制服の袖は、少し湿っていた。
三輪は窓際へ吊るした上着を持ち上げ、指で布を挟んだ。
汚れは落ちた。
けれど、昨晩洗った時間が遅かったらしい。袖口の厚いところだけ、まだ乾き切っていない。
時計を見る。
着ていれば乾く、と言うには、少し冷たかった。
「……先に、ご飯にしよう」
上着を戻し、部屋を出る。
階段を下りたところで、真依に会った。
こちらを見る目が、一瞬、止まった。
「おはよう」
「……おはよ」
「今日、午前は座学だよね」
「そうだけど」
「よかった。まだ上着が乾いてなくて」
真依は三輪の腕へ目を落とした。
白いシャツには、昨日の土も、裂けたところもない。
「あんた、自分で洗ったの」
「うん。置いておくと落ちなくなりそうだったから」
「……そう」
それきり、少し黙った。
三輪は、真依が先へ歩き出すのを待った。
いつもなら、もう、どうでもよさそうな顔で行ってしまう。
「怪我、本当にないわけ?」
真依が言った。
「うん。家入先生にも診てもらった」
「ならいいけど」
真依は三輪の横を通り、食堂の方へ向かった。
二歩ほど進んでから、振り返る。
「何してるの。食べに行くんでしょ」
「あ、うん」
三輪は小走りで追いついた。
*
勝ったことは、昨晩のうちに京都校の生徒たちへ伝わっていた。
歌姫が、正式な手合わせの結果として知らせたのだという。
詳しい内容と記録は、別に扱う。
噂だけが先に広がって、本人へ確かめに来る者が増えないように、と説明された。
そのはずだったが、朝の廊下で三輪を見かけた補助監督は、いつもより深く会釈をした。
三輪も慌てて頭を下げる。
顔を上げたときには、相手はもう歩き去っていた。
教室の入口で、三輪は一度、自分の服を見た。
上着は着てきた。少し冷たいが、見た目には問題ない。
「何してる」
メカ丸が、席から声をかけた。
「ううん。何でもない」
鞄を置く。
椅子を引いた音が、教室に大きく響いた気がした。
「昨日は、返事ありがとう」
「連絡しろと言ったのは、俺だ」
「うん」
メカ丸は三輪の顔を見てから、机の上の用紙へ視線を戻した。
真依は窓側で、教科書を開いている。
三輪も筆箱を出した。
机。教科書。午前の授業。
昨日と違うものは、特にない。
そう思っていたところへ、教室の扉が開いた。
「三輪」
加茂だった。
三輪は背筋を伸ばす。
「はい」
「手合わせの件は聞いた。見事だったそうだな」
「ありがとうございます」
「詳しく聞きたいところだが、今は授業前だ。日を改める」
言葉を選んでいるのが分かった。
加茂は以前から丁寧な先輩だった。それでも、今日は何か一つ、確かめながら話しているように見えた。
「あの、私なら、放課後でも……」
言いかけたところで、その背後から大きな声がした。
「三輪! 次は俺とやれ!」
「東堂」
加茂が顔をしかめる。
「ここで日程を決めるな。本人にも予定がある」
「なら予定を聞けばいいだろう」
東堂が、加茂の横からこちらを見る。
三輪は口を開けかけた。
「手合わせしたいなら、私を通しなさい」
歌姫の声が廊下から飛んできた。
「それから、授業が始まるわよ。二年生は自分の教室へ」
東堂は不服そうだったが、加茂に促されて離れていった。
歌姫は教卓へ用意した資料を置き、三輪を見る。
「昨日のことで、何か頼まれたり、困ったりしたら、すぐ言ってね」
「はい」
「返事をする前でもいいから」
三輪は、もう一度頷いた。
席へ座ると、真依が小さく言った。
「早速、返事しかけてたじゃない」
「……聞きたいって言われたから」
「全部、今日じゃなくていいでしょ」
それは、そうだった。
三輪は開きかけていた手帳を、鞄へ戻した。
*
五条が京都を発つ前、歌姫は彼を一度、別室へ呼んでいた。
机には手合わせの記録と、三輪の今後の予定が並んでいる。
「この結果で、任務を全部彼女へ回すようなことはさせません」
「うん。そこは同意」
五条は椅子の背へもたれた。
「僕より強いなら僕の分も、ってやられたら、確認した意味がなくなる」
「あなたが言うと、冗談に聞こえるのよ」
「今日は本気」
歌姫は資料の一枚を指で押さえた。
「強いのは分かった。それでも、一人で二か所には行けない。現場の情報を集める人も、避難を進める人も必要。今までと同じよ」
「そうだね」
「等級の話も別。手続きの途中で、勝手な肩書をつけられると困るわ」
五条が頷く。
「結果は消さない。でも、それを口実に、授業を削ったり、所属を動かしたりする話には乗らない。僕からも言っておく」
歌姫は、そこでようやく椅子へ座った。
五条は机の上の記録を見る。
あの小さな歩幅。
自分が次の手を選ぶたび、その選択に必要な場所へ置かれた刀。
「……負けて、ずいぶん機嫌がいいのね」
歌姫が言った。
五条は顔を上げた。
「悔しくないわけじゃないよ」
「そうは見えなかったけど」
「あそこで腕を伸ばしたの、もう一回考え直してる」
軽い口調だったが、嘘ではなかった。
歌姫は少し黙り、五条の右袖を見た。
切れた箇所は、そのままになっていた。
「それでも、嬉しいんだ」
五条が続けた。
「強い子がいて、自分で考えて、ちゃんと止まれる。そういう子が育ってるのは、いいことでしょう」
歌姫は記録を閉じた。
「だったら、育つ時間も守りなさい」
「分かってる」
「今の返事、忘れないでよ」
五条は今度、はいはいとは言わなかった。
*
昼休み、西宮が食堂で三輪を見つけた。
「隣、いい?」
「はい。どうぞ」
西宮は盆を置いて座ると、三輪の顔を覗いた。
「眠れた?」
「はい」
「ご飯も食べてるね」
「……昨日から、それをよく聞かれます」
「そりゃ聞くでしょ」
西宮は箸を持った。
「五条悟に勝った子を、どう扱えばいいのか、みんなちょっと分かんなくなってるんだよ」
三輪は茶碗を見た。
「私は、別に……」
「変わってないんだよね」
先に言われて、顔を上げる。
西宮は味噌汁の椀を引き寄せた。
「でも、周りは昨日初めて知ったことがあるから。そこは少し、待ってあげて」
「はい」
「それと、嫌なことまで待たなくていいからね」
三輪は少し考えてから、頷いた。
昨日まで知られていなかっただけで、自分の刀が急に変わったわけではない。
それでも、知った側には、その人なりの驚きがある。
そう考えると、朝の会釈を、何度も思い返さなくて済んだ。
西宮が三輪の盆を見た。
「それ、足りる?」
「今日は、もう少し食べられそうです」
「じゃ、おかわりしてきなよ」
三輪は茶碗を持って立ち上がった。
*
放課後、記録の一部を見る許可が出た。
教員が管理する端末で、校内に限る。複製や持ち出しはしない。
歌姫の確認を受け、三輪はメカ丸と隣り合って座った。
画面の中で、自分が刀を抜く。
少し離れた位置から見ると、五条との身長差が思っていたより大きかった。
メカ丸が再生を止めた。
「ここ」
「うん?」
「なぜ、踏み込む幅を変えた」
最初の数歩だった。
三輪は画面を覗く。
「このまま行くと、左手の正面に入るから」
「それは、最初から分かっていたはずだ」
「うん。でも、私が少し外へ動いたら、手が上がったでしょう。そこでもう一度、変えたの」
メカ丸が、少し前まで戻す。
二人でもう一度見る。
「……足を見てから、手を出している」
「そう。だから、踏み切る前なら間に合う」
「簡単に言うな」
三輪は笑った。
「ごめん」
「謝れとは言っていない」
再生が進む。
五条の拳を流した場面で、今度は三輪が止めてもらった。
「あ、ここ、見たかった」
「受けたところか」
「うん。もう少し、足を動かせたかなと思って」
メカ丸は画面へ向いたまま、答えなかった。
数秒進める。戻す。
「先に動けば、反対を取られるんじゃないか」
「そうなんだよね」
「なら、ここで受けた判断自体は、間違いではない」
「腕の角度は?」
「それは俺より、日下部先生に聞け」
「……うん。そうする」
三輪は手帳へ短く書いた。
メカ丸は答えられるところと、答えられないところを分けて話した。
それが、とても話しやすかった。
勝ったことを、なかったことにはしない。
けれど、何を言っても正しい人のようにも扱わない。
「何だ」
見ていたことに気づかれ、三輪は手帳へ目を戻した。
「ううん。一緒に見られてよかったなって」
メカ丸の指が、端末の横で止まる。
「まだ途中だぞ」
「うん。続き、お願い」
画面の中の自分が、土を蹴って動き出した。
*
夏油傑のもとへ届いた話には、映像も、正式な記録もついていなかった。
京都の一年生。
刀を使う少女。
以前から不自然に短い任務報告がある。
そして今回、五条悟との手合わせに勝ったという。
「確認は?」
夏油が尋ねると、報告に来た男は首を振った。
「記録を見た者には、まだ接触できていません。学校の中では、結果が伝えられているようですが」
「なら、勝ち方は分からないわけだ」
「はい」
夏油は手元の紙へ目を落とした。
三輪霞。
名前の下に書かれた等級と、今聞いた相手の名前は、釣り合っていない。
だからといって、噂だと切り捨てる気にはなれなかった。
悟が、自分の負けという話を、ただの気遣いで学校へ流すだろうか。
少なくとも、彼を相手に勝負の形を作れる者が京都にいる。
「京都の配分を、もう一度見よう」
「増やしますか」
「数だけ増やしても、同じ場所へ集めれば処理される。配置からだ」
夏油は紙を伏せた。
悟をどこへ向かわせるか。
それだけでは、足りなくなっているかもしれない。
*
記録の確認を終えると、外はもう暗くなっていた。
三輪は端末を返し、メカ丸と教室へ戻った。
真依が机に向かっている。
「まだいたんだ」
「あんたたちこそ、長かったわね」
「途中で、何回も止めたから」
三輪は自分の席から教科書を取った。
机の上に、折った紙が置かれている。
開くと、午前の授業で配られた課題だった。
「それ、次まで」
真依が言った。
「先生が、忘れないように置いていった」
「……あ」
鞄へ入れたつもりで、入れていなかったらしい。
三輪は提出日を確かめた。
先ほどまで書いていた剣の記録の隣に、締め切りを書き足す。
「五条悟に勝っても、それはなくならないのね」
真依が言った。
「なくなっても、困ると思う」
「真面目」
「でも、少し減ったら嬉しい」
真依の口元が、わずかに緩んだ。
メカ丸が、向かいの椅子を引く。
「飯までなら、まだ時間がある」
「今、やるの?」
「明日に回したいのか」
三輪は課題と時計を見比べた。
それから、筆箱を出した。
「……最初の二問だけ」
「分からなかったら、そこで止まるなよ」
真依が自分の答案を、少しだけ遠ざけた。
「見せないからね」
「まだ何も言ってないよ」
三輪は笑い、椅子へ座った。
鞄の横には、刀袋が立てかけてある。
今日はもう、抜かない。
手帳を閉じて、教科書を開く。
分からないところを聞ける相手が、同じ机にいた。