最初に異変に気づいたのは、西宮だった。
『ねえ、中央の建物の向こう、あそこに人は配置してないよね?』
三輪は顔を上げた。
通信機から聞こえる声は、先ほどまでと変わらない。けれど、言葉の間に、確かめるような静けさがあった。
『どこだ』
加茂が尋ねる。
『北側。木の間に、誰かいる』
演習区域の外周には、補助監督と教員が配置されている。
しかし、学生が動いている区域の内側には、立会いのために決められた者しか入らないはずだった。
『服装は?』
メカ丸が聞く。
『見えない。大きい木の陰に入った。ちょっと降りて――』
『待て』
加茂の声が、西宮を止めた。
『姿が確認できないなら、近づくな。まず先生方へ伝える』
三輪も通信機に手を添えた。
「歌姫先生、聞こえていますか」
『聞こえてる。今、そちらを確認するわ。全員、現在地から無理に動かないで』
歌姫が答える。
『東京校にも伝える。競技は一時中断よ』
次いで、五条の声がした。
『全員、近くにいる人と合流して。見知らぬ相手がいても、自分から近づかないこと』
三輪は東堂を見る。
「ここにいていいんでしょうか」
「指示があるまではな」
東堂は護衛対象の箱を足元へ置いた。
林の奥を見ている。
風が吹き、葉が揺れた。
その音に混じって、何かが地面を押し広げるような、低い軋みが聞こえた。
三輪は訓練用の刀へ手をかけた。
「東堂先輩」
「ああ」
二人が下がるより早く、地面が盛り上がった。
*
根だった。
太い木の根が、土を割りながら斜面を這い上がってくる。
三輪は東堂の肩を押し、自分も横へ跳んだ。
根が、二人の立っていた場所を貫く。
護衛対象の箱が弾かれ、斜面を転がった。
三輪は反射的に手を伸ばしかけたが、すぐにやめた。
あれは訓練用の箱だ。
今、拾いに戻るものではない。
「通信を!」
東堂の声。
三輪は端末ではなく通信機へ手を添えた。
「三輪です! 西側斜面、地面から大きな根が出ました! 訓練の仕掛けじゃありません!」
返事を待つ間にも、根は枝分かれし、周囲の木へ巻きついていく。
その向こうに、人の形をしたものが立っていた。
白い身体。
顔の位置から伸びた、枝のようなもの。
呪力が濃い。
三輪はそれを見て、訓練用の刀を抜きかけた手を止めた。
この刀では、あれを祓えない。
『全員、交流会を中止! 最寄りの教員か補助監督のいる位置へ退避!』
歌姫の声が響く。
『三輪、西側の詰所に実戦用の刀がある。受け取ってから動きなさい!』
「はい!」
実戦用の武器は、念のため演習区域の外に保管してあった。
三輪は東堂へ向く。
「先輩、詰所へ行きます」
「俺がこいつを見る。戻るなら急げ」
「一人にするのは――」
「相手が何かも分からんまま、二人でここに立っている方がまずい」
東堂は前へ出た。
「武器を取れ。俺は時間を作る」
三輪は頷き、走り出した。
背後で、重い衝撃音がした。
振り向かない。
東堂が時間を作っている間に、刀を持って戻る。
それが、自分のやるべきことだった。
*
演習区域の外周では、五条が空を見上げていた。
帳が下りている。
ただし、先ほどまでの訓練用の帳とは違う。内部の生徒と教員を隔てるように、別の結界が重なっていた。
「僕だけ、入れないようにしてるね」
五条は結界の縁へ触れた。
内側では、学生たちの通信が続いている。
歌姫は補助監督たちに避難場所を伝えながら、状況を集めていた。
『東京校二年、真希とパンダは南へ移動中。狗巻は一緒にいます』
『京都側、加茂と真依は中央の建物付近。西宮は上空から退避経路を確認中』
五条は顔を上げた。
「僕を外に置いて、その間に中で何かをするつもりか」
「壊せる?」
歌姫が尋ねる。
「もちろん。でも、壊し方を間違えると、中の生徒を巻き込む」
五条は結界の構造を見ていた。
強引に突破できないわけではない。だが、結界を支える箇所が複数あり、どこに負荷が伝わるかを確かめる必要があった。
「入口を広げる。歌姫は、生徒を南側へ集めて」
「分かった」
歌姫はすぐに通信へ戻る。
『全員、南側へ。無理に中央を横切らないで。近い場所で合流しながら移動して』
そのとき、別の補助監督が駆けてきた。
「保管施設から連絡がありません!」
歌姫が振り返る。
「警備は?」
「確認中です。外側にも異常があるかもしれません」
五条の表情が変わった。
学生たちを狙う襲撃と、保管施設。
どちらが本命かは、まだ分からない。
「こっちは僕が開ける。施設へは別の人を回して」
「もう連絡してる」
歌姫は答え、再び通信機を握った。
*
三輪が詰所へ着いたとき、藤村が刀袋を持って外へ出てきた。
「三輪さん!」
「私の刀、ありますか!」
「こちらです。近づけられないよう、中で保管していました」
三輪は刀袋を受け取る。
紐をほどき、普段の刀を腰へ差す。訓練用の刀は藤村へ渡した。
「東堂先輩が、西側で相手をしています」
「こちらにも報告が入りました。増援を向かわせます」
「ありがとうございます」
三輪は走り出しかけて、足を止めた。
「ここから南へ下がる道は、安全ですか」
「今、別の補助監督が確認しています。確保できたら通信します」
「分かりました。東堂先輩にも伝えます」
今度こそ、走る。
手には、いつもの刀の重さがある。
足を置くたび、身体がそこへ向かって整っていく。
斜面の手前で、加茂と真依に会った。
「三輪!」
真依が銃を構えたまま叫ぶ。
「奥に呪霊がいる。東堂先輩が戦ってるけど、根が広がってて近づけない!」
「南へ退ける道を確認中です。二人は先に――」
「東堂先輩を置いていけるか」
加茂が言った。
「真依と私で退路を押さえる。三輪、お前は東堂先輩へ合流しろ」
「はい」
真依が道路脇へ回り、銃口を上げる。
「根がこっちへ来たら知らせる。あんた、前を見て」
「ありがとう」
三輪は二人の間を抜けた。
*
東堂は、呪霊の正面に立っていた。
両者の足元には砕けた土と、途中で折れた根が散っている。
東堂の腕に浅い傷が見えた。
だが、立ち方は崩れていない。
「遅いぞ」
「すみません!」
三輪が答えると、東堂は口元を上げた。
「間に合った」
呪霊がこちらを向く。
その視線が、三輪の刀へ落ちた。
次の瞬間、根が左右から迫る。
三輪は足を動かした。
右の根を一太刀で切り、左から来た根の内側へ入る。
刃を返す。
切断面が開き、太い根が地面へ落ちた。
呪霊はすぐに後退した。
三輪は追う。
足元から新しい根が突き上がる。
簡易領域を小さく開き、自分の周囲へ侵入する動きを捉える。
刃を下げる。一本。
身体を半分回し、もう一本。
切った根が崩れる前に、その隙間を抜けた。
呪霊の腕が伸びる。
三輪は刀身を横にし、腕の外側を滑らせるように斬った。
肩から先が落ちる。
呪霊が距離を取ろうとする。
その進路へ、東堂が回った。
「逃がさん!」
東堂の拳が胴を打つ。
呪霊の身体が傾く。三輪はその正面から外れ、足元を斬った。
膝が折れる。
追撃しようとした瞬間、背後で銃声が鳴った。
「三輪! 左!」
真依の声。
枝に隠れていた小さな呪霊が、三輪の横へ飛びかかろうとしていた。
三輪は身体をひねる。
真依の銃弾で動きの鈍ったそれを、一太刀で祓う。
加茂の矢が、その奥の根を地面へ縫い止めた。
「退路は確保した! 南へ下がれる!」
「分かりました!」
三輪は返事をし、呪霊へ向き直った。
白い身体の呪霊は、斬られた腕を押さえながらこちらを見ていた。
強い。
呪力の量も、根を操る精度も、今まで相手にした呪霊の多くより上だ。
けれど、三輪には刀が届く。
届いたなら、止められる。
呪霊が周囲の木へ呪力を流した。
根が、三輪ではなく、斜面の下へ向かって伸びる。
真依と加茂のいる方向。
三輪は迷わず踏み込んだ。
幹を蹴り、根の上を越える。
刃を振る。
一本、二本、三本。
先頭を断たれた根は勢いを失い、斜面を削りながら止まった。
「三輪、前だ!」
東堂の声。
呪霊が口元を動かし、さらに多くの呪力を集めていた。
三輪は刀を引き、正面へ入る。
呪霊の腕が上がるより先に、その内側へ。
斬る。
腕を守ろうとして後ろへ移った身体へ、もう一歩。
肩。
胴。
呪霊の足元が崩れた。
刀を振り上げる。
次で終わらせる。
その瞬間、通信機から複数の声が重なった。
『南側に一般の職員が取り残されてる!』
『保管施設付近に侵入者!』
『東京校一年、虎杖と伏黒が――』
声が途切れ、雑音が走る。
三輪の視線が、一瞬だけ南へ動いた。
その隙を、呪霊は逃さなかった。
地面の根が一斉に持ち上がり、三輪と呪霊の間を塞ぐ。
三輪は切り進む。
一太刀で終わらないなら、二太刀。
根が何本重なっても、刀を止めるつもりはない。
だが、奥へ抜けたとき、呪霊はさらに後ろへ下がっていた。
その周囲にも、別の根が広がっている。
南側へ向かう細い道を塞ぐように。
「三輪!」
真依の声がした。
「下に人がいる! こっちからは届かない!」
三輪は呪霊を見た。
追えば、今度こそ斬れる距離まで入れる。
けれど、その間に根が道を塞げば、南側へ逃げる人たちが取り残される。
「東堂先輩、加茂先輩! そちらをお願いします!」
三輪は南へ走った。
根の先が、道へ落ちる直前だった。
刀を振る。
伸びた根を途中で断ち、崩れた先端を斜面の外へ落とす。
奥には、校内の作業服を着た職員が二人いた。片方が転倒し、もう一人が肩を支えている。
「こっちです! 走れますか!」
「足を、少し……」
「大丈夫です。肩を貸します」
三輪は負傷した人を支えた。
後ろから伸びた根を、加茂の矢が止める。
東堂が呪霊の前へ立ち直る。
「三輪、そちらを任せた!」
「はい!」
真依が道の先から手を振る。
「こっち! 補助監督が待ってる!」
三輪は職員を真依へ引き継いだ。
もう一人が通ったのを見て、再び呪霊の方へ走る。
だが、斜面へ戻ったとき、呪霊の姿はなかった。
東堂が周囲を見ている。
「根を残して退いた。追おうとしたが、別の声が聞こえた」
通信機から、五条の声が届いた。
『結界を一部開けた。生徒はそのまま南へ。僕がそっちへ向かう』
強い呪力が、遠くで動く。
三輪は刀を構えたまま、呪霊の消えた方向を見た。
「逃げました」
「そうだな」
東堂は短く答えた。
「だが、下の人間は助かった」
三輪は頷く。
追えなかったことは、後で考える。
まだ、全員が安全な場所へ出たわけではない。
*
五条が現れた頃には、生徒たちの退避が進んでいた。
彼は傷ついた根と、切断された跡を見た。
「三輪ちゃん、呪霊は?」
「奥へ逃げました。腕と胴は斬りましたけど、祓えていません」
「分かった。ここから先は僕が追う」
「私も――」
「三輪ちゃんは、歌姫のところへ。負傷者の確認と、まだ戻ってない生徒の位置を確かめて」
三輪は周囲を見る。
加茂と真依が南へ下がり、東堂も通信を受けている。
「はい。お願いします」
「任せて」
五条は呪霊の残した呪力を追い、林の奥へ消えた。
ほどなく、遠くの空気が揺れた。
次いで、木々の向こうから大きな音がした。
五条が戦っている。
三輪は振り返らず、南へ走った。
*
集合地点では、歌姫が生徒の人数を確認していた。
「三輪!」
「戻りました。東堂先輩たちも、すぐ後ろです」
真依と加茂が続き、少し遅れて東堂も現れる。
東京校の生徒たちも、別の道から集まってきた。
「虎杖くん! 釘崎さん! 伏黒くん!」
「三輪先輩!」
虎杖が手を上げる。
釘崎は服についた土を払い、伏黒は周囲を警戒していた。
「怪我は?」
「大丈夫です。ちょっと転んだくらいで」
「私は転んでないわよ」
「誰も聞いてないだろ」
そのやり取りを聞いて、三輪は息を吐いた。
真希、狗巻、パンダも戻っている。
西宮が上空から下りてきた。
「演習区域に、学生の姿はもう見えなかった。ほかの術師が確認してる」
「ありがとう」
歌姫は人数をもう一度数えた。
京都校と東京校、今回参加した生徒は全員いる。
ただし、外周を担当していた大人たちの確認は、まだ終わっていない。
そこへ、保管施設から新しい報告が入った。
「侵入者は離脱。保管場所の一部が荒らされています」
「何がなくなったの」
歌姫が聞く。
「照合中です。今、確実に不足が確認できたのは、宿儺の指が一本。それから、別の保管箱が一つ」
虎杖の表情が変わった。
「宿儺の指……」
「残りも確認するわ。今ここで分かっているのは、それだけよ」
歌姫は生徒たちを見た。
「誰も勝手に探しに行かないで。侵入経路も、ほかの被害も、今から大人が確認します」
三輪は刀を納めた。
花のような枝を持つ呪霊が現れ、五条は結界の外へ足止めされた。
その間に、別の場所から呪物が奪われた。
駐車場で人を閉じ込め、複数の場所へ戦力を向かわせた、あの夜を思い出す。
敵は、三輪と五条が強いことを知っている。
だから、同じ場所に全員を集めて戦うとは限らない。
「三輪」
メカ丸が、少し離れたところから呼んだ。
「怪我は」
「大丈夫。メカ丸は?」
「問題ない」
三輪は彼の身体を見た。
傀儡には目立った損傷がない。
「途中、通信が切れてたけど、機材は大丈夫?」
メカ丸が、ほんの少し黙った。
「……今は繋がっている。あとで記録を確認する」
「うん。私も、何時頃だったか覚えてるから、必要なら言うね」
「ああ」
返事はあった。
けれど、いつもなら続くはずの説明は、それきりだった。
三輪は、彼が通信を気にしているのだと思った。
実際に襲撃が起きたのだ。自分が整備した機材に問題がなかったか、心配になるのも当然だろう。
「一緒に確認しようか」
そう言うと、メカ丸は三輪を見た。
「……先生の指示が出てからだ」
「うん。そうだね」
歌姫が生徒たちに、これからの待機場所を説明し始めた。
三輪とメカ丸も、その声を聞くために並んだ。
*
交流会の勝敗は、決まらなかった。
回収した箱も、護衛対象も、そのまま演習区域に残されている。
釘崎は携帯電話を取り出し、画面を見てから、三輪の方へ来た。
「先輩」
「うん」
「お店、今日は無理そうですね」
三輪は、彼女が何を言いに来たのか分かった。
「そうだね。確認が終わるまで、みんな待機だって」
「……また今度にしましょう」
「うん。また今度」
釘崎は頷き、虎杖たちの方へ戻った。
三輪は彼女の背中を見送り、それから手帳を開いた。
交流会の日の下に書いた予定。
『釘崎さんたちと、お店』
線は引かなかった。
今日は行けなくなった。
でも、次の機会まで、そのままにしておこうと思った。
携帯電話が震える。
母からだった。
『学校は大丈夫? 連絡できるときでいいから、返事をください』
三輪はすぐに文字を打った。
『大丈夫だよ。みんなも戻ってきた。あとで電話するね』
送信してから、顔を上げる。
歌姫が、確認を終えた生徒から順番に校舎へ戻るよう指示していた。
三輪は手帳と携帯電話をしまい、列に加わる。
隣を歩く真依が、小さく言った。
「さっき、ありがと」
「え?」
「あの根。こっちに来る前に斬ってくれたでしょ」
「ああ。うん」
「私も左の呪霊は見つけたからね」
「助かったよ。ありがとう」
真依はそれ以上、何も言わなかった。
二人の前を、メカ丸が歩いている。
三輪はその背中を見た。
さっきの返事が、少しだけ気にかかる。
でも、今はみんな、襲撃の直後だ。話したくないことや、まだ整理できていないこともあるだろう。
落ち着いてから、もう一度聞こう。
三輪はそう思い、真依と一緒に校舎へ戻った。