扉の奥には、もう一人いた。
年配の女性が振り返って声をかけると、店の奥から、杖をついた男性が出てきた。
「すみません。脚が悪いもので」
「急がなくて大丈夫です。段差だけ、気をつけてください」
三輪は戸口の破片を靴で端へ寄せた。
先ほどまで、ここを走って通った。
扉が開かなければ、中に人がいると分からなかったかもしれない。
「ずっと、こちらに?」
「ええ。外へ出るなって聞こえたものですから」
女性は三輪の刀へ目を落とし、それから、すぐに顔へ戻した。
三輪は店の名前と人数を通信で伝えた。
返ってきた案内に従い、二人を大通りの手前まで連れていく。
そこには、藤村がいた。
「こちらでお預かりします」
「お願いします。奥の通路は、これから確認します」
男性が、頭を下げかけた。
杖が少し浮き、女性がその肘を支える。
「そのままで、大丈夫です」
三輪も小さく頭を下げた。
二人がゆっくり離れていくのを見てから、店の並ぶ通路へ向き直る。
次の扉は閉まっていた。
三輪は、今度は足を止めて叩いた。
*
最後に抜いたのは、倉庫の天井裏へ逃げ込んでいた呪霊を祓うためだった。
棚の向こうへ下がってもらい、梁へ届く位置から一度だけ跳ぶ。
刃が通る。
降りてきたときには、もう、棚を揺らしていた音は消えていた。
三輪は周囲を確かめ、刀を納めた。
鍔が鞘へ触れる音が、思っていたより大きく聞こえた。
『三輪、そちらの確認が終わったら交代です。集合地点へ戻って』
「はい。倉庫内に二人。お怪我はありません。出口までご案内してから戻ります」
歌姫が了承する。
倉庫の男性は何度も礼を言いながら、床へ落ちた商品を拾いかけた。
「あの、お荷物は、あとで。まず、ご一緒に」
「ああ……そうですね」
男性は手を引っ込めた。
割れた箱を見つめる、その横顔を覚えた。
呪霊がいなくなっても、元どおりにはならないものが、通りのあちこちに残っていた。
*
集合地点の一角に、長机が出ていた。
戻った者が名前を伝え、怪我の有無を聞かれている。
三輪も自分の名前を言い、診てもらってから、通行の邪魔にならない場所へ下がった。
指先が少し冷たい。
手袋を外して、両手を擦る。
「ほら」
真依が、温かい缶を差し出した。
「ありがとうございます」
「何で敬語なの」
「……あ。ありがとう」
三輪は受け取り、両手で包んだ。
真依は隣へ座ると、自分の缶を開けた。
しばらく、二人とも話さなかった。
少し先では、家族と連絡の取れない人が、補助監督へ何かを説明していた。
同じ名前を、何度も繰り返している。
三輪が腰を浮かせると、真依もそちらを見た。
「今、聞いてるでしょ」
「うん」
「同じこと、二回言わせることになるわよ」
三輪は座り直した。
助けが必要なのは分かる。
けれど、刀を持って近づけばいいわけではなかった。
やがて補助監督が別の用紙を持って戻り、その人を机の向こうへ案内した。
三輪はそこまで見てから、缶を開けた。
甘い匂いがした。
「……甘い」
「飲む前から分かるでしょ」
「でも、おいしい」
真依は返事をせず、自分の缶へ口をつけた。
*
東京からの知らせは、いくつかに分かれて届いた。
新宿側の戦闘が収束へ向かっていること。
東京校でも戦闘が起きたこと。
乙骨たちには生存の確認が取れており、負傷者の治療が行われていること。
三輪は、最後の説明で顔を上げた。
白い制服。
刀の握りを確かめながら話した、控えめな声。
真希も、狗巻も、パンダも、あの学校にいる。
「詳しいことは、確認が済んでから伝えます」
歌姫は資料を閉じた。
「皆の担当区域も、まだ確認が続いてる。今分かっていることだけを、報告書へ残してね」
三輪は頷いた。
自分が見た範囲と、人から聞いたことを、分けて書く。
何度も直された書き方だった。
膝の上で用紙を広げる。
駐車場の六人は、全員が搬送先か避難先へ移ったと、すでに連絡を受けていた。
最後に案内した倉庫の二人も、確認が取れている。
一つずつ書いていく。
途中で、名前を知らない人が何人もいることに気づいた。
子供の手を引いていた人。
足を痛めていた女性を支えた人。
助けたときの顔は覚えているのに、名前は知らなかった。
三輪は、引き継いだ場所をできるだけ正確に書いた。
*
高専へ戻った頃には、日付が変わっていた。
歌姫に報告書を渡し、刀の状態を確かめる。
手入れを済ませて顔を上げると、廊下の先から小さな金属音が聞こえた。
メカ丸が、肩の傷を確かめていた。
「そこ、自分で直せるの?」
三輪が声をかけると、彼は顔を向けた。
「表面だけだ。中は明日見る」
「そっか」
「お前も、もう休め」
「うん。その前に、お礼だけ」
メカ丸の手が止まった。
「駐車場で、外を見ててくれて、ありがとう。中の人、全員出られたって」
「聞いた」
「うん」
そこで話は終わるはずだった。
けれど、メカ丸は工具を置いた。
「……六人だったな」
「うん。上にいたのは、六人」
「見落としていなくて、よかった」
三輪は彼を見た。
入口で伝えられた人数。
その数字を、彼もずっと覚えていたのだと分かった。
「ほかの階も、確認してもらったよ」
「そうか」
メカ丸はもう一度だけ頷いた。
三輪は壁際へ寄り、刀袋を持ち直した。
「今日ね、最後の方、お店に残ってた人を案内したんだけど」
「ああ」
「私、走ってるとき、そこの扉、見てなかった」
黙って聞いている気配があった。
「外からは分からなかった。開けてもらって、初めて、中に人がいるって分かったの」
「だから、確認して回ったんだろう」
「うん」
「なら、次もそうすればいい」
三輪は目を伏せ、少し息を吐いた。
「……うん。そうする」
答えは短かった。
短く言ってもらえて、助かった。
メカ丸が、こちらを見る。
「怪我はないんだな」
「さっき、診てもらった。大丈夫」
「分かった」
それを聞いてから、彼は工具をしまい始めた。
三輪も刀袋を肩へかけた。
「おやすみ」
「ああ」
*
足音が廊下から消えても、与幸吉はしばらく、傀儡の視界を切らなかった。
誰もいない廊下。
遠くで閉まる扉の音。
自分のいる部屋には、夜明けを知らせる窓もなかった。
身体の置き方を少し変えるだけで、痛みが走る。
彼は息を止め、収まるのを待った。
傀儡の肩の傷は、自分の傷ではない。
あの場所で三輪の顔を見て話しても、自分がそこへ立っていたことにはならない。
それでも、声は聞けた。
人数を告げたときの返事も、戻ってきてからの礼も。
無事だと言う、その声も。
直接見て確かめられる日が、いつか来るだろうか。
幸吉は、閉じた扉へカメラを向けたまま、もう一度、さっきの会話を思い返した。
*
夏油傑の死亡が伝えられたのは、そのあとだった。
三輪は教室で、歌姫の説明を聞いた。
百鬼夜行を起こした呪詛師は死亡した。
協力した者の一部は拘束され、一部は逃走している。残る呪霊と被害の確認も続く。
それ以上の詳しい経緯は、まだ知らされなかった。
三輪も、どう倒されたのかを尋ねなかった。
東京校での戦闘。
負傷した生徒たち。
そして、死んだ人の名前。
順番に聞いても、頭の中で、まだ一つの出来事にならなかった。
「五条先生は」
気づくと、口に出していた。
「ご無事なんですよね」
「ええ」
歌姫が答えた。
三輪は頷いた。
携帯電話には、あのとき撮ってもらった写真が入っている。
連絡先を開きかけて、やめた。
何と送ればいいのか、まだ言葉が見つからなかった。
*
京都の学生たちが知ったのは、そこまでだった。
夏油傑の遺体が、誰の手を経て、どこへ運ばれたのか。
通常の処理から外れたその行方を、三輪が知る機会はなかった。
やがて、その肉体が再び目を開けたとき、額には縫合の跡があった。
身体を動かす者は、もう、夏油傑ではなかった。
指を曲げる。
掌へ集まる呪力と、そこへ刻まれた術式の感触を、ゆっくりと確かめる。
羂索は、まだ誰もその名を呼ばない場所で、借りた身体を起こした。
*
帰省の日が決まるまで、さらに数日かかった。
追加の聞き取りと、担当区域の確認。
三輪の分が終わると、歌姫は改めて休暇の用紙を返した。
「家へ連絡して。移動の予定が決まったら、こちらにも知らせてね」
「はい。ありがとうございます」
部屋へ戻り、帰省用の鞄を棚から下ろす。
菓子の箱は、そのまま入っていた。
賞味期限を見てから、服を詰め直す。
今度は、出発の日付が決まっている。
携帯電話を開くと、家から短い返事が来ていた。
『駅まで行く』
そのあとに、弟のものらしい文字で、何時、と続いている。
三輪は時刻を打ち、少し考えてから付け足した。
『お土産もあるよ』
*
改札の向こうで、弟が先に気づいた。
手を上げ、何か言いながら母の袖を引く。
三輪は鞄を持ち直して、そちらへ歩いた。
「ただいま」
「遅い」
弟はそう言いながら、鞄の持ち手を取ろうとした。
「こっちは重いから、こっちお願い」
小さい方の袋を渡す。
下の弟が、中身を覗こうと背伸びをした。
母が、帰ってから、と止める。
いつもの声だった。
家へ着くと、玄関には出しっぱなしの靴があり、部屋の机には、約束どおり、いろいろな物が並んでいた。
「これ、前のと違うんだよ」
「待って。上着だけ脱がせて」
「先にこっち」
「順番にしてってば」
三輪は笑いながら鞄を置いた。
刀袋は人の通らない場所へ寄せ、菓子の箱を母へ渡す。
それから、机の前へ座った。
「写真、撮ってもいい?」
「何で?」
「学校の友達にも、見せる約束したから」
弟は少し考え、机の上の物を並べ替え始めた。
「じゃあ、こっちから」
「うん」
三輪は携帯電話を構えた。
画面の端に、自分の指が入っている。
直して、もう一度。
ちゃんと見えるように撮ってから、メカ丸へ送った。
『帰ったよ。これから説明してもらうところ』
送信を終えるより先に、弟が話し始めた。
三輪は携帯電話を置き、その声へ顔を向けた。
今度は、急いで聞かなくてよかった。