車を降りると、もう一度、山の向こうで音がした。
木々が震え、枝に残っていた水滴が落ちる。
三輪は音の方向を見た。
遠くの空に、薄い膜がかかっている。山の斜面に沿うように下りた、帳だった。
「先生、あそこです」
「見えてる」
歌姫は藤村へ地図を渡した。
「この道を戻れる状態にしておいて。救急の車両が入れるのは、どこまで?」
「下の分岐までなら確実です。その先は道幅が足りません」
「分かった。搬送は、そこを中継にするわ」
三輪は刀袋を車へ置き、刀を腰へ差した。
鞘の位置を確かめ、通信機をつけ直す。
歌姫がこちらを見る。
「帳の内側には、敵がいる可能性が高い。本人が何をしているのかも、まだ分からない」
「はい」
「幸吉を見つけたら、まず状態を伝えて。私たちは後ろから入る。救出したあと、どこへ運ぶかまで確認してから動くわ」
三輪は頷いた。
早く行きたい。
さっきから、ずっとそう思っている。
けれど、連れ出した先に誰もいなければ、負傷した彼を抱えたまま戦うことになる。
「この道を戻れば、藤村さんがいるんですね」
「ええ。途中に確認役も置く。別の道へ出ることになったら、必ず知らせて」
「分かりました」
歌姫が通信機へ手を添える。
「こちら庵。現地の帳を確認。三輪と接近します。五条の現在地は?」
返ってきた声を聞きながら、彼女は山道へ足を向けた。
三輪も隣へ並ぶ。
湿った土の上に、タイヤの跡が残っていた。
*
右腕が、動かなくなった。
機体の表示に警告が重なり、肩の関節から火花が散る。
幸吉は左腕を振り、近づいた真人を押し返した。
足元の水が跳ねる。
真人は崩れたコンクリートへ着地し、そのまま身体を薄く変えて機体の陰へ滑り込んだ。
見失う。
幸吉は機体を回した。
外装を引き裂く音が、すぐそばでした。
真人の指先が、搭乗部の近くまで届いている。
「見つけた」
声が近い。
幸吉は固定具へ背中を押しつけ、左腕を胸元へ戻した。
装甲ごと真人を引き剥がす。
だが、その身体は柔らかく伸び、指の間から抜けていった。
右腕の不調を、相手も把握している。
両側から同時に挟むことができない。
残された簡易領域の筒を確認する。
使えるものは、もう多くない。
幸吉は、一つを左の掌へ送った。
真人は、そこを見ている。
仕掛けがあると知った相手に、同じ手は通じにくい。
ならば、通じないことを使う。
機体の左手を開く。
真人が、その正面から外れた。
幸吉は掌を追わせず、腕をさらに上へ伸ばした。
狙いは、真人ではない。
帳の上方へ向けて、呪力を放つ。
光が膜を叩いた。
周囲の木々が照らされ、黒い空に、わずかな揺らぎが走る。
外へ開いたのか。
完全に破れたのか。
確かめる時間はなかった。
幸吉は、残っている別の小型傀儡へ命令を送った。
通信要求。
短報を優先。
長い説明は入れない。
今いる場所と、敵の情報。
それだけを、外へ。
*
三輪たちが帳の縁へ近づいたとき、通信機が短く鳴った。
雑音が混じる。
歌姫が足を止めた。
『……与……幸吉』
三輪は息を止めた。
いつもの声とは違った。
傀儡の外部音声を通した響きではない。
掠れて、息が混じり、ところどころが途切れる。
『旧……貯水……施設……』
「幸吉! 聞こえる?」
歌姫が呼びかける。
返事はない。
だが、音声は続いていた。
『敵……二体……真人……触れ……るな……』
三輪は通信機へ指を添えた。
「幸吉くん、三輪です。今、近くまで来てる」
雑音が強くなる。
『……すま……』
そこで、途切れた。
呼び出し音も残らない。
三輪はその場から動けなかった。
聞こえた。
彼の名前が。
彼の声が。
けれど、何を謝ろうとしたのかは分からなかった。
「今の音声、記録できた?」
歌姫が別の回線へ尋ねる。
『はい。発信した機材の識別も取れています』
「地図と照合して。旧貯水施設、こちらの北東にあるものね」
『一致します。送信元はその周辺です』
歌姫は三輪へ顔を向けた。
「場所が絞れたわ」
「はい」
三輪の声は、今度ははっきり出た。
「生きています」
「ええ」
「私、先に行きます」
歌姫は一度だけ、地図と帳を見比べた。
道を一緒に歩いていては、三輪の足を止める。
ここから先で必要なのは、すぐに彼へ届く者と、帰る道を確保する者だった。
「北東の施設。人を見つけても、敵の性質が分かるまで不用意に触れないで」
「分かりました」
「私は入口と退路を確保する。五条にも短報を回します」
三輪は頷いた。
左手を鞘へ添える。
足を置く先を見る。
帳の内側へ、一歩踏み込んだ。
*
接続が切れたことを、幸吉は表示で知った。
どこまで届いたのか、分からない。
伝えたかったことの半分も話せなかった。
それでも、最後に何か聞こえた気がした。
自分の名前を呼ぶ声。
近くまで来ている、という言葉。
幸吉は、その声を確かめるように、もう一度接続を試みた。
画面は応答しない。
「今の、何をしたの?」
真人が機体の左腕へ立っていた。
幸吉は顔を上げる。
掌を向けるには近すぎる。
真人の足元へ向け、装甲の一部を切り離した。
金属板とともに、真人の姿が落ちる。
幸吉は機体を後退させた。
貯水池の縁。
水面に、巨大な機体の影が揺れている。
あと少し。
何を根拠に、そう思うのかは分からない。
けれど、もう一度送れれば、次はもっと正確な場所を伝えられる。
生きていれば、できることは残っている。
真人が地面を蹴った。
今度は上へ来ない。
機体の脚へ、腕を突き立てた。
関節の隙間から、変形した肉の刃が入り込む。
警告音。
片膝が折れた。
視界が大きく傾く。
幸吉は左腕を地面へつかせ、機体が倒れ切るのを防いだ。
身体を固定具へ押しつける。
自分の身体は、まだ無傷に近い。
それを包む機体が、次々に壊れていく。
真人は、ようやく手に入れた彼の身体へ、少しずつ近づいていた。
*
三輪は山の斜面を走った。
道を選ぶのは、足を着く一瞬前まで。
濡れた葉を避け、露出した根を踏み越える。
正面の木々の向こうで、光が弾けた。
呪力の砲撃。
その下に、大きな金属の影が見える。
傀儡だった。
普段教室で話しているメカ丸とは、比べものにならない大きさがある。
片腕が垂れ、脚の一部が崩れていた。
三輪は走りながら通信する。
「大きな傀儡を確認しました。北東の貯水池です。戦闘が続いています」
『了解。入口から救助班を入れる。五条もこちらへ向かってるわ』
「はい」
視線を上げる。
機体の近くに、一つ、動く影。
人に見える。
だが、その腕の形が変わった。
細く伸び、次の瞬間には、太い刃のようになる。
幸吉の短報を思い出す。
真人。
触れるな。
三輪は刀を抜かず、まず距離を測った。
今いる斜面から水際まで。
そこから傀儡の脚。
あの高さへ届く足場は、どこにあるか。
傀儡が大きく揺れた。
三輪は進路を変えた。
入口を目指すより、機体の倒れる側へ回った方が早い。
土を蹴る。
目の前に、黒い塊が落ちてきた。
呪霊だった。
道を塞ぐように口を開ける。
三輪は抜いた。
一太刀。
胴を断ち、崩れる前にその脇を抜けた。
続いて、木陰から二体。
鞘を引き、刀を返す。
踏み込みは止めない。
二体が、ほとんど同時に消えた。
わざわざ立ち止まって相手をする必要はなかった。
だが、敵がここへ置いたものなら、自分の接近は、もう知られただろう。
三輪は刀を低く持ち、さらに足を速めた。
*
額に縫い目のある男が、林へ目を向けた。
配置していた呪霊との繋がりが、続けて切れた。
一体ずつ、時間をかけて祓われたのではない。
同じ線の上を、何かが駆け抜けている。
「真人」
男が声をかける。
「そろそろ、終わらせた方がいい」
真人は機体の脚から顔を上げた。
「今、いいところなんだけど」
「三輪霞が来る」
真人の目が、面白そうに細くなった。
「ああ。あの剣の子?」
「そうだよ。今の君が、ここで彼女の相手まで続ける必要はない」
「花御が切られた相手だっけ」
真人は、自分の腕へ目を落とした。
幸吉の簡易領域によって受けた傷は、いつものように、ただ形を戻せば済むものではない。
戦闘の最初ほど、余裕は残っていなかった。
「帰れってこと?」
「準備はする。君は、こちらへ戻れる位置を保って」
男は真人だけでなく、貯水池の周囲を見た。
救援が来たなら、幸吉一人を消して終える段階ではなくなる。
三輪の次には、別の術師が来る。
五条悟が現れる可能性もある。
ここで真人まで失うわけにはいかなかった。
男の足元から、黒い影が広がった。
その中へ、複数の呪霊が潜っていく。
*
機体の胸部に、亀裂が入った。
真人は装甲を削り、搭乗部へ指を差し込もうとしていた。
幸吉は左の掌を胸元へ戻す。
簡易領域を封じた筒が、機構の途中で止まった。
表示が点滅する。
腕の損傷が、送り込みの経路にまで及んでいた。
「くそ……!」
幸吉は手動へ切り替えた。
固定具を外し、座席の脇へ腕を伸ばす。
筒の一本を掴む。
指が滑りかけ、握り直した。
新しく手に入れた手だ。
まだ、思うように扱い切れない。
それでも、掴めた。
真人の指が、装甲の隙間へ入る。
幸吉は身体を横へ倒し、筒を差し込んだ。
小さな領域が開く。
真人が腕を引いた。
直後、機体の外側で声がした。
「また、それか!」
装甲が殴りつけられる。
幸吉の身体が床へ投げ出された。
肩を打つ。
息が止まる。
起き上がろうとした手の下で、金属板が沈んだ。
機体が、倒れ始めていた。
*
三輪が水際へ出たとき、巨大な傀儡は片腕をついたまま傾いていた。
胸の一部が裂けている。
その隙間に、人影が見えた。
男の子。
自分と、同じくらいの年頃。
姿を見たことはない。
それでも、三輪は迷わなかった。
「幸吉くん!」
叫んだ声が、貯水池へ響く。
人影が動いた。
顔を上げた。
その反応だけで、もう十分だった。
三輪は崩れたコンクリートを踏み、機体の脚へ飛び移った。
表面が滑る。
足首を返し、装甲の継ぎ目へ靴をかける。
次の足場へ。
その間にも、機体は傾いている。
急がなければ、搭乗部ごと水へ沈む。
三輪は鞘を左手で押さえ、右手の刀を身体へ寄せた。
肩の外装へ飛びつく。
崩れた部材が、頭上から落ちてきた。
刀を上げる。
支えていた細い接合部を断ち、落ちる向きを外へ変える。
重い金属が、水面を叩いた。
幸吉のいる場所が見える。
その手前で、何かが這い上がった。
人の姿をした呪霊。
真人が、こちらを見た。
「本当に来た」
三輪は返事をしなかった。
相手の手と、肩と、足の位置を見る。
幸吉との間に、どれだけの距離があるか。
次の一歩を、どこへ置けば届くか。
真人は笑いながら、幸吉の方へ向き直った。
*
幸吉は声を聞いた。
機体の外から。
通信機でも、傀儡の耳でもない。
自分の耳へ、直接届いた声だった。
三輪が、自分を呼んでいる。
顔を上げると、裂けた装甲の向こうに、青い髪が見えた。
来てはいけない。
そう言おうとした。
敵がいる。
自分は、彼女たちへ嘘をついていた。
ここへ来た理由も、身体が治った理由も、何一つ話していない。
けれど、声になるより先に、真人が降りてきた。
「じゃあ、最後に」
腕が伸びる。
細い刃ではなかった。
開いた、人の手。
その掌が、幸吉へ向かう。
触れられてはならない。
幸吉は身体を引いた。
背中が機体の壁へ当たる。
もう、後ろへは下がれない。
残った筒を持ち上げようとする。
肩が痛む。
指が、間に合わない。
真人の掌が、目の前まで来た。
その軌道を、銀色の線が横切った。
手首が離れる。
斬られた先が、幸吉の頬へ触れる直前で弾かれた。
続いて、足音がした。
彼と真人の間へ、一人分の影が入る。
三輪だった。
左足を前に置き、刀を下げず、真人へ向けている。
息は上がっていた。
けれど、切っ先は揺れていなかった。
「三輪……」
幸吉が呼ぶ。
彼女は顔を向けなかった。
相手から目を離さず、短く答えた。
「うん。来たよ」
真人の腕が、切断面から動き始める。
三輪は、ほんの半歩、幸吉へ近づいた。
その身体を、自分の背中の後ろへ収めるように。
「先生たちも、すぐ来るから」
それから、刀を構え直した。
幸吉の目の前に、今度は彼女の背中があった。