交流会の翌朝、三輪はいつもより早く目が覚めた。
窓の外では蝉が鳴いている。昨日と変わらない夏の音だった。
けれど、校内はいつもと違った。
廊下を歩く大人たちが多い。見慣れない補助監督も来ていて、校舎の出入口を確認していた。
三輪は部屋を出る前に、母へ電話をかけた。
『本当に怪我はないの?』
「うん。昨日も診てもらったよ」
『学校で何かあったって聞いたから』
「少しね。でも、みんな戻ってきた」
交流会の生徒たちは、全員が戻った。
そう伝えながら、三輪は言葉を選んだ。
呪霊が侵入したことも、宿儺の指が奪われたことも、家族へ詳しく話すことはできない。
『無理してない?』
「してないよ。今日は先生たちの話を聞いて、報告するだけ」
『ならいいけど。弟たちも心配してたから、あとで声を聞かせてね』
「うん。授業が終わったら電話する」
電話を切り、三輪は手帳を開いた。
空いている時間に、短く書く。
『家に電話』
その下には、昨日のまま残した予定があった。
『釘崎さんたちと、お店』
三輪は少し眺め、それから手帳を閉じた。
*
午前中、歌姫は生徒たちを一人ずつ呼んだ。
交流会の最中、どこにいたか。
何を見たか。
誰と通信し、どの方向へ動いたか。
三輪は地図を前に、覚えている順番で答えた。
「呪霊が現れたとき、私と東堂先輩は西側の斜面にいました」
歌姫が地図へ印をつける。
「その前に、西宮から人影の報告があったのね」
「はい。中央の建物の北側です。でも、私は直接見ていません」
「メカ丸の通信が途切れたのは、その前?」
「はい。西宮先輩がパンダの位置を伝える少し前です」
「どのくらい途切れた?」
三輪は考えた。
「長くはなかったです。西宮先輩が二回呼んで、私も聞いて、それから返事がありました」
「そのとき、何か別の音は?」
「……雑音は聞こえませんでした」
歌姫は頷き、紙へ書き込んだ。
「ほかに、気になったことはある?」
三輪は地図を見た。
西側の斜面。呪霊と戦った場所。
南へ伸びた根。
自分が職員二人を助けている間に、呪霊は退いた。
「根が、私たちより先に、南側の人へ向かったように見えました」
「狙っていたと思う?」
「かもしれません。でも、呪霊がその人たちに気づいていたかは分からないです。私たちを避けようとして、あっちへ伸びた可能性もあります」
「分かった。そういうふうに、見たことと考えたことを分けておいてね」
「はい」
歌姫はペンを止めた。
「昨日、よく動いてくれたわ。職員の二人も、命に別状はないそうよ」
三輪の肩から力が抜けた。
「よかった……」
「ただ、侵入された理由はまだ分かっていない。今日は校内の確認もあるから、一人で普段と違う場所へ行かないように」
「分かりました」
椅子を引いて立ち上がる。
扉の前で、三輪は振り返った。
「あの、メカ丸の通信が切れたこと、何か問題があったんでしょうか」
「まだ調べているところ。機材の故障かもしれないし、結界の影響かもしれない」
歌姫は、そこで言葉を切った。
「原因が分かるまでは、どれかに決めつけないわ」
「はい」
三輪は頭を下げ、部屋を出た。
*
廊下の窓は開いていた。
風が入るたび、掲示物の端が揺れる。
教室へ戻る途中、真依が壁にもたれているのを見つけた。
「もう終わった?」
「うん。真依も?」
「さっき」
真依は窓の外を見た。
「根が来たとき、あんたが戻ってこなかったら、どうなってたか聞かれた」
「何て答えたの?」
「分からないって」
真依は肩をすくめる。
「加茂先輩もいたし、私も撃ってた。どうなったかなんて、やってないんだから分からないでしょ」
「そうだね」
「でも、あんたが来て助かったのは本当だから、それも言った」
三輪は少し驚いた。
昨日、真依から礼は聞いた。けれど、先生にも話したと、わざわざ言ってくれるとは思わなかった。
「ありがとう」
「別に、あんたのために言ったわけじゃない」
「うん。それでも」
真依は顔を背けた。
「……あんた、またその返事」
三輪は笑った。
真依も、少しだけ口元を緩めた。
*
校内の確認は、午後も続いた。
侵入された保管施設では、帳や扉に残った痕跡を調べている。
呪物の管理記録と、実際に残っているものの照合も進んでいた。
不足が確認されたのは、宿儺の指一本と、別の保管箱一つ。
箱の中身については、担当者以外にはまだ伝えられていなかった。
三輪は、その報告を聞いたあと、東京へ戻る準備をしている虎杖たちに会いに行った。
「もう帰るんですか」
「うん。向こうでも話を聞かれるみたいで」
虎杖が鞄の紐を直す。
釘崎は三輪を見るなり、口を尖らせた。
「結局、店には行けませんでしたね」
「ごめんね」
「先輩が謝ることじゃないでしょう」
釘崎は携帯電話を取り出した。
「次に私たちが来たときでも、先輩が東京に来たときでもいいです。行きましょう」
「うん」
「約束ですよ」
「約束」
三輪が答えると、釘崎は満足そうに頷いた。
少し離れたところでは、伏黒が外周を確認する術師たちを見ていた。
三輪が近づくと、彼は振り向いた。
「先輩」
「伏黒くん、怪我は大丈夫?」
「大きなものはありません」
伏黒は声を落とした。
「宿儺の指が盗まれたと聞きました」
「うん。一本は確認されたって」
「ほかの呪物も、まだ分からないんですよね」
「そうみたい」
伏黒は、しばらく黙った。
虎杖の身体には、宿儺がいる。
残された指が誰の手に渡るかは、彼にとっても、東京校の仲間にとっても関係のある話だった。
「三輪先輩が戦った呪霊は、どうなったんですか」
「逃げられたよ。五条先生が追ったけど、今はまだ、結果を聞いてない」
「強かったですか」
「うん」
三輪は即答した。
「根を広げて、私たちとは別の場所にいる人を狙った。逃げる道も塞ごうとしてた」
「先輩を倒すより、足止めすることが目的だった可能性もありますね」
「私も、そうかもしれないと思ってる」
五条を結界で外へ留め、三輪を演習区域内に引きつける。
その間に、別の場所へ侵入する。
可能性はある。
けれど、それを実行した相手がどこまで考えていたか、まだ断定はできない。
「先生たちが調べてくれてるから、分かったら教えてもらおう」
「はい」
伏黒は頷いた。
虎杖が少し離れたところから呼ぶ。
「伏黒! もう出るって!」
「今行く」
伏黒は歩き出しかけ、三輪を振り返った。
「先輩も、気をつけてください」
「うん。伏黒くんたちもね」
虎杖が三輪に手を振る。
「先輩、また連絡します!」
「待ってるよ」
東京校の車が見えなくなるまで、三輪は門の近くに立っていた。
*
その夜、三輪は家に電話をした。
弟たちの声は、思っていたより元気だった。
『学校、壊れたの?』
「全部じゃないよ。確認して、直すところは直してる」
『帰ってこなくていいの?』
「今は、みんなで片づけてるから。休みが取れたら、また帰るね」
『じゃあ、この前の続き見せる』
「模型の?」
『新しいのもある』
三輪は笑った。
「じゃあ、今度も写真撮っていい?」
『いいけど、友達にも見せて』
「うん。ちゃんと見えるように撮る」
電話を切ったあと、三輪は窓を閉めた。
外が暗くなっても、校舎の方には灯りがついている。
まだ確認が続いているのだろう。
自分にできることがないかと思ったが、今日の報告は終えた。歌姫にも、夜は休むように言われている。
刀の手入れを済ませ、机へ置く。
呪霊を斬ったときの感触が、まだ手に残っていた。
追えたはずだ、と考えそうになる。
けれど、南側には人がいた。
あのとき、自分が行かなければ、根が道を塞いでいた。
どちらかを選ばなければならなかった。
三輪は刀袋の口を閉じた。
次に同じことがあれば、呪霊を追う人と、救助へ向かう人を、もっと早く分けられるかもしれない。
そのために、昨日の報告を残した。
考え続けるのは、明日でいい。
三輪は灯りを消した。
*
翌日、歌姫は通信記録を確認していた。
交流会開始から襲撃までの間、各参加者の声は、おおむね記録されている。
ただ、一か所だけ、時間が抜けていた。
西宮が上空から報告し、メカ丸を呼んだ直前。
中継用の記録が、数秒間残っていない。
「この時間、別の回線の記録は?」
「こちらにあります」
補助監督が資料を出す。
外周の通信は残っていた。すべての機材が一斉に止まったわけではない。
「故障の可能性は?」
「あります。結界が複数重なった影響も、まだ調べています」
「機材は保管してある?」
「はい。メカ丸本人にも確認を依頼しています」
歌姫は頷いた。
生徒たちから集めた報告の中に、三輪の名前がある。
通信が途切れた時間についての証言。
西宮の報告と、おおむね一致していた。
その数秒が、侵入と関係するのか。
そもそも、内部の情報が誰かに渡っていたのか。
外から結界を調べ、偶然、弱いところを見つけた可能性もある。
今はまだ、何も決められない。
「記録を消したり、直したりせず、そのまま残して」
歌姫が言う。
「機材の状態と、切れた前後の操作も確認します。本人に聞くのは、そのあと」
「分かりました」
補助監督が資料をまとめる。
歌姫は窓の向こうを見た。
遠くの稽古場では、東堂が一人で身体を動かしている。
襲撃は終わった。
けれど、どうして侵入を許したのかが分からなければ、同じことが起きるかもしれない。
学生たちを疑うためではなく、次に守るために、確かめる必要があった。
*
昼休み、三輪は教室でメカ丸を見つけた。
彼の机には、いつもの工具が並んでいる。
「お昼、食べに行く前?」
「そうだ」
「昨日言ってた通信のこと、先生から何か聞いた?」
「機材を確認すると言われた。今は待っている」
「そっか」
三輪は向かいの椅子へ座った。
「私も、切れたときのこと話したよ。何秒だったかは、はっきり分からなかったけど」
「……ああ」
メカ丸の返事は短い。
三輪は手元を見た。
彼は小さな留め具を持っているが、さっきから動かしていなかった。
「何か、壊れてた?」
「いや」
「じゃあ、よかった」
メカ丸は答えない。
三輪は、それ以上聞こうとして、やめた。
機材を作った本人だから、原因が分からないことを気にしているのかもしれない。
あるいは、昨日の襲撃そのものについて、まだ考えているのかもしれない。
自分には分からない。
「私ね、昨日、釘崎さんにまたお店行こうって言われた」
メカ丸が顔を上げた。
「東京の一年生か」
「うん。交流会のあとに行く予定だったんだけど、行けなかったから」
「そうか」
「真依にも聞いたんだけど、終わってから決めるって」
「それで」
「終わっちゃったから、もう一回聞いてみようかなって」
「好きにすればいいだろう」
「うん。そうする」
三輪は笑った。
メカ丸の手が、ようやく動いた。
留め具を机へ置き、別の部品を取る。
「三輪」
「何?」
「もし、俺が――」
そこで声が止まった。
三輪は待った。
教室の外を、誰かが走っていく音がする。
メカ丸は部品を持ったまま、机へ視線を落とした。
「……いや。何でもない」
三輪は彼を見た。
何を言おうとしたのかは分からない。
通信のことかもしれない。昨日の襲撃のことかもしれない。
別の、全然関係のない話だった可能性もある。
「分かった」
メカ丸が顔を上げる。
「聞かないのか」
「聞きたいけど、今は言わないって決めたんでしょ」
「……ああ」
三輪は頷いた。
「じゃあ、話したくなったら聞くよ」
それだけ言って、立ち上がる。
「先にご飯、食べてくるね。真依にも声かけてみる」
扉のところで振り返る。
「メカ丸、あとで端末の試験するなら、私も呼んで」
「分かった」
三輪は教室を出た。
彼女の足音が遠ざかる。
幸吉は、傀儡の指で部品を置いた。
話したくなったら聞く。
その言葉を、嬉しいと思った。
同時に、恐ろしいとも思った。
話せば、彼女は聞いてくれるだろう。
自分が何をしているか知っても、すぐに背を向ける人ではない。
だからこそ、彼女の前で言葉にできなかった。
学校の情報を渡したこと。
交流会の前、通信に空白を作ったこと。
呪詛師たちとの取引が、まだ続いていること。
そして、その取引の先に、自分が何を望んでいるのか。
幸吉は、傀儡の視界を切った。
暗い部屋が、元の静けさに戻る。
少し身体を動かそうとして、痛みに息が詰まった。
痛みが収まるまで、待つ。
待つことには、慣れている。
けれど、いつまで待てばいいのかは、誰にも言われていなかった。
*
同じ頃、人気のない場所で、二つの声が交わされていた。
「交流会は、思ったより大変だったみたいだね」
若い男の声が、楽しそうに言った。
「花御、ずいぶん切られてたし」
「相手が悪かっただけさ」
もう一人は、穏やかに答える。
「三輪霞がいると分かっていたのに、真正面から長く留まれば、ああなる」
「じゃあ、あの子を先にどうにかしないと」
「そう簡単にはいかないよ。五条悟もいる」
話しているのは、夏油傑の姿をした男だった。
額には縫い目がある。
その前には、人の姿をした呪霊が座っていた。
「でも、欲しかったものは手に入ったんだろ?」
「ああ。一つは確認できた」
男は持ち帰られた箱に手を置く。
宿儺の指とは別に運ばれたものだ。
「残りは、これからだよ」
「裏切り者くんにも、まだ働いてもらう?」
「彼には、約束があるからね」
呪霊は笑った。
「その約束、ちゃんと守るんだ」
「守るとも。少なくとも、約束した範囲では」
男は箱から手を離した。
校内から届いた情報。
交流会の配置。
三輪霞がどこへ向かい、五条悟がどこで止まるか。
すべてが予定どおりだったわけではない。
だが、二人を同じ場所へ集めずに済んだ時間が、侵入者には必要だった。
「次は、もっと慎重にする必要があるね」
男は静かに言った。
「彼女は、守るために動く。そして、一度届けば、こちらが逃げる余裕はほとんどない」
呪霊は興味深そうに首を傾けた。
「会ってみたいなあ」
「いずれね」
男は笑った。
「ただし、彼の望みを叶えてからだ」
*
午後の授業が始まる前、三輪は真依と教室へ戻った。
「メカ丸、まだいるかな」
「あんた、さっきまで話してたんでしょ」
「うん。でも、端末の試験するなら呼んでって言ったから」
「授業が先よ」
「分かってるよ」
扉を開ける。
メカ丸は、自分の席にいた。
三輪はその姿を見て、普段どおりに声をかけた。
「ただいま」
「ああ」
机の上には、工具が片づけられていた。
さっき言いかけたことを、今は聞かない。
けれど、忘れたわけでもなかった。
三輪は自分の席に着き、教科書を開く。
真依が隣から覗き込んだ。
「そこ、今日の範囲じゃないわよ」
「え?」
三輪は時間割を確認した。
「あ、次の授業だった」
「しっかりしてよ、先輩」
「同じ二年生でしょ」
「東京の一年からは先輩って呼ばれてたじゃない」
「それはそうだけど」
メカ丸が、机の向こうから言った。
「間違えたまま授業が始まるよりはいい」
「二人とも厳しいなあ」
三輪は教科書を入れ替えた。
窓から入る風が、ページを一枚めくる。
押さえた紙の端は、少し温かかった。
昨日の襲撃で奪われたものも、分からないままのことも、まだ残っている。
それでも、授業は始まる。
三輪はペンを取り、先生が来るのを待った。