翌朝、三輪は目覚ましが鳴る少し前に起きた。
知らない天井を見上げて、一度だけ瞬きをする。
そうだった。寮に来たのだった。
家のように、隣で弟が布団を蹴飛ばす音もしない。もう一度寝てしまいそうで、三輪は身体を起こした。
机の上には、昨日もらった学校の案内が置いてある。
今日の予定は、午前が授業、午後が実技。
昨日の続きで、今度は先輩たちも一緒になるらしい。
まずは名前を間違えないようにしよう。
三輪は着替えながら、昨夜、歌姫から教わった三人の名字を頭の中で繰り返した。
*
午前の授業が終わるころには、手帳に新しい言葉がいくつも増えていた。
呪霊の等級。帳。補助監督。
聞いたことのある言葉も、説明を受けると、思っていた意味と少しずつ違う。
「……覚えること、多いね」
教室を出ながら言うと、真依が横目で三輪を見た。
「入ったばっかりなんだから、当たり前でしょ」
「うん。でも、もっとこう、実技が多いのかと」
「その実技が午後にあるんじゃない」
そのとおりだった。
三輪は鞄の中へ手帳を戻した。
「先輩って、どんな人たちなんだろう」
「会えば分かるわよ」
真依はそう言ってから、廊下の先へ視線を向けた。
小柄な、金髪の少女が歩いてくる。
片手には長い箒を持っていた。
「真依ちゃん」
少女が声をかけると、真依の表情が少し和らいだ。
「西宮先輩」
「これからお昼? 私も行く。一年、みんな一緒?」
「俺は、このあと別の確認がある」
後ろにいたメカ丸が答えた。
「そっか。じゃあ午後ね」
西宮は頷いて、三輪へ顔を向ける。
「西宮桃。二年です。あなたが三輪ちゃん?」
「はい。三輪霞です。よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくていいよ。困ったことがあったら聞いてね」
笑いかけられて、三輪はほっとした。
真依とも、もう話したことがあるらしい。二人のあとについて歩きながら、午後のことを尋ねる。
「先輩も、実技にいらっしゃるんですか?」
「うん。顔合わせも兼ねて。……東堂も来るって」
最後のところだけ、声の調子が変わった。
真依が眉を寄せる。
「昨日の話、聞いたんですか」
「らしいね」
「あの、何かあるんですか?」
三輪が二人を見比べると、西宮は少し困った顔で笑った。
「何かあったら、歌姫先生のそばにいればいいから」
ますます気になった。
*
午後の集合場所は、建物の外にある稽古場だった。
土が均され、端には稽古用の道具が置いてある。昨日の室内より、ずっと広い。
三輪は歌姫の指示で刀を所定の場所へ置き、木刀を一本選んだ。
メカ丸はすでに来ていた。その隣に、細い目をした長髪の男子生徒が立っている。
「加茂憲紀だ。二年になる」
「三輪霞です。よろしくお願いします」
真依とメカ丸も挨拶をする。
加茂は一人ずつ顔を確かめてから、三輪の木刀へ目を落とした。
「昨日、指導員と打ち合ったそうだな」
「はい。二回だけですけど」
「そうか。無理はしなくていい。今日の確認は、勝敗だけを見るものではない」
「はい」
昨日も似たことを言われた。
受け方を、もう少し見せた方がいいのだろうか。
三輪が考えていると、背後で、砂を踏む音がした。
「お前か」
低い声に振り返る。
大きな人だった。
肩幅も、腕も、制服越しで分かるほど厚い。目が合うと、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
「東堂葵だ」
「三輪霞です。よろしくお願いし――」
「どんな男が好みだ?」
「……はい?」
三輪は、頭を下げかけた姿勢で止まった。
聞き間違いではなかったらしい。東堂は返事を待っている。
先輩の、初対面の人に。
なぜ今、それを。
「えっと……優しい人、ですかね」
「それだけか」
「あ、家族を大切にしてくれる人だと、嬉しいです」
東堂が、しばらく三輪を見ていた。
何か、答え方が決まっていたのだろうか。
「東堂」
歌姫の声が飛んだ。
「挨拶が済んだら、こっちに来なさい。始める前に話があります」
東堂が三輪の前を離れる。
その背中を見送っていると、真依が隣で呟いた。
「真面目に答えなくていいのに」
「先に言ってほしかった……」
*
全員が集まると、歌姫が今日の内容を説明した。
一年生と二年生の組み合わせで、短い稽古を行う。相手の力量に合わせ、術式を使う場合は歌姫の許可を取ること。寸止めを原則とし、止めの合図には必ず従うこと。
「それから、勝手に組み合わせを変えない。東堂、聞いてる?」
「聞いています」
「三輪さんの相手は、最初は私が――」
「俺にやらせてください」
歌姫が言い終える前に、東堂が進み出た。
「昨日の指導員から聞きました。手加減されていたと」
三輪は、手元の木刀を見た。
手加減、という言い方なら、確かにそうだった。
けれど、稽古だから当然だと思っていた。
「確認のための稽古よ。あなたが満足するためじゃないわ」
「分かっています」
東堂は歌姫を見て答え、次に三輪へ向き直った。
「お前はどうだ」
「私ですか?」
「俺とやれるか」
三輪は東堂の立ち方を見た。
昨日の指導員より、ずっと強い。
身体の大きさだけではない。立っている間にも、動き出すための余計な力がどこにもなかった。
「はい。あの、木刀で大丈夫ですか? 先輩は、素手ですよね」
「問題ない」
「分かりました」
歌姫が二人を見比べる。
「まずは術式なし。どちらかが一本取ったところで止めます。いいわね」
返事をして、三輪は稽古場の中央へ出た。
西宮たちが距離を取る。歌姫が横へ回り、二人の手元を見られる位置に立った。
三輪は木刀を構えた。
東堂は、まだ両腕を下げていた。
「始め」
合図と同時に、東堂が間合いを詰めた。
速い。
右手が、木刀の柄へ伸びる。
三輪が引けば、さらに踏み込める位置。振れば、その内側へ入れる位置。
三輪は後ろへ下がらず、切っ先を小さく落とした。
東堂の手が、刀身を追って下がる。
その手首の外へ、三輪の木刀が滑った。
彼の腕を払うのではなく、肘が曲がる方向へ押しながら、自分の肩を通す。
東堂の左拳が動いた。
けれど、三輪はもう、その拳が伸びきらない場所にいた。
軸足の向きを変える。
東堂の身体を横切って、木刀を返す。
切っ先が、喉の前に止まった。
「そこまで」
歌姫の声で、二人が止まる。
三輪はすぐに木刀を引いた。
「ありがとうございました」
東堂は返事をせず、自分の手を見た。
その目が、三輪へ戻る。
「もう一本だ」
「東堂。今、一度止めると言ったでしょう」
「術式の使用を許可してください」
声は大きかったが、先ほどよりも落ち着いて聞こえた。
歌姫が三輪を見る。
「続けられる?」
「はい」
「変化があっても、無理に打ち込まなくていいからね」
三輪は頷いた。
何が変わるのかは分からない。
だから、さっきよりも、少し広く周囲を見た。
*
二本目は、東堂がゆっくり近づいてきた。
三輪の切っ先が届く、その少し外で足を止める。
大きな手が、胸の前へ上がった。
ぱん、と音がした。
目の前にいた東堂が、消えた。
代わりに見えたのは、さっきまで自分の背後にいた歌姫だった。
立っている場所が違う。
背中に、東堂の気配がある。
三輪は振り向こうとするより先に、腰を落とした。
頭のあった場所を、腕が通る。
風が髪を揺らした。
身を低くしたまま左足を引き、相手の方へ向き直る。東堂は空振りした腕を戻しながら、すでに次の一歩を踏んでいた。
三輪は、その前足の外へ出た。
木刀の柄で手首を押さえ、肩が回るのを遅らせる。
東堂が踏ん張る。重い。昨日の相手と同じようには、身体が流れない。
なら、流す必要はなかった。
押していた力を抜き、伸びてきた反対の腕を避けて、横へ抜ける。
木刀が、胴へ向かった。
東堂が両手を合わせる。
また、景色が変わった。
今度は、三輪の足は止まらなかった。
踏み出しかけていた一歩を、移った先の地面へ下ろす。身体の向きを変えながら、木刀を自分の脇へ引きつけた。
すぐそばを、東堂の拳が抜ける。
三輪の木刀は、その拳の下から上がった。
東堂が顎を引く。
切っ先は追わず、手元へ戻る。
三輪は一歩だけ距離を取った。
東堂が笑った。
「いいぞ」
両手が、もう一度動く。
音が鳴った。
景色は変わらなかった。
三輪は、東堂を見ていた。
拍手に合わせて、先に身体を回すことはしない。
東堂の目がわずかに細くなる。
次の踏み込みは、低かった。
右、左。
拳を避けた先へ、もう片方の腕が来る。大きな身体に押されれば、木刀の間合いはなくなる。
三輪は二歩、下がった。
ただし、真後ろには下がらない。
東堂が身体を向け直す、そのわずかな遅れに、切っ先を入れた。
彼の手が木刀へ伸びる。
三輪は刃筋をずらし、掴もうとした指の間を通した。
そのまま肩口へ。
東堂が避ける。
木刀は肩を追わず、低く返った。
前へ出ていた膝のすぐ上。
打てば足が止まる位置で、三輪は一度だけ相手に反応を強いた。
東堂の重心が、後ろへ移った。
両手が寄る。
三輪が、その間へ木刀の柄を差し入れた。
手は、合わさらなかった。
東堂の右腕が柄を押し退ける。
その動きに沿って、三輪の木刀が半周した。
力を込めていた腕の外側から、切っ先が戻ってくる。
東堂の左手は、まだ反対側にあった。
喉元で、木刀が止まった。
「そこまで!」
歌姫の声が響いた。
今度は、三輪も少し長く息を吐いた。
木刀を下ろす。
東堂は三輪の手元を見つめ、それから、自分の両手を見た。
「……止めに来たな」
「はい。さっき、手を合わせていたので」
「それだけで、あの間に入るか」
「危なかったですか?」
「お前に言ったんじゃない」
後ろから、加茂が言った。
三輪が振り返ると、彼は腕を組んだまま、東堂を見ていた。
「術式を見せたあとで、手を合わせるところまで押さえられた。そういう話だ」
「あ……はい」
分かっていたのは、入るための場所があったことだけだった。
手を合わせる動作と、場所が変わることに関係がある。その見当はついたが、使える相手や距離の条件までは分からない。
だから、その動作をされる前に止めた。
それができなければ、次に移った場所で動くつもりだった。
「東堂先輩の術式って、場所を入れ替えるんですか?」
尋ねると、東堂が口の端を上げた。
「不義遊戯。詳しい話は、また次だ」
そう言って、歌姫へ顔を向ける。
「もう一本――」
「今日は終わり」
歌姫の返事は早かった。
「あなたも、三輪さんも。ほかの確認があるの。勝手に続けないでね」
東堂が不満そうに息を吐いた。
それでも、中央からは退いた。
すれ違いざま、三輪へ言う。
「次は、もう少し長くやるぞ」
「はい。よろしくお願いします」
三輪は頭を下げた。
顔を上げると、西宮が何とも言えない表情をしていた。
「……三輪ちゃん、それ、気軽に約束しない方がいいかも」
「えっ」
「しつこいから」
真依が横から言った。
東堂は否定しなかった。
*
そのあとは、予定されていた基礎の確認へ戻った。
三輪は木刀を持ったまま、歌姫から呪力の配分を変えるよう指示を受けた。右腕だけ、次に左脚、最後に全身。
言われたとおりに動かすたび、歌姫が記録を取る。
真依は少し離れた的へ向かい、メカ丸は加茂と話をしていた。
全員の確認が済むころには、日が傾き始めていた。
木刀を片づける三輪へ、西宮が近づいてくる。
「怪我、してない?」
「はい。大丈夫です」
「ならよかった。何かあったら、ちゃんと言ってね」
「ありがとうございます」
西宮は、自分より背の高い三輪の顔を見上げた。
「それと、昼に話しそびれたんだけど、寮の洗濯機、一台だけ脱水が弱いの。窓側のやつ」
「そうなんですか」
「使えないわけじゃないけど、厚い服は隣ので洗った方がいいよ」
三輪は頷いてから、慌てて鞄を探った。
「ちょっと待ってください。書いておきます」
真依が、呆れたようにこちらを見る。
「それまで書くの?」
「これは紙でもらえないでしょ」
西宮が吹き出した。
「大丈夫。忘れたら、また聞いて」
三輪もつられて笑いながら、手帳に短く書き込んだ。
背後で、土を払う音がした。
メカ丸が、自分の手についた砂を落としている。
「メカ丸」
「何だ」
「さっき、場所が変わったの、見えた?」
「消えてから現れるまでを追えたわけではない。だが、お前たちの立ち位置が入れ替わったのは確認した」
「そっか。私、二回目、どっち向いてた?」
メカ丸が三輪を見る。
「自分で分からないのか」
「動いたあとは分かるんだけど、変わった瞬間が。あとで見られるなら、見ておきたくて」
「……記録はある。先生に確認してからでよければ、見せられる」
「ありがとう。お願いします」
三輪は手帳を閉じた。
新しく知ることは、まだまだありそうだった。
*
稽古の記録を持って、歌姫が学長室を訪れたのは、その日の夕方だった。
京都校の学長、楽巌寺嘉伸は、机の上に置かれた用紙へ目を落とした。
「東堂が負けたか」
「二本とも。二本目は術式の使用も許可しました」
「本人は何と」
「続きをやりたがっています」
楽巌寺は、そこで初めて顔を上げた。
「ならば、取りこぼしただけではなかろうな」
歌姫は頷いた。
東堂は、無関心な相手へ何度も手合わせを求める生徒ではない。
そして今日、彼が稽古のあとまで三輪を目で追っていたのは、彼女がどこまで動けるのか、まだ分からなかったからだろう。
「本人は、実力を隠している様子ではありません。こちらの指示に合わせて動いています。ただ――」
歌姫は一度言葉を切った。
「どこまでやらせれば、確認したことになるのか、まだ判断できません」
楽巌寺は再び用紙を見た。
指導歴の欄を、指先で押さえる。
「教えていた者に連絡を取れ」
「はい」
「稽古の記録もあるだけ揃えさせろ。入学前に、何があったのかを確認する」
歌姫は書類を揃え、学長室を出た。
廊下の窓から、寮へ続く道が見える。
三輪が真依と並んで歩いていた。
刀袋は、ほかの人にぶつからないよう、身体の内側へ寄せてある。
真依が何か言い、三輪が慌てて鞄の中を探した。
すぐに小さな物を取り出して、ほっとしたように笑う。
部屋の鍵だった。
歌姫は二人の姿が建物の陰へ消えるまで見送り、それから、職員室へ向かった。