真人の腕が伸びた。
刃物のように薄くなった指先が、幸吉の首へ迫る。
幸吉は床を蹴った。
身体が、思ったとおりに動いた。
そのことに驚いている暇はなかった。背中から水へ落ちる。衝撃と冷たさが、いっぺんに皮膚へ広がった。
痛くない。
いや、痛みはある。床へ触れた肘も、水を打った背中も、確かに痛い。
けれど、それは生まれてからずっと身体を覆っていた痛みとは違った。
動いたから、ぶつかったから生じる痛み。
避ければ、次は受けずに済む痛みだった。
幸吉は水の中で身体をひねった。
上から真人が覗き込んでいる。
「動けるじゃん」
楽しそうな声だった。
幸吉は返事をしなかった。
水底へ向けて呪力を送る。
隠してあった機構が動き、太い腕が水面を突き破った。
*
真人の足元で、床が割れた。
水と瓦礫が跳ね上がる。その間を、幸吉の身体を包んだ機械の腕が上昇した。
真人は軽く跳び、壁を蹴って距離を取る。
「へえ。そんなものまで用意してたんだ」
幸吉は腕の内側を駆け上がり、開いた搭乗口へ飛び込んだ。
走れる。
脚が自分の体重を支える。
今まで傀儡を動かすことで知っていたはずの動作が、自分の身体で行うと、まるで違うものに感じられた。
手すりを握る指。
金属を踏む足裏。
息を吸う胸。
全部が、自分のものだった。
座席へ身体を収め、固定具を下ろす。
正面の表示が次々に点灯した。
究極メカ丸、絶対形態。
この日のために、長い時間をかけて準備したものだった。
身体を動かすことのできなかった年月。
その間に蓄えた呪力を、機体の内部へ封じてある。
使えば、減る。
取り戻すには、また時間がかかる。
だから、ここで無駄にはしない。
生きて、ここを出るために使う。
巨大な機体が立ち上がった。
天井を押し破り、外の光が差し込んでくる。
幸吉は一瞬、目を細めた。
空だった。
機械の視界で何度も見た空。
それを、自分の目が見ていた。
*
「ずいぶん大きいね」
真人は崩れた建物の上へ着地した。
その後ろ、少し離れた場所に、夏油傑の姿をした男が立っている。
額の縫い目は、遠目にも見えた。
幸吉は外部音声を開いた。
「取引は終わった。もう、お前たちに協力する理由はない」
「うん。だから、今度は遊ぼうって言ってるんだよ」
真人が笑う。
幸吉は機体の腕を上げた。
掌の中央へ呪力が集まる。
照準を合わせる。
真人は、こちらが何をするか見ている。
それなら、最初の一発は当てられる。
掌から、光が走った。
呪力の奔流が建物の一部を呑み込み、地面を削る。
真人の姿が、その中へ消えた。
幸吉は撃ち終わるより先に、別の画面を開いた。
通信。
まず、学校へ繋ぐ。
何があったかを伝える。
自分が何をしていたかも、敵が誰なのかも。
すべて、話す。
接続要求を送る。
返答はなかった。
画面に警告が出る。
外部への通信が、遮られている。
幸吉は顔を上げた。
空の色が、変わっていた。
薄暗い膜が、周囲を包んでいる。
帳。
外へ出られるかどうか以前に、まず声を閉じ込められていた。
*
煙の中から、小さな影が飛び出した。
真人だった。
身体を獣のように変え、瓦礫を足場に跳ぶ。
幸吉は機体の左腕を振った。
太い拳が真人を捉え、横へ叩き飛ばす。
だが、真人は空中で身体を変えた。
腕が翼のように広がり、姿勢を立て直す。着地したときには、すでに人の形へ戻っていた。
「派手だけどさ」
真人が自分の肩を回した。
「それで俺を倒せるの?」
幸吉は答えない。
普通の攻撃だけでは足りないことは、分かっていた。
真人は魂へ触れ、身体の形を変える。
損傷した身体を、魂の形に合わせて戻す。
大きな呪力をぶつければ、それで確実に祓える相手ではない。
だから、そのための手段も用意した。
機体の腕の中で、小さな筒が送られる。
簡易領域を封じたもの。
数は限られている。
ここで使い切れば、その先の対抗手段が減る。
真人が地面を蹴った。
身体を細くし、機体の足元へ潜り込む。
幸吉は右膝を引き、踏みつけるふりをした。
真人が避ける。
その先へ、左の掌を向けた。
呪力を絞った砲撃。
大きく広げず、進路へ撃ち込む。
真人が上へ跳んだ。
機体の胸部へ手をかけ、そのまま搭乗口を目指す。
狙いは、幸吉自身だった。
「そこか」
幸吉は左腕を戻した。
掌の内側に、真人を包むような空間を作る。
封じた筒を、作動させた。
小さな領域が開く。
真人の表情が変わった。
次の瞬間、機体の指が閉じた。
肉を潰すような、短い音。
真人は腕を失いながら、指の隙間から抜け出した。
地面へ落ち、膝をつく。
「……今の、何?」
笑いが、少し薄れていた。
幸吉は息を吐いた。
一つ。
残りの数を確認する。
効く。
だが、知られた以上、次は同じように近づいてこないだろう。
勝つにも、逃げるにも、相手の次の動きを見なければならなかった。
*
療養場所では、歌姫が補助監督の報告を聞いていた。
「移動に使われたと思われる痕跡が見つかりました。ただ、道路へ出たあたりで分かりにくくなっています」
「周辺の車の出入りも確認して。本人の身体では、ここから一人で遠くへ動くのは難しいはずよ」
三輪は、部屋の入口でその話を聞いていた。
幸吉が普段使っていた機材は、記録を残しながら確認されている。
表示の一部は、まだ動いていた。
「先生」
三輪は歌姫を見る。
「この機械、学校と繋がっているものだけじゃないんですよね」
「ええ。傀儡の操作や、別の場所の設備も含まれているみたい。ただ、私たちには、全部は分からない」
歌姫は図面へ視線を落とした。
幸吉が書き込んだ、予備の通信設備。
そこから伸びる配線は、入口脇のものとは別になっていた。
補助監督が、表示を確かめる。
「こちら、外部の設備との接続記録が残っています」
「場所は分かる?」
「登録されている名称だけです。位置の情報は、まだ確認できていません」
三輪は画面へ近づきかけ、足を止めた。
触ってはいけない。
分からないまま操作すれば、手がかりを消すかもしれない。
「幸吉くん、自分の身体がある場所と、傀儡を置いている場所は違うって、言っていました」
三輪は覚えていることを話した。
「学校にいる傀儡だけじゃなくて、別のものも動かしているなら……そこに、行っている可能性はありませんか」
「あるわね」
歌姫は頷いた。
「ただ、場所を一つに絞る根拠はまだない。記録を調べながら、周辺の確認も続ける」
補助監督が別の機材へ連絡する。
三輪は、その横で立っていた。
刀を持って走ることならできる。
けれど、向かう先が分からなければ、何も始まらない。
その事実が、胸の奥へ重く残った。
*
機体の装甲が裂けた。
真人の腕が槍のように伸び、右肩の関節へ突き刺さる。
幸吉は機体を捻り、装甲ごとそれを引き剥がした。
右腕の動きが鈍る。
表示が赤く変わった。
真人は、簡易領域を仕込んだ掌へ近づかない。
機体の可動部を狙い、姿を変えながら少しずつ削ってくる。
幸吉は砲撃を放った。
真人が地面へ伏せる。
爆風の向こうで、細い身体が走った。
幸吉は照準を追わせかけ、やめた。
真人の身体の一部が、地面へ残っている。
囮だ。
本体は、機体の足元へ回っていた。
左腕を下ろす。
爪のように変わった手が、掌の縁を削る。
幸吉は指を閉じず、横へ払った。
真人が飛ぶ。
その着地へ、足を踏み込んだ。
地面が割れ、真人の姿勢が崩れる。
幸吉は砲撃を続けなかった。
今必要なのは、ただ大きく撃つことではない。
相手が避けた先へ、次の攻撃を置く。
三輪の映像を、一緒に見たときのことを思い出した。
逃げた相手へ追いつくより前に、その進路へ剣を運んでいた。
自分に同じ剣は使えない。
だが、機体の腕と脚、残された呪力で、選択を狭めることはできる。
左から払う。
真人が下へ潜る。
そこへ、右足。
さらに奥へ跳ぼうとした身体へ、損傷した右腕を向ける。
真人が、一瞬だけ止まった。
幸吉はその間に、通信画面へ目を走らせた。
まだ、繋がらない。
帳の外へ出るか。
あるいは、外へ通じる場所を一瞬でも作るか。
ここで真人を倒せたとしても、もう一人がいる。
そのことを忘れるわけにはいかなかった。
*
夏油傑の姿をした男は、戦いを眺めていた。
自ら前へ出る様子はない。
それが、かえって幸吉を追い詰めていた。
真人だけなら、機体の出力を集中させることもできる。
だが、もう一人の力も、逃げる経路も、分からない。
そして、三輪たちは、まだ何も知らない。
幸吉は正面を見たまま、外部設備へ短い命令を送った。
帳の中に置いた予備の傀儡。
戦闘用ではない、小さな機体だ。
これまでは、外周の確認に使っていた。
その一つを、地面へ沿わせて動かす。
目立つ動作をさせない。
自分の機体へ真人の注意が向いている間に、建物の陰から出す。
学校の受信機へ届かなくても、療養場所の予備設備へは繋がるかもしれない。
そこから学校へ、中継できれば。
幸吉は呼吸を整えた。
治ってから、全部自分で片づけるつもりだった。
敵を倒して、情報を持ち帰り、それから、謝るつもりだった。
だが、それは、今この場所で死ねば何も残らない考えでもあった。
救援を呼ぶ条件。
生徒たちへ説明した言葉が、頭をよぎる。
続行が危険だと判断したとき。
一人では対応できないとき。
声で伝えられなくても、まず通知する。
幸吉は、予備機の送信を作動させた。
*
「反応がありました」
補助監督の声に、三輪は顔を上げた。
歌姫がすぐに画面へ寄る。
「本人?」
「まだ分かりません。予備設備に外部から接続要求が入りました。ただ、途中で切れています」
「記録は?」
「残っています。接続元の識別もあります」
部屋の空気が変わった。
それまで動かなかった画面に、短い文字列が表示されていた。
三輪には、意味が分からない。
歌姫も同じだった。
しかし、通信担当の補助監督は、別の用紙を取り出した。
「登録機材の一覧と照合します」
紙をめくる音がした。
三輪は息を止めそうになり、ゆっくり吐いた。
急かしても、照合は早くならない。
目の前で調べてくれている人の邪魔をしない。
「これです。外部の中継用機体。配置先の記録があります」
「現在地は?」
「固定配置の記録なので、今も同じ場所かは分かりません。ただ、この周辺です」
地図が開かれる。
山の間に、古い設備用の道路が一本伸びていた。
その先に、閉鎖された施設の印がある。
歌姫は携帯電話を取り出した。
「現地へ確認を。場所は送ります。五条にも連絡して」
三輪は刀袋を手に取った。
歌姫がこちらを見る。
「三輪は私と行くわ。藤村さん、車をお願い」
「はい!」
三輪は頷いた。
手がかりが一つ見つかっただけだ。
そこに幸吉がいると、決まったわけではない。
それでも、今は向かう先ができた。
*
予備機の映像が、突然、暗くなった。
幸吉は歯を食いしばった。
最後に見えたのは、地面へ落ちる影だった。
もう一人が、動いた。
夏油の姿をした男が、建物の陰から小さな残骸を拾い上げている。
「こんなものも用意していたのか」
穏やかな声が、外部音声から聞こえた。
「連絡が欲しかったなら、そう言ってくれればよかったのに」
幸吉は返事をしなかった。
接続は、一瞬だけ通った。
何が届いたかは分からない。
音声も送れなかった。
位置情報も、完全には渡っていないかもしれない。
だが、要求は送った。
それまで、何もなかった画面の向こうへ。
真人が機体の腕へ飛び乗った。
「よそ見してる場合?」
幸吉は左腕を振り上げる。
真人を振り落とし、機体の胸部を守る。
まだ、身体は動く。
この機体も、立っている。
残りの呪力を確かめ、幸吉は次の筒を送った。
もう、全部を一人で終えることにこだわらない。
誰かが気づいてくれるまで。
声が届くところへ出られるまで。
自分がしたことを、自分の口で話すまで。
生きる。
*
車の中で、三輪は地図を見ていた。
細い道路。
途中で舗装の切れる区間。
施設の入口へ向かう道は、一つしか記録されていない。
「この先は、車で進めない可能性があります」
藤村が言った。
「分かりました」
歌姫は通信を確認している。
現地へ近い術師にも連絡が入った。五条も事情を把握し、移動を始めているという。
三輪は刀を袋から出し、鞘ごと抱え直した。
車窓の向こうで、山の稜線が近づく。
もう一度、幸吉へかけてみた。
返事はなかった。
だが、さっきとは少し違う。
彼の機材から、外へ向けた接続要求があった。
それが自動のものか、本人が送ったものかは、まだ分からない。
三輪は携帯電話をしまった。
道が曲がる。
その先で、鳥が一斉に飛び立った。
少し遅れて、遠くから低い音が聞こえる。
雷ではない。
山の向こうで、何かが崩れた音だった。
三輪は顔を上げた。
歌姫も、同じ方向を見ている。
「藤村さん、ここで止めて」
車が減速する。
三輪は鞘を握った。
まだ、幸吉の姿は見えない。
けれど、その先に戦いがあることは、もう分かった。
車が止まる。
扉を開けると、湿った土の匂いがした。
三輪は地面へ足をつき、音のした方向へ目を向けた。