三輪霞は、剣だけでいい   作:ケーケーケー

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第二十八話 届かない呼び出し

 

 出発前に、三輪は刀袋の留め具を確かめた。

 

 紐を引き、肩へかける。

 

 玄関の外では、補助監督の藤村が車を待たせていた。

 

「今日は少し遠いので、先にお手洗いなど、大丈夫ですか」

 

「はい。大丈夫です」

 

 返事をしてから、三輪は携帯電話を取り出した。

 

 新しい通知はない。

 

 今日は、幸吉がしばらく接続を切ると言っていた日だった。

 

 学校には予定を出してあると聞いている。だから、返事がないこと自体を心配する必要はない。

 

 三輪は画面を閉じ、車へ乗った。

 

「任務の説明、移動中にもう一度確認してもいいですか」

 

「もちろんです。資料はこちらに」

 

 藤村から渡された用紙を、膝の上へ広げる。

 

 山間にある、閉鎖された宿泊施設。

 

 建物の売却に向けた調査の際、作業員が不可解な事故に遭い、残された一人と連絡が取れなくなったという。

 

 先に現地へ入った術師からは、呪霊の存在が確認されたと報告が届いている。

 

「中にいる方の位置は、まだ分からないんですね」

 

「はい。施設が増改築を繰り返していて、図面と実際の通路が一致していない場所があるそうです」

 

 三輪は図面を見た。

 

 廊下が途中で折れ、その先に、別の棟が繋がっている。

 

 呪霊を祓うだけなら、長くはかからないかもしれない。

 

 けれど、人が残っているなら、部屋を一つずつ確かめなければならない。

 

「分かりました。着いたら、先に入っている方と合流します」

 

 車が校門を出る。

 

 三輪は一度だけ、窓から校舎を見た。

 

 教室のある階に、日が当たっていた。

 

     *

 

 傀儡の視界を切る前に、幸吉は教室を見渡した。

 

 誰もいない。

 

 自分の机。

 

 真依の席。

 

 三輪が座る窓際の机には、教科書が一冊置かれていた。

 

 表紙の間から、小さな紙がはみ出している。

 

 忘れたのか、あとで使うつもりで置いたのかは分からない。

 

 戻ったら、声をかければいい。

 

 そこまで考えて、幸吉は視界を切った。

 

 暗い部屋へ意識が戻る。

 

 機材の動く音と、かすかな水音。

 

 慣れたはずの空気が、今日は重かった。

 

 画面には、学校へ出した接続停止の予定が表示されている。

 

 復帰予定時刻。

 

 その数字を、彼はしばらく見た。

 

 その頃までに戻れるのか。

 

 戻ったとき、自分はどんな姿になっているのか。

 

 考えるたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

 幸吉は、残してある下書きを開いた。

 

『俺は、学校の情報を外へ渡していた』

 

 最初の一文は、昨日と変わらない。

 

 そのあとにも、文字が続いている。

 

 読めば読むほど、三輪へ送る文章というより、自分に言い聞かせるためのものに見えた。

 

 許されると思っていない。

 

 悪いことだと分かっている。

 

 その言葉をいくつ並べても、情報を渡した事実は消えない。

 

 幸吉は、送信先を見た。

 

 今なら、まだ届く。

 

 だが、指は動かなかった。

 

 代わりに下書きを閉じ、待っていた相手へ、短い連絡を送った。

 

 準備はできている。

 

 画面に表示された送信済みの文字を見てから、幸吉は目を閉じた。

 

     *

 

 昼過ぎ、三輪は宿泊施設の中へ入った。

 

 玄関には埃が積もっている。

 

 割れた窓から入る風が、壁に貼られた古い案内図を揺らしていた。

 

「奥の棟から、時々音がします」

 

 先に入っていた術師が言った。

 

「ただ、廊下を進もうとすると、別の場所へ戻される。結界に近い仕組みかもしれません」

 

 三輪は廊下を見た。

 

 壁の継ぎ目と、床に残る擦れた跡。

 

 呪力の流れが、角を曲がった先で不自然に重なっていた。

 

「一度、下がっていてください」

 

 刀を抜く。

 

 廊下の奥から、長い指が伸びてきた。

 

 三輪はその手前へ踏み込み、指の付け根を断った。

 

 壁が揺れる。

 

 隠れていた呪霊が、天井から身体を引き剥がした。

 

 人の胴に似たものが、幾つも繋がっている。

 

 逃げようとした身体へ、三輪はもう一歩入った。

 

 刃を返す。

 

 呪霊の中心を通った刀に、確かな手応えがあった。

 

 歪んでいた廊下が、ゆっくりと元へ戻る。

 

 角の向こうに、古い防火扉が現れた。

 

「ここから先、確認します」

 

 三輪が声をかけると、術師が頷いた。

 

 扉を開ける。

 

 奥の階段室から、かすかな音がした。

 

 人の声だった。

 

 三輪は刀を低く保ち、そちらへ向かった。

 

     *

 

 復帰予定時刻を五分過ぎたところで、京都校の職員室に確認の連絡が入った。

 

「メカ丸の応答がありません」

 

 補助監督が、歌姫へ伝える。

 

 歌姫は時計を見た。

 

「通常の回線は?」

 

「呼び出しています。傀儡側も反応がありません」

 

「予備回線を使って。こちらからも携帯へ連絡する」

 

 歌姫は更新された確認先の用紙を取り出した。

 

 数日前、本人が書き足した図面。

 

 通信機材と補助電源の位置。

 

 接続を切る予定は、確かに提出されている。

 

 予定より少し長引くことは、整備でも起こりうる。

 

 それでも、時刻を決めた以上、過ぎれば確かめる。

 

 歌姫は携帯電話を耳へ当てた。

 

 呼び出し音が続く。

 

 返事はなかった。

 

「療養場所への確認を始めます。現地へ向かえる人は?」

 

「車を用意できます」

 

「私も行くわ。校内側の呼び出しは続けて。応答が戻ったら、すぐに知らせて」

 

 歌姫は資料をまとめ、立ち上がった。

 

     *

 

 三輪が見つけた作業員は、階段の踊り場に座り込んでいた。

 

 足首が腫れている。

 

 近くには落ちた工具と、電池の切れた照明があった。

 

「もう大丈夫です。お迎えに来ました」

 

 三輪がしゃがむと、男性は顔を上げた。

 

「外に、出られますか」

 

「はい。今、道を確認しました」

 

 上から一度に下ろすのは危険だった。

 

 階段の手すりは一部が外れ、途中の床にも傷みがある。

 

 三輪は同行の術師を呼び、男性を支えながら一段ずつ下りた。

 

 外へ出ると、藤村が車のそばで待っていた。

 

「救急の手配はできています」

 

「ありがとうございます。足首を痛めています。意識ははっきりしています」

 

 男性を預け、三輪はもう一度建物へ向いた。

 

 ほかに人がいないか。

 

 呪霊が残っていないか。

 

 奥の棟をまだ確認し切れていなかった。

 

「三輪さん」

 

 藤村が呼ぶ。

 

 その声に、いつもと違う硬さがあった。

 

「学校から連絡です」

 

 三輪は振り返った。

 

「メカ丸さんの通信が、予定時刻を過ぎても戻っていないそうです」

 

 言葉を理解するまでに、一拍かかった。

 

「……幸吉くんの?」

 

 藤村は頷いた。

 

「歌姫先生が現地確認へ向かわれています。三輪さんには、まず現在の任務を安全に引き継いでほしいと」

 

 三輪は建物を見た。

 

 開いた玄関。

 

 まだ確かめていない奥の棟。

 

 同行の術師が、こちらを見ている。

 

「残りは、私が確認します」

 

 その人が言った。

 

「呪霊はもう祓われています。危険な気配があれば、そこで下がる。補助の人員も呼べます」

 

 三輪は一度、息を吸った。

 

「東の棟の二階は、まだ見ていません。廊下の途中で床が沈むので、右側を通ってください」

 

「分かった」

 

「防火扉の奥に、小さい物置もあります。そこもお願いします」

 

 必要なことを、順に伝える。

 

 声は震えていなかった。

 

 けれど、刀袋の紐を握る指に、力が入りすぎていた。

 

「三輪さん、車へ」

 

 藤村に促され、三輪は頷いた。

 

 乗り込んでから、携帯電話を開く。

 

 メカ丸。

 

 呼び出しの表示が出る。

 

 返事は、なかった。

 

     *

 

 療養場所の入口は、閉まっていた。

 

 歌姫は補助監督とともに周囲を確かめ、事前に預けられていた手順で扉を開けた。

 

 中は静かだった。

 

 廊下に、争ったような跡はない。

 

 機材の一部には電源が入っている。だが、本人へ繋がるはずの回線は切れていた。

 

「奥を確認します」

 

 補助監督が言う。

 

 歌姫は頷き、図面を広げた。

 

 以前の図面なら、入口脇の操作盤を調べ、その周囲を確認していただろう。

 

 だが、更新された用紙には、通信機材を奥へ移したと書かれていた。

 

 そこへ向かう。

 

 部屋の中には、使われていた寝台と機材があった。

 

 人の姿はない。

 

 壁際に、予備の回線をまとめた装置が置かれている。

 

 歌姫は書き込みと照合した。

 

 位置は、本人の説明どおりだった。

 

「こっちも応答なしです」

 

 補助監督が言った。

 

 歌姫は寝台へ近づいた。

 

 荒らされた様子はない。

 

 必要な物を持ち出したようにも見えるが、ここで何が日常だったかを、彼女は十分には知らない。

 

 見た目だけで、本人の意思による外出とは決められなかった。

 

「校内へ連絡して。本人不在。予定された接続停止のあと、所在を確認できていない」

 

「はい」

 

「付近の確認を広げます。機材は触る前に記録を。何が止まり、何が動いているか、全部残して」

 

 歌姫は携帯電話を取り出した。

 

 五条への連絡。

 

 家入への確認。

 

 そして、移動中の三輪へ伝えるべきこと。

 

 友人が返事をしないという話から、所在不明の生徒を探す事態へ変わっていた。

 

     *

 

 藤村の運転する車は、山道を下っていた。

 

 三輪は後部座席で歌姫の話を聞いた。

 

『療養場所には、いなかったわ』

 

 窓の外で、木々が流れる。

 

「どこかへ、運ばれたんでしょうか」

 

『まだ分からない。争った跡は見つかっていないけど、自分で出たのか、誰かが来たのかは確認中』

 

「身体は……一人で動くのは、難しいんですよね」

 

『ええ。だから、移動の手段も調べている』

 

 三輪は膝の上の手を見た。

 

「私にできることはありますか」

 

『まず、今いる場所から合流して。藤村さんへ経路を送るわ』

 

「はい」

 

『三輪。気づいたことがあれば、そのまま話して。小さなことでもいい』

 

 三輪は目を閉じた。

 

 教室での会話。

 

 外へ行きたいという話。

 

 治ったら、と言いかけた声。

 

「この前、外出の話をしました」

 

 歌姫は黙って聞いていた。

 

「幸吉くんが、治ったらって言いかけて……そのあと、具合がよくなれば、外に行くこともあるかもしれないって」

 

『いつの話?』

 

「接続を切る予定を聞く、少し前です」

 

『場所は言っていた?』

 

「いいえ。店でも、公園でも、どこでもいいって」

 

 三輪は、言葉を探した。

 

「私、少し楽になったら、会えるっていう意味だと思って」

 

『分かった』

 

「それ以上は、聞いていません」

 

 治る方法が見つかったのかと、尋ねていればよかったのだろうか。

 

 だが、あのとき彼は、家入の説明を受けたばかりだった。

 

 自分が何か分かったように聞き出すことを、三輪はしたくなかった。

 

『今話してくれたことは、確認する』

 

 歌姫が言う。

 

『あとから思い出したことも、すぐ連絡して』

 

「はい」

 

 通話が終わる。

 

 三輪は携帯電話を握り直した。

 

 もう一度、彼へかける。

 

 応答はなかった。

 

     *

 

 水の音がした。

 

 幸吉は、狭い視界の向こうに立つ二つの影を見た。

 

 一人は、額に縫い目のある男。

 

 もう一人は、人の形をした呪霊だった。

 

「ようやく会えたね」

 

 真人が、気軽に言った。

 

「ちゃんと約束は覚えてるよ。君が情報をくれて、俺が身体を治す」

 

「先に、約束を果たせ」

 

 幸吉は答えた。

 

「京都校の人間には手を出さない。その条件を含めて、まだ終わっていない」

 

「分かってるって」

 

 真人は面倒そうに首を傾けた。

 

 額に縫い目のある男が、静かに口を挟む。

 

「真人。縛りは守るんだ。何が起こるか分からないからね」

 

 幸吉は二人を見た。

 

 ここへ来たことを、三輪は知らない。

 

 歌姫も、知らない。

 

 学校へ出したのは、接続を止める予定と、戻る時刻だけだ。

 

 その時刻を、もう過ぎているかもしれない。

 

 身体が治ったら、すぐに離れる。

 

 そして、今までのことを話す。

 

 罰を受けてもいい。

 

 学校へ戻れなくなったとしても、まず、生きてここを出なければならない。

 

「じゃ、動かないでね」

 

 真人が近づく。

 

 その手が、幸吉の身体へ触れた。

 

 何かが、内側から動いた。

 

 骨でも、筋肉でもない。

 

 もっと深いところへ触れられ、形を変えられているような感覚だった。

 

 幸吉は息を止めた。

 

 身体が熱い。

 

 痛みとは違う。

 

 ずっと、身体のあちこちにあった痛みが、どこか遠くへ引いていく。

 

 皮膚の感覚が変わる。

 

 腕がある。

 

 指が動く。

 

 脚が、そこにある。

 

 幸吉は目を見開いた。

 

 自分の手を、顔の前へ持ち上げる。

 

 五本の指が、思ったとおりに曲がった。

 

 機械の関節音はしなかった。

 

「ほら」

 

 真人が笑う。

 

「治ったでしょ」

 

     *

 

 立ち上がるだけで、こんなに視界が変わるのか。

 

 幸吉は、自分の脚で床を踏んだ。

 

 膝が伸びる。

 

 身体を支えられる。

 

 空気が皮膚へ触れている。

 

 その刺激に、苦痛が伴わない。

 

 彼は片手で顔を覆った。

 

 指の腹が、頬へ当たる。

 

 温かい。

 

 自分の手だった。

 

 ずっと欲しかったものが、ここにある。

 

 この身体でなら、教室の椅子へ座れる。

 

 窓を開けられる。

 

 机を挟まず、傀儡のカメラも通さず、相手の顔を見て話せる。

 

 幸吉は手を下ろした。

 

 真人が、まだ目の前にいた。

 

 笑いながら、自分を見ている。

 

「さて」

 

 呪霊が言った。

 

「約束は、これで終わりだよね」

 

 幸吉の指が止まった。

 

 額に縫い目のある男は、少し離れた場所で見ている。

 

 止めるつもりはないらしい。

 

 治してもらえば、それで帰してもらえる。

 

 そんな約束は、一度もしていなかった。

 

 幸吉は足を引いた。

 

 初めて自由になった脚が、床を滑る。

 

 それと同時に、遠くの機構へ呪力を送った。

 

 まだ、終わっていない。

 

 この身体で、外へ出る。

 

 行きたい場所がある。

 

 話さなければならない相手がいる。

 

 真人の腕が、ぐにゃりと形を変えた。

 

     *

 

 車が止まるより先に、三輪はシートベルトを外しかけ、手を止めた。

 

 藤村が完全に停車させるのを待つ。

 

「ここからです」

 

「ありがとうございます」

 

 降りると、歌姫が入口の前に立っていた。

 

「三輪」

 

「先生」

 

 彼女の手には、幸吉が更新した図面がある。

 

 入口の奥は暗い。

 

 三輪が足を踏み出すと、歌姫が先に言った。

 

「中は確認済み。でも、機材は調べている途中だから、触らないで」

 

「はい」

 

 三輪は頷き、中へ入った。

 

 初めて来る場所だった。

 

 幸吉が暮らしていた場所。

 

 そう言われなければ、自分には分からない部屋だった。

 

 寝台。

 

 壁に沿った配線。

 

 身体を支えるための器具。

 

 そこで彼が毎日、痛みに耐えながら学校へ繋がっていたのだと、三輪はようやく目で見て知った。

 

「幸吉くん」

 

 呼んでも、返事はない。

 

 三輪は携帯電話を取り出した。

 

 もう何度も見た連絡先。

 

 画面の名前は、まだメカ丸のままだった。

 

 呼び出す。

 

 部屋のどこからも、音はしなかった。

 

 三輪は耳へ電話を当てたまま、空いた寝台を見た。

 

 具合がよくなれば、会える。

 

 そう思っていた。

 

 だから、近くの静かな場所を探そうとした。

 

 けれど、今は、どこにいるのかさえ分からない。

 

 呼び出しが切れる。

 

 三輪は携帯電話を下ろした。

 

「先生」

 

 振り返ると、歌姫がこちらを見た。

 

「私も、探します」

 

「ええ」

 

 歌姫は頷いた。

 

「一緒に探すわ。まず、ここから何が分かるか確かめる」

 

 三輪は刀袋の紐を握り直した。

 

 斬る相手は、まだ見えていない。

 

 踏み込むべき場所も、まだ分からない。

 

 だから、目の前にあるものを見る。

 

 彼が残した図面と、動いたままの機材。

 

 そこから先を、探す。

 

 約束した場所へ行くには、まだ、彼の返事が必要だった。

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