出発前に、三輪は刀袋の留め具を確かめた。
紐を引き、肩へかける。
玄関の外では、補助監督の藤村が車を待たせていた。
「今日は少し遠いので、先にお手洗いなど、大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
返事をしてから、三輪は携帯電話を取り出した。
新しい通知はない。
今日は、幸吉がしばらく接続を切ると言っていた日だった。
学校には予定を出してあると聞いている。だから、返事がないこと自体を心配する必要はない。
三輪は画面を閉じ、車へ乗った。
「任務の説明、移動中にもう一度確認してもいいですか」
「もちろんです。資料はこちらに」
藤村から渡された用紙を、膝の上へ広げる。
山間にある、閉鎖された宿泊施設。
建物の売却に向けた調査の際、作業員が不可解な事故に遭い、残された一人と連絡が取れなくなったという。
先に現地へ入った術師からは、呪霊の存在が確認されたと報告が届いている。
「中にいる方の位置は、まだ分からないんですね」
「はい。施設が増改築を繰り返していて、図面と実際の通路が一致していない場所があるそうです」
三輪は図面を見た。
廊下が途中で折れ、その先に、別の棟が繋がっている。
呪霊を祓うだけなら、長くはかからないかもしれない。
けれど、人が残っているなら、部屋を一つずつ確かめなければならない。
「分かりました。着いたら、先に入っている方と合流します」
車が校門を出る。
三輪は一度だけ、窓から校舎を見た。
教室のある階に、日が当たっていた。
*
傀儡の視界を切る前に、幸吉は教室を見渡した。
誰もいない。
自分の机。
真依の席。
三輪が座る窓際の机には、教科書が一冊置かれていた。
表紙の間から、小さな紙がはみ出している。
忘れたのか、あとで使うつもりで置いたのかは分からない。
戻ったら、声をかければいい。
そこまで考えて、幸吉は視界を切った。
暗い部屋へ意識が戻る。
機材の動く音と、かすかな水音。
慣れたはずの空気が、今日は重かった。
画面には、学校へ出した接続停止の予定が表示されている。
復帰予定時刻。
その数字を、彼はしばらく見た。
その頃までに戻れるのか。
戻ったとき、自分はどんな姿になっているのか。
考えるたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
幸吉は、残してある下書きを開いた。
『俺は、学校の情報を外へ渡していた』
最初の一文は、昨日と変わらない。
そのあとにも、文字が続いている。
読めば読むほど、三輪へ送る文章というより、自分に言い聞かせるためのものに見えた。
許されると思っていない。
悪いことだと分かっている。
その言葉をいくつ並べても、情報を渡した事実は消えない。
幸吉は、送信先を見た。
今なら、まだ届く。
だが、指は動かなかった。
代わりに下書きを閉じ、待っていた相手へ、短い連絡を送った。
準備はできている。
画面に表示された送信済みの文字を見てから、幸吉は目を閉じた。
*
昼過ぎ、三輪は宿泊施設の中へ入った。
玄関には埃が積もっている。
割れた窓から入る風が、壁に貼られた古い案内図を揺らしていた。
「奥の棟から、時々音がします」
先に入っていた術師が言った。
「ただ、廊下を進もうとすると、別の場所へ戻される。結界に近い仕組みかもしれません」
三輪は廊下を見た。
壁の継ぎ目と、床に残る擦れた跡。
呪力の流れが、角を曲がった先で不自然に重なっていた。
「一度、下がっていてください」
刀を抜く。
廊下の奥から、長い指が伸びてきた。
三輪はその手前へ踏み込み、指の付け根を断った。
壁が揺れる。
隠れていた呪霊が、天井から身体を引き剥がした。
人の胴に似たものが、幾つも繋がっている。
逃げようとした身体へ、三輪はもう一歩入った。
刃を返す。
呪霊の中心を通った刀に、確かな手応えがあった。
歪んでいた廊下が、ゆっくりと元へ戻る。
角の向こうに、古い防火扉が現れた。
「ここから先、確認します」
三輪が声をかけると、術師が頷いた。
扉を開ける。
奥の階段室から、かすかな音がした。
人の声だった。
三輪は刀を低く保ち、そちらへ向かった。
*
復帰予定時刻を五分過ぎたところで、京都校の職員室に確認の連絡が入った。
「メカ丸の応答がありません」
補助監督が、歌姫へ伝える。
歌姫は時計を見た。
「通常の回線は?」
「呼び出しています。傀儡側も反応がありません」
「予備回線を使って。こちらからも携帯へ連絡する」
歌姫は更新された確認先の用紙を取り出した。
数日前、本人が書き足した図面。
通信機材と補助電源の位置。
接続を切る予定は、確かに提出されている。
予定より少し長引くことは、整備でも起こりうる。
それでも、時刻を決めた以上、過ぎれば確かめる。
歌姫は携帯電話を耳へ当てた。
呼び出し音が続く。
返事はなかった。
「療養場所への確認を始めます。現地へ向かえる人は?」
「車を用意できます」
「私も行くわ。校内側の呼び出しは続けて。応答が戻ったら、すぐに知らせて」
歌姫は資料をまとめ、立ち上がった。
*
三輪が見つけた作業員は、階段の踊り場に座り込んでいた。
足首が腫れている。
近くには落ちた工具と、電池の切れた照明があった。
「もう大丈夫です。お迎えに来ました」
三輪がしゃがむと、男性は顔を上げた。
「外に、出られますか」
「はい。今、道を確認しました」
上から一度に下ろすのは危険だった。
階段の手すりは一部が外れ、途中の床にも傷みがある。
三輪は同行の術師を呼び、男性を支えながら一段ずつ下りた。
外へ出ると、藤村が車のそばで待っていた。
「救急の手配はできています」
「ありがとうございます。足首を痛めています。意識ははっきりしています」
男性を預け、三輪はもう一度建物へ向いた。
ほかに人がいないか。
呪霊が残っていないか。
奥の棟をまだ確認し切れていなかった。
「三輪さん」
藤村が呼ぶ。
その声に、いつもと違う硬さがあった。
「学校から連絡です」
三輪は振り返った。
「メカ丸さんの通信が、予定時刻を過ぎても戻っていないそうです」
言葉を理解するまでに、一拍かかった。
「……幸吉くんの?」
藤村は頷いた。
「歌姫先生が現地確認へ向かわれています。三輪さんには、まず現在の任務を安全に引き継いでほしいと」
三輪は建物を見た。
開いた玄関。
まだ確かめていない奥の棟。
同行の術師が、こちらを見ている。
「残りは、私が確認します」
その人が言った。
「呪霊はもう祓われています。危険な気配があれば、そこで下がる。補助の人員も呼べます」
三輪は一度、息を吸った。
「東の棟の二階は、まだ見ていません。廊下の途中で床が沈むので、右側を通ってください」
「分かった」
「防火扉の奥に、小さい物置もあります。そこもお願いします」
必要なことを、順に伝える。
声は震えていなかった。
けれど、刀袋の紐を握る指に、力が入りすぎていた。
「三輪さん、車へ」
藤村に促され、三輪は頷いた。
乗り込んでから、携帯電話を開く。
メカ丸。
呼び出しの表示が出る。
返事は、なかった。
*
療養場所の入口は、閉まっていた。
歌姫は補助監督とともに周囲を確かめ、事前に預けられていた手順で扉を開けた。
中は静かだった。
廊下に、争ったような跡はない。
機材の一部には電源が入っている。だが、本人へ繋がるはずの回線は切れていた。
「奥を確認します」
補助監督が言う。
歌姫は頷き、図面を広げた。
以前の図面なら、入口脇の操作盤を調べ、その周囲を確認していただろう。
だが、更新された用紙には、通信機材を奥へ移したと書かれていた。
そこへ向かう。
部屋の中には、使われていた寝台と機材があった。
人の姿はない。
壁際に、予備の回線をまとめた装置が置かれている。
歌姫は書き込みと照合した。
位置は、本人の説明どおりだった。
「こっちも応答なしです」
補助監督が言った。
歌姫は寝台へ近づいた。
荒らされた様子はない。
必要な物を持ち出したようにも見えるが、ここで何が日常だったかを、彼女は十分には知らない。
見た目だけで、本人の意思による外出とは決められなかった。
「校内へ連絡して。本人不在。予定された接続停止のあと、所在を確認できていない」
「はい」
「付近の確認を広げます。機材は触る前に記録を。何が止まり、何が動いているか、全部残して」
歌姫は携帯電話を取り出した。
五条への連絡。
家入への確認。
そして、移動中の三輪へ伝えるべきこと。
友人が返事をしないという話から、所在不明の生徒を探す事態へ変わっていた。
*
藤村の運転する車は、山道を下っていた。
三輪は後部座席で歌姫の話を聞いた。
『療養場所には、いなかったわ』
窓の外で、木々が流れる。
「どこかへ、運ばれたんでしょうか」
『まだ分からない。争った跡は見つかっていないけど、自分で出たのか、誰かが来たのかは確認中』
「身体は……一人で動くのは、難しいんですよね」
『ええ。だから、移動の手段も調べている』
三輪は膝の上の手を見た。
「私にできることはありますか」
『まず、今いる場所から合流して。藤村さんへ経路を送るわ』
「はい」
『三輪。気づいたことがあれば、そのまま話して。小さなことでもいい』
三輪は目を閉じた。
教室での会話。
外へ行きたいという話。
治ったら、と言いかけた声。
「この前、外出の話をしました」
歌姫は黙って聞いていた。
「幸吉くんが、治ったらって言いかけて……そのあと、具合がよくなれば、外に行くこともあるかもしれないって」
『いつの話?』
「接続を切る予定を聞く、少し前です」
『場所は言っていた?』
「いいえ。店でも、公園でも、どこでもいいって」
三輪は、言葉を探した。
「私、少し楽になったら、会えるっていう意味だと思って」
『分かった』
「それ以上は、聞いていません」
治る方法が見つかったのかと、尋ねていればよかったのだろうか。
だが、あのとき彼は、家入の説明を受けたばかりだった。
自分が何か分かったように聞き出すことを、三輪はしたくなかった。
『今話してくれたことは、確認する』
歌姫が言う。
『あとから思い出したことも、すぐ連絡して』
「はい」
通話が終わる。
三輪は携帯電話を握り直した。
もう一度、彼へかける。
応答はなかった。
*
水の音がした。
幸吉は、狭い視界の向こうに立つ二つの影を見た。
一人は、額に縫い目のある男。
もう一人は、人の形をした呪霊だった。
「ようやく会えたね」
真人が、気軽に言った。
「ちゃんと約束は覚えてるよ。君が情報をくれて、俺が身体を治す」
「先に、約束を果たせ」
幸吉は答えた。
「京都校の人間には手を出さない。その条件を含めて、まだ終わっていない」
「分かってるって」
真人は面倒そうに首を傾けた。
額に縫い目のある男が、静かに口を挟む。
「真人。縛りは守るんだ。何が起こるか分からないからね」
幸吉は二人を見た。
ここへ来たことを、三輪は知らない。
歌姫も、知らない。
学校へ出したのは、接続を止める予定と、戻る時刻だけだ。
その時刻を、もう過ぎているかもしれない。
身体が治ったら、すぐに離れる。
そして、今までのことを話す。
罰を受けてもいい。
学校へ戻れなくなったとしても、まず、生きてここを出なければならない。
「じゃ、動かないでね」
真人が近づく。
その手が、幸吉の身体へ触れた。
何かが、内側から動いた。
骨でも、筋肉でもない。
もっと深いところへ触れられ、形を変えられているような感覚だった。
幸吉は息を止めた。
身体が熱い。
痛みとは違う。
ずっと、身体のあちこちにあった痛みが、どこか遠くへ引いていく。
皮膚の感覚が変わる。
腕がある。
指が動く。
脚が、そこにある。
幸吉は目を見開いた。
自分の手を、顔の前へ持ち上げる。
五本の指が、思ったとおりに曲がった。
機械の関節音はしなかった。
「ほら」
真人が笑う。
「治ったでしょ」
*
立ち上がるだけで、こんなに視界が変わるのか。
幸吉は、自分の脚で床を踏んだ。
膝が伸びる。
身体を支えられる。
空気が皮膚へ触れている。
その刺激に、苦痛が伴わない。
彼は片手で顔を覆った。
指の腹が、頬へ当たる。
温かい。
自分の手だった。
ずっと欲しかったものが、ここにある。
この身体でなら、教室の椅子へ座れる。
窓を開けられる。
机を挟まず、傀儡のカメラも通さず、相手の顔を見て話せる。
幸吉は手を下ろした。
真人が、まだ目の前にいた。
笑いながら、自分を見ている。
「さて」
呪霊が言った。
「約束は、これで終わりだよね」
幸吉の指が止まった。
額に縫い目のある男は、少し離れた場所で見ている。
止めるつもりはないらしい。
治してもらえば、それで帰してもらえる。
そんな約束は、一度もしていなかった。
幸吉は足を引いた。
初めて自由になった脚が、床を滑る。
それと同時に、遠くの機構へ呪力を送った。
まだ、終わっていない。
この身体で、外へ出る。
行きたい場所がある。
話さなければならない相手がいる。
真人の腕が、ぐにゃりと形を変えた。
*
車が止まるより先に、三輪はシートベルトを外しかけ、手を止めた。
藤村が完全に停車させるのを待つ。
「ここからです」
「ありがとうございます」
降りると、歌姫が入口の前に立っていた。
「三輪」
「先生」
彼女の手には、幸吉が更新した図面がある。
入口の奥は暗い。
三輪が足を踏み出すと、歌姫が先に言った。
「中は確認済み。でも、機材は調べている途中だから、触らないで」
「はい」
三輪は頷き、中へ入った。
初めて来る場所だった。
幸吉が暮らしていた場所。
そう言われなければ、自分には分からない部屋だった。
寝台。
壁に沿った配線。
身体を支えるための器具。
そこで彼が毎日、痛みに耐えながら学校へ繋がっていたのだと、三輪はようやく目で見て知った。
「幸吉くん」
呼んでも、返事はない。
三輪は携帯電話を取り出した。
もう何度も見た連絡先。
画面の名前は、まだメカ丸のままだった。
呼び出す。
部屋のどこからも、音はしなかった。
三輪は耳へ電話を当てたまま、空いた寝台を見た。
具合がよくなれば、会える。
そう思っていた。
だから、近くの静かな場所を探そうとした。
けれど、今は、どこにいるのかさえ分からない。
呼び出しが切れる。
三輪は携帯電話を下ろした。
「先生」
振り返ると、歌姫がこちらを見た。
「私も、探します」
「ええ」
歌姫は頷いた。
「一緒に探すわ。まず、ここから何が分かるか確かめる」
三輪は刀袋の紐を握り直した。
斬る相手は、まだ見えていない。
踏み込むべき場所も、まだ分からない。
だから、目の前にあるものを見る。
彼が残した図面と、動いたままの機材。
そこから先を、探す。
約束した場所へ行くには、まだ、彼の返事が必要だった。