ポケットモンスター ―もうひとつのマサラの物語― 作:mss
ポケモンセンターのベッドは、寝転がった瞬間に起きたくなくなる柔らかさだった。
「……今日は、もうここでいいんじゃないか」
枕へ頬を押しつけたマサシの耳に、小さな足音が近づいてくる。
目を開けると、ヒトカゲがベッドの横に立っていた。
その後ろでは、ポッポが窓枠へ止まっている。
キャタピーとビードルは食事を終え、床へ敷いた布の上で休んでいた。
「分かってる。ジム、見に行くんだろ」
「カゲ!」
「五分だけ」
ヒトカゲは、ベッドの端へ前足をかけた。
じっと見つめてくる。
マサシは先に目を逸らした。
「……三分」
ヒトカゲは動かなかった。
◇
センターで診てもらった結果、ヒトカゲとポッポは順調に回復していた。
キャタピーにも大きな怪我はなく、疲れを取れば問題ないという。
マサシは四体を十分に休ませてから、受付へ向かった。
「ニビジムって、今からでも入れますか?」
ジョーイは壁の時計を見た。
「見学なら、まだ大丈夫だと思うわ。挑戦の受付は、ジムで聞いてみてね」
「ありがとうございます」
「今日は町に着いたばかりでしょう? あなたも疲れているんじゃない?」
「俺は、だいぶ休みました」
答えると、足元のヒトカゲが短く鳴いた。
ジョーイが笑う。
「そう。じゃあ、気をつけて」
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
ニビシティの道には大きな石が置かれ、建物の壁にも落ち着いた色が多かった。
遠くには博物館の屋根が見える。
マサシは案内図を確かめながら歩いた。
隣にいるのはヒトカゲだけだった。
ほかの三体は、ボールで休んでもらっている。
「見るだけだからな」
ヒトカゲが見上げる。
「いきなり勝負するかは、相手を見てから」
そう言いながら、マサシ自身も歩く速さが少し上がっていた。
◇
ニビジムは、大きな岩を組み上げたような建物だった。
入口の前に立ち、マサシは見上げた。
「……中も岩だらけだったりして」
扉を開ける。
薄暗い空間へ入った途端、靴の下で砂が鳴った。
予想どおりだった。
広いフィールドのあちこちに岩が張り出し、地面には高低差がある。
町で見かけた平らなバトル場とは違っていた。
ヒトカゲも足を止め、周囲を見回した。
「挑戦者か?」
奥から声がした。
岩の向こうから、一人の少年が歩いてくる。
落ち着いた足取りだった。
「俺はタケシ。ニビジムのジムリーダーだ」
「マサシ。マサラタウンから来た」
名乗ってから、マサシはフィールドへ視線を戻した。
「今日は、まず見に来たんだけど」
「見学か。構わない」
タケシはヒトカゲへ目を向けた。
「最初のパートナーか?」
「うん。オーキド博士にもらった」
ヒトカゲが胸を張った。
タケシは少し屈み、その顔と足元を見る。
「元気そうだな。ここまでは歩いてきたのか?」
「森を抜けてきたばっかり」
「そうか。慣れないうちは、足の裏も見てやるといい。地面が変われば、負担のかかり方も変わる」
マサシはヒトカゲの足を見た。
怪我や疲れは気にしていたが、そこまでは細かく考えていなかった。
「……分かった。あとで見てみる」
タケシが頷く。
注意されたという感じはしなかった。
知っていることを、自然に教えてくれている。
マサシは少し肩の力を抜いた。
◇
「ほかにも仲間がいるのか?」
「ポッポと、キャタピーと、ビードル」
タケシが一瞬、考える顔になった。
マサシはそれを見逃さなかった。
「……岩、苦手なのばっかり?」
「正面から攻撃をぶつけるだけなら、厳しいだろうな」
「やっぱり」
タケシは腰のボールを手に取った。
「見てみるか?」
マサシが頷く。
光とともに現れたのは、岩の体に太い腕を持つポケモンだった。
イシツブテ。
図鑑で姿は見たことがあった。
けれど目の前で動くと、印象が違う。
腕を地面へつく音が重い。
硬そうな拳には細かな擦り跡があり、何度も使われてきたことが分かった。
マサシは図鑑で説明を確かめてから、しゃがんだ。
「触ってもいい?」
「イシツブテがよければ」
タケシが答える。
マサシは相手の目を見て、手を差し出した。
イシツブテはその手を見たあと、太い腕を少し前へ出した。
指先で表面へ触れる。
ひんやりしていた。
「……ほんとに岩だ」
ヒトカゲも近づき、隣から覗く。
イシツブテが腕を持ち上げると、ヒトカゲは自分の前足を並べてみた。
大きさが、まるで違った。
マサシはその様子を見ながら、頭の中で距離を測った。
この腕が届く範囲。
拳を振ったあとに空く場所。
地面に置かれた岩の高さ。
さっきまでの眠気は、もうなかった。
「一体だけで、練習試合ってできる?」
タケシが彼を見る。
「正式な挑戦じゃなくてか?」
「うん。少し戦ってみたい」
足元のヒトカゲが、すぐに顔を上げた。
◇
マサシは入口側へ戻り、リュックを下ろした。
ヒトカゲの前へしゃがむ。
「どうする?」
「カゲッ!」
返事は早かった。
「相手、硬いぞ。いつものひっかくじゃ、あまり効かないかもしれない」
ヒトカゲはイシツブテを見た。
それから、自分の爪を見つめる。
「今日は、どこまでできるか見よう。危なくなったら止める」
拳を差し出すと、小さな前足が重なった。
タケシは向こう側へ立つ。
「使うのは一体ずつ。どちらかが続けられなくなるか、降参したら終了。それでいいか?」
「うん」
マサシはフィールドを見渡した。
右側には背の低い岩。
左側には斜めに傾いた大きな岩がある。
中央は開けているが、足元には小石が多かった。
「ヒトカゲ、まずは真ん中」
ヒトカゲが進み出る。
イシツブテは両腕を広げ、低く構えた。
「始めよう」
タケシの声と同時に、マサシは指示を出した。
「ひのこ!」
火の粉が飛んだ。
イシツブテが腕で顔を庇う。
炎が岩の表面で散った。
ほとんど動じていない。
「そのまま右へ!」
ヒトカゲが走る。
「イシツブテ、たいあたり!」
岩の体が地面から浮き、低い軌道で迫った。
速い。
マサシは相手の腕を見た。
地面を押す動作が、踏み込みになっている。
「岩の陰へ!」
ヒトカゲが右側の岩へ身を寄せた。
イシツブテがその手前で腕をつく。
進路が変わった。
真っすぐ来ると思っていたヒトカゲが、一瞬立ち止まる。
「伏せろ!」
岩の体が、頭上をかすめた。
ヒトカゲは腹を地面へつけ、すぐに顔を上げた。
マサシは息を吐く。
地形を使うのは、自分だけではない。
この場所を一番よく知っているのは、向こうだった。
◇
「近づけ! 横からひっかく!」
着地したイシツブテへ、ヒトカゲが走った。
爪が腕を捉える。
硬い音がした。
イシツブテは少し体を回しただけだった。
一方のヒトカゲは、前足を引いた。
痛かったらしい。
「戻れ!」
「イシツブテ、押し出せ!」
太い腕が伸びる。
ヒトカゲは横へ跳んだ。
避けきれず、肩を押されて地面を滑った。
「カゲッ……!」
すぐに立ち上がったものの、片足に体重が寄っている。
マサシはその足を見て、指示を変えた。
「走らなくていい。そこで、ひのこ!」
火の粉が正面へ散る。
やはり腕で防がれた。
だが、マサシは今度は炎ではなく、相手の顔を見ていた。
防ぐ瞬間、視線が隠れる。
「左へ二歩!」
ヒトカゲが動く。
イシツブテが腕を下ろした。
「もう一度、ひのこ!」
横からの火の粉が、今度は胴体へ当たった。
イシツブテがわずかに体を引く。
タケシの口元が動いた。
「狙いはいいな」
マサシは返事をせず、ヒトカゲの呼吸を見た。
一度なら、当てられた。
でも、それを何度続ければ倒せるのか。
相手はまだ、ほとんど疲れていなかった。
「イシツブテ、たいあたり!」
再び、腕が地面を押す。
マサシは左の斜めになった岩を指した。
「斜面を登れ!」
ヒトカゲが岩へ駆け寄り、前足をついて上がる。
イシツブテが下を通った。
「振り向け! 上からひのこ!」
火の粉が降りかかる。
イシツブテが顔を上げた。
その瞬間、マサシは気づいた。
相手の両腕が空いている。
「そこから離れ――」
「イシツブテ、岩を押せ!」
太い腕が、斜めの岩へかかった。
岩は持ち上がらなかった。
けれど、わずかに揺れた。
足場が動き、ヒトカゲの爪が滑る。
「カゲ!?」
姿勢が崩れた。
「前へ跳べ!」
ヒトカゲが岩を蹴る。
地面へ下りたところへ、イシツブテが迫った。
避けるには、足が揃っていなかった。
体当たりを受け、ヒトカゲが後ろへ転がる。
「そこまで!」
マサシはすぐに手を上げた。
「降参。ヒトカゲ、もういい!」
◇
フィールドへ入り、ヒトカゲのそばへしゃがんだ。
ヒトカゲは肘をつき、起き上がろうとしていた。
「ゆっくりでいい」
手を添える。
立ち上がったあとも、ヒトカゲはイシツブテを見ていた。
悔しそうだった。
「……効かなかったな」
マサシが言うと、ヒトカゲは前足を見下ろした。
「爪、見せて」
指を広げてもらう。
欠けていない。
血も出ていなかった。
マサシはそっと手を離した。
「ひっかく、無理に使わせて悪かった」
「カゲ……」
「お前の爪が弱いって話じゃないよ。岩に当てたら、そりゃ硬い」
自分の拳で、足元の岩を軽く叩く。
「俺も痛いし」
ヒトカゲがその手を見た。
マサシは一度振ってから、笑った。
「……結構痛い」
ヒトカゲの口元が、ほんの少し緩んだ。
タケシが近づき、二人の前へ腰を下ろす。
「見せてみろ」
ヒトカゲの足と肩を確かめ、関節を無理なく動かした。
「大きな怪我はなさそうだ。戻ったら、センターでも診てもらってくれ」
「うん」
マサシはヒトカゲを抱き上げた。
タケシが続ける。
「途中、正面から攻めるのをやめただろ」
「全然効いてなかったから」
「それで位置を変えた。あれはよかった」
マサシはフィールドを見る。
さっきヒトカゲが登った岩があった。
「でも、あそこは逃げ場がなかった」
「そうだな。高い場所が、いつも有利とは限らない」
タケシは頷いた。
「相手が下から何をできるかまで、考える必要がある」
マサシはしばらく黙っていた。
森でのカイロス戦と似ている。
その場を切り抜けたあと、次の動きが足りなかった。
それでも、途中には手応えがあった。
防ぐ腕で、視界が隠れた瞬間。
横へ動いたヒトカゲの火が、初めて届いた瞬間。
あれを、たまたまで終わらせたくなかった。
「タケシ」
「何だ?」
「次は、もっと動かす」
タケシが彼を見る。
マサシはイシツブテへ目を向けた。
「ヒトカゲだけじゃなくて、そっちを」
タケシは少し笑った。
「楽しみにしてるよ」
◇
ジムを出る頃には、空が橙色になっていた。
ヒトカゲはボールへ戻って休んでいる。
マサシはセンターへ向かいながら、何度もフィールドの形を思い返していた。
岩の陰。
腕がつく地面。
体当たりの曲がり方。
イシツブテを相手にあの苦戦なら、その先には何が待っているのだろう。
考え込みながら歩いていると、正面から声がした。
「マサシ!」
サトシだった。
カスミと並んで、こちらへ来る。
「ジム、もう行ったのか!?」
「うん。見学のつもりだったけど、少し戦った」
「どうだった?」
「硬い。重い。しかも、速い」
マサシが指を折ると、サトシの顔が真剣になった。
「勝ったの?」
「負けた」
サトシが一瞬、言葉を止めた。
カスミはマサシの腰へ目を向ける。
「ヒトカゲは?」
「大きな怪我はなさそう。これから診てもらう」
「そっか……」
カスミが少し安心した顔になる。
サトシはジムのある方角を見た。
「俺も、挑戦してくる!」
「今から?」
「うん!」
肩のピカチュウが声を上げた。
マサシは二人を見比べた。
止めても、行くだろう。
「じゃあ、腕の動き見とけよ」
「腕?」
「イシツブテ。地面を押して、急に向きを変える」
サトシが頷く。
「分かった!」
走り出しかけた背中へ、カスミが声をかけた。
「道くらい、落ち着いて歩きなさいって!」
サトシが少しだけ足を緩める。
マサシは笑い、二人と別れようとした。
「マサシ」
カスミに呼ばれ、振り向く。
「負けたからって、あんまり根を詰めないでよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「ずっと考えてる顔してる」
図星だった。
マサシが黙ると、カスミは腰へ手を当てた。
「ご飯食べて、ちゃんと休みなさいよ。ポケモンだけじゃなくて、あんたも」
マサシは苦笑した。
「分かった。飯食って、寝る」
「……あんたの場合、寝すぎるのも心配だけど」
「どうしろっていうんだよ」
カスミが笑った。
マサシも手を上げ、センターへ向かった。
◇
その夜、部屋で四体の仲間を外へ出した。
診察を終えたヒトカゲは、食事を済ませるとすぐに座り込んだ。
ポッポが窓辺へ行く。
キャタピーとビードルは、敷いた布の上からマサシを見上げていた。
マサシはベッドへ座り、図鑑を開いた。
イシツブテの説明。
体の特徴。
それから、ヒトカゲが使える技を見直す。
「今ある技で、何ができるかな」
呟きながら、指を止めた。
ひっかく。
ひのこ。
それに――。
マサシは顔を上げた。
ヒトカゲがこちらを見ている。
「なあ。しっぽ、ちょっと振ってみて」
ヒトカゲは立ち上がり、尻尾を左右へ動かした。
炎が揺れる。
「そうじゃなくて……相手に見せる感じで」
半身になり、もう一度振る。
マサシはその動きを見た。
相手の注意が向くなら。
構えが、少しでも緩むなら。
硬い腕の守りにも、入り込めるところができるかもしれない。
マサシの口元が上がった。
「明日、試したいことがある」
ヒトカゲの目に、昼間と同じ光が戻る。
マサシはその額へ軽く触れた。
「今日は寝るけどな。約束したし」
ヒトカゲが頷いた。
マサシは図鑑を閉じ、枕元へ置いた。
明日は、最初のひのこを当てたあとに何をするか。
ベッドへ横になってからも、その動きを一度だけ頭の中で確かめた。
第9話終了
次回・第10話「硬い守りを崩せ!ヒトカゲと再挑戦への特訓」