初任務の翌日も、授業はいつもどおりに始まった。
昨日は刀の手入れと報告を済ませてから家へ電話をして、洗濯機が止まるのを待っているうちに、少し遅くなった。
それでも、今朝着た制服には地下倉庫の埃の匂いがしない。
買っておいてよかった。
三輪は袖口を確かめ、机の上へ教科書を広げた。
昨日の件については、朝、歌姫から短い説明があった。
助け出された二人は、病院で手当てを受けた。少なくとも一人は、その日のうちに帰宅できたらしい。もう一人も、命に関わる状態ではないという。
呪霊の等級やや、事前の調査との食い違いについては、引き続き確認するそうだった。
三輪は二人が帰れると聞いて、ようやく、昨日の任務が少し遠くなった気がした。
けれど、昼休みになるころには、別のことで机の上へ顔を近づけていた。
「……合わない」
問題集に載った答えと、自分の計算を見比べる。
解き方は分かったつもりだった。
途中までは、黒板に書かれた例題と同じだ。なのに、最後の数字が違っている。
消しゴムを持ったところで、真依が鞄を閉じた。
「私、先に行くわよ」
「あ、待って。これだけ」
「その『これだけ』、さっきから終わってないじゃない」
返す言葉がなかった。
真依は三輪の手元を覗き、問題集の端を指で叩く。
「午後、提出するわけじゃないんでしょ。あとにしたら?」
「……そうする」
三輪は、間違えた行の横へ小さな印をつけた。
教科書を閉じる。その向こうで、メカ丸がまだ席についていることに気づいた。
「メカ丸も、お昼行こう」
いつもと同じように声をかけた。
返事は、少し間を置いて返ってきた。
「俺はいい」
「何か用事?」
「ここでは食べない」
三輪の視線が、メカ丸の顔から、その手へ下りた。
木と金属でできた身体。
昨日は人を支えて歩き、帰りの車では三輪たちと並んで座っていた。だから、食べるかどうかを考える前に、声をかけていた。
「あ……ごめん」
「謝ることじゃない。必要がないだけだ」
メカ丸は、机の上の端末を脇へ寄せた。
「これは俺の術式で動かしている傀儡だ。本体は、別の場所にいる」
「そうなんだ」
三輪は頷いた。
別の場所。
学校から通える距離なのか、もっと遠いのか。昨日、腕を擦ったとき、向こうではどう感じたのか。
聞きたいことはいくつか浮かんだ。
けれど、どこまで聞いていいのかは分からなかった。
戸口で待っていた真依が、三輪を呼ぶ。
「行くわよ」
「うん。……じゃあ、あとでね」
「ああ」
三輪は教室を出た。
廊下を歩き始めてから、真依に小さく尋ねる。
「知ってた?」
「傀儡のこと?」
「うん」
「あの身体を見れば、そういう術式もあるって思うでしょ」
「私、そういう人なのかなって」
口にしてみて、自分でも少し変な説明だと思った。
真依がこちらを見る。
「どういう人よ」
「だから……ああいう身体で、普通に生活してる人」
真依は一度口を開き、やめた。
「まあ、あんた、入ったばっかりだものね」
「真依もでしょ」
「私は、そういうのを見てきてるから」
返答は短かった。
それ以上は続かなかったので、三輪も、そこで話を止めた。
*
昼食を終えて教室へ戻ると、メカ丸は自分の腕を机の上へ置いていた。
昨日、擦れた跡がついていた方だ。
片手で小さな工具を使い、関節のそばを調整している。
「まだ、直してたんだ」
「動作を確かめている。修理は終わった」
「そっか」
三輪は席へ戻り、問題集を開いた。
しばらく鉛筆を動かす。
今度は、一行ずつ確かめながら計算した。
同じ答えになった。
問題集の答えとは、やはり違う。
「……何でだろう」
「二行目」
横から声がした。
三輪が顔を上げると、メカ丸がこちらを向いていた。
「括弧を外したところだ」
「ここ?」
「引いているのは、その括弧の中、全部だろう」
言われて、一行目を見る。
次に、二行目。
「……あ」
符号が、一つ変わっていなかった。
そこを直して、続きを計算する。
今度は、答えが合った。
「できた。ありがとう」
「さっきも、同じところを見ていたな」
「うん。間違えたところを、そのまま二回やってた」
三輪は消しゴムのかすを集め、机の端へ寄せた。
「メカ丸、これ、もう終わった?」
「ああ」
「じゃあ、次の問題、分からなかったら聞いてもいい?」
「いいが、先に解け」
「それは、もちろん」
工具を片づける小さな音がした。
三輪は次の式へ取りかかる。
今度は、括弧の前の符号に丸をつけてから計算した。
*
午後の授業のあと、三輪は歌姫へ呼ばれた。
昨日、提出した報告に確認したいところがあるという。刀を抜いた位置と、呪霊を祓ったときの向きについて、図を使って説明した。
終わって教室へ戻ると、真依の席は空いていた。
机の上に置かれた紙に、先輩と射撃の練習へ行く、と短く書かれている。
三輪は自分の机に残した問題集を取り、鞄へ入れようとした。
「続きはいいのか」
メカ丸が声をかけた。
「あ。まだいたんだ」
「待っていたわけではないぞ」
「うん。……でも、ちょっと見てもらっていい?」
三輪は椅子を引いた。
昼休みに間違えた問題の、少し先を開く。
「ここ。式は合ってると思うんだけど」
メカ丸が手元を見る。
すぐには答えず、問題文を指した。
「何を求めろと書いてある」
「えっと……」
三輪は文末まで読んだ。
計算した数字は、途中で必要なものだった。
「……最後まで、やってない」
「そうだ」
「さっきのより、恥ずかしいかもしれない」
「分かったなら、続けろ」
声は変わらなかった。
笑われるより、その方がありがたかった。
三輪は鉛筆を持ち直した。
窓の外から、何かを打つ音が聞こえてくる。運動場の方で誰かが稽古をしているらしい。
教室には、紙をめくる音と、三輪が計算をする音だけが残った。
最後の問題まで終えるのに、それほど長くはかからなかった。
「終わった……」
三輪は背中を伸ばした。
「助かった。ありがとう」
「明日の範囲も、今日の続きだ」
「うん。そこは、あとで見ておく」
問題集をしまいながら、メカ丸の机へ目を向ける。
小さな工具と、外した留め具らしい物が、布の上に並べられていた。
「何か、持ってようか」
「何をだ」
「腕を動かすとき、これ、転がりそうだったから」
三輪は机の端に置かれた小皿を指した。
メカ丸が、自分の手元を見る。
「……なら、そのまま押さえていろ」
「分かった」
机の端へ椅子を寄せる。
メカ丸が腕を曲げ、指を一本ずつ動かした。
関節の動く音が、すぐそばで聞こえた。
小皿を押さえたまま、三輪は昨日のことを思い出した。
「これ、痛くはないの?」
聞いてから、顔を上げる。
メカ丸は少しの間、動きを止めた。
「この腕を擦ったことなら、問題ない」
「そっか。よかった」
それ以上は尋ねなかった。
メカ丸が留め具を戻す。三輪は小皿から指を離した。
「もういい」
「うん」
ほんの少し押さえていただけで、手伝いらしいことは何もしていない。
それでも三輪は、借りた椅子を戻す前に、布の端へ落ちていた小さな部品を拾って、小皿へ置いた。
*
「お前は、いつから剣を使っている」
工具が箱へ収まったころ、メカ丸が尋ねた。
三輪は鞄を持ち上げかけて、止まった。
「教わり始めたのは、中学生になってから。本当の刀を使うようになったのは、もっとあとだけど」
「毎日か」
「大体。できない日もあったよ。家のこととか、弟たちの用事とか」
「それで、あそこまで動くのか」
三輪は少し考えた。
どこまで、どう説明すればいいのだろう。
最初は、腕が痛くなった。持ち方が違うと言われ、足の位置を直された。
同じことを繰り返すうちに、なぜそう言われるのかが分かるようになった。
次にどう動けば、何ができなくなるのか。
相手が何をしたくて、どこへ力を入れるのか。
教わることと、自分で確かめることが、だんだん近くなっていった。
「……私、剣は分かるんだと思う」
言ってから、困って笑った。
「ごめん。全然、説明になってないね」
メカ丸は、すぐには返事をしなかった。
三輪は続けた。
「でも、教えてもらわなかったら、最初の持ち方も知らなかったし。自分だけでできたとは、思ってない」
机の上には、閉じた問題集があった。
今日も、分からないところを教えてもらった。
「メカ丸は?」
「何がだ」
「その身体を動かすの。最初から、できたの?」
傀儡の指が、机の縁へ触れた。
「……今と同じには、できなかった」
「そっか」
「慣れるまでは、物を持つのも面倒だった」
「今は、あんなに小さいのも触れるんだね」
三輪が工具箱を見ると、メカ丸も、そちらへ顔を向けた。
「毎回、壊すわけにもいかないからな」
「うん。それは、そうだね」
二人の会話が、そこで途切れた。
今度は、昼のような気まずさはなかった。
三輪は鞄を肩へかけた。
「私、そろそろ戻るね。洗濯物、取り込まないと」
「ああ」
「明日も、朝からいる?」
「授業には出る」
「じゃあ、また明日」
戸口で一度振り返る。
メカ丸は椅子に座ったまま、こちらを向いていた。
「また明日」
少し遅れて、返事があった。
三輪は手を振って、教室を出た。
*
足音が遠ざかったあとも、教室の景色はしばらく変わらなかった。
閉じた戸。
西日の差す窓。
三輪が戻した椅子は、元の位置より、少しだけ机に近い。
与幸吉は、傀儡を通してその椅子を見ていた。
彼自身のいる場所には、教室のような窓はなかった。
機器の低い音が続いている。
薄暗い室内で、包帯に覆われた身体は、いつもどおりの痛みを抱えていた。
腕の擦れとは関係がない。
昼も、昨日も、その前からずっと、そこにあるものだった。
傀儡の腕を調整している間にも、それは変わらない。
明日になっても、三輪と同じ教室へ歩いていけるわけではなかった。
幸吉は、視界の端に表示された時刻を確かめた。
明日の授業には、間に合う。
当たり前のことを考えてから、傀儡の机の上を片づける。
小皿の中に、部品が一つ残っていた。
三輪が最後に拾って、戻したものだった。
指でつまみ、工具箱の決まったところへ収める。
『その身体を動かすの。最初から、できたの?』
聞かれたことを、思い出した。
うまくできるようになるまで、何度も失敗した。
それを説明しようとしたのは、随分久しぶりだった。
授業で使う物を揃え、傀儡の視界を閉じる。
教室が消えた。
こちらの部屋は、何も変わっていない。
幸吉は、三輪の声を思い返した。
『じゃあ、また明日』
彼がそこへ来ることを、疑っていない声だった。
明日も、同じ席へ座る。
会えば挨拶をして、授業を受ける。
それから、今日直したところを、彼女がまた間違えるかもしれない。
「……符号くらいは、覚えてこいよ」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
幸吉は目を閉じた。