三輪霞は、剣だけでいい   作:ケーケーケー

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第十三話 一歩を奪う

 

 指先の赤を見たとき、三輪はもう、正面から外れ始めていた。

 

 背後では土が吸い寄せられている。

 

 右へ避ければ、そちらへ引き戻される。

 

 だから、左。

 

 五条の右手を見ながら、斜め前へ出る。

 

 赤が膨らんだ。

 

 空気の塊に横から殴られたようだった。

 

 三輪は肩を入れ、身体に沿う領域を厚くした。刀まで回していた分を引き戻し、左の上腕と脇腹へ集める。

 

 それでも、衝撃は消えなかった。

 

 足が地面を離れる。

 

 肺から息が押し出され、視界が一度、白くなった。

 

 背中から落ちる直前に、腰をひねる。左足、右足。靴底で地面を擦り、最後の勢いを逃がした。

 

 止まった場所へ、五条が来た。

 

 息を吸うより先に、刀を上げる。

 

 蹴りを正面から受けず、刃の腹で軌道をずらした。刀身にかかる負荷へ呪力を合わせ、右へ抜ける。

 

 左脇腹が痛む。

 

 そこをかばって肩が落ちれば、次は頭を取られる。

 

 三輪は痛みとは別に、足を動かした。

 

     *

 

「今のは、止めなくていいのか」

 

 家入の声に、歌姫は短く答えた。

 

「動けてる。呼吸も、戻ってるわ」

 

 視線は三輪へ置いたままだった。

 

 三輪の左手が、一度、脇腹へ触れる。

 

 正の呪力がそこへ集まった。

 

 家入は目を細める。

 

「……自分で治せる方か」

 

「ええ。でも、無理をするようなら止めます」

 

 三輪は刀を片手で保ち、五条から離れるように動いていた。

 

 五条も、ただ待ってはいない。

 

 進路の先へ回り、今度は左側から拳を出す。

 

 三輪が避ける。刀を返す。無下限に阻まれる前に引き、足を替える。

 

 治療に割いた分だけ、攻めの選択が減っている。

 

 その時間を、自分の足と片手の剣で稼いでいた。

 

 やがて、左手が柄へ戻った。

 

 三輪が息を吸う。

 

 さっきより深く、胸が動いた。

 

     *

 

 治ったからといって、使った呪力まで戻るわけではない。

 

 三輪は握りを確かめた。

 

 痛みは引いた。両足で踏める。

 

 それで十分だった。

 

 五条の右手が、また上がる。

 

 同じ避け方はしない。

 

 三輪は半歩下がった。五条が前へ出る。その踏み込みへ合わせ、今度は逆に、低く入った。

 

 赤い光は、まだ生まれていない。

 

 刀身へ領域を通し、上げかけた手の下へ刃を置く。

 

 五条の手首が返った。

 

 刀を避けた指先が、三輪の肩へ向く。

 

 三輪は右足を深く踏み、肩をその下へくぐらせた。

 

 頭上で反発が弾ける。

 

 髪が跳ね上がり、背後の地面が吹き飛んだ。

 

 巻き込まれた風に身体を押されながら、三輪は刀を振り終えずに止めた。

 

 引き戻して、五条の肘の外へ回す。

 

 五条の左手が、右手へ近づいた。

 

 何かを組む。

 

 動作の意味より先に、呪力の変化を捉えた。

 

 身体の周囲で膨れたそれが、足元と頭上へ広がっていく。

 

 逃げるなら、今だった。

 

     *

 

「領域展開」

 

 五条の声と、三輪の踏み込みが重なった。

 

 刀に纏わせた領域を解く。

 

 代わりに、自分の身体を包む範囲だけ、簡易領域を張った。

 

 景色が暗く変わりかける。

 

 そこに留まって、何が起こるか確かめるつもりはなかった。

 

 自分の結界の縁が、削られる。

 

 張り直す。

 

 足は止めない。

 

 まだ閉じ切っていない外殻。その一部へ呪力が集まり、隣の部分が遅れて埋まろうとしていた。

 

 三輪は、埋まり切る前のそこへ刀を通した。

 

 押し広げるのではなく、形成の継ぎ目へ刃筋を合わせる。

 

 抵抗が走った。

 

 切っ先を寝かせない。手首も返さない。

 

 踏み込みと刃の進む線を揃え、そのまま身体を送り出す。

 

 空が見えた。

 

 背後で、黒い球が閉じる。

 

 三輪は振り返らず、もう一歩、距離を取った。

 

 簡易領域が最後まで残っていたことを、足裏の感覚で確かめる。

 

 それから、息を吐いた。

 

 受け切ったわけではない。

 

 受ける場所から、出た。

 

 その一度のために、刃へ集めていた呪力まで使った。

 

 刀を持つ右手が、わずかに熱かった。

 

     *

 

 日下部は、閉じた結界と、その外にいる三輪を見ていた。

 

「完成した領域を斬ったわけじゃねえ」

 

 誰へともなく言った。

 

「閉じるところを、抜けやがった」

 

 歌姫は返事をしなかった。

 

 記録へ目を移す余裕もなかった。

 

 黒い外殻がほどけ、五条が現れる。

 

 彼は三輪の位置を確認すると、すぐに歩き始めた。

 

 その右手が、先ほどとは違う高さにある。

 

     *

 

 三輪は、近づいてくる五条を見た。

 

 術式の使い方が変わっている。

 

 さっきまで、足元を引いていた力がない。

 

 だが、身体の強化はむしろ強い。

 

 領域を解いた直後。

 

 使いにくい時間があるのだと、動きから分かった。

 

 三輪は踏み込んだ。

 

 五条も、前へ来た。

 

 迎える拳は、刀を避けるために引かれていない。

 

 刀の軌道へ入るより先に、その根元を押さえるつもりだ。

 

 三輪は振り上げかけた刀を低く保ち、鍔で手を外へ流す。

 

 五条の反対の拳が腹へ迫る。

 

 腰を引く。

 

 制服が擦れるほど近くを、拳が通った。

 

 引いた腰を戻す動きで、刀を押し出す。

 

 五条は手首へ触れ、切っ先の線をずらした。

 

 三輪は押し合わなかった。

 

 触れられた右手を支点に、柄を回す。刀の向きを変えながら、左足を相手の足の間へ入れた。

 

 五条の肘が落ちる。

 

 その内側へ左腕を差し込み、胸を正面からぶつけない角度で抜ける。

 

 互いの肩が擦れた。

 

 背後へ回らせまいと、五条が向き直る。

 

 そこへ、切っ先が戻っていた。

 

 頬を避けた五条の足が、地面を蹴った。

 

 三輪も動く。

 

 もう一度、近い。

 

 拳と柄。肘と鍔。長い脚の内側を、小さな歩幅で抜ける。

 

 刀の長さが邪魔になる距離でも、三輪の剣は止まらなかった。

 

 刃を全部使う必要はない。

 

 相手の腕の向こうへ、切っ先が少し出ればいい。

 

 五条はそのたびに、三輪の握りを崩そうとした。

 

 取らせない。

 

 握り直すのではなく、足で刀の位置を変えた。

 

 五条が一歩下がる。

 

 三輪の刀が、また、届かなくなった。

 

 無下限が戻った。

 

 すぐに領域を纏わせる。

 

 その切り替えを待っていたように、地面が横へ引かれた。

 

 五条の姿が遠ざかる。

 

 三輪は追った。

 

 前へではなく、斜めへ。

 

     *

 

 ここから長く続ければ、不利になる。

 

 治療に使った分。結界を張り直した分。

 

 刀を守り、領域を切り替え、その一つ一つに呪力が要った。

 

 五条にも消耗はあるはずだった。

 

 けれど、そのことを当てにして待つつもりはない。

 

 三輪は、足跡を見る。

 

 五条の足ではなく、二人が動いた地面全体を。

 

 抉れた場所。

 

 崩れた土。

 

 さっき自分が、着地に使わなかった場所。

 

 五条なら、そんなものは障害にならない。

 

 宙へ出られる。術式で身体を運べる。足を置く場所がなければ、別の動きをすればいい。

 

 ただし、その別の動きも、身体から始まる。

 

 三輪は刀を、少し下げた。

 

     *

 

 五条の前に、逃げ道は見えていた。

 

 下がりながら蒼で引き離す。

 

 赫で正面を払う。

 

 近づけたところで柄を取る。

 

 三輪の刀が低い。

 

 踏み込みに合わせて、足を斬る構え。

 

 ならば、踏み込む必要はない。

 

 五条は三輪の横へ、引力の中心を作った。

 

 彼女が領域を全身へ回せば、刀が鈍る。

 

 流れに乗れば、その先を押さえる。

 

 三輪は、流れに乗った。

 

 先ほどと同じように。

 

 ただし、刀を身体へ寄せなかった。

 

 低く置いたまま、引かれる足を一歩、長く出す。

 

 刃の先が、五条の左足へ届く線に乗った。

 

 五条は足を引いた。

 

 そのまま後ろへ移るには、右足を替える。

 

 替えかけた足の前へ、三輪の左足が滑り込んだ。

 

 刀を下から返す。

 

 五条は右手を伸ばした。

 

 狙いは柄。

 

 今度は、取れた。

 

 そう見えた。

 

 三輪の左手は、もう柄から離れていた。

 

 刀を引くのではなく、その手で五条の右手首へ触れる。

 

 身体から続く領域を、その接触へ集めた。

 

 無下限を隔てず、掌が手首を捉える。

 

 強く握り潰す必要はない。

 

 柄を取ろうとした力の向きを、半円だけ変える。

 

 五条の右肘が、外へ開いた。

 

 三輪は、その腕の下へ入った。

 

 五条の左手が上がる。

 

 指先に赤が生まれた。

 

 三輪は左腕で抱えた右腕を、そちらの前へ押し上げた。

 

 赤い光が、肩越しに空へ抜ける。

 

 同時に、五条の身体が浮きかけた。

 

 地面から離れれば、足の位置など関係がなくなる。

 

 三輪は浮く力に逆らわず、掴んだ腕へ自分の重心を預けた。

 

 右足を、五条の右踵の後ろへ送る。

 

 引く腕と、持ち上がる身体。

 

 その向きが揃う前に、腰を回した。

 

 五条の肩が傾く。

 

 地面が近づく。

 

 五条は倒れ切る前に、左手をついた。

 

 その手の周囲で、土が鳴った。

 

 蒼。

 

 三輪を横へ引き剥がす力が、もう生まれていた。

 

 だが、三輪は腕を押さえた場所に留まらなかった。

 

 五条の右腕を手放し、その肩を越えるように一歩進む。

 

 引かれる力で身体がずれる。

 

 そのずれごと、刀を運んだ。

 

 纏わせる領域を、左手から刃へ戻す。

 

 握りを締める。

 

 五条の左手が地面を離れた。

 

 向き直るより先に、三輪の左前腕が、彼の右肘を胸の方へ押し戻していた。

 

 右膝は、起こしかけた腿の外側。

 

 切っ先は、肩の上を通る。

 

 刃の腹ではない。

 

 薄い領域を纏った刃が、喉元の皮膚に触れる、わずか手前で止まった。

 

 五条の指が、動きかけた。

 

 三輪も、握りを変えずに、刃を追わせた。

 

 首を逃がそうとすれば、逃げる先へ。

 

 腕を返そうとすれば、その前へ。

 

 まだ、動ける。

 

 それでも、刃が通る方が早い。

 

 五条は、そこまでを見た。

 

 青い目が、三輪の目を見る。

 

 三輪は押し込まなかった。

 

 止めたまま、返事を待った。

 

「……参った」

 

 はっきりと、五条が言った。

 

「僕の負け」

 

     *

 

「そこまで」

 

 日下部の声がした。

 

 三輪は先に刃を離し、次いで身体を引いた。

 

 二歩分下がってから、刀を低くする。

 

 五条は地面へ座ったまま、自分の右腕を一度、曲げ伸ばしした。

 

 三輪は頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

「うん。こちらこそ」

 

 五条が立ち上がる。

 

 その顔を見て、三輪は初めて、少しだけ緊張した。

 

 勝負は終わった。

 

 それは分かっている。

 

 けれど、そのあと何を言えばいいかは、剣を持つ前ほどには分からなかった。

 

「最後の、僕が手をつくところまで考えてた?」

 

 三輪は顔を上げた。

 

「手をつかなかったら、そのまま崩すつもりでした」

 

「そこから引っ張るのは?」

 

「あの向きなら、離した方が先に回れたので」

 

 五条は黙って、自分がいた場所へ目を向けた。

 

 片手をついた跡。

 

 その脇を通り抜けた靴跡。

 

「……全部、近づくために使われたな」

 

 三輪は何も言わなかった。

 

 五条が、今度は笑った。

 

「強いね。三輪ちゃん」

 

「ありがとうございます」

 

「お世辞じゃないよ」

 

「はい」

 

 そこは、聞き間違えなかった。

 

 五条は少しだけ目を細め、それから、立会いの方へ向き直った。

 

「記録にも、そのまま残して。僕が負けた」

 

 歌姫が頷く。

 

「分かってるわ」

 

「じゃ、まず二人とも、こっち」

 

 家入が手を上げた。

 

「感想は、診てからにして」

 

     *

 

 三輪は刀を納め、家入の前へ座った。

 

 左腕を出す。脇腹も確かめられる。

 

「自分で治したところ、まだ変な感じは?」

 

「ありません」

 

「痺れは」

 

「ないです」

 

「よし。でも、今日はもう振らないこと」

 

「はい」

 

 隣で五条が、破れた袖を引っ張っていた。

 

「これ、直るかな」

 

「私は服は治せないよ」

 

「知ってる」

 

 三輪は、自分の制服を見下ろした。

 

 肩と袖が、思っていたより汚れている。

 

 洗えば落ちるだろうか。

 

 考えてから、携帯電話を取り出した。

 

 まず、終わったこと。

 

 約束した順番で、文字を打つ。

 

『終わったよ。今、家入先生に診てもらったところ。大きな怪我はないです』

 

 送り終えると、急に喉の渇きが気になった。

 

 歌姫が、未開封の水を差し出した。

 

「お疲れさま」

 

「ありがとうございます」

 

 蓋を開ける。

 

 ひと口飲んでから、息を吐いた。

 

 携帯電話が震える。

 

『分かった。水を飲め』

 

 三輪は手の中のボトルを見た。

 

 それから、少し笑った。

 

『今、飲んでる』

 

 もう一つ、文字を続ける。

 

『勝ったよ』

 

 送信して、画面を閉じた。

 

 演習場の向こうで、五条と日下部が話している。

 

 抉れた地面の上を、風が通った。

 

 三輪は、もうひと口、水を飲んだ。

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