東京校の一年生が京都へ来る日、三輪は集合時刻の二十分前に教室を出た。
遅れないように、というのもある。
けれど本当は、何を話すか、もう少し考えておきたかった。
「初めまして。京都校二年の三輪霞です」
廊下の窓に映った自分へ向かって、声を出す。
「分からないことがあったら、何でも聞いてください」
そこで少し止まる。
「何でも、は困るかな……」
京都校の設備についてなら案内できる。授業の話も、去年受けた範囲なら分かる。
ただ、東京校の授業について聞かれたら、答えられないかもしれない。
「困ったことがあったら、先生に聞いてください」
「お前に聞くんじゃないのか」
背後から声がした。
三輪は肩を跳ねさせた。
振り向くと、メカ丸がいた。
「い、いつからいたの?」
「何でも聞いてください、のあたりからだ」
「ほとんど最初からじゃん……」
メカ丸は三輪の横まで来ると、窓に映った彼女を見た。
「普通に話せばいいだろう」
「普通に話すために、考えてるの」
「矛盾していないか」
「してないよ。たぶん」
手帳を開く。
昨晩書いた挨拶の案が、三つ並んでいた。
一つ目は硬すぎる気がして、二つ目には線が引いてある。三つ目は、途中で眠くなってしまったので、最後まで書けていない。
メカ丸が手帳を覗き込む。
「そこまでする必要があるのか」
「私が一年生のとき、初めて会った先輩が優しくしてくれて、安心したから」
三輪は手帳を閉じた。
「私も、ちゃんとしたいなって」
メカ丸は少し黙った。
「なら、相手が困ってから考えても遅くない」
「……うん」
「まだ会ってもいないんだろう」
「そうなんだけど」
そのとき、遠くから歌姫の声がした。
「三輪、もう来るわよ」
「あ、はい!」
三輪は慌てて手帳を鞄にしまった。
「行ってくる」
「ああ」
数歩進んでから、振り返る。
「変じゃなかった?」
「何がだ」
「挨拶」
「初めまして、は普通だった」
「そこしか言ってないじゃん」
三輪は笑って、玄関へ向かった。
*
「おー、ここが京都校!」
最初に聞こえたのは、明るい声だった。
門の向こうから歩いてきたのは、桃色の髪の少年。大きな荷物を肩にかけ、物珍しそうに周囲を見回している。
その後ろに、黒い髪の少年と、茶色い髪の少女が続いていた。
「建物、思ったより古いわね」
「東京校だって似たようなもんだろ」
「東京は東京だからいいの」
「どういう理屈だよ」
少女が少年を軽く睨み、少年は何でもない顔をした。
五条は、その三人の後ろを歩いていた。
「歌姫、こんにちは。今日はよろしくね」
「遅い」
「時間どおりでしょ」
「連絡が遅いの。到着時刻、昨日のうちに確定できたでしょう」
「ごめんごめん」
歌姫は深く追及せず、三人へ向き直った。
「遠いところ、お疲れさま。京都校の庵歌姫です」
それから、三輪を見る。
来た。
昨晩、何度も考えたところだ。
三輪は一歩前へ出て、背筋を伸ばした。
「初めまして! 京都校二年の、三輪霞です!」
三人がこちらを見る。
「今日は、その、よろしくお願いします! 困ったことがあったら、えっと、先生に聞いてください!」
言ってから、違うと思った。
「いえ、私でも! 分かることなら!」
一瞬、静かになった。
桃色の髪の少年が、ぱっと笑った。
「初めまして! 俺、虎杖悠仁です。よろしくお願いします、三輪先輩!」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
続いて、少女が一歩前へ出る。
「釘崎野薔薇です。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
「伏黒恵です。よろしくお願いします」
「よろしく、伏黒くん」
全員に挨拶できた。
三輪は胸の中で、小さく息を吐いた。
それから、自分が虎杖の顔を少し長く見ていたことに気づき、慌てて視線を戻す。
虎杖は、思っていたより普通の少年だった。
明るくて、よく動いて、人の話を聞くときには、まっすぐ相手を見る。
宿儺の器。
その言葉を知っていても、それだけでは目の前の人がどんな人か分からない。
「三輪ちゃん、案内お願いしていい?」
五条に言われ、三輪は頷いた。
「はい。荷物を置く部屋から、ご案内します」
「俺、これ持っていけばいいっすか?」
虎杖が自分の荷物を持ち上げる。
「うん。階段があるから、気をつけてね」
「了解です!」
三輪は歩き出した。
三人の足音が、後ろからついてくる。
少しだけ緊張したけれど、挨拶はできた。
たぶん、できていたと思う。
*
実習の前に、全員で説明を受けた。
場所は、校舎から離れた演習場。外周には補助監督がつき、歌姫と五条も立ち会う。
今日行うのは、避難経路を確保しながら移動する訓練だった。
途中に置かれた目印を、人が取り残されている場所とする。参加者は位置を確認し、連絡しながら、順に安全な場所まで運ぶ。
呪霊は用いない。
代わりに、動きを制限する障害物と、教員が操作する訓練用の仕掛けが置かれている。
「何かあれば、すぐ止めるわ」
歌姫が全員を見る。
「特に、連絡が途切れたとき。自分だけで何とかしようとせず、声を出して」
「はい」
三輪たちが返事をする。
少し離れた位置で、メカ丸が通信機材を確かめていた。
「今日は俺が中継に入る。声が聞こえなければ、まず立ち止まって報告しろ」
「お、すげえ!」
虎杖がメカ丸を見た。
「ロボット?」
「傀儡だ」
「動くんだ!」
「見れば分かるだろ」
伏黒が言う。
「いや、そうだけど! 近くで見ると、やっぱ違うだろ!」
虎杖の勢いに、三輪は少し笑った。
メカ丸は慣れた様子で、三人へ予備の通信機を渡す。
「故障したら無理に使うな。位置を伝えて、交換を待て」
「分かりました」
伏黒は受け取り、すぐに耳元へつけた。
釘崎は機材を裏返して見てから、ポケットへしまう。
「地図は?」
「こっち」
三輪は用意された簡単な見取り図を広げた。
「ここが入口で、この線から外は今日使わない場所。困ったら、まず近くの先生か、メカ丸に連絡してね」
「了解です、先輩」
釘崎は地図を覗き込む。
「三輪先輩は、普段からこういう訓練してるんですか?」
「うん。いつも同じ内容じゃないけど」
「先生みたいに説明するんですね」
「えっ、ほんと?」
三輪は思わず顔を上げた。
釘崎が少し笑う。
「今のは、ちゃんとしてましたよ」
「よかった……」
「さっきは、してなかったみたいな言い方ですね」
「自分でも、ちょっとそう思ってて」
虎杖が笑い、伏黒も地図から目を上げた。
五条が遠くから手を振る。
「じゃ、準備できたら始めようか」
*
最初の目印は、入口近くの建物の中にあった。
虎杖が先に見つけ、伏黒へ位置を伝える。釘崎は周囲に別の仕掛けがないか確かめ、三輪が退路を見た。
「二人で運ぼう」
虎杖が人形を抱えようとすると、床の端から板が跳ね上がった。
「うわっ!」
虎杖は後ろへ下がる。
その背に、釘崎の声が飛んだ。
「後ろも見て!」
虎杖が振り向く前に、三輪が足元へ伸びてきた紐を刀の鞘で押さえた。
「大丈夫。踏まなければ、こっちは動かないよ」
「あ、ありがとうございます」
「焦るよね。最初、私も何が出るか分からなかったし」
虎杖が息を吐く。
床にある細い紐は、もう一本、部屋の奥へ続いていた。
伏黒がしゃがみ込む。
「これ、人形を持ち上げると引っ張られるな」
「じゃあ、先に外す?」
釘崎が尋ねる。
「それか、人形の下に手を入れて、紐を緩めたまま運ぶ」
三輪が言うと、伏黒は人形と紐の位置を見比べた。
「外す間、周りを警戒していてください。何が繋がってるか分からない」
「分かった」
三輪は入口側へ立った。
伏黒が紐を持ち上げ、釘崎が結び目を外す。虎杖は人形を支えたまま、二人の作業を待った。
結び目がほどける。
「行ける」
「じゃ、運ぶぞ」
虎杖が人形を抱えると、今度は何も動かなかった。
伏黒は床の紐を踏まないように避け、三輪の立っていた入口を通る。
「先輩、そこにいたの、後ろから何か来たときのためですか」
「うん。それと、みんなが一度に出口を通ろうとしても、ぶつからないように」
伏黒は一度、入口の幅を見た。
「なるほど」
三輪は少し嬉しくなった。
去年なら、何となくそこに立っていたとしか言えなかったかもしれない。
歌姫と真依との練習を、少し思い出した。
*
二つ目の目印は、林の中にあった。
狭い道を進み、崩れた柵を回り込んだ先。木の根元に、小さな布人形が置かれている。
「子供を想定してるのかな」
三輪が言うと、虎杖は頷いて近づいた。
そのとき、木々の間で乾いた音がした。
上から、黒い塊が落ちてくる。
呪霊ではない。布を丸めた訓練用の重りだ。
だが、虎杖の足が止まった。
三輪は落下する位置と、虎杖の肩を見る。
「右へ!」
虎杖が動く。
重りは彼の横を落ち、地面に当たって転がった。
ほぼ同時に、釘崎が後方へ回っていた。伏黒は人形の位置を確かめ、木の根元へ近づく。
三輪は周囲の仕掛けが止まったのを確認してから、虎杖へ声をかけた。
「大丈夫?」
「あ、はい。すみません」
「謝らなくていいよ。怪我してない?」
「してないです」
虎杖は重りを見た。
「さっき、ちょっと動けなくなって」
「うん」
「訓練なのに、呪霊が落ちてきたときのこと、思い出して」
笑おうとしたのかもしれない。けれど、その顔は途中で止まった。
三輪は、すぐに言葉を返さなかった。
虎杖は、つい最近まで普通の学校に通っていたと聞いている。
その彼が、呪霊と戦い、宿儺を身体に抱えている。
三輪には、彼が見てきたものを全部は分からない。
「怖かった?」
尋ねると、虎杖は少し驚いたように目を上げた。
「……はい」
「そっか」
三輪は重りの落ちた場所を見た。
「怖いのは、普通だと思うよ」
虎杖が黙る。
「私も、任務の前に、怖いなって思うことあるから」
「三輪先輩も?」
「うん。間に合わなかったらどうしようとか、見落としがあったらどうしようとか」
百鬼夜行の夜、閉まった扉の向こうにいた二人を思い出す。
「怖くなくなるまで待てないこともあるけど、だからって、怖いと思っちゃ駄目なわけじゃないよ」
虎杖は、地面に転がった重りを見ていた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「まず、何をするか決めておく。危ないと思ったら離れるとか、声を出すとか。自分だけで分からなかったら、隣の人に聞くとか」
三輪は少し考えた。
「それでも動けないときは、誰かに助けてもらえばいいと思う」
「助けてもらう」
「うん。さっきは釘崎さんも、後ろに気づいてたよ」
釘崎がこちらを見る。
「そりゃ気づくわよ。あんた、真っ直ぐ下がろうとしてたし」
「ごめん」
「だから、謝れって言ってないでしょ。次、私が危なかったら教えなさい」
「……おう」
虎杖が頷く。
伏黒は布人形を持ち上げ、周囲を確認していた。
「こっちは大丈夫そうです。戻りましょう」
三輪は刀の鞘から手を離した。
「うん。虎杖くん、先に運べる?」
「はい」
虎杖は今度、足元と頭上を見てから、人形を受け取った。
*
休憩時間、四人は演習場の脇に並んで座った。
虎杖は用意された水を飲み、釘崎は携帯電話で近くの店を調べている。
「帰り、少し寄れるかしら」
「何の店?」
三輪が尋ねると、釘崎は画面を見せた。
「甘いもの。せっかく京都に来たんですから」
「あ、ここ、気になってた」
「先輩も行ったことないんですか?」
「うん。値段見て、今度にしようと思って」
虎杖が顔を上げた。
「先輩でも、そういうの気にするんですね」
「え?」
「いや、だって、五条先生に勝ったって聞いてたから」
三輪の手が止まった。
「聞いてたんだ」
「先生が、すごく強い先輩がいるって」
「それと、お金は別だよ」
三輪は真面目に答えた。
「任務のお金はもらえるけど、生活にも使うし、家にも送ってるから。好きなものを全部買えるわけじゃないよ」
「そっか……」
虎杖は妙に納得した顔で頷いた。
釘崎が画面へ目を戻す。
「じゃあ、予算決めて行きましょう。三人で別のもの頼んで、少しずつ分ければいいし」
「四人じゃないのか」
伏黒が言った。
「あんたも来るの?」
「別に、行くって言ってない」
「じゃ、三人ね」
「何で最初から外すんだよ」
虎杖が二人を見比べている。
三輪は、思わず笑った。
「私、授業が終わってからなら行けると思う。先生にも時間、確認してみるね」
「お願いします、先輩」
釘崎が言った。
先輩。
さっきまで少し落ち着かなかった呼び方が、今度は自然に聞こえた。
*
休憩が終わる少し前、伏黒が演習場の端に立っていた。
三輪は隣へ行き、彼の視線の先を見る。
さっき通った林と、建物の入口が見えた。
「何か気になる?」
「さっき、先輩が入口に立った位置です」
伏黒が言う。
「中の俺たちも見えて、外から来るものも確認できる。どっちかを背中にしない場所だった」
「うん。中にいる人たちが、私を避けて出られる場所でもあるから」
「前から、ああしてるんですか」
「どうだろう。人がどこにいるかで変わるけど」
三輪は入口の幅を指で示した。
「自分が強くても、見えてない場所までは分からないから。誰かが見てくれるなら、そっちはお願いする」
伏黒は少し考えてから、頷いた。
「自分も、周りを見るようにします」
「うん。でも、全部一人で見ようとしなくていいよ」
伏黒は三輪を見た。
「虎杖くんも、釘崎さんもいるから」
「……そうですね」
返事は小さかった。
それから、伏黒は少しだけ視線を落とした。
「俺には、姉がいるんです」
三輪は、続きを待った。
「今、ずっと眠ってて。病院で療養しています」
唐突な話ではあったが、三輪は驚いた顔をしないようにした。
「そうなんだ」
「呪いが関係している可能性があるって言われています。でも、まだ分からないことも多くて」
伏黒はそれ以上、詳しく話さなかった。
三輪も尋ねなかった。
自分の傷なら、反転術式で治せる。
けれど、他の人の身体を治せるわけではない。まして、原因も分からない相手に、何かを約束することはできなかった。
「話してくれて、ありがとう」
伏黒が顔を上げる。
「何か分かったとき、私にできることがあったら、教えてね」
「……はい」
遠くで虎杖が二人を呼んだ。
「先輩! 伏黒! そろそろ始まるって!」
「今行く!」
三輪が返すと、伏黒も歩き出した。
*
実習の最後に、歌姫は全員へ今日の動きを振り返らせた。
虎杖は、驚いたときに周りを見る余裕がなくなったと話した。
釘崎は、声を出したあと、自分がどこへ動くかまで伝えるべきだったと言った。
伏黒は、出口を確保する位置について質問した。
三輪は、三人の話を手帳に書いた。
「三輪は?」
歌姫に聞かれ、顔を上げる。
「私は……最初、先に説明しようとしすぎたかもしれません。みんなが気づいたことも、もっと聞けばよかったです」
「分かった。じゃあ、次はそこを意識しましょう」
五条が頷いた。
「いいね。次もまた、お願いしようかな」
「日程は確認してからよ」
「分かってるって」
歌姫と五条のやり取りに、釘崎が小さく笑った。
実習が終わると、虎杖は真っ先に三輪へ頭を下げた。
「今日はありがとうございました、先輩!」
「こちらこそ。お疲れさま」
「また一緒にやりたいです」
「うん。私も」
三輪は笑って答えた。
虎杖は、安心したように笑い返した。
その身体の中に、宿儺がいる。
危険がなくなったわけではない。今日だけで、問題の答えが出たわけでもない。
けれど、目の前の少年が、怖かったことを話し、仲間の声を聞いて、もう一度歩き出したことは知っている。
次に会ったときには、今日より少し、話せることが増えているかもしれない。
「先輩、甘いもの!」
釘崎が携帯電話を持ち上げる。
「あ、そうだった」
三輪は歌姫の方を見る。
「先生、帰る前に少しだけ、外に出てもいいですか?」
「場所と帰る時間を教えてくれたらね」
「やった!」
虎杖が喜ぶと、釘崎が彼の肩を叩いた。
「あんた、お店は私が選ぶからね」
「俺も見たいって!」
伏黒は二人の後ろで、面倒そうな顔をしながらついてきた。
三輪は三人と並んで歩き出す。
少し前を行きかけて、歩幅を緩めた。
初めて会った日だ。
先輩らしいことを、全部一度にしなくてもいい。
まずは、同じ店に入って、何を頼むか一緒に考えよう。