演習場へ着いて最初にしたのは、刀を抜くことではなかった。
「三輪霞さん。昨晩は眠れた?」
「はい」
「朝食は」
「食べました」
家入硝子は問診票から目を上げ、三輪の顔を見た。
「今、どこか痛いところは?」
「ありません」
「分かった。途中で具合が悪くなったら、隠さないこと。相手があれでも、付き合う義務はないから」
「硝子。聞こえてるよ」
少し離れたところから声がした。
「聞こえるように言った」
家入はペンをしまった。
三輪は返事に困り、とりあえず、よろしくお願いしますと頭を下げた。
山を切り開いた演習場には、建物も、観客席もなかった。踏み固められた地面の外側に、土の斜面と林が続いている。
補助監督が外周の確認から戻り、歌姫へ報告していた。張られた帳の内側にいるのは、必要な人だけだ。
記録用の機材は、立会いの場所に置かれていた。
三輪は刀袋の留め具を外した。
紐は、引っかからずにほどけた。
昨日、教室を出るときのメカ丸の声を思い出す。
『終わったら、連絡しろ』
『うん。結果も?』
『先に、終わったことを伝えろ』
その順番には、頷いてある。
「準備できた?」
五条が、演習場の中央から手を振った。
白い布で目元を覆い、いつものように立っている。
「はい。お願いします」
三輪は刀を腰へ差し、袋を畳んだ。
*
「止めをかけたら、二人とも直ちに離れること」
歌姫が言った。
「続けられるかどうかを、その場で言い争わない。いいわね」
「はい」
「了解」
日下部は二人の位置を見てから、立会いの場所へ下がった。
刀は真剣。
術式を含め、使用できる技術に制限はない。ただし、止められない攻撃はしない。降参、または続行不能で終了する。
説明は短かった。事前に聞いたことと違いがないのを、三輪は一つずつ確かめた。
五条までは、六歩ほど。
踏み込んでも、最初の一太刀では届かない。
「じゃ、よろしくね。三輪ちゃん」
「よろしくお願いします」
三輪は左手で鞘の口を押さえた。
五条の手は、まだ下がっていた。
「始め」
日下部の声が落ちる。
三輪は歩いた。
一歩。二歩。
五条は動かない。
三歩目を短くし、右足の置き場所を変える。真正面ではなく、五条の左肩へ向かう線に乗った。
そこで、五条の左手が上がった。
顔の前へ差し出された、開いた掌。
三輪は抜いた。
狙いは指ではなく、手首の先。届くなら、触れる手前で止める。
刀が、止まった。
金属を打った感触はなかった。
刃先は掌へ向かって進んでいる。それなのに、残った距離だけがなくならない。
三輪は押し込まなかった。
右足へ乗せ切る前に重心を戻し、刀を引く。
その頬を、五条の指先が通り過ぎた。
指先だけを避けても足りない。続く掌底の線から肩を外し、半歩退く。
「お。ちゃんと見てる」
五条が手を下ろす。
三輪は返事をしなかった。
刀身を低く保ったまま、相手の足を見る。
無下限呪術。
説明は聞いた。触れられない、という言葉も知っていた。
実際に刃を向けた感触は、そのどちらとも少し違った。
壁があるのではない。
だから、強く打てば済むものでもない。
今度は五条が、一歩近づいた。
*
肩が動くより先に、足元の土が鳴った。
踏み込みが速い。
三輪は左へ抜けながら、刀を斜めに立てた。拳の進路へ刃を置くのではなく、五条が引き戻す腕の外側へ回す。
五条は拳を止めず、肘を畳んだ。
長い腕が、刀の内側へ入ってくる。
三輪は柄を引いた。鍔を近づけ、左手も柄へ移す。そのまま身体を開き、膝の上を狙って切り返した。
また、刃が遅くなる。
五条の足が、その向こうで動いた。
蹴りを鞘で受けようとはしない。三輪は右足を引き、脇を締めた。靴底が制服をかすめる。
刀を振り終わった場所へ、五条の右手が伸びていた。
柄を取られる前に、左手を離す。
五条の指が空をつかんだ。
三輪はその指の外側へ刀を返した。
今度は、刃の周囲に薄い呪力の層があった。
手から鍔へ。鍔から、刀身へ。
途切れずに纏わせた領域を、刃先へ寄せる。
五条の手首が動いた。
刀が届く。
袖口の布に、短い切れ目が入った。
続いて肌へ届くより先に、五条は腕を引いていた。
三輪の切っ先も、それ以上は追わない。
二人の間に、再び一歩分の土が見えた。
「……なるほど」
五条が、自分の袖を見た。
笑みは消えていなかった。
けれど、次に顔を上げたとき、三輪へ向ける身体の角度が変わっていた。
*
「簡易領域じゃないな」
日下部が言った。
歌姫は視線を二人から外さなかった。
「今、触れたのね」
「ああ。展延だ。身体から刀まで、繋いで纏ってる」
薄く延ばした領域へ、接触した術式を流し込み、中和する。
領域展延そのものと、それを刀の先まで保つことは、別の難しさだった。
振れば刀は動く。身体との位置関係も変わる。
どこかで層が切れれば、そこから先は、ただの呪力を込めた刃へ戻る。
日下部は、三輪の握りを見た。
刀を引き戻した今も、余計な力が入っていない。
「あいつ、あの切り返しの途中で……」
続きは言わなかった。
五条がもう、次の動きに入っていた。
*
見えていた胸元が、横へずれた。
三輪は追いかけて刀を振らなかった。
足元の土と、五条の呪力が動く方向を見る。
右。
踏み直すのと、拳が来るのが重なった。
左腕で受け流す。
重い。
腕だけで受けたら、そのまま胸へ押し込まれる。三輪は腰を回し、力を斜め後ろへ逃がした。
それでも、靴が地面を削った。
「触れるようになったら、次は当てなきゃね」
五条の声が近い。
「……はい」
三輪は、右手の刀を返した。
五条は、もうそこにいなかった。
避けた足へ切っ先を向けると、肩口に引かれる感覚が生まれた。
自分で踏み込んだのではない。
身体が、右前方へ持っていかれる。
刀の先も引かれていた。
三輪は、踏ん張るのをやめた。
引かれる方向へ右足を出す。次いで左足を送って身体を回し、引力に逆らっていた刀の腹を、流れに沿わせる。
正面から拳が来た。
先ほどより近い。
三輪は頭を横へ外し、柄頭を五条の前腕へ当てた。
触れた。
ほんの短い接触だったが、その分だけ、拳の軌道がずれる。
耳元で風が鳴った。
五条の手が開く。柄を包むように指が伸びてくる。
三輪は刀を下げ、手首を返した。
刃は五条の腕に沿って上がり、肩の手前へ抜ける。
五条は上体を反らした。
追う。
だが、右足を置こうとした地面が陥没した。
足場が消える。
三輪は残した左足で跳び、刀を身体へ寄せた。
着地する前に、背中側から土の塊が飛んできた。
刀身に纏わせていた領域を解く。
代わりに、身体の周囲へ小さく簡易領域を開いた。
侵入したものを捉え、刃を返す。
土塊が砕けた。
細かい礫が肩を叩く中、三輪は片膝を曲げて着地した。
すぐに立つ。
五条は追撃せず、数歩先にいた。
右肩に、土がついている。
自分の刀が通ったところだった。
三輪は息を吐いた。
届く。
それは、もう分かった。
けれど、触れることと、勝つことの間には、まだいくつもの手順がある。
*
「今の、消さなかったんだ」
五条が言った。
三輪は少しだけ首を傾けた。
「引っ張られたとき?」
「はい。全部を受け止めるより、動いた方がよかったので」
「刀に集めてる分、身体の方は薄いんだね」
三輪は頷いた。
見られている。
どこへ呪力を回したかも、何を諦めたかも。
領域を纏えば、何もかもなくせるわけではない。五条が出力を上げれば、薄くしたところから押し切られる。
刃へ厚く集めて接触を作る間、全身を同じようには守れない。
簡易領域へ切り替えれば、迎撃は速くなる。けれど、それだけで無下限に刃が通るわけではない。
選ぶたびに、別のところが空く。
五条は、その空いたところへ来る。
だから三輪も、刀だけを見ていては勝てない。
「もう一回、いこうか」
「はい」
五条が右足を引いた。
先ほどと、同じ動き。
三輪は今度、正面へ踏み込んだ。
五条の拳が来る。
その外へ、半身になる。
刀を振り上げるのではなく、低い位置から前腕へ添わせた。
薄い領域を、刃へ通す。
五条が肘を曲げた。
三輪は止まらず、左足を、相手の右足の外側へ置いた。
肩へ向かっていた刃の向きを変える。
腕を引けば、その先に切っ先が残る。
五条の重心が下がった。
膝が来る。
三輪は左の掌を腿へ添え、押すより先に、自分の腰を逃がした。
膝の線から外れたまま、刀を横へ返す。
五条の襟元を狙った刃が、空を切った。
距離が開く。
蒼による移動。
ただの後退よりもずっと速く、五条は三輪の間合いを抜けていた。
それでも、三輪は踏み込んでいた。
逃げた場所へ、追いついてから斬るのでは遅い。
相手が動くより前に、次の足を出しておく。
五条の足が地面へつく。
その膝の外側へ、刀が向かった。
白い頭が、わずかに下がった。
五条の手が柄へ伸びる。
三輪は引かない。
柄を取ろうとした手の下へ鍔を入れ、持ち上げる。同時に刀の角度を変え、刃ではなく峰を、五条の上腕へ寄せた。
手応えがあった。
肉を裂く感触ではない。
呪力で強化された腕を、確かに打った感触だった。
五条の左足が、半歩動いた。
三輪はその足へ、視線を落とさなかった。
次はそこへ置けないようにする。
左手を柄へ戻し、刃を返す。
その瞬間、三輪の右側で、土が深く抉れた。
身体がそちらへ引かれる。
いま踏み出せば、刀を振るより先に姿勢が崩れる。
三輪は追撃を切り上げた。
引力の向きへ回り込み、五条の正面を外す。
頭の上を、長い脚が通った。
しゃがんだ姿勢から立ち上がると、五条もこちらへ向き直っていた。
互いの足が止まったのは、一呼吸だけだった。
*
歌姫は、声をかけなかった。
止めるべき瞬間を見落とさないために、二人を見ていた。
五条の袖は切れている。
三輪の制服も、肩と袖が土に汚れていた。
どちらも、まだ続けられる。
日下部が、低く言った。
「追いついたんじゃねえな」
「ええ」
「あいつが動きたくなる場所へ、先に剣を置いてる」
速さだけを比べていたら、ああはならない。
五条もそれを理解したから、途中で足場ごと崩した。
いま演習場にあるのは、強い術式と、それに触れる珍しい技術の見せ合いではなかった。
相手の次の一手を、どこまで自分の望む形へ変えられるか。
二人とも、もう、その勝負をしていた。
*
三輪は口の中へ入った土を、唾と一緒に吐き出した。
少し、行儀が悪かったかもしれない。
そんなことを考えてから、いま気にするところではないと思い直す。
左の前腕が痛む。
最初に拳を流したところだ。指は動く。握りにも支障はない。
五条の右手が上がった。
三輪は刀を構え直した。
「三輪ちゃん」
「はい」
「さっき、僕の足、止めようとしたでしょ」
「……はい」
「腕じゃなくて?」
「腕もです。でも、あの位置で足を替えられると、また外へ出られるので」
五条が自分の足元を見た。
踏み込んだ跡と、引かれて削れた跡。
その間を、三輪の細い靴跡が斜めに通っていた。
「そっか」
五条は、目元の白い布へ指をかけた。
ほどいた布を片手へまとめる。
青い目が、まっすぐにこちらを見た。
三輪は一度だけ、瞬きをした。
綺麗だと思った。
次に見たのは、その目ではなく、肩と、右手と、足の置き方だった。
「ここから、少し変えるね」
五条の声は、よく通った。
もう、合間に笑わせようとはしていなかった。
「分かりました」
三輪は左足を、半足だけ寄せた。
勝てると思っている。
けれど、まだ勝っていない。
だから、目の前の一手を間違えない。
五条の指先に、呪力が集まった。
三輪はその手と、背後の空間を同時に見た。
今度は、どちらから来る。
答えを待たず、足を動かした。