「東堂君にも、ですか」
受話器の向こうで、しばらく声が途切れた。
翌朝、歌姫は三輪の指導に当たっていた人物へ電話をかけていた。入学手続きの際にも一度話している。そのときは、よく稽古をする、素直な子だと聞いた。
今も、その説明が間違っていたとは思わない。
ただ、随分と足りなかった。
「術式を使った二本目も、三輪さんが取りました。昨日の映像も送っています」
「今、見ています」
小さく、何かを操作する音がする。
歌姫は机の上に、入学時の資料を広げた。
「一つ、確認させてください。三輪さんには、こちらで実力を抑えるように指示しましたか?」
「いいえ。人に怪我をさせないように、とは言いましたが」
「そうですか」
「加減はできます。その子は」
映像の再生音が止まった。
「私では、もう確かめられなくなっていたんです。どこまで動けるのか」
歌姫はペンを置いた。
「……いつからですか」
「最初に一本を取られたのは、基本の打ち込みを教え終えたころでした。もちろん、最初は私も、稽古として受けていました。それで少しずつ難しくして、癖を直して、次には同じ入り方をさせないようにして」
声が、わずかに笑った。
「次には、直っているんですよ。こちらがそう言った理由まで、分かっている。いずれは追い越されると思いましたが、あれほど早いとは」
「では、入学前にはもう、勝てなかったと」
「ええ。手を抜いてもらって、ようやく稽古が続くくらいには」
歌姫は、昨日の三輪を思い出した。
東堂の手が合わさる、その前へ入った足。
同じことをすれば止められると分かってからも、身体がそちらへ動いてしまう。三輪の剣には、そういうところがあった。
「報告書に、もう少し詳しく書いていただきたかったです」
「すみません。ただ、私が勝てないという話と、東堂君に勝つという話は、同じではないでしょう」
それは、そうだった。
指導者が自分の教え子を高く評価することも珍しくない。歌姫自身、書類にどんな文言があれば、昨日を予想できたかと問われれば困る。
「教えた内容と、最後の稽古の様子をまとめて送ってください。できれば、こちらへ来ていただける日も」
「分かりました。……あの子、何か困ってはいませんか」
その質問だけ、先ほどまでと調子が違った。
歌姫は窓の外へ目を向ける。
朝の校舎には、まだ人影が少ない。
「今のところは。授業もきちんと受けています」
「それなら、よかった」
「ただ、遠慮していることはあるかもしれませんね」
「そういうところはあります。家のことになると特に。必要な物でも、なくて済ませようとするので」
歌姫は、そのことも書き留めた。
「気にかけておきます」
礼を交わして電話を切る。
手元には、三輪が何をできるかという記録と、何を聞いておくべきかという覚え書きが残った。
歌姫は両方を、一緒に資料へ挟んだ。
*
「ここだ」
メカ丸の声に合わせて、画面が止まった。
教室のモニターには、昨日の稽古が映っている。歌姫の許可を得て、授業の前に見せてもらえることになっていた。
三輪は机に手をつき、少し身を乗り出した。
画面の中では、自分と東堂が向かい合っている。
「次で入れ替わる」
映像が動く。
東堂の手が合わさり、二人の位置が変わった。
三輪は目を細めた。
「……あ、本当だ」
「何がだ」
「足。向きは、変わってないんだね」
入れ替わる直前に下ろそうとしていた足は、移った先で、そのまま同じ方を向いている。昨日は身体を回して対応したが、あの瞬間に何が変わって、何が変わらなかったのかまでは見えていなかった。
「少なくとも、昨日の二回はな」
「うん」
場所が変わった直後の自分を、もう一度見せてもらう。
真依が、後ろの席から声をかけた。
「勝ったのに、そんなに見ることある?」
「あるよ。次は同じようにやらせてもらえないかもしれないし」
「東堂先輩と、まだやるつもり?」
「約束しちゃったから……」
あのとき西宮が何とも言えない顔をした理由は、今なら少し分かる。
三輪は画面から顔を上げて、メカ丸を見た。
「ありがとう。見られてよかった」
「まだ続きがあるが」
「あ、でも、授業の準備もしないと」
「あと四分ある」
教室の時計を見る。
確かに、四分あった。
「じゃあ、もう一回だけ。最初のところから、お願いしてもいい?」
メカ丸が端末を操作する。
真依は頬杖をつき、今度は自分も画面へ目を向けた。
*
その日の午後、一年生の三人は、車で校外へ出た。
向かったのは、使われなくなった研修施設だった。門の脇に、色の褪せた案内板が残っている。建物は三階建てで、周りを低い塀に囲まれていた。
「今日は講習です。呪霊の調査と祓除は済んでいますが、勝手に別の場所へ行かないこと」
車を降りた歌姫が説明する。
担当の補助監督が門の鍵を開け、その隣で西宮が箒を持ち直した。今日は先輩として、一年生の実習を手伝うのだという。
三輪は肩から下げた刀袋を、身体の脇へ寄せた。
「刀は、そのままでいいですか?」
「ええ。今日は抜かずに終える予定です」
歌姫は全員を門の内側へ入れてから、補助監督へ頷いた。
短い呪詞が唱えられる。
頭上から、黒いものが下りてきた。
三輪は思わず空を見上げた。
明るかった敷地が、薄暗くなる。遠くの車の音は聞こえるのに、塀の向こうは見えなくなっていた。
「これが帳です」
補助監督が言った。
「今日は、中で何をしているか外から分からないようにしています。出入りを禁じる条件はつけていません」
「条件で、変えられるんですか?」
三輪の質問に、補助監督が頷く。
「はい。ですから、帳を見たという連絡だけで、性質まで伝わるわけではありません。入れたのか、出られたのか。それも現場の大事な情報です」
三輪は手帳を開きかけた。
「最初は見て。あとで書く時間を取るから」
歌姫に言われ、手を止める。
「はい」
「まず、建物の入り口と、敷地の出口を確認しましょう」
西宮が一同の前へ出た。
「正面の門以外にも、裏に通用口があるの。あと、右側の塀に壊れてるところがあるから、そこは近づかないでね」
短い説明のあと、西宮が箒にまたがった。
ふわりと、その身体が浮き上がる。
「わ……」
三輪の声が漏れた。
西宮が振り返る。
「どうしたの?」
「あ、すみません。飛べるんだ、と思って」
「上から見た方が分かりやすいこともあるからね。戻ったら、どこが見えなかったかも教える」
箒が建物の上へ昇っていく。
三輪はつい目で追いかけ、真依に袖を引かれた。
「こっちは、こっち」
「あ、うん」
三人で玄関へ向かう。
強くなっても、ああいうことができるようになるわけではない。
便利そうだし、少し羨ましかった。
*
最初の課題は、建物の見取り図を確かめることだった。
渡された図面には、廊下と部屋と階段が記されている。ただし、使えない通路や、置きっぱなしになった家具までは載っていない。
実際に歩いて、通れる場所を確認していく。
三輪は二階の廊下で立ち止まった。
行き止まりに見える場所の手前に、細い扉がある。
「ここも、開けて確認するんですよね」
「ええ。ただし、先に」
歌姫が続きを待つ。
三輪は、扉から一歩離れた。
「扉の向こうに何かいないか、ですか?」
「それも。今、一緒にいる二人がどこにいるかは?」
振り返る。
真依はすぐ後ろ。メカ丸は廊下の反対側で、別の扉を確認していた。
三輪は声をかけた。
「メカ丸。こっち、開けるね」
「少し待て。そちらへ行く」
戻ってきたメカ丸を待ってから、扉を開ける。
中は狭い物置だった。窓はなく、棚には空の箱がいくつか残っている。
「何かあったら、すぐ戻ればいいと思ってました」
三輪が言うと、歌姫は物置の中を見ながら頷いた。
「戻れるとしても、二人から見えなくなったでしょう。呼びに来るか、待つか、その判断が必要になるわ」
「……はい」
今の扉なら、開けて中を見て、戻るまでにほとんど時間はかからない。
それでも、こちらが何をするか知らされなければ、待つ方には分からないのだ。
三輪は図面の物置へ印をつけた。
その隣へ、小さく扉の開く向きも書き足す。
「これも要る?」
真依が覗き込んだ。
「帰るとき、向こうに立ってたらぶつかるかもしれないし」
扉は廊下へ向かって開く。
真依はしばらく図面を見てから、何も言わず、自分の紙にも同じ印をつけた。
*
見取り図の確認が終わると、今度は人を運び出す練習になった。
被救助者に見立てた人形を二階から玄関まで運ぶ。建物の中には敵がいる想定で、歌姫が途中で条件を加える。
三輪は人形の脇へしゃがんだ。
背負って走れば、すぐに外へ出られる。
そう思って、手を止めた。
「先生。この人は、怪我をしてますか?」
「倒れていた理由は、分かっていません」
「動かして大丈夫か、先に見た方がいいんですね」
歌姫が頷く。
「実際の確認の仕方は、これから教えます。今は、持ち上げられる重さかどうかだけで決めないことを覚えて」
手順を教わり、用意された担架へ人形を移す。
三輪とメカ丸が前後を持ち、真依が廊下の先へ出た。
階段の手前で、西宮が待っている。
「正面の階段は通れません」
課題の条件が、一つ増えた。
三輪はすぐに、先ほど見た廊下の奥へ目を向けた。
「裏の階段なら――」
「待って。そっちは狭かった」
真依が言った。
「踊り場、これ持って曲がれる?」
担架の長さを見る。
確かに、階段を下りるだけならともかく、途中で向きを変えるには窮屈だ。
三輪一人なら、手すりを越えて下りられる。
今は、それでは駄目だった。
「じゃあ、反対側の渡り廊下から。あっちに、もう一つ階段があったよね」
「そこまでの扉を見てくる。少し待って」
真依が先に進む。
三輪とメカ丸は、人形の傾きに気をつけて担架を下ろした。
何もしていないようで、少し落ち着かない。
けれど、自分が確かめに行けば、今度は担架を運ぶ人数が減る。
「そちらを持ち上げるのが、少し早い」
メカ丸が言った。
「あ、ごめん。傾いてた?」
「次は、声を合わせろ」
「うん。分かった」
ほどなく真依が戻ってくる。
「通れる。扉も開けてきた」
「ありがとう。じゃあ、持ち上げるね。せーの」
今度は、担架が水平に上がった。
*
玄関を出たところで、講習はいったん終わった。
手帳を広げる時間をもらい、三輪は忘れないうちに書き込んでいく。
同じ場所で待つ人を決める。
連絡するときは、自分のいる階と部屋を伝える。
負傷者がいるときは、通れる道も変わる。
隣へ座った真依が、水の入ったペットボトルを開けた。
「あんた、さっき、本気で運ぼうとしてたでしょ」
「最初? うん。背負えると思ったから」
「担架でも、一人で持てそうだったけど」
「持てるよ。でも、揺らさないのは難しいね」
三輪は自分の手を見る。
速く動くことと、横になった人を揺らさずに運ぶことは、同じではなかった。
「真依が先に見てくれて、助かった。あの階段、私だけだったら使ってたと思う」
真依はペットボトルを口元へ運びかけて、止めた。
「……見れば分かるでしょ」
「うん。見たのに、思いつかなかった」
三輪が答えると、真依は今度こそ水を飲んだ。
少し離れたところから、西宮が戻ってくる。
「上からは、裏口の前までは見えた。でも、屋根が出てるところの下は見えなかったよ」
そう言って、三輪の開いた見取り図を指差した。
「ここにいたら、私からは分からない。上にいるから全部見えるって思わないでね」
「はい」
三輪は、示された場所に斜線を引いた。
先輩の箒は、やっぱり便利だった。
けれど、下から伝えなければならないこともある。
紙の上に、最初にはなかった印が増えていく。
*
帰り支度の前に、歌姫が三人を呼び集めた。
「今日やったことは、任務のごく一部です。実際には、分からないことがもっと多いまま動くことになります」
下ろされた帳の向こうに、夕方の空が戻っていた。
「三輪さん」
「はい」
「今朝、あなたに教えていた方と話しました」
「先生と、ですか」
三輪の背筋が少し伸びた。
「また来てくださるそうよ。稽古の様子も、聞かせてもらいました」
「……何か、言ってました?」
「困っていないか、気にしていたわ」
それを聞いて、三輪は少しだけ笑った。
「昨日も、連絡をもらいました。ちゃんとご飯を食べてるかって」
「食べてる?」
「はい。おいしいです」
「それならよかった」
歌姫も笑い、それから、話を戻した。
「あなたの戦闘技術は、引き続き確認します。ただ、それが済んでも、すぐに一人で任務へ出すつもりはありません」
「はい」
「経験のある人と現場へ出て、調査と報告、救助の手順を覚えてもらいます。二人も同じです」
真依とメカ丸が頷いた。
三輪は、書き込みの増えた見取り図を折り畳んだ。
刀を抜けば、目の前の相手には勝てる。
そのことに、迷いはない。
けれど今日、運び出したのは、動かない人形一体だった。敵もいない。通れないと言われた階段も、本当は使えた。
それでも、教えてもらうことはいくつもあった。
「よろしくお願いします」
歌姫へ頭を下げてから、三輪は二人にも向き直った。
「真依も、メカ丸も」
「急に何」
「今日、一緒でよかったなと思って」
真依が、返事に困ったような顔をする。
その横で、メカ丸が言った。
「次は、声をかける前に担架を上げるなよ」
「分かってるって。次はちゃんと合わせる」
三輪が答えると、真依が小さく笑った。
*
学校へ戻ったあと、三輪は借りた道具を片づけてから、刀を部屋へ戻した。
朝には見なかった着信が、携帯電話に残っている。
師からだった。
今朝の電話で、何か心配させてしまったのだろうか。
三輪は机に座り、かけ直した。
「もしもし。霞です。すみません、講習に出ていて」
すぐに、聞き慣れた声が返ってきた。
学校はどうか。部屋に困ったことはないか。新しい刀はまだ買わなくていい、今のを手入れして使うように。
三輪は一つずつ返事をした。
「はい。今日、現場の練習をしました。帳も見せてもらって」
手帳を開く。
担架のことを話すと、電話の向こうで笑われた。
「持てると思ったら、すぐ持ち上げるから」
「今日は、持ち上げる前に聞きました」
「それならいい」
三輪も笑った。
こちらへ来る前、最後の稽古を終えたあとにも、師はあれこれと注意をした。
剣のことではなかった。
困ったら先生へ相談すること。必要な連絡を後回しにしないこと。帰省するときは、前の日ではなく、もっと早く知らせること。
あのときは、何度も聞いているのに、と思っていた。
「先生」
「何ですか」
「同級生、二人とも、ちゃんと話してくれます」
今度は、笑い声がしなかった。
「そう」
「はい。先輩も、いろいろ教えてくれました」
「それはよかった」
少しの間、電話の両側が静かになった。
三輪は手帳を閉じた。
「また、稽古をつけてください」
「学校で、きちんと教わりなさい」
「それとは別です」
師は困ったように息をついて、それから、日程を確かめると言った。
電話を終えたころ、廊下から戸を叩く音がした。
「三輪。歌姫先生が呼んでる」
真依の声だった。
「今行く。何だろう」
「任務の説明だって。まだ行くんじゃないわよ。日程と、持ってく物の話」
三輪は閉じたばかりの手帳を、もう一度鞄へ入れた。
刀袋へ伸ばしかけた手を止める。
今から行くのは、説明を聞くための教室だった。
戸を開けると、真依が腕を組んで待っていた。
「遅い」
「ごめん。先生と電話してた」
「歌姫先生?」
「ううん。剣を教えてくれた先生」
真依が、少しだけこちらを見る。
「何の話?」
「ご飯、食べてるかって」
「子供じゃないんだから」
「そうなんだけどね」
三輪は部屋の鍵をかけた。
真依と並んで、教室へ向かう。
明日からの予定を、一人ではなく、三人で聞きに行くために。