ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
鼻先に、柔らかいものが触れた。
マサシは目を閉じたまま、顔を横へ向けた。
今度は頬に触れる。
「……あと五分」
かすかな鳴き声がした。
寝袋の縁が引っ張られる。
薄目を開けると、すぐ目の前にキャタピーがいた。
マサシが起きたのを見て、嬉しそうに体を起こす。
その後ろではビードルが待っていて、低い梁の上からはポッポがこちらを見下ろしていた。
「お前ら、早くない?」
朝の森には、まだ薄い霧が残っていた。
休憩所の向こうでは、ほかのトレーナーが荷物をまとめている。
水場へ向かう足音と、遠くのポケモンの鳴き声が聞こえていた。
隣を見る。
ヒトカゲは、まだ眠っていた。
短い前足をお腹へ置き、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「……さすが相棒。分かってるな」
マサシはもう一度、寝袋へ潜ろうとした。
その端を、白い糸が引き止めた。
キャタピーとビードルが、並んでこちらを見ている。
「二体がかりはずるいだろ」
ポッポが一声鳴いた。
マサシは諦めて起き上がった。
◇
水場で顔を洗うと、ようやく頭がはっきりした。
冷たい水を首筋にも当て、タオルで拭く。
袖をまくろうとして、マサシは昨夜の糸へ気づいた。
ビードルが塞いでくれた、小さな穴。
寝ている間に端が少し浮いていたが、白い筋はまだ残っていた。
引っかけないよう、そっと袖を折る。
足元のビードルが、その手元を見上げていた。
「取ってないよ」
袖を見せると、赤い鼻先が少し上がった。
「でも、洗うときにはちゃんと直さないとな」
針と糸も、旅には必要なのかもしれない。
そんなことを考えながら、水筒を満たした。
戻ると、ヒトカゲも起きていた。
キャタピーに起こされたらしく、眠そうな顔で寝袋の横へ座っている。
「お前もか」
「カゲ……」
マサシは笑い、朝食の用意を始めた。
◇
出発前に、マサシは案内板を確かめた。
ニビシティへ向かう道は、森の奥を回り込むように続いている。
途中には、トレーナーがバトルに使う広場もあるらしい。
地図を畳みながら、キャタピーとビードルを見た。
二体とも食事を終え、倒木を登っていた。
キャタピーが太い根を越え、ビードルがそのあとを追う。
少し高さのあるところでは、糸を使って体を支えていた。
「なあ」
二体が振り向いた。
「少し練習、してみないか?」
ヒトカゲがすぐに立ち上がる。
ポッポも梁から下りてきた。
「今日は、お前らじゃなくてこっち」
マサシはキャタピーとビードルを指した。
「糸、便利だと思うんだ。昨日も助かったし」
枝に挟まったビードルを救い出せたのは、キャタピーが反対側から引いてくれたからだった。
夜には、ビードルが袖を直してくれた。
同じ技でも、使い方が違う。
どこへつけるか。
どのくらい伸ばすか。
それを知れば、もっとできることが増えそうだった。
「俺もまだ分からないから、一緒に試そう」
キャタピーが倒木から下りてくる。
ビードルも隣へ並んだ。
マサシは二体の前へしゃがむ。
「疲れたら休憩。嫌になっても言えよ」
小さな声が重なった。
◇
休憩所の近くには、人のいない平らな場所があった。
マサシは周囲を確かめ、落ち枝を一本拾った。
両端を持ち、キャタピーの前へ差し出す。
「まず、これに当ててみてくれ」
キャタピーが顔を上げた。
「いとをはく!」
白い糸が伸び、枝の中央へ絡んだ。
「おお」
マサシは軽く枝を引いた。
糸が張る。
キャタピーの体が、ずるりと前へ動いた。
「っと、悪い!」
すぐに手を緩める。
キャタピーは足を置き直し、不満そうに鳴いた。
「俺が強く引いたら、お前が持ってかれるんだな」
糸は丈夫だった。
けれど、それを引くキャタピーの体まで重くなるわけではない。
マサシは少し考え、地面から出た木の根を見た。
「じゃあ、次はこっち」
枝を根の間へ置く。
「枝に糸をつけてから、横へ回れるか?」
キャタピーが口元を向けた。
白い糸が枝へつく。
そのまま歩き始めると、細い線が伸び、根を回り込んでいった。
途中で糸が足へ触れ、キャタピーが止まる。
「ゆっくりでいい」
マサシは絡みかけた部分を外した。
キャタピーがもう一度進む。
根を回ったところで、マサシは枝を少し持ち上げた。
糸が引っかかり、途中で止まった。
「……これなら、お前が引っ張らなくても留められるな」
キャタピーも枝を見ていた。
自分の糸が物を支えていることを確かめるように、顔を近づける。
「できたな」
マサシが言うと、キャタピーは嬉しそうに体を起こした。
◇
次はビードルだった。
マサシは別の枝を持ち、先ほどより近い位置へ構えた。
「ビードル、いとをはく!」
細い糸が飛んだ。
枝の先へ触れたが、滑るように外れる。
ビードルが頭を下げた。
「大丈夫。もう一回」
二度目は、枝へ巻きついた。
マサシが頷くと、ビードルは嬉しそうに前へ出た。
その拍子に糸が緩み、足へ引っかかる。
体が傾いた。
マサシは手を伸ばし、横倒しになる前に支えた。
「慌てなくていいって」
ビードルは地面を見つめていた。
次に、キャタピーへ目を向ける。
それからまた、自分の糸を見た。
マサシはその前へ座った。
「キャタピーと同じようにやらなくてもいいよ」
ビードルが顔を上げる。
「昨日、袖を直してくれただろ。あれ、細かいところへちゃんとつけてたじゃん」
マサシは袖を見せた。
「近くなら上手くできる。そこからやろう」
手のひらほどの枯れ葉を選び、地面へ置く。
すぐ隣には、小さな石を置いた。
「この葉っぱが飛ばないように、石へつけてみてくれ」
ビードルが近づく。
頭を少し動かし、短く糸を吐いた。
葉の端から石へ、白い線が渡る。
マサシが手で風を送ると、葉は浮きかけて止まった。
「そう。それでいい」
ビードルはもう一本、糸を重ねた。
今度は葉の反対側だった。
もう一度、風を送る。
葉は、さっきより動かなくなった。
「お前、細かいところ見てるな」
ビードルが体を起こす。
隣からキャタピーも覗き込んできた。
マサシは二体を見比べた。
遠くの枝へ届かせたキャタピー。
小さな葉を、丁寧に留めたビードル。
同じ糸でも、それぞれの使い方があった。
◇
ヒトカゲが、落ち枝を一本運んできた。
マサシの前へ置き、期待するように見上げる。
「手伝ってくれるのか?」
「カゲ!」
「じゃあ、その枝を持ってて」
持たせる位置を確かめ、尻尾の炎から離す。
ヒトカゲは真剣な顔で枝を横へ構えた。
キャタピーが口元を上げる。
するとヒトカゲも、枝を持ち上げた。
キャタピーが向きを変える。
ヒトカゲも枝を動かす。
「いや、避けなくていい」
「カゲ?」
「当てる練習だから」
ポッポが近くで鳴いた。
ヒトカゲが振り向いた、その瞬間だった。
白い糸が枝の中央へ命中する。
「……今のは当たったな」
キャタピーが嬉しそうに鳴いた。
ヒトカゲは糸のついた枝を見てから、ポッポを見た。
ポッポは、何も知らない顔で羽を整えていた。
◇
しばらくして、マサシは練習を止めた。
キャタピーが糸を吐くまでに、少し間が空くようになっていた。
ビードルも、さっきより体を低くしている。
「休もう」
キャタピーがもう一度、枝を見た。
「続きはまたできる。今は水」
容器を出し、二体の前へ置く。
マサシも水を飲んだ。
思っていた以上に喉が渇いていた。
「見てるだけのつもりだったけど、俺も疲れたな」
ヒトカゲが隣へ座る。
ポッポは低い枝で、片足を体へしまっていた。
少し休んでから、マサシは地面に残った糸を拾い始めた。
木の根へ回したもの。
枝や石へつけたもの。
残しておけば、あとから来たポケモンが引っかかるかもしれない。
キャタピーとビードルが顔を上げた。
「片づけまでな」
二体は休憩を終えると、手の届くところの糸をまとめるのを手伝った。
◇
昼前、マサシたちは道へ戻った。
練習をしたぶん、歩く速さは控えめにする。
キャタピーとビードルは、ときどきボールで休んだ。
外へ出たときにはリュックへ乗せ、ヒトカゲにも疲れていないか声をかけた。
小さな坂を越えたところで、人の声が聞こえた。
「そっち、押さえて! あっ!」
軽い音が続く。
丸い木の実が、坂道を転がってきた。
一つ、二つ。
続いて、小さな袋まで滑ってくる。
「ヒトカゲ、踏むなよ!」
マサシは袋を靴で止め、拾い上げた。
坂の上から女の子が駆け下りてくる。
そのあとを、ナゾノクサが短い足で追っていた。
「ごめんなさい! それ、あたしの!」
「これ?」
袋を渡すと、女の子はほっとした顔になった。
「ありがとう。枝に引っかけちゃって……」
肩から提げた布袋の底が裂けていた。
そこから、中の木の実がこぼれたらしい。
ナゾノクサが一つ拾い、彼女の足元へ置いた。
ほかの木の実は道の端へ散らばっている。
そのうちの一つが、斜面を転がり始めた。
「あっ、待って!」
女の子が手を伸ばす。
マサシはキャタピーへ顔を向けた。
「キャタピー、あの木の実へ糸をつけろ!」
白い線が飛ぶ。
木の実に触れたが、丸い表面を滑って外れた。
マサシはすぐに周囲を見た。
転がる先には、地面から張り出した根がある。
「根の方だ! 道を横切るように張れ!」
キャタピーが向きを変えた。
糸が斜面の低いところへ伸びる。
転がってきた木の実が、その線へ触れた。
一度跳ね、止まる。
「よし!」
マサシは足場を確かめながら下り、木の実を拾った。
戻ると、キャタピーが体を伸ばして待っていた。
「できたな」
指先で軽く頭へ触れる。
キャタピーが嬉しそうに鳴いた。
◇
「キャタピーって、そんなこともできるんだ!」
女の子は木の実を受け取り、目を丸くした。
「今朝、練習したばっかり」
「じゃあ、早速役に立ったんだね」
その言葉に、マサシも少し嬉しくなった。
ポッポが草の陰の木の実を見つけ、ヒトカゲが拾ってくる。
ナゾノクサも葉を揺らしながら歩き回り、やがて散らばったものはほとんど集まった。
けれど、袋はそのまま使えなかった。
女の子が裂けた底を両手でつまむ。
「町まで、抱えて持つしかないかな……」
マサシはビードルを見た。
リュックの上から、じっと袋を見つめている。
「やってみるか?」
ビードルが鳴いた。
マサシは女の子へ手を差し出す。
「袋、ちょっと貸して。町までの間だけなら、塞げるかも」
木の実をいったん地面へ置き、袋を裏返す。
裂け目を合わせ、余った布を少し折った。
袖の小さな穴とは違う。
中身を入れれば、重みがかかる。
「破れたところだけじゃなくて、周りにもつけよう」
マサシが布を押さえる。
ビードルが近づき、短い糸を重ね始めた。
細く、何度も。
片方を留め、反対側へ回る。
途中で糸がずれると、マサシは布の持ち方を変えた。
「急がなくていい」
ビードルは顔を寄せ、もう一度糸をつける。
白い筋が、裂け目の周りを少しずつ覆っていった。
最後に、マサシは袋を軽く引いた。
裂け目は開かなかった。
「うん。いけそう」
木の実を少しずつ戻す。
底を支えながら、女の子へ渡した。
「強く振ったり、詰めすぎたりしないで。町に着いたら縫ってもらって」
「ありがとう!」
女の子は袋を抱え、ビードルの前へしゃがんだ。
針へ近づきすぎないよう、少し距離を空ける。
「助かったよ、ビードル」
ビードルは一度、マサシを見た。
それから女の子へ向き直り、小さく鳴いた。
足元のナゾノクサも、葉を揺らして声をかける。
ビードルは朝より少し高く、体を起こしていた。
◇
別れ際、女の子は小さな包みを差し出した。
「お礼。よかったら、みんなで食べて」
「そんな、いいのに」
「拾ってもらったから、ちゃんと残ってるもの」
中には、分けやすい小粒の木の実が入っていた。
マサシは迷ったあと、受け取った。
「じゃあ、もらう。ありがとう」
女の子とナゾノクサが道の先へ消えてから、マサシはしゃがんだ。
キャタピーとビードルが前へ来る。
「お前らがもらったお礼だな」
包みを開くと、二体が揃って顔を近づけた。
ヒトカゲも覗き込む。
ポッポまで降りてきた。
「分けるから。順番」
一体分ずつ、手のひらへ載せる。
ビードルは受け取る前に、マサシの袖を見た。
次に、女の子が去った方へ顔を向ける。
マサシはそっと背中へ触れた。
「お前の糸、助かるな」
ビードルが顔を上げた。
「また頼むよ」
今度の返事は、はっきりしていた。
◇
午後の道を歩きながら、マサシは朝の練習を思い返していた。
キャタピーは遠くへ糸を伸ばすのが上手い。
ビードルは近くへ細かく重ねるのが得意だった。
同じ技を使っていても、見ていれば違いがある。
「同じように教えればいいってもんでもないんだな」
独り言に、ヒトカゲが顔を向けた。
マサシはその頭へ手を置く。
「お前のことも、ちゃんと見ないとな」
「カゲッ」
ヒトカゲは嬉しそうに鳴き、少しだけ歩く速さを上げた。
マサシも続こうとして、頭上の影に気づく。
ポッポが戻ってきた。
いつものように枝へ止まらず、彼の前を低く一周する。
「どうした?」
ポッポが道の先へ顔を向けた。
木々の間に、広い空間が見える。
そこから、誰かの声が聞こえていた。
「もう一度だ! 焦らず相手を見ろ!」
続いて、地面を蹴る音。
枝の上でポッポが羽を畳んだ。
マサシは目を細め、葉の向こうを覗いた。
案内板に書かれていた、バトルの広場だろう。
「……ちょっと見ていくか」
ヒトカゲが隣へ並ぶ。
キャタピーとビードルも、リュックの上から前を覗いた。
広場の中央には、一体のトランセルがいた。
その正面で、大きな角を開いたカイロスが構えていた。
第6話終了
次回・第7話「森のバトル広場!トランセルとカイロス」