出発の朝、三輪は鞄を閉めてから、もう一度開けた。
携帯電話。予備の電池。筆記用具。飲み物。
昨夜の説明で言われた物は、全部入っている。
刀も、手入れを済ませた。
鞄の口を閉めたところで、廊下から声がした。
「まだ確認してるの?」
戸を開けると、真依が立っていた。
「忘れ物、ないかなと思って」
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日あっても、今日出したかもしれないし」
「出したの?」
「……出してない」
真依が呆れた顔をする。
三輪は鞄を肩へかけ、刀袋を手に取った。
鍵をかけると、今度は探さずに済むよう、鞄の内ポケットへ入れる。
今日は、本当の任務だった。
*
目的地は、市街地の外れにある古い建物だった。
以前は営業所として使われ、今は一階の事務室と地下の倉庫だけを、ときどき管理会社が利用しているらしい。
夕方に人のいない地下から音がする。入った作業員が、ひどい吐き気を訴えた。
車の中で聞いた話を思い返しながら、三輪は窓の外を見た。
建物の脇には、荷物を下ろすための坂道がある。地下へ、そのまま車で入れる造りだった。
「事前の調査では、三級相当の呪霊と判断しています」
車を止めた補助監督が、後部座席を振り返った。
「ただし、地下には物が多く、奥までは確認できていません。連絡が入りにくい場所もあります」
「建物の中に、人は?」
歌姫が尋ねる。
「今朝、管理会社へ確認した時点では、今日の使用予定はないとのことです。こちらでも、もう一度確かめます」
歌姫が頷き、三人へ向き直った。
「私は一緒に入ります。まずは調査。状況が違えば、いったん戻ること。分からないまま奥へ進まないでね」
三輪たちは返事をした。
車を降り、帳が下りるのを待つ。
昨日と違って、西宮はいない。上から様子を見てもらうことはできなかった。
三輪は建物の側面を見上げ、それから、地下へ続く坂道へ目を戻した。
「メカ丸、入口の先を見てもらってもいい?」
「分かった。お前たちは、少し後ろにいろ」
メカ丸が先に進む。
真依は、その右後ろについた。手には拳銃がある。
三輪も刀袋を外し、鞘を左腰へ差した。
歌姫が最後に、外の補助監督へ連絡を入れた。
「四人、地下の搬入口から入ります。通信が切れたら、まず入口で確認を。こちらから定時連絡がなければ、追加の手配をお願いします」
聞こえた返答を確かめてから、歌姫も歩き出す。
坂道を下りるにつれて、外の明るさが背中へ遠ざかった。
*
シャッターは、半分ほど開いていた。
脇の通用扉も、鍵が開いている。
メカ丸が扉を押し、内側を確かめた。
「入口付近に、動いているものはない」
中は、古い紙と湿った埃の匂いがした。
天井には何本も配管が走り、その下へ金属製の棚が並んでいる。壁際には段ボール。中央の通路には、台車が一台。
その台車の上に、開いたままの工具箱があった。
三輪は、すぐに歌姫を見た。
「先生。これ」
「ええ」
埃の積もっていない工具。床に置かれた、新しい缶コーヒー。
誰も来ていない場所には見えなかった。
歌姫が補助監督へ連絡する。
少し途切れた声が返った。
『……会社から、今。別の担当が、点検の依頼を……二名、こちらへ向かったと』
「到着の確認は?」
『取れていません。電話も――』
音が切れた。
歌姫が入口へ半歩戻る。
そのときだった。
倉庫の奥で、何かが擦れた。
段ボールが、一つ落ちる。
それから、棚の陰で、長い指が動いた。
「下がって」
歌姫が言う。
三輪は右足を引き、二人の前へ出た。
棚の上から、顔が覗いた。
人の頭が、横に引き伸ばされたような顔だった。耳のあるはずの場所まで口が裂け、濡れた歯が重なっている。
身体はまだ、見えない。
天井の暗がりへ、何本もの腕が伸びていた。
見た目は、気持ちが悪かった。
けれど、どこまで届く腕なのかは分かる。
三輪は鯉口を切った。
「三輪さん、退路を確保して。二人は入口へ」
「はい」
呪霊が口を開ける。
天井に張りついていた腕の一本が、棚を越えて飛んできた。
三輪の右手が動いた。
金属の擦れる音が、短く響く。
伸びてきた腕が、手首の少し上で切れた。
断面から黒いものが散り、指先が床へ落ちる前に崩れた。
三輪は刀を戻さず、そのまま身体の前へ下ろした。
腕の一本が切れても、呪霊は棚から離れなかった。
奥で、何かを引きずる音がした。
「……だれか」
声だった。
呪霊の口とは、別の場所から聞こえた。
「先生。奥に、人がいます」
「分かった。メカ丸、場所を確認できる?」
入口近くまで戻っていたメカ丸が、棚の側面へ回る。
真依が拳銃を上げた。
「三輪、左に出ないで。そこ、私が見る」
「うん」
三輪は左足を動かしかけていたのを止め、正面の呪霊へ向き直った。
細い腕が、二本、棚の隙間から伸びる。
一本は三輪へ。
もう一本は、メカ丸の方へ。
乾いた銃声がした。
メカ丸へ向かった腕が、途中で折れる。
三輪は自分へ来た腕を切り落とし、棚の端へ半歩寄った。
前へ出れば、胴まで届く。
ただ、その胴が、何を押さえているのか分からなかった。
「二人いる」
メカ丸の声がした。
「一人は棚の奥。もう一人は、その手前で倒れている。呪霊の身体が、棚の上に被さっている」
「棚は?」
三輪が尋ねる。
「傾いている。右側の支柱が外れているな」
歌姫が短く指示を出した。
「私は奥へ回る。真依、こちらへ腕が伸びたら止めて。メカ丸は手前の人を。三輪さん、その位置を保てる?」
「はい。大丈夫です」
呪霊の喉が膨らんだ。
太い腕が、天井から剝がれる。
配管に触れ、錆の粉が落ちた。
三輪は切っ先をわずかに上げた。
*
倉庫へ響いたのは、重い打撃音ではなかった。
刀が通る、細い音だった。
上から来た腕が、三輪の頭へ届く前に切れる。
横から回った腕も、その後ろから伸びた指も、同じところで失われた。
三輪はほとんど、立つ場所を変えていない。
鞘を握る左手も、肩も、余計に動かさない。
真依は銃を構えたまま、その横顔を見た。
東堂との稽古では、木刀だった。
何かが止まるたびに歌姫が声をかけ、二人は距離を取った。
今は、止める声がない。
相手も、打たれたところで退かない。
それでも、三輪の前を通る腕はなかった。
「真依、そっちに一本」
「見えてる」
棚を這った細い腕へ、真依が撃つ。
銃弾が当たった腕を、メカ丸が踏みつけた。そのまま倒れていた男性の脇へしゃがみ、声をかける。
男性が、小さく返事をした。
「動かせる。先に出すぞ」
メカ丸が男性を支えて、入口の方へ戻る。
歌姫は棚の奥へ身体を入れていた。
「足が挟まってる。三輪さん、まだ待って」
「はい」
呪霊が身を捩った。
傾いた棚が、きしむ。
三輪の目が、胴の下へ向いた。
いま斬れば、身体が崩れる。その重みがなくなった瞬間に、棚がどちらへ動くか。
床に這う腕を切り、三輪は声をかけた。
「先生。そちらへ倒れそうなら、支えます」
「大丈夫。足は抜けた。今、こちらへ移す」
歌姫の声のあとに、靴が床を擦る音がした。
呪霊が、そちらへ顔を向ける。
三輪が一歩、踏み込んだ。
切っ先が、呪霊の顎の下を通る。
口から伸びかけたものが切れ、呪霊の顔が三輪へ戻った。
「三輪、右側、空いてる」
真依が言った。
移された男性と歌姫は、左奥にいる。
メカ丸と、もう一人は入口の脇。
右の荷下ろし用の空間には、誰もいなかった。
「二人とも確保したわ」
歌姫の声がする。
三輪は頷いた。
「斬ります」
それだけ言って、右へ回った。
呪霊の目が追ってくる。
残った腕が、まとめて動いた。
三輪はその下へ入った。
刀を持つ手が、身体の横へ引かれる。
足が、床を捉える。
次の瞬間には、刀身は反対側へ抜けていた。
呪霊の身体が、斜めにずれた。
天井へ伸びていた腕が垂れ、顔が口を開いたまま、右側の床へ落ちていく。
三輪は刀を返し、棚へ絡んでいた最後の腕を切った。
外れた支柱が鳴る。
彼女は鞘を持つ左手で棚の枠を受け、倒れないところまで押し戻した。
床へ落ちた呪霊は、もう形を保っていなかった。
黒い輪郭がほどけて、コンクリートの染みの上へ消えていく。
棚を壁へ預けてから、三輪は歌姫の方を見た。
「怪我、ありませんか?」
*
助け出された男性二人は、補助監督の手配した救急車へ引き継がれた。
地下で作業を始めて間もなく、急に気分が悪くなったらしい。そのあと棚が倒れ、出られなくなったのだという。
何がいたのかは、二人にもはっきり見えていなかった。
ただ、奥に残されていた男性が、歌姫へ何度も頭を下げていた。
三輪たちは再び地下へ戻り、ほかに人がいないことと、呪霊の残りがないことを確かめた。
終えて地上へ出るころには、三輪の靴は埃で白くなっていた。
「三人とも、こっちへ」
歌姫が車のそばで呼ぶ。
「まず、怪我は?」
それぞれが答える。
メカ丸の腕には擦れた跡があったが、動きに支障はないという。
歌姫は全員を見てから、短く息を吐いた。
「事前の情報より、危険度が高い現場でした。詳しい判定は記録を確認してからだけど、少なくとも、予定していた三級の調査としては扱えません」
三輪は頷いた。
「人がいる可能性が分かった時点で、外への連絡と増援の要請は入れています。救助へ動く判断をしたのは私です。報告にも、そう書きます」
歌姫は、三輪の左手へ目を落とした。
「棚を支えたとき、痛めなかった?」
「大丈夫です。手も、切れてません」
手のひらを見せると、歌姫は確かめてから頷いた。
「三輪さんが前を守ってくれたから、奥の人を出せました。ありがとう」
「いえ。皆さんの場所が分かったので」
三輪は二人を見た。
「メカ丸、奥、よく見えたね」
「お前が正面を引き受けていたからな。棚の横へ回れた」
「そっか。……真依も、ありがとう。左から来るの、任せられたから助かった」
「こっちに出ないって、言ったでしょ」
「うん。だから、出なかった」
真依は、言葉を探すように口を閉じた。
歌姫が三人へ、車に乗るよう促す。
「細かい話は、学校に戻ってから。まず水を飲んで、少し休みましょう」
三輪は刀袋を座席の脇へ収め、鞄から飲み物を取り出した。
一口飲んで、もう一口飲む。
思っていたより、喉が渇いていた。
*
帰り道の途中で、歌姫が消耗品を買うために車を止めてもらった。
報告に使う物を補助監督と揃える間、必要な物があれば買ってきてよいと言われる。
三輪は真依と一緒に店へ入り、日用品の棚へ向かった。
洗剤は、まだ買っていなかった。
寮の備品と、自分で用意する物の区別が、ようやくついたところだったのだ。
「こっちの方が、量は多いね」
三輪は二つの商品を見比べる。
「置くところあるの?」
真依に言われ、部屋の棚を思い浮かべた。
「あると思うけど……最初は、小さい方かな」
「詰め替えだけ買っても、容器ないでしょ」
「あ」
手に取っていた袋を戻す。
真依が、今日初めて、声を出して笑った。
「あんた、そういうとこあるわよね」
「まだ、会って何日も経ってないのに」
「もう分かるくらいあるの」
三輪も笑いながら、容器つきの洗剤を籠へ入れた。
ほかに買う物を思い出そうとしたところで、真依がふと、声を落とした。
「さっきの呪霊」
「うん?」
「最初から、斬れたの?」
三輪は真依を見た。
彼女の視線は、棚に並んだ商品へ向いていた。
「斬れたよ」
答えると、真依の指が、値札の前で止まった。
「でも、下に何があるのか見えなかったから。人がいるって分かってからは、なおさら」
「……そう」
「腕だけなら、こっちに来たところで斬れるし。待ってた方がいいと思った」
真依はしばらく黙っていた。
三輪は、籠の持ち手を握り直した。
「あの、遅かった?」
「違う」
返事は、すぐに来た。
「だったらいい」
「うん」
何か言いたかったのかもしれない。
けれど、真依は話を続けなかった。
三輪も無理に尋ねず、レジの方へ歩き出した。
「真依は、何か買わないの?」
「帰りに向こうを見る。髪留め」
「あ、私も見たい」
「時間、確認しなさいよ」
三輪は慌てて腕時計を見た。
戻るように言われた時刻までは、まだ少しあった。
*
車へ戻ると、メカ丸は後部座席に座っていた。
歌姫たちはまだ、少し離れたところで電話をしている。
「待たせた?」
「時間内だ」
メカ丸が答える。
三輪は買い物袋を足元へ置き、座席へ腰を下ろした。
「腕、大丈夫?」
「動作は問題ない。戻ってから確認する」
「何か、手伝えることある?」
メカ丸が、わずかに顔を向けた。
「必要なら言う」
「うん。言ってね」
真依が反対側の扉から乗り込んだ。
三輪は買った物を寄せて、彼女の足元を空ける。
ほどなく歌姫と補助監督が戻ってきた。
「全員いるわね。帰りましょう」
車が動き出す。
三輪は窓の外を見た。
さっきまで薄暗い地下にいたのに、道には買い物帰りの人がいて、自転車が走っている。助け出された二人も、病院で診てもらったあと、それぞれの家へ帰れるだろうか。
鞄の中で、携帯電話が鳴った。
家からだった。
今日は何時ごろなら電話をしていいか、という短いメッセージ。
三輪は画面に指を置いた。
『夜なら大丈夫。終わったら、こっちからかけるね』
送ってから、携帯電話をしまう。
隣で真依が目を閉じた。
反対側では、メカ丸が静かに前を向いている。
三輪も座席へ背中を預けた。
寮へ戻ったら、まず刀の手入れをしよう。
それから報告を書いて、家へ電話をして。
明日使う制服を、洗濯しなければならない。
足元の袋が、車の揺れに合わせて小さく音を立てた。