ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
木々に囲まれた広場には、踏み固められた土が広がっていた。
中央で、カイロスが足を止めている。
向かい合うトランセルは、地面へ横たわったまま動かなかった。
緑色の体には土がつき、差し込む陽射しが硬い表面を照らしている。
「トランセル、かたくなる!」
声を上げたのは、青い帽子をかぶった少年だった。
トランセルの体が淡く光る。
カイロスの後ろには、短い木刀を腰へ差した少年が立っていた。
武士のような服装で、頭には小さな兜までかぶっている。
マサシは広場の端で足を止めた。
「……すごい格好だな」
ヒトカゲが隣で首を傾げる。
リュックの上では、キャタピーがトランセルをじっと見ていた。
「カイロス、はさむ!」
大きな角が開いた。
カイロスが踏み込み、トランセルの体を挟む。
青い帽子の少年が、前へ身を乗り出した。
「もう一度、かたくなる!」
角の間で、トランセルが光った。
カイロスの足が土を掻く。
角へ力を込めていたが、トランセルの硬い体は崩れなかった。
やがてカイロスは角を開き、一歩下がる。
地面へ落ちたトランセルの周りに、小さな土埃が上がった。
「……ここまでにしよう」
武士姿の少年が手を上げた。
青い帽子の少年は、すぐに駆け寄ってトランセルを抱き上げる。
「大丈夫か?」
トランセルの目がゆっくり動いた。
少年は体についた土を払い、ほっとしたように息を吐いた。
マサシも、知らずに入れていた肩の力を抜いた。
◇
「見ていたのか」
武士姿の少年が振り向いた。
マサシは頷く。
「途中から。邪魔した?」
「いや。ここは誰でも使える広場だ」
少年はカイロスの頭へ手を置いた。
「俺はサムライ。この森で、虫ポケモンと腕を磨いている」
「マサシ。マサラタウンから来た」
「マサラタウン?」
サムライの目つきが変わった。
「この前も、そこから来たトレーナーと戦ったぞ。ずいぶん自信のあるやつだった」
マサシは少し考えた。
「髪が、こう……跳ねてる?」
手で頭の横を示す。
「そうだ」
「シゲルだな。幼馴染なんだ」
サムライは腕を組んだ。
少し悔しそうな顔をしたので、勝敗は聞かなくても何となく分かった。
青い帽子の少年が、トランセルを抱えて近づいてくる。
「僕はユウタ。君も虫ポケモンを育ててるんだね」
その視線が、マサシの肩の向こうへ向いた。
キャタピーとビードルが、リュックの上から顔を出していた。
「昨日、仲間になったばっかり」
「二体とも?」
「うん。こっちはヒトカゲ。ポッポもいるよ」
紹介すると、ヒトカゲが鳴いた。
ポッポは近くの枝に止まり、カイロスを見下ろしている。
キャタピーだけは、ユウタの腕の中を見つめていた。
マサシはその視線に気づき、しゃがむ。
「トランセル、気になるのか?」
キャタピーが身を乗り出した。
ユウタは笑い、トランセルを低い切り株へ載せる。
「近くで見てもいいよ」
マサシの腕を伝い、キャタピーが地面へ下りた。
切り株のそばまで進み、頭を上げる。
トランセルが静かに目を向けた。
◇
「僕のトランセルも、少し前までキャタピーだったんだ」
ユウタが言った。
マサシは切り株の前へ座る。
「進化したばっかり?」
「うん。まだ、どう戦えばいいか分からなくて」
ユウタはトランセルの体を撫でた。
「キャタピーのときは動き回れたけど、今はあまり動けないだろ。つい、かたくなるばっかり言っちゃうんだ」
「でも、さっきの角には耐えたな」
「そこはすごいんだけど……」
ユウタが苦笑する。
マサシはトランセルを見た。
硬い体は、身を守るには頼もしい。
けれど、守ったあとにどうするか。
今の自分なら、すぐには答えが出なかった。
キャタピーが切り株へ登りかける。
手を添えてトランセルの隣へ載せると、二体が短く鳴き交わした。
その後ろから、ビードルも顔を出す。
「お前も見る?」
手のひらへ乗せ、切り株へ近づける。
ビードルはトランセルの表面へ鼻先を寄せた。
硬さを確かめるような仕草だった。
サムライが、その様子を見ていた。
「マサシ。勝負をしないか」
顔を上げると、カイロスが隣に立っている。
太い足。
大きな角。
踏み固められた地面に残る、深い爪の跡。
マサシは仲間たちへ目を向けた。
「ヒトカゲとポッポは、昨日ちょっと怪我してるんだ。今日は休ませたい」
「なら、万全になってからでいい」
サムライはあっさり頷いた。
そのとき、キャタピーが切り株の端へ進んだ。
マサシを見てから、広場を見る。
「……戦ってみたいのか?」
返事のような鳴き声がした。
マサシはすぐには答えなかった。
昨日、仲間になったばかりの小さなポケモンだった。
今朝は糸の練習をした。
けれど、マサシの指示を受けてバトルをしたことは、まだ一度もない。
カイロスを見上げる。
力では、到底かなわないだろう。
「初めてのバトルになる。危ないと思ったら止めるけど、それでもいい?」
サムライが頷いた。
「こちらも無茶はさせない」
マサシはキャタピーの前へ手を置いた。
「怖くなったら、戻ってこいよ」
キャタピーはその手へ触れ、それから広場へ下りた。
◇
二体が向かい合うと、体の大きさの違いがはっきりした。
キャタピーが顔を上げても、カイロスの角には届かない。
マサシは地面を見た。
中央は平らだが、端には木の根が張り出している。
落ち葉の溜まった場所もあり、すべてが同じ足場ではなかった。
午前中の練習が、頭へ浮かぶ。
糸は、引っ張り合うためだけの技ではない。
「使うのは一体ずつ。どちらかが続けられなくなるか、降参したら終わりだ」
サムライが言った。
「分かった」
マサシはキャタピーへ目を向ける。
「頼むぞ」
小さな足が、地面をつかんだ。
「カイロス、前へ出ろ!」
重い足音が迫る。
「キャタピー、左へ!」
キャタピーが動いた。
だが、思ったほど距離が開かない。
カイロスの足が、すぐそばへ踏み込んだ。
地面の振動に、キャタピーの体が縮む。
「止まるな! そのまま左!」
キャタピーが身を低くして進む。
振り下ろされた角が、背中のすぐ後ろを通った。
マサシは息を詰めた。
もっと早く言うべきだった。
自分には動きが見えていても、声を聞いたキャタピーが向きを変えるまでには時間がかかる。
「追え、カイロス!」
カイロスが向きを変えた。
マサシは広場の端を指した。
「正面の根へ、いとをはく!」
白い線が伸び、根へ絡みつく。
「そっちへ進め! 根の裏へ!」
キャタピーが糸の先へ向かった。
カイロスが追いつき、角を開く。
その直前、キャタピーは根の下の狭い隙間へ滑り込んだ。
大きな角が止まる。
カイロスの体では、そのまま入れない。
「上から回れ!」
サムライの声で、カイロスが根をまたいだ。
マサシは足元を見る。
片足が上がる。
「右の足へ、いとをはく!」
糸が足首へ巻きついた。
カイロスが体をひねる。
張った糸が、簡単に引きちぎられた。
キャタピーの体が引かれ、隙間から半分出る。
「放せ! 追って吐くな!」
キャタピーが糸を切った。
カイロスがこちらを向く。
大きな角が、キャタピーの体を捉えた。
「キャタピー!」
小さな体が持ち上がる。
足が空を掻いた。
マサシは一歩踏み出した。
止める。
そう口を開きかけたとき、キャタピーが彼を見た。
怯えていた。
それでも顔を向け、待っている。
指示を。
マサシは相手との距離を見た。
キャタピーの口元から、カイロスの顔までは近い。
「顔へ、いとをはく!」
間近から白い糸が飛んだ。
カイロスが顔を背ける。
目の前へ広がった糸を嫌がり、角がわずかに緩んだ。
「体を縮めろ! 下へ抜けろ!」
キャタピーが身をよじった。
角の間から滑り落ちる。
地面へ着いたところで転がり、ようやく止まった。
「そこまで!」
マサシは手を上げた。
「俺たちの負けだ」
◇
広場へ駆け寄ると、キャタピーは起き上がろうとしていた。
「待って。動かなくていい」
そっと両手ですくう。
体の横へ土がついていた。
目立った傷はないが、呼吸が速い。
「痛いところ、あるか?」
キャタピーはしばらく動かず、それから小さく鳴いた。
マサシは広場の端へ運び、布の上へ下ろした。
サムライもカイロスと一緒に近づく。
「大丈夫か?」
「うん。少し休ませる」
水を用意してから、マサシはキャタピーを見た。
「悪かったな。指示、遅かった」
キャタピーが顔を上げる。
「根に隠れたあと、どうするか考えてなかった。足へ糸をつけても、あいつの力じゃ切れるよな」
途中までは見えていた。
けれど、その先がなかった。
逃げ込める場所を見つけることと、勝つために戦うことは、同じではない。
マサシは濡らした布で、体の土を拭った。
「でも、最後はよく聞いてくれた。ありがとう」
キャタピーが指へ頭を寄せた。
その感触に、マサシはようやく笑った。
サムライが腕を組む。
「顔へ糸を狙ったのは、よかった。カイロスも嫌がっていた」
「もっと早く思いつけばよかったけど」
「次に使えばいい」
マサシが顔を上げる。
サムライは、当然のように続けた。
「今日で終わりではないだろう」
少し黙ってから、マサシは頷いた。
「……そうだな」
◇
キャタピーが落ち着いたあと、マサシはその日のバトルを切り上げた。
ユウタもトランセルを休ませている。
二人は広場の端へ並んで座った。
ヒトカゲとビードルがキャタピーのそばへ寄り、ポッポは低い枝から様子を見ていた。
「怖くなかった?」
ユウタが尋ねた。
「角で持ち上げられたとき、僕、びっくりした」
「俺も」
マサシは素直に答えた。
「止めようと思った。こいつがこっち見てたから、抜ける指示だけ出せたけど」
キャタピーは布の上で、ゆっくり体を伸ばしている。
「次は、あそこまで捕まる前に動かしたい」
マサシは小枝を拾い、土へカイロスと木の根の位置を描いた。
丸と線だけの、簡単な絵だった。
「根の後ろに入ったとき、カイロスは回り込んだだろ」
「うん」
「その前に、こっちの足場へ糸を渡したらどうかな。倒せなくても、一回止まれば離れられる」
ユウタが覗き込む。
「でも、また切られない?」
「切られると思う。だから、止まってる間に動く」
言いながら、マサシは線を一本消した。
「……いや。俺の指示が長いと、間に合わないな」
キャタピーの目が、小枝を追っていた。
マサシは気づき、手を止めた。
「今日はもうやらないぞ」
キャタピーが彼を見る。
「考えるのは俺がやる。お前は休め」
頭を撫でると、キャタピーは少しだけ体の力を抜いた。
◇
広場へ、風が通り抜けた。
木漏れ日が揺れる。
近くで、さらさらと音がした。
マサシが顔を向けると、ユウタのトランセルが切り株の上で糸を吐いていた。
細い線が枝へ絡み、体の上から伸びている。
「トランセル?」
ユウタが近づく。
トランセルはゆっくり体を傾け、糸に支えられる位置へ移った。
動きは小さい。
それでも、さっきまで地面へ横たわっていたときとは違って見えた。
「何してるんだろ」
マサシが立ち上がった、そのときだった。
トランセルの体が、白く輝いた。
ユウタが息を呑む。
「……進化?」
光が広がる。
硬い体の輪郭が変わっていった。
背中側が開き、その中から大きな羽が伸びる。
マサシはキャタピーを両手で持ち上げた。
「見えるか?」
キャタピーは動かなかった。
目の前の光を、じっと見つめている。
やがて、輝きが薄れた。
枝の下にいたのは、もうトランセルではなかった。
白い羽に、黒い模様。
丸い赤い目がユウタへ向き、小さな足が動いた。
「バタフリー……!」
ユウタの声が震えた。
バタフリーは枝につかまったまま、ゆっくり羽を広げる。
一度。
また一度。
柔らかかった羽が、少しずつ形を整えていった。
誰も急かさなかった。
サムライもカイロスも、広場の端で静かに見守っている。
やがてバタフリーが足を離した。
少し沈み、それから羽ばたく。
ユウタが両手を上げた。
「飛べた……!」
バタフリーは彼の頭上を小さく回り、差し出された腕へ戻った。
ユウタは泣きそうな顔で笑っていた。
「お前、ずっと準備してたんだな」
マサシはその言葉を聞き、腕の中のキャタピーを見た。
キャタピーは、白い羽を目で追っていた。
さっきまで切り株の上にいたポケモンが、今は空を飛んでいる。
その姿を、瞬きもせずに見つめていた。
◇
広場を出る前に、マサシはサムライへ手を上げた。
「今日はありがとな」
「また森へ来たら、勝負しよう」
「次は、もうちょっと困らせるよ」
サムライが笑う。
「楽しみにしている」
ユウタの腕には、まだバタフリーが止まっていた。
「マサシのキャタピーも、きっと飛べるようになるよ」
「うん」
頷いてから、キャタピーへ目を向ける。
リュックへ乗せようとして、少し考えた。
「今日はボールで休むか?」
キャタピーは、彼の腕から離れなかった。
「じゃあ、このままな」
無理に登らせず、片腕へ載せる。
ビードルはリュックの上。
ヒトカゲは隣。
ポッポは少し先の枝へ飛んだ。
四体と一緒に、マサシは広場をあとにした。
森の道へ戻ってからも、キャタピーはときどき後ろを振り返った。
枝の隙間に、白い羽が一度だけ見える。
「羨ましいか?」
マサシが尋ねた。
赤い触角が、ゆっくり揺れた。
「俺も、見てみたいな」
彼は歩く速さを緩めた。
「お前が飛ぶところ」
キャタピーが顔を上げる。
「でも、急がなくていい。今日負けた分も、ちゃんと一緒に練習しよう」
小さな頭が、腕へ触れた。
マサシはその重みを受け止め、道の先へ目を向ける。
まだ森は続いている。
ニビシティも、初めてのジムも、その向こうだ。
腕の中でキャタピーが落ち着くのを待ってから、マサシは再び歩き出した。
第7話終了
次回・第8話「森の出口を目指して!キャタピーが見つけた戦い方」