近づいてきたのだ。
怖がるのは当然だった。
頭と尻尾の針を避け、体を押さえながら外すには、もう少し落ち着いてもらわなければならない。
「ヒトカゲ、そっちの枝を――」
ヒトカゲが近づくと、ビードルはさらに身を縮めた。
マサシはすぐに言い直した。
「いや、そこで待っててくれ」
周囲を見る。
絡んでいるのは、二本の細い枝だった。
片方を持ち上げ、もう片方を横へ開けば、針を抜けそうだ。
マサシは丈夫そうな落ち枝を拾い、隙間へ差し込んだ。
「今、広げるからな」
ゆっくり力をかける。
枝の間が、わずかに開いた。
ビードルが後ろへ動く。
だが、足元の葉が滑った。
体が横へ傾き、頭の針がまた枝へ引っかかる。
「あと、ちょっとなんだけど……」
片手で持ち上げ続けながら、もう一方の枝へ手を伸ばそうとした。
そのとき、白い糸が目の前を横切った。
糸が枝へ絡みつく。
振り返ると、キャタピーが葉の上で足を踏ん張っていた。
体を縮め、枝を横へ引いている。
マサシは糸の向きを見た。
自分が持ち上げているのとは、違う方向だった。
「……そうか」
落ち枝の角度を変える。
「そのまま引っ張れ、キャタピー!」
キャタピーが踏ん張った。
枝がしなる。
隙間が、少しずつ広がった。
「ビードル、後ろだ! ゆっくり下がれ!」
ビードルが足を動かす。
一度止まる。
もう一度、体を引く。
頭の針が、枝の間から抜けた。
「よし!」
勢い余って転がりかけた体を、マサシは下から支えた。
針に触れないよう気をつけ、すぐに平らな地面へ下ろす。
ビードルは体を丸め、しばらく動かなかった。
マサシも近づきすぎず、待った。
やがてビードルが、ゆっくり顔を上げた。
「大丈夫そうか?」
小さな足が動いた。
マサシの手を見て、少しだけ後ろへ下がる。
彼は追わずに、横へずれた。
森の奥へ戻れるよう、道を空ける。
「もう引っかかるなよ」
ビードルはマサシを見た。
次に、葉の上のキャタピーを見る。
何度か振り返りながら、茂みの中へ消えていった。
◇
姿が見えなくなってから、マサシはキャタピーへ向き直った。
糸が緩み、小さな体が葉の上へ沈む。
「助かった。お前、すごいな」
手を差し出すと、キャタピーは迷わず乗ってきた。
ヒトカゲも近づき、顔を覗き込む。
「カゲ!」
褒められていると分かったのか、キャタピーは胸を張るように体を起こした。
マサシは笑った。
「俺だけじゃ、あの枝を押さえきれなかった」
キャタピーを支えたまま、白い糸が残る枝を見る。
昨日、バトルで足へ絡められたときには、厄介な技だと思った。
今は、その同じ技に助けられた。
「いろいろ、できるんだな」
マサシは呟き、キャタピーへ視線を戻した。
「疲れただろ。次、休めるところ探そう」
◇
少し進んだ先に、大きな木の根が張り出した場所があった。
乾いた部分を選び、マサシはリュックを下ろした。
「出てこい、ポッポ」
光の中から現れたポッポが、翼を広げる。
すぐにキャタピーへ気づいた。
キャタピーの足が、マサシの袖を強くつかんだ。
「大丈夫」
マサシはまず、ポッポへ声をかけた。
「一緒に歩いてきたんだ。怖がらせないでやって」
ポッポが首を傾げる。
ヒトカゲが隣へ進み、短く鳴いた。
ポッポも鳴き返し、それから少し離れた根の上へ移った。
キャタピーをじっと見続けることもなく、羽を整え始める。
マサシはそっと息を吐いた。
「ありがとな」
食事の容器を並べる。
ヒトカゲの分。
ポッポの分。
それから、小さな容器へ少しだけ、キャタピーの分も入れた。
「まずは飯にしよう」
キャタピーは袖から下りるのをためらった。
マサシは容器を手元へ寄せ、待った。
やがて細い足が布から離れる。
容器へ顔を近づけ、食べ始めた。
ポッポも自分の分をついばみ、ヒトカゲはもう夢中になっている。
マサシは三体を順番に見た。
旅に出て、まだ二日目。
昨日の朝まで、こんなふうにポケモンと食事をする景色は、想像の中にしかなかった。
今は容器を置く場所を考え、水が足りるか確かめ、自分の食事を出すのを忘れかけている。
「……俺のも食っとかないと」
包みを開くと、キャタピーが顔を上げた。
「これは俺の」
言うと、キャタピーは自分の容器へ戻った。
その素直な動きに、つい笑ってしまった。
◇
食後、マサシは空のモンスターボールを取り出した。
しばらく手の中で転がしてから、キャタピーの前へ置く。
「俺たち、これからニビシティへ行くんだ」
キャタピーがボールを見た。
「その先も、いろんな場所へ行く。知らないポケモンと会って、バトルもする」
ヒトカゲが隣へ座る。
ポッポも根から下り、少し離れたところで様子を見ていた。
「さっき、ビードルを助けるの、手伝ってくれただろ」
マサシはキャタピーと目を合わせた。
「嬉しかった。お前が一緒なら、これからもできること増えそうだなって思った」
キャタピーの触角が揺れる。
「今度は、ちゃんと仲間として一緒に来ないか?」
頭上で葉が鳴った。
キャタピーが振り返る。
木の幹を登れば、枝はどこまでも続いている。
食べ慣れた葉も、休める場所も、森にはたくさんあるはずだった。
マサシは返事を待った。
急かさず、ボールも近づけずに。
やがてキャタピーは、彼の方へ向き直った。
一歩、進む。
ボールへ鼻先を寄せる。
真ん中のボタンに、小さな頭が触れた。
光が開いた。
緑色の体が、その中へ収まる。
マサシはボールを手に取り、揺れが止まるのを待った。
一度。
もう一度。
静かな音がして、ボールが落ち着いた。
「……よし」
ヒトカゲが両腕を上げる。
ポッポも翼を広げた。
マサシは笑い、ボールを持ち上げた。
「キャタピー、ゲットだ」
◇
すぐにボールを開くと、キャタピーが目の前へ現れた。
周囲を見回し、マサシを見上げる。
「これから、よろしくな」
差し出した手へ、キャタピーが乗った。
袖を登り、膝の上へ落ち着く。
「そこがいいのか?」
マサシは困ったように笑った。
ヒトカゲも隣へ座り、ポッポは根の上へ体を沈めた。
木漏れ日が暖かい。
枝を揺らす風も、気持ちよかった。
マサシは幹へ背中を預ける。
「……じゃあ、少しだけ休むか」
今度は誰も、起こそうとしなかった。
◇
目を覚ますと、キャタピーが膝の上から見つめていた。
「……おはよう」
マサシは目をこすり、空を見た。
まだ明るい。
けれど、光の差す角度が少し変わっていた。
「どれくらい寝た?」
ヒトカゲが起き上がり、大きく伸びをする。
ポッポが一声鳴いた。
「分かんないよな」
マサシは立ち上がり、容器を片づけた。
キャタピーのボールを腰へつける。
ヒトカゲ、ポッポ、キャタピー。
ボールが一つ増えただけなのに、旅の景色がまた変わった気がした。
食事の好みも、歩く速さも、得意なことも違う。
それを少しずつ、覚えていくのだ。
マサシはキャタピーをリュックの上へ乗せた。
「落ちそうだったら、すぐ言えよ」
小さな足が肩ひもへつかまる。
ポッポが先の枝へ飛び、ヒトカゲが道へ出た。
マサシも歩き始めた。
しばらくすると、肩の向こうでキャタピーが鳴いた。
「どうした?」
細い糸が伸び、道の脇の葉へ触れた。
その先で、草が揺れる。
マサシは足を止めた。
黄色い頭が、そっと覗いた。
さっき助けたビードルだった。
今度は枝に引っかかっていない。
こちらが止まると、ビードルも止まる。
マサシが一歩進む。
小さな足音が、またついてきた。
「……お前も?」
しゃがんで、手を差し出す。
ビードルは、まだ近づかなかった。
けれど、逃げもしなかった。
第4話終了
次回・第5話「ついてくるビードル!森で育つ小さな信頼」