乗り換えを一回増やせば、もう少し安く来られた。
校門の前で携帯電話の画面を閉じながら、三輪霞は、今さらどうにもならないことを考えていた。
途中で道に迷うよりはいい。今日くらいは。入学初日に遅刻するわけにもいかなかったのだし。
そこまで考えてから、腕時計を見る。
約束の時間まで、まだ二十分あった。
「……早すぎたかな」
背負い直した鞄の中で、筆箱が小さく鳴った。
京都府立呪術高等専門学校。
名前と所在地は何度も確認した。ここへ来るまでに必要な書類も、昨夜、三回確かめている。それでも、目の前の門をくぐっていいのか、少しためらった。
寺院のような建物。街の音が届かない道。門の向こうで、風に揺れる木々。
学校、なのだそうだ。
四年間、ここで学ぶことになる。
長い刀袋を持ち替えたところで、内側から人が歩いてきた。
「三輪さん?」
「はいっ」
返事が思ったより大きくなった。
白衣に緋袴の女性が、少し目を丸くしてから笑う。頬には傷痕があった。電話で案内をしてくれた人と、声が同じだった。
「そんなに緊張しなくて大丈夫。庵歌姫です。これから、あなたたちの授業と任務を受け持ちます」
「三輪霞です。本日から、お世話になります」
頭を下げると、肩から鞄がずり落ちた。
慌てて肘で押さえる。刀袋まで倒しかけて、どうにか持ち直した。
「荷物、片方持とうか」
「いえ、大丈夫です。重くはないので」
「じゃあ、まず寮に置いてきましょう。話はそれからね」
歌姫が先に立って歩き出す。
三輪はその背中を追いながら、鞄の持ち手を握り直した。
怖い先生じゃなさそうでよかった。
それだけで、門の前で固まっていた足が、少し軽くなった。
*
寮の部屋には、机と椅子と寝具、それから、思っていたより大きな収納があった。
「ここ、一人で使っていいんですか?」
「ええ。隣の部屋にも新入生が入るから、あとで紹介するわ」
窓からは木の枝が見えた。暖房もある。机の引き出しは三つもあった。
三輪は鞄を下ろし、家から持ってきた小さな目覚まし時計を机に置いた。
歌姫が差し出した封筒には、寮の鍵と、生活についての案内が入っていた。
「食事や設備のことはここに書いてあるけど、分からなければ聞いて。必要な物があれば、買いに行ける時間も作るから」
「ありがとうございます」
まず買わなければいけないのは、洗濯用の洗剤だろうか。
いや、備品があるかもしれない。案内を読んでからにしよう。
そんなことを考えつつ、刀袋を収納の脇に立てかける。
「それ、中身は真剣よね」
歌姫の声に、三輪は手を止めた。
「はい。移動中は、鞘から抜けないようにしてあります」
「分かりました。持ち歩く場所については、実技のときに説明するわ。ほかの人の部屋や共用部分へ、置きっぱなしにはしないでね」
「はい」
刀の置き場所も、新しく覚えることの一つだった。
家では、弟たちの手が届かないところに置いていた。ここでは、自分が気をつけるだけでは足りないのだろう。
歌姫について部屋を出る直前、三輪はもう一度振り返って、刀袋が倒れないことを確かめた。
*
案内された教室には、先に二人が来ていた。
窓際に座っていたのは、髪の短い少女だ。机に頬杖をついて、こちらを見る。
その反対側には。
木と金属でできたような、人の形をしたものが座っていた。
三輪の足が、教室の入り口で止まった。
「どうしたの」
「あ、いえ」
歌姫に声をかけられて、慌てて一歩進む。
呪術師の学校なのだから、いろいろな人がいるのだと思う。いるのだと思うが、事前に少しだけ聞いておきたかった。
窓際の少女が、三輪の顔を見て口の端を上げた。
「ずっと見てると失礼じゃない?」
「ご、ごめんなさい」
「構わん。慣れている」
声は、座っている人形の方から聞こえた。
三輪は背筋を伸ばした。
「三輪霞です。今日からよろしくお願いします」
「究極メカ丸だ」
「……メカ丸、くん?」
「メカ丸でいい」
「うん。よろしく、メカ丸」
頷いてから、窓際の少女へ向き直る。
「禪院真依」
「禪院さん。よろしくね」
「真依でいいわよ。呼ばれ慣れてるから」
「じゃあ、真依。私も、霞でも三輪でも」
「分かった、三輪」
返答は早かった。
少し怖そうだと思ったけれど、話しかけるなというわけではないらしい。
三輪は空いている机に鞄を置いた。
「今年の一年生は、あなたたち三人です」
教卓の前で、歌姫が書類を揃えた。
「少ないと思うかもしれないけど、その分、一人ひとりの状態を見ながら授業を進めます。任務についても、いきなり全部を任せることはありません」
三輪は筆箱と手帳を取り出した。
連絡の取り方。外出の届け出。任務へ出る際の集合場所。
歌姫の説明を、順番に書き留めていく。
呪いが見える。
呪力を扱える。
それだけでは、まだ知らないことがいくらでもあるらしかった。
特に、任務の報告と、危険度が違ったときの対応は大事だと言われた。
「自分で判断できると思っても、連絡を省かないこと。あなた一人が無事でも、迎えに来た人が危険な場所へ入ってしまうかもしれないから」
「はい」
三輪は、その一文に線を引いた。
隣で真依が、手帳をちらりと見る。
「全部書くの?」
「忘れたら困るし」
「あとで紙でもらえるって」
「えっ」
顔を上げると、歌姫が同じ内容の印刷された紙を配り始めていた。
真依が、小さく鼻で笑った。
三輪も笑うしかなかった。
*
説明のあとに、校内の案内と昼食を挟んだ。
午後は、入学前に身につけた技術の確認だった。
着替えた三輪が稽古場へ着くと、歌姫のほかに、運動着の男性が待っていた。
「今日は、実技の確認を手伝ってもらいます。指示を聞いて、できる範囲で動いてね」
三輪は紹介された指導員へ一礼した。
真依とメカ丸は、壁際に並んでいた。三人それぞれ、確認する内容が違うらしい。
三輪は持参した刀を袋ごと壁の刀掛けに置いた。
その隣には稽古用の木刀が並んでいる。
「普段は、それを使うんだね」
指導員が、三輪の刀袋を見た。
「はい」
「まずはこっちで。人と打ち合う稽古はしたことがある?」
「あります」
「じゃあ、軽く合わせてみよう。受け方と足の運びを見たい。無理に勝とうとしなくていいから」
渡された木刀を、三輪は両手で持った。
柄の感触を確かめて、一度だけ向きを直す。
重さが違う。
それと、少し先が軽い。
手の内を緩めてから締め直せば、それで済んだ。
「呪力は?」
「身体の強化に使う分はいいよ。ただし、木刀を壊さない程度に」
「分かりました」
歌姫が二人の間から下がった。
「始めてください」
指導員が、木刀を中段に構える。
三輪も正面に立った。
初対面の相手との会話は、今でも少し苦手だった。
何を聞いていいのか。どこまで話せばいいのか。つい考えすぎて、返事が遅くなる。
けれど、こうして向き合えば、迷うことはなかった。
右足に、わずかに体重が乗る。
肩が動くより先に、柄を握る指が締まった。
相手の木刀が、三輪の左肩へ向かってくる。
三輪は半歩、斜めに入った。
木と木が触れる、乾いた音がした。
大きく弾く必要はなかった。振り下ろされる木刀の横へ自分の刀身を添え、相手の手元が流れる方向へ、ほんの少し押す。
指導員の腕が伸びた。
その内側を、三輪の木刀が通った。
切っ先が、胸元の手前で止まる。
相手の木刀は、三輪の左側にあった。
打ち直すには、いったん腕を戻さなければならない。
三輪の方には、もう、動く必要がなかった。
「……あ」
指導員が、自分の胸元を見下ろした。
三輪は木刀を引いた。
「ありがとうございました」
頭を下げてから、返事がないことに気づく。
顔を上げた。
指導員は木刀を下げたまま、歌姫を見ていた。
壁際で、真依が腕を組み直す。
「今の、終わり?」
「うん。一本、入ったと思うけど……」
三輪は指導員の方へ視線を戻した。
打ち合いを続けるべきだったのだろうか。
勝とうとしなくていいとは言われたけれど、入れる場所があったので、そこへ入れた。力も、ほとんど使っていない。
「もう一度、いいかな」
指導員が言った。
「はい」
三輪は、元の位置へ戻った。
今度は相手の構えが違った。
腰が少し落ちる。さっきよりも、腕と脚に呪力が集まっていた。
三輪は自分の立ち位置を確かめた。
後ろには誰もいない。右にも十分な広さがある。
相手が踏み込む。
木刀が途中で軌道を変えた。
肩ではなく、手元。
三輪は右手の握りをわずかに緩め、柄を引いた。打ち込まれた木刀が、指一本分だけ前を通り過ぎる。
相手が引き戻す前に、その鍔元を押さえた。
踏み込んだ足の外へ回る。
指導員の身体が半ば横を向き、再び胸元に切っ先が止まった。
今度は、木刀の触れる音も小さかった。
「そこまで」
歌姫が言った。
三輪はすぐに木刀を下ろした。
指導員が、一度息を吐く。手首を回し、握りを確かめている。
歌姫の眉間に、皺が寄っていた。
「三輪さん。相手をしてもらったのは、いつも同じ人?」
「えっと、基本は教えてくださった先生です。何度か、ほかの方とも」
「その先生から、学校でどのくらい動くように言われている?」
「特には。聞かれたことには、ちゃんと答えるようにと」
歌姫は少し考えたあと、指導員と短く言葉を交わした。
三輪は待った。
自分が今の相手に勝つことは、構えを見たときから分かっていた。
師と最後に稽古をした日も、その前の日も、そうだった。
だからといって、学校で何を見たいのかまで分かるわけではない。動きの途中で止めて、もっと受けた方がよかったのかもしれない。
「あの、やり方が違ってましたか?」
歌姫が、三輪へ向き直った。
「いいえ。指示どおりだったわ」
はっきり言われて、肩の力が抜ける。
「よかったです」
「ただ、今日はここまでにしましょう。改めて、稽古の時間を取ります」
「分かりました。木刀は、戻しておけばいいですか?」
「ええ。ありがとう」
三輪が刀掛けの方へ向かうと、真依が一歩、壁から離れた。
「あんた、ずいぶんやるのね」
「ずっと、こればっかりだったから」
「どのくらい?」
「学校から帰って、用事が終わってから。休みの日も、できるときは」
「そういう意味じゃないんだけど」
「え?」
真依は、何か言いかけてやめた。
「……別に」
その横から、メカ丸の声がした。
「木刀を渡されてから、一度、握りを変えたな」
「うん。いつものと重さが違ったから」
「あれだけで分かるのか」
「持てば、大体は。メカ丸も、使う?」
「俺はいい」
差し出しかけた木刀を戻す。
聞きたかっただけらしい。
三輪は木刀を元の場所へ掛け、代わりに自分の刀袋を手に取った。
帰る前に、歌姫へ確認する。
「先生。これは、部屋に置いておいて大丈夫ですか?」
「ええ。さっき話したとおりで大丈夫よ」
「はい」
その返事を聞いて、三輪はようやく、朝から手帳に書こうと思っていた質問を思い出した。
洗剤は、寮にあるのだろうか。
今聞いていいのか迷っているうちに、真依が出入り口から振り返った。
「帰らないの?」
「あ、帰る。待って」
三輪は刀袋を肩にかけ直し、二人のあとを追った。
*
三人が出ていったあと、稽古場には歌姫と指導員が残った。
廊下から、三輪の声がかすかに聞こえる。
寮の設備について、真依に何か尋ねているようだった。
「二本目は、見せるための打ち方じゃなかったわよね」
歌姫が確認すると、指導員は頷いた。
「先に手元を取るつもりでした。一本目で、入ってくるのは分かっていたので」
「でも、入られた」
「はい。引こうとしたときには、もう」
彼は、手にした木刀を見た。
傷も欠けもない。
強い呪力で叩き伏せられたのなら、まだ説明できた。だが、三輪は彼の打ち込みを、ほとんど抵抗のない方向へ逃がしていた。
歌姫も、二本目は最初から動きを追っていた。
それでも、踏み込むべき間がどこにあったのか、うまく説明できなかった。
指導員がわずかに構えを直しただけで、少女の立つ場所も変わっていた。その修正があまりに小さく、攻めに移る前の準備には見えなかったのだ。
「改めて見るなら、誰に来てもらいますか」
「まずは学長に相談する。それと、教えていた人にも連絡を取りたいわ」
歌姫は、三輪の実技確認の用紙に目を落とした。
入学前の指導歴。使用する武器。呪力の扱い。
記入欄はいくつもある。
けれど今見たものを、そのまま収められる欄はなかった。
歌姫は用紙の余白に、次の稽古で確認する項目を書き足した。
廊下ではもう、三人の足音が聞こえなくなっていた。