ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
草むらから覗く黄色い頭が、ぴたりと止まった。
マサシの差し出した手まで、あと少し。
ビードルはその距離を詰めず、黒い目で指先を見つめていた。
マサシも動かなかった。
頭と尻尾にある針へ、木漏れ日が細く反射している。
枝から助けたときより落ち着いてはいたが、小さな体にはまだ力が入っていた。
「ついてきたのか?」
ビードルの口元が、小さく動いた。
肩のキャタピーが身を乗り出す。
二体の間で短い鳴き声が交わされた。
ビードルは半歩だけ前へ出て、すぐに葉の陰へ戻った。
「無理しなくていいよ」
マサシは手を引き、ゆっくり立ち上がった。
「俺たちはこっちに行くから。来たかったら来ればいいし、帰りたかったら帰っていい」
隣のヒトカゲが草むらへ顔を向ける。
ビードルはその視線に気づき、少し奥へ下がった。
マサシはヒトカゲの背へ軽く触れた。
「先に歩こう」
「カゲ」
頭上では、ポッポが枝から枝へ移っている。
キャタピーをリュックの上へ乗せ直し、マサシは道を進んだ。
少しすると、背後で落ち葉を踏むかすかな音がした。
振り返る。
音が止まる。
草の根元から、赤い鼻だけが覗いていた。
「……見えてるぞ」
鼻が引っ込んだ。
マサシは笑いをこらえ、前を向いた。
◇
森の中では、少し歩くだけで景色が変わった。
湿った窪地には大きな葉が茂り、陽射しの届く場所では細い草が道へせり出している。
幹の高いところにトランセルがぶら下がっていた。
マサシが足を止めて図鑑を向けると、その目がゆっくり動いた。
「お前、そこでずっと待ってるの?」
返事はなかった。
けれど、こちらを見ているのは分かる。
図鑑の説明へ視線を落とし、もう一度見上げたときには、葉の影で姿が見えにくくなっていた。
「……どこ行った?」
ヒトカゲが木を指す。
位置は変わっていない。
風で葉が一枚動き、緑色の体がまた見えた。
「ああ、いた」
マサシは図鑑をしまった。
その後ろには、ビードルがいた。
近づくと隠れる。
離れるとついてくる。
キャタピーがリュックから鳴きかけると、短く返事をすることもあった。
やがて道が低い場所へ下り始めた。
昨夜の雨が流れ込んだらしく、大きな水たまりが行く手を塞いでいる。
表面には葉が浮き、端の泥には深い足跡が残っていた。
マサシは手前へしゃがんだ。
「見た目より深そうだな」
落ち枝を差し込む。
先端は思った以上に沈んだ。
ヒトカゲが、水面を見て一歩下がる。
「大丈夫。入らないよ」
右側は茂みが深い。
左側には、太い根を何本も張った木があった。
その上を通れば、濡れずに向こうへ渡れそうだった。
マサシはまず自分の足を載せ、滑らないことを確かめた。
「こっちだ。ゆっくり来い」
ヒトカゲが続く。
ポッポは飛んで渡り、キャタピーはリュックの肩ひもへしっかりつかまっていた。
向こう側へ下りたマサシは、振り返った。
ビードルが、水たまりの手前で止まっていた。
右を向き、左を向く。
それから、水際へ近づいた。
「そっちは――」
足元の泥が崩れた。
ビードルの体が、ずるりと傾く。
短い足が動いたが、踏ん張る場所がなかった。
マサシはすぐに引き返した。
木の根を越え、泥へ片膝をつく。
ビードルが水へ落ちる直前、その体の下へ手を滑らせた。
「っと……!」
支えた手の上で、ビードルが激しく身をよじった。
頭の針が袖へ引っかかる。
マサシは反射的に腕を引きかけ、止めた。
「待って。暴れると落とす」
低い声で言い、もう片方の手を添える。
針から指を離し、体の下を広く支えた。
ゆっくり持ち上げる。
ビードルはまだ震えていた。
マサシは乾いた根の上まで戻り、そこで一度しゃがんだ。
「もう大丈夫」
下ろそうとしても、ビードルの足は手のひらを強くつかんでいた。
マサシは少し待った。
それから、立ち上がる。
「向こうまで、このまま行くぞ」
今度は、暴れなかった。
◇
水たまりを越えた先で、ビードルを乾いた落ち葉の上へ下ろした。
柔らかな布を取り出し、体についた泥を拭く。
ビードルは布が近づくたび身を縮めたが、逃げなかった。
「怪我はなさそうだな」
足の動きを見る。
ちゃんと地面をつかめている。
マサシは息を吐いた。
そこで、袖の小さな穴へ気づく。
「あ」
針が引っかかった場所だった。
布がほつれ、短い糸が出ている。
ビードルも、その穴を見た。
ゆっくり頭が下がる。
「刺さってないから平気」
マサシは袖を軽く振った。
「次からは木の根を通れよ。お前なら、俺より上手く歩けるだろ」
キャタピーがリュックから下りてきた。
ビードルの隣へ進み、近くの根へ足をかける。
少し登り、振り返る。
ビードルが顔を上げた。
キャタピーはもう少し進んでから、短く鳴いた。
「先生がついたな」
マサシは二体を見守りながら、ヒトカゲへ水を出した。
ビードルは迷ったあと、同じ根へ足をかけた。
ゆっくり登る。
途中で体が傾くと、キャタピーが止まった。
ビードルも足を止める。
置き直し、もう一度進む。
今度は、うまく登れた。
◇
午後になると、森の中に人の声も聞こえ始めた。
遠くでバトルの指示が飛び、枝の向こうを虫取り網が動いている。
道沿いの小さな空き地を見つけ、マサシはそこで休むことにした。
腰を下ろせそうな倒木があり、近くには平たい石も置かれていた。
「今日は結構歩いたな」
リュックを下ろすと、肩が軽くなった。
ヒトカゲも隣へ座り、足を伸ばす。
ポッポは地面で羽を整えていた。
マサシは座る前に、仲間たちの様子を確かめた。
ヒトカゲの脇腹には、昨夜の戦いで受けた打ち身が残っている。
痛がる様子はないが、強く触れないようにした。
「今日はバトルなしな」
「カゲ?」
「昨日、頑張った分。ジョーイさんとも約束したし」
ポッポも顔を上げる。
「お前も。羽、休ませとけ」
声をかけてから、キャタピーを探す。
足元の葉を調べていた。
その少し後ろには、ビードルがいる。
今度はマサシと目が合っても、隠れなかった。
「お前も食べるか?」
小さな容器を地面へ置く。
ビードルが近づき、匂いを確かめる。
キャタピーが隣で食べ始めると、ようやく口をつけた。
マサシはその様子を見届け、自分の食事も取り出した。
「よし。俺も休憩」
倒木へ座る。
ちょうど木陰になっていて、涼しかった。
食べ終わったら、少しだけ目を閉じてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら包みを開いたとき、近くで声がした。
「そのビードル、君のポケモン?」
顔を上げると、虫取り網を持った少年が立っていた。
マサシは首を振った。
「まだ違うよ。さっきからついてきてるんだ」
「へえ。じゃあ、僕が捕まえてもいい?」
少年が腰のモンスターボールへ手を伸ばした。
ビードルの動きが止まった。
食事から口を離し、キャタピーの後ろへ下がる。
マサシは包みを膝へ置いた。
「ちょっと待って」
「野生なんでしょ?」
「そうだけど、今は飯食ってるから」
マサシはビードルのそばへしゃがんだ。
小さな体が低くなっている。
目は、少年の手にあるボールから離れなかった。
「どうする?」
声をかけると、ビードルがマサシを見る。
空き地の端には、森へ戻れる隙間があった。
マサシはそちらを塞がないよう、片膝をずらした。
ビードルはその隙間へ目を向けた。
一歩、動く。
けれど森へは向かわなかった。
短い足でマサシのそばへ寄り、靴へ体をつける。
それから少年へ顔を向けた。
少年は少し黙り、ボールを腰へ戻した。
「……君と行きたいみたいだね」
マサシは足元を見下ろした。
ビードルは、離れなかった。
◇
少年が去ったあと、マサシは倒木の前へ座り直した。
目の前にはビードル。
キャタピーがその横へ並び、ヒトカゲとポッポも近くから見ている。
「さっきの、一緒に来たいってことでいいんだな?」
小さな声が返る。
マサシは空のモンスターボールを取り出した。
その瞬間、ビードルの体が少し強張った。
マサシはボールを近づけず、自分の膝へ載せた。
「これ、怖い?」
ビードルはボールと彼の顔を交互に見た。
ヒトカゲが立ち上がった。
マサシの腰にある、自分のボールへ前足を伸ばす。
「入ってみせるのか?」
「カゲ」
「分かった。すぐ出すぞ」
ヒトカゲを一度戻す。
赤い光が収まり、ボールが静かになった。
ビードルが一歩下がる。
マサシはすぐにボールを開いた。
「出てこい、ヒトカゲ」
「カゲッ!」
現れたヒトカゲは、両腕を広げた。
元気だと伝えるように、その場で一度足踏みする。
キャタピーが近寄り、体の周りをゆっくり回った。
ポッポも顔を寄せ、頭を覗き込む。
「お前は知ってるだろ」
マサシが言うと、ポッポは知らない顔で羽を整え始めた。
そのやり取りを見て、ビードルの緊張が少し緩んだ。
マサシは膝のボールへ手を添えた。
「疲れたときに、中で休める。外に出たいときは、出してやるよ」
ビードルは動かなかった。
マサシは待った。
木々の間を風が抜け、倒木から枯れ葉が一枚落ちる。
キャタピーがビードルへ体を寄せた。
短く鳴き、それからマサシの方を向く。
ビードルはゆっくり進んだ。
靴へ足をかけ、ズボンを少し登る。
マサシは手のひらを差し出し、その体を支えた。
「いいのか?」
ビードルが鳴いた。
ボールを見せる。
今度は逃げなかった。
真ん中のボタンへ、赤い鼻先が触れる。
光が開いた。
小さな体がボールへ収まり、一度だけ揺れた。
静かな音がする。
マサシは両手で包むように持った。
「……よろしくな、ビードル」
ヒトカゲが嬉しそうに鳴いた。
キャタピーも体を起こし、ポッポが短く羽ばたく。
「おう。仲間が増えたな」
マサシは笑い、すぐにビードルを外へ出した。
現れたビードルは、周囲を見回した。
キャタピーの顔を確かめ、ヒトカゲを見る。
最後にマサシへ向き直る。
差し出した手へ、今度はためらわず乗ってきた。
◇
休憩を終える頃には、森の光が柔らかくなっていた。
マサシは地図と、近くの案内板を見比べた。
ニビシティまでは、まだ距離がある。
急いでも、町へ着く前に暗くなりそうだった。
「今日は森の休憩所までにしよう」
案内板には、道沿いに共同の野営場所があると書かれていた。
水場も近い。
そこなら、落ち着いて夜を迎えられそうだ。
「初めての外泊が、いきなり森か」
マサシはリュックを背負い、四体の仲間を見た。
ヒトカゲは準備万端といった顔で立っている。
ポッポは道の先へ目を向けていた。
キャタピーは肩ひもを見上げ、ビードルはマサシの靴のそばで待っている。
「置いてかないって」
しゃがんで手を出すと、ビードルが乗った。
キャタピーとは少し間を空け、リュックの上へ落ち着かせる。
針が当たらない位置を確かめてから、ゆっくり立ち上がった。
「どうだ?」
肩の向こうで、小さな声が二つ返った。
「じゃあ、出発」
ポッポが先の枝へ飛ぶ。
ヒトカゲが隣へ並ぶ。
マサシも、その足音に合わせて歩き出した。
◇
休憩所へ着いたのは、日が落ちる少し前だった。
木立に囲まれた場所には、屋根のある休憩台と、水を汲める設備があった。
すでに何人かの旅人が、夜の準備を始めている。
マサシは空いている端を選び、荷物を下ろした。
寝袋を広げる。
水を用意する。
食事を分ける。
家で聞いていたときには簡単そうだったことが、実際にやると、思ったより時間がかかった。
水筒を倒しかけ、ヒトカゲに支えてもらう。
風で飛びそうになった布を、ポッポが足で押さえる。
キャタピーとビードルは、地面へ落ちた空の袋の端に糸をつけ、転がらないよう止めてくれた。
マサシは出来上がった場所を見た。
「……俺が一番、手間かけてるな」
ヒトカゲが鳴いた。
否定してくれたのかは、分からなかった。
夕食を終え、道具を片づける頃には、森の奥が黒く沈んでいた。
昼間とは違う鳴き声が聞こえる。
見上げると、枝の隙間に星が一つあった。
マサシは寝袋へ腰を下ろした。
そこへ、ビードルが近づいてくる。
足元で止まった。
「どうした?」
手を差し出すと、鼻先が指へ触れた。
それからビードルは、穴の開いた袖を見た。
マサシも目を落とす。
「ああ、これ?」
昼間、助けたときにできた小さな穴だった。
ビードルはじっと見つめ、細い糸を吐いた。
白い線が、ほつれた布へ重なる。
一本。
もう一本。
破れたところへ、小さな筋が渡された。
マサシは腕を動かさず待った。
作業を終えたビードルが、顔を上げる。
縫い目とは違う。
少し引っ張れば取れてしまいそうな、柔らかな糸だった。
それでもマサシは、しばらくその袖を見ていた。
「直してくれたのか」
小さな返事があった。
「……ありがとな」
針に気をつけながら、指先でそっと背中へ触れる。
ビードルは、身を縮めなかった。
隣ではキャタピーが丸くなっている。
ポッポは低い梁の上に落ち着き、ヒトカゲはマサシのそばへ座った。
尻尾の炎が物に触れないよう、寝袋を少しずらす。
準備を終え、四体の顔を見回した。
「明日も、よろしくな」
ヒトカゲが頷いた。
ビードルが、手のひらへ体を預ける。
森を渡る風は冷たかった。
けれどその夜、マサシは寂しいとは思わなかった。
第5話終了
次回・第6話「糸を使いこなせ!キャタピーとビードルの初特訓」