三輪霞は、剣だけでいい   作:ケーケーケー

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AI利用です


第十四話 勝った次の日

 

 制服の袖は、少し湿っていた。

 

 三輪は窓際へ吊るした上着を持ち上げ、指で布を挟んだ。

 

 汚れは落ちた。

 

 けれど、昨晩洗った時間が遅かったらしい。袖口の厚いところだけ、まだ乾き切っていない。

 

 時計を見る。

 

 着ていれば乾く、と言うには、少し冷たかった。

 

「……先に、ご飯にしよう」

 

 上着を戻し、部屋を出る。

 

 階段を下りたところで、真依に会った。

 

 こちらを見る目が、一瞬、止まった。

 

「おはよう」

 

「……おはよ」

 

「今日、午前は座学だよね」

 

「そうだけど」

 

「よかった。まだ上着が乾いてなくて」

 

 真依は三輪の腕へ目を落とした。

 

 白いシャツには、昨日の土も、裂けたところもない。

 

「あんた、自分で洗ったの」

 

「うん。置いておくと落ちなくなりそうだったから」

 

「……そう」

 

 それきり、少し黙った。

 

 三輪は、真依が先へ歩き出すのを待った。

 

 いつもなら、もう、どうでもよさそうな顔で行ってしまう。

 

「怪我、本当にないわけ?」

 

 真依が言った。

 

「うん。家入先生にも診てもらった」

 

「ならいいけど」

 

 真依は三輪の横を通り、食堂の方へ向かった。

 

 二歩ほど進んでから、振り返る。

 

「何してるの。食べに行くんでしょ」

 

「あ、うん」

 

 三輪は小走りで追いついた。

 

     *

 

 勝ったことは、昨晩のうちに京都校の生徒たちへ伝わっていた。

 

 歌姫が、正式な手合わせの結果として知らせたのだという。

 

 詳しい内容と記録は、別に扱う。

 

 噂だけが先に広がって、本人へ確かめに来る者が増えないように、と説明された。

 

 そのはずだったが、朝の廊下で三輪を見かけた補助監督は、いつもより深く会釈をした。

 

 三輪も慌てて頭を下げる。

 

 顔を上げたときには、相手はもう歩き去っていた。

 

 教室の入口で、三輪は一度、自分の服を見た。

 

 上着は着てきた。少し冷たいが、見た目には問題ない。

 

「何してる」

 

 メカ丸が、席から声をかけた。

 

「ううん。何でもない」

 

 鞄を置く。

 

 椅子を引いた音が、教室に大きく響いた気がした。

 

「昨日は、返事ありがとう」

 

「連絡しろと言ったのは、俺だ」

 

「うん」

 

 メカ丸は三輪の顔を見てから、机の上の用紙へ視線を戻した。

 

 真依は窓側で、教科書を開いている。

 

 三輪も筆箱を出した。

 

 机。教科書。午前の授業。

 

 昨日と違うものは、特にない。

 

 そう思っていたところへ、教室の扉が開いた。

 

「三輪」

 

 加茂だった。

 

 三輪は背筋を伸ばす。

 

「はい」

 

「手合わせの件は聞いた。見事だったそうだな」

 

「ありがとうございます」

 

「詳しく聞きたいところだが、今は授業前だ。日を改める」

 

 言葉を選んでいるのが分かった。

 

 加茂は以前から丁寧な先輩だった。それでも、今日は何か一つ、確かめながら話しているように見えた。

 

「あの、私なら、放課後でも……」

 

 言いかけたところで、その背後から大きな声がした。

 

「三輪! 次は俺とやれ!」

 

「東堂」

 

 加茂が顔をしかめる。

 

「ここで日程を決めるな。本人にも予定がある」

 

「なら予定を聞けばいいだろう」

 

 東堂が、加茂の横からこちらを見る。

 

 三輪は口を開けかけた。

 

「手合わせしたいなら、私を通しなさい」

 

 歌姫の声が廊下から飛んできた。

 

「それから、授業が始まるわよ。二年生は自分の教室へ」

 

 東堂は不服そうだったが、加茂に促されて離れていった。

 

 歌姫は教卓へ用意した資料を置き、三輪を見る。

 

「昨日のことで、何か頼まれたり、困ったりしたら、すぐ言ってね」

 

「はい」

 

「返事をする前でもいいから」

 

 三輪は、もう一度頷いた。

 

 席へ座ると、真依が小さく言った。

 

「早速、返事しかけてたじゃない」

 

「……聞きたいって言われたから」

 

「全部、今日じゃなくていいでしょ」

 

 それは、そうだった。

 

 三輪は開きかけていた手帳を、鞄へ戻した。

 

     *

 

 五条が京都を発つ前、歌姫は彼を一度、別室へ呼んでいた。

 

 机には手合わせの記録と、三輪の今後の予定が並んでいる。

 

「この結果で、任務を全部彼女へ回すようなことはさせません」

 

「うん。そこは同意」

 

 五条は椅子の背へもたれた。

 

「僕より強いなら僕の分も、ってやられたら、確認した意味がなくなる」

 

「あなたが言うと、冗談に聞こえるのよ」

 

「今日は本気」

 

 歌姫は資料の一枚を指で押さえた。

 

「強いのは分かった。それでも、一人で二か所には行けない。現場の情報を集める人も、避難を進める人も必要。今までと同じよ」

 

「そうだね」

 

「等級の話も別。手続きの途中で、勝手な肩書をつけられると困るわ」

 

 五条が頷く。

 

「結果は消さない。でも、それを口実に、授業を削ったり、所属を動かしたりする話には乗らない。僕からも言っておく」

 

 歌姫は、そこでようやく椅子へ座った。

 

 五条は机の上の記録を見る。

 

 あの小さな歩幅。

 

 自分が次の手を選ぶたび、その選択に必要な場所へ置かれた刀。

 

「……負けて、ずいぶん機嫌がいいのね」

 

 歌姫が言った。

 

 五条は顔を上げた。

 

「悔しくないわけじゃないよ」

 

「そうは見えなかったけど」

 

「あそこで腕を伸ばしたの、もう一回考え直してる」

 

 軽い口調だったが、嘘ではなかった。

 

 歌姫は少し黙り、五条の右袖を見た。

 

 切れた箇所は、そのままになっていた。

 

「それでも、嬉しいんだ」

 

 五条が続けた。

 

「強い子がいて、自分で考えて、ちゃんと止まれる。そういう子が育ってるのは、いいことでしょう」

 

 歌姫は記録を閉じた。

 

「だったら、育つ時間も守りなさい」

 

「分かってる」

 

「今の返事、忘れないでよ」

 

 五条は今度、はいはいとは言わなかった。

 

     *

 

 昼休み、西宮が食堂で三輪を見つけた。

 

「隣、いい?」

 

「はい。どうぞ」

 

 西宮は盆を置いて座ると、三輪の顔を覗いた。

 

「眠れた?」

 

「はい」

 

「ご飯も食べてるね」

 

「……昨日から、それをよく聞かれます」

 

「そりゃ聞くでしょ」

 

 西宮は箸を持った。

 

「五条悟に勝った子を、どう扱えばいいのか、みんなちょっと分かんなくなってるんだよ」

 

 三輪は茶碗を見た。

 

「私は、別に……」

 

「変わってないんだよね」

 

 先に言われて、顔を上げる。

 

 西宮は味噌汁の椀を引き寄せた。

 

「でも、周りは昨日初めて知ったことがあるから。そこは少し、待ってあげて」

 

「はい」

 

「それと、嫌なことまで待たなくていいからね」

 

 三輪は少し考えてから、頷いた。

 

 昨日まで知られていなかっただけで、自分の刀が急に変わったわけではない。

 

 それでも、知った側には、その人なりの驚きがある。

 

 そう考えると、朝の会釈を、何度も思い返さなくて済んだ。

 

 西宮が三輪の盆を見た。

 

「それ、足りる?」

 

「今日は、もう少し食べられそうです」

 

「じゃ、おかわりしてきなよ」

 

 三輪は茶碗を持って立ち上がった。

 

     *

 

 放課後、記録の一部を見る許可が出た。

 

 教員が管理する端末で、校内に限る。複製や持ち出しはしない。

 

 歌姫の確認を受け、三輪はメカ丸と隣り合って座った。

 

 画面の中で、自分が刀を抜く。

 

 少し離れた位置から見ると、五条との身長差が思っていたより大きかった。

 

 メカ丸が再生を止めた。

 

「ここ」

 

「うん?」

 

「なぜ、踏み込む幅を変えた」

 

 最初の数歩だった。

 

 三輪は画面を覗く。

 

「このまま行くと、左手の正面に入るから」

 

「それは、最初から分かっていたはずだ」

 

「うん。でも、私が少し外へ動いたら、手が上がったでしょう。そこでもう一度、変えたの」

 

 メカ丸が、少し前まで戻す。

 

 二人でもう一度見る。

 

「……足を見てから、手を出している」

 

「そう。だから、踏み切る前なら間に合う」

 

「簡単に言うな」

 

 三輪は笑った。

 

「ごめん」

 

「謝れとは言っていない」

 

 再生が進む。

 

 五条の拳を流した場面で、今度は三輪が止めてもらった。

 

「あ、ここ、見たかった」

 

「受けたところか」

 

「うん。もう少し、足を動かせたかなと思って」

 

 メカ丸は画面へ向いたまま、答えなかった。

 

 数秒進める。戻す。

 

「先に動けば、反対を取られるんじゃないか」

 

「そうなんだよね」

 

「なら、ここで受けた判断自体は、間違いではない」

 

「腕の角度は?」

 

「それは俺より、日下部先生に聞け」

 

「……うん。そうする」

 

 三輪は手帳へ短く書いた。

 

 メカ丸は答えられるところと、答えられないところを分けて話した。

 

 それが、とても話しやすかった。

 

 勝ったことを、なかったことにはしない。

 

 けれど、何を言っても正しい人のようにも扱わない。

 

「何だ」

 

 見ていたことに気づかれ、三輪は手帳へ目を戻した。

 

「ううん。一緒に見られてよかったなって」

 

 メカ丸の指が、端末の横で止まる。

 

「まだ途中だぞ」

 

「うん。続き、お願い」

 

 画面の中の自分が、土を蹴って動き出した。

 

     *

 

 夏油傑のもとへ届いた話には、映像も、正式な記録もついていなかった。

 

 京都の一年生。

 

 刀を使う少女。

 

 以前から不自然に短い任務報告がある。

 

 そして今回、五条悟との手合わせに勝ったという。

 

「確認は?」

 

 夏油が尋ねると、報告に来た男は首を振った。

 

「記録を見た者には、まだ接触できていません。学校の中では、結果が伝えられているようですが」

 

「なら、勝ち方は分からないわけだ」

 

「はい」

 

 夏油は手元の紙へ目を落とした。

 

 三輪霞。

 

 名前の下に書かれた等級と、今聞いた相手の名前は、釣り合っていない。

 

 だからといって、噂だと切り捨てる気にはなれなかった。

 

 悟が、自分の負けという話を、ただの気遣いで学校へ流すだろうか。

 

 少なくとも、彼を相手に勝負の形を作れる者が京都にいる。

 

「京都の配分を、もう一度見よう」

 

「増やしますか」

 

「数だけ増やしても、同じ場所へ集めれば処理される。配置からだ」

 

 夏油は紙を伏せた。

 

 悟をどこへ向かわせるか。

 

 それだけでは、足りなくなっているかもしれない。

 

     *

 

 記録の確認を終えると、外はもう暗くなっていた。

 

 三輪は端末を返し、メカ丸と教室へ戻った。

 

 真依が机に向かっている。

 

「まだいたんだ」

 

「あんたたちこそ、長かったわね」

 

「途中で、何回も止めたから」

 

 三輪は自分の席から教科書を取った。

 

 机の上に、折った紙が置かれている。

 

 開くと、午前の授業で配られた課題だった。

 

「それ、次まで」

 

 真依が言った。

 

「先生が、忘れないように置いていった」

 

「……あ」

 

 鞄へ入れたつもりで、入れていなかったらしい。

 

 三輪は提出日を確かめた。

 

 先ほどまで書いていた剣の記録の隣に、締め切りを書き足す。

 

「五条悟に勝っても、それはなくならないのね」

 

 真依が言った。

 

「なくなっても、困ると思う」

 

「真面目」

 

「でも、少し減ったら嬉しい」

 

 真依の口元が、わずかに緩んだ。

 

 メカ丸が、向かいの椅子を引く。

 

「飯までなら、まだ時間がある」

 

「今、やるの?」

 

「明日に回したいのか」

 

 三輪は課題と時計を見比べた。

 

 それから、筆箱を出した。

 

「……最初の二問だけ」

 

「分からなかったら、そこで止まるなよ」

 

 真依が自分の答案を、少しだけ遠ざけた。

 

「見せないからね」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

 三輪は笑い、椅子へ座った。

 

 鞄の横には、刀袋が立てかけてある。

 

 今日はもう、抜かない。

 

 手帳を閉じて、教科書を開く。

 

 分からないところを聞ける相手が、同じ机にいた。

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