三輪霞は、剣だけでいい   作:ケーケーケー

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第五話 そこにいない同級生

 

 初任務の翌日も、授業はいつもどおりに始まった。

 

 昨日は刀の手入れと報告を済ませてから家へ電話をして、洗濯機が止まるのを待っているうちに、少し遅くなった。

 

 それでも、今朝着た制服には地下倉庫の埃の匂いがしない。

 

 買っておいてよかった。

 

 三輪は袖口を確かめ、机の上へ教科書を広げた。

 

 昨日の件については、朝、歌姫から短い説明があった。

 

 助け出された二人は、病院で手当てを受けた。少なくとも一人は、その日のうちに帰宅できたらしい。もう一人も、命に関わる状態ではないという。

 

 呪霊の等級やや、事前の調査との食い違いについては、引き続き確認するそうだった。

 

 三輪は二人が帰れると聞いて、ようやく、昨日の任務が少し遠くなった気がした。

 

 けれど、昼休みになるころには、別のことで机の上へ顔を近づけていた。

 

「……合わない」

 

 問題集に載った答えと、自分の計算を見比べる。

 

 解き方は分かったつもりだった。

 

 途中までは、黒板に書かれた例題と同じだ。なのに、最後の数字が違っている。

 

 消しゴムを持ったところで、真依が鞄を閉じた。

 

「私、先に行くわよ」

 

「あ、待って。これだけ」

 

「その『これだけ』、さっきから終わってないじゃない」

 

 返す言葉がなかった。

 

 真依は三輪の手元を覗き、問題集の端を指で叩く。

 

「午後、提出するわけじゃないんでしょ。あとにしたら?」

 

「……そうする」

 

 三輪は、間違えた行の横へ小さな印をつけた。

 

 教科書を閉じる。その向こうで、メカ丸がまだ席についていることに気づいた。

 

「メカ丸も、お昼行こう」

 

 いつもと同じように声をかけた。

 

 返事は、少し間を置いて返ってきた。

 

「俺はいい」

 

「何か用事?」

 

「ここでは食べない」

 

 三輪の視線が、メカ丸の顔から、その手へ下りた。

 

 木と金属でできた身体。

 

 昨日は人を支えて歩き、帰りの車では三輪たちと並んで座っていた。だから、食べるかどうかを考える前に、声をかけていた。

 

「あ……ごめん」

 

「謝ることじゃない。必要がないだけだ」

 

 メカ丸は、机の上の端末を脇へ寄せた。

 

「これは俺の術式で動かしている傀儡だ。本体は、別の場所にいる」

 

「そうなんだ」

 

 三輪は頷いた。

 

 別の場所。

 

 学校から通える距離なのか、もっと遠いのか。昨日、腕を擦ったとき、向こうではどう感じたのか。

 

 聞きたいことはいくつか浮かんだ。

 

 けれど、どこまで聞いていいのかは分からなかった。

 

 戸口で待っていた真依が、三輪を呼ぶ。

 

「行くわよ」

 

「うん。……じゃあ、あとでね」

 

「ああ」

 

 三輪は教室を出た。

 

 廊下を歩き始めてから、真依に小さく尋ねる。

 

「知ってた?」

 

「傀儡のこと?」

 

「うん」

 

「あの身体を見れば、そういう術式もあるって思うでしょ」

 

「私、そういう人なのかなって」

 

 口にしてみて、自分でも少し変な説明だと思った。

 

 真依がこちらを見る。

 

「どういう人よ」

 

「だから……ああいう身体で、普通に生活してる人」

 

 真依は一度口を開き、やめた。

 

「まあ、あんた、入ったばっかりだものね」

 

「真依もでしょ」

 

「私は、そういうのを見てきてるから」

 

 返答は短かった。

 

 それ以上は続かなかったので、三輪も、そこで話を止めた。

 

     *

 

 昼食を終えて教室へ戻ると、メカ丸は自分の腕を机の上へ置いていた。

 

 昨日、擦れた跡がついていた方だ。

 

 片手で小さな工具を使い、関節のそばを調整している。

 

「まだ、直してたんだ」

 

「動作を確かめている。修理は終わった」

 

「そっか」

 

 三輪は席へ戻り、問題集を開いた。

 

 しばらく鉛筆を動かす。

 

 今度は、一行ずつ確かめながら計算した。

 

 同じ答えになった。

 

 問題集の答えとは、やはり違う。

 

「……何でだろう」

 

「二行目」

 

 横から声がした。

 

 三輪が顔を上げると、メカ丸がこちらを向いていた。

 

「括弧を外したところだ」

 

「ここ?」

 

「引いているのは、その括弧の中、全部だろう」

 

 言われて、一行目を見る。

 

 次に、二行目。

 

「……あ」

 

 符号が、一つ変わっていなかった。

 

 そこを直して、続きを計算する。

 

 今度は、答えが合った。

 

「できた。ありがとう」

 

「さっきも、同じところを見ていたな」

 

「うん。間違えたところを、そのまま二回やってた」

 

 三輪は消しゴムのかすを集め、机の端へ寄せた。

 

「メカ丸、これ、もう終わった?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、次の問題、分からなかったら聞いてもいい?」

 

「いいが、先に解け」

 

「それは、もちろん」

 

 工具を片づける小さな音がした。

 

 三輪は次の式へ取りかかる。

 

 今度は、括弧の前の符号に丸をつけてから計算した。

 

     *

 

 午後の授業のあと、三輪は歌姫へ呼ばれた。

 

 昨日、提出した報告に確認したいところがあるという。刀を抜いた位置と、呪霊を祓ったときの向きについて、図を使って説明した。

 

 終わって教室へ戻ると、真依の席は空いていた。

 

 机の上に置かれた紙に、先輩と射撃の練習へ行く、と短く書かれている。

 

 三輪は自分の机に残した問題集を取り、鞄へ入れようとした。

 

「続きはいいのか」

 

 メカ丸が声をかけた。

 

「あ。まだいたんだ」

 

「待っていたわけではないぞ」

 

「うん。……でも、ちょっと見てもらっていい?」

 

 三輪は椅子を引いた。

 

 昼休みに間違えた問題の、少し先を開く。

 

「ここ。式は合ってると思うんだけど」

 

 メカ丸が手元を見る。

 

 すぐには答えず、問題文を指した。

 

「何を求めろと書いてある」

 

「えっと……」

 

 三輪は文末まで読んだ。

 

 計算した数字は、途中で必要なものだった。

 

「……最後まで、やってない」

 

「そうだ」

 

「さっきのより、恥ずかしいかもしれない」

 

「分かったなら、続けろ」

 

 声は変わらなかった。

 

 笑われるより、その方がありがたかった。

 

 三輪は鉛筆を持ち直した。

 

 窓の外から、何かを打つ音が聞こえてくる。運動場の方で誰かが稽古をしているらしい。

 

 教室には、紙をめくる音と、三輪が計算をする音だけが残った。

 

 最後の問題まで終えるのに、それほど長くはかからなかった。

 

「終わった……」

 

 三輪は背中を伸ばした。

 

「助かった。ありがとう」

 

「明日の範囲も、今日の続きだ」

 

「うん。そこは、あとで見ておく」

 

 問題集をしまいながら、メカ丸の机へ目を向ける。

 

 小さな工具と、外した留め具らしい物が、布の上に並べられていた。

 

「何か、持ってようか」

 

「何をだ」

 

「腕を動かすとき、これ、転がりそうだったから」

 

 三輪は机の端に置かれた小皿を指した。

 

 メカ丸が、自分の手元を見る。

 

「……なら、そのまま押さえていろ」

 

「分かった」

 

 机の端へ椅子を寄せる。

 

 メカ丸が腕を曲げ、指を一本ずつ動かした。

 

 関節の動く音が、すぐそばで聞こえた。

 

 小皿を押さえたまま、三輪は昨日のことを思い出した。

 

「これ、痛くはないの?」

 

 聞いてから、顔を上げる。

 

 メカ丸は少しの間、動きを止めた。

 

「この腕を擦ったことなら、問題ない」

 

「そっか。よかった」

 

 それ以上は尋ねなかった。

 

 メカ丸が留め具を戻す。三輪は小皿から指を離した。

 

「もういい」

 

「うん」

 

 ほんの少し押さえていただけで、手伝いらしいことは何もしていない。

 

 それでも三輪は、借りた椅子を戻す前に、布の端へ落ちていた小さな部品を拾って、小皿へ置いた。

 

     *

 

「お前は、いつから剣を使っている」

 

 工具が箱へ収まったころ、メカ丸が尋ねた。

 

 三輪は鞄を持ち上げかけて、止まった。

 

「教わり始めたのは、中学生になってから。本当の刀を使うようになったのは、もっとあとだけど」

 

「毎日か」

 

「大体。できない日もあったよ。家のこととか、弟たちの用事とか」

 

「それで、あそこまで動くのか」

 

 三輪は少し考えた。

 

 どこまで、どう説明すればいいのだろう。

 

 最初は、腕が痛くなった。持ち方が違うと言われ、足の位置を直された。

 

 同じことを繰り返すうちに、なぜそう言われるのかが分かるようになった。

 

 次にどう動けば、何ができなくなるのか。

 

 相手が何をしたくて、どこへ力を入れるのか。

 

 教わることと、自分で確かめることが、だんだん近くなっていった。

 

「……私、剣は分かるんだと思う」

 

 言ってから、困って笑った。

 

「ごめん。全然、説明になってないね」

 

 メカ丸は、すぐには返事をしなかった。

 

 三輪は続けた。

 

「でも、教えてもらわなかったら、最初の持ち方も知らなかったし。自分だけでできたとは、思ってない」

 

 机の上には、閉じた問題集があった。

 

 今日も、分からないところを教えてもらった。

 

「メカ丸は?」

 

「何がだ」

 

「その身体を動かすの。最初から、できたの?」

 

 傀儡の指が、机の縁へ触れた。

 

「……今と同じには、できなかった」

 

「そっか」

 

「慣れるまでは、物を持つのも面倒だった」

 

「今は、あんなに小さいのも触れるんだね」

 

 三輪が工具箱を見ると、メカ丸も、そちらへ顔を向けた。

 

「毎回、壊すわけにもいかないからな」

 

「うん。それは、そうだね」

 

 二人の会話が、そこで途切れた。

 

 今度は、昼のような気まずさはなかった。

 

 三輪は鞄を肩へかけた。

 

「私、そろそろ戻るね。洗濯物、取り込まないと」

 

「ああ」

 

「明日も、朝からいる?」

 

「授業には出る」

 

「じゃあ、また明日」

 

 戸口で一度振り返る。

 

 メカ丸は椅子に座ったまま、こちらを向いていた。

 

「また明日」

 

 少し遅れて、返事があった。

 

 三輪は手を振って、教室を出た。

 

     *

 

 足音が遠ざかったあとも、教室の景色はしばらく変わらなかった。

 

 閉じた戸。

 

 西日の差す窓。

 

 三輪が戻した椅子は、元の位置より、少しだけ机に近い。

 

 与幸吉は、傀儡を通してその椅子を見ていた。

 

 彼自身のいる場所には、教室のような窓はなかった。

 

 機器の低い音が続いている。

 

 薄暗い室内で、包帯に覆われた身体は、いつもどおりの痛みを抱えていた。

 

 腕の擦れとは関係がない。

 

 昼も、昨日も、その前からずっと、そこにあるものだった。

 

 傀儡の腕を調整している間にも、それは変わらない。

 

 明日になっても、三輪と同じ教室へ歩いていけるわけではなかった。

 

 幸吉は、視界の端に表示された時刻を確かめた。

 

 明日の授業には、間に合う。

 

 当たり前のことを考えてから、傀儡の机の上を片づける。

 

 小皿の中に、部品が一つ残っていた。

 

 三輪が最後に拾って、戻したものだった。

 

 指でつまみ、工具箱の決まったところへ収める。

 

『その身体を動かすの。最初から、できたの?』

 

 聞かれたことを、思い出した。

 

 うまくできるようになるまで、何度も失敗した。

 

 それを説明しようとしたのは、随分久しぶりだった。

 

 授業で使う物を揃え、傀儡の視界を閉じる。

 

 教室が消えた。

 

 こちらの部屋は、何も変わっていない。

 

 幸吉は、三輪の声を思い返した。

 

『じゃあ、また明日』

 

 彼がそこへ来ることを、疑っていない声だった。

 

 明日も、同じ席へ座る。

 

 会えば挨拶をして、授業を受ける。

 

 それから、今日直したところを、彼女がまた間違えるかもしれない。

 

「……符号くらいは、覚えてこいよ」

 

 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。

 

 幸吉は目を閉じた。

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